《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜「15」(2026)】フル回転投手から野手の歴史も荘勝男、美馬学が投手伝統を引き継ぐ
(写真 中央・今季から15を背負う横山陸人、左上から・1年目からフル回転2代宮崎一夫、代打の切り札として日本一貢献10代岩崎忠義、前期V決めるサヨナラ打を放つ11代高橋博士、右上から・台湾からの助っ投チーム助けた12代荘勝男、中継ぎとしてチーム支えた18代上野大樹、ローテ支えた20代美馬学)
(17)「15」フル回転投手から野手の歴史も荘勝男、美馬学が投手伝統を引き継ぐ
背番号15は投手の系譜であるが、あまり強い印象の選手がいなかった。改めて系譜を辿ると、やはり毎日オリオンズの時代から準レギュラーの選手が多く、短命で終わり1年ごとに選手が変わる時期もあった。岩崎忠義や高橋博士も継いだが、野手であったし、15以外の印象があるためかもしれない。
そんな系譜がオリオンズの晩年から覆されていった。それは荘勝男であり美馬学と再び投手が背負い、2026(R8)年からは横山陸人が系譜を継ぐ。
----- 現在の背番号「15」 -----
★《15代》2026(R8)年〜・26年は1年目 横山 陸人(よこやま りくと) 投手(26年は在籍年目)
2001(H13)年8月5日生(入団時18歳)、右投右打
(出身・東京)千葉・専修大松戸高(–)−千葉ロッテ(20〜)
【横山 陸人 背番号変遷】60(5) ⇒ 15(1)
→ 横山陸人 背番号 60 へ(有料エリア)
前年2025(R7)年に自己最多の50試合に登板し、2勝4敗12セーブ20ホールド、防御率2.08という成績を残した6年目の横山陸人が、26(R8)年から背番号を60から15に変更して引き継ぐ。
(2025(R7)年シーズン終了時)
◆在籍時投手成績<142試合、7勝8敗16S46H、防3.10、3先発、0完封、138奪三振>
◇初登板<2021(R3)年5月26日・阪神2回戦/R(甲子園)/2番手/1回0失>
◇初ホールド<2023(R5)年7月6日・西武12回戦/H(東京D)/5番手/1回0失>
◇初セーブ<2023(R5)年7月9日・日本ハム13回戦/R(エスコンF)/3番手完了/1回0失点>
◇初勝利<2023(R5)年7月23日・ソフトバンク12回戦/H(ZOZOマリン)/6番手完了/1回0失>
◇初先発<2023(R5)年9月24日・ソフトバンクホークス24回戦/H(ZOZOマリン)/1回5失(4自)●>
----- オリオンズ&マリーンズ「15」の系譜 -----
★《初代》1950(S25)年~1951(S26)年・2年 祖父江 東一郎(そふえ とういちろう) 投手・外野手(在籍2年)
1922(T11)年11月20日生(移籍時27歳)、右投右打
愛知・旧制一宮中(–)−明治大−大洋軍/西鉄軍(42〜43)−愛知産業−毎日(50〜51)
【祖父江 東一郎 背番号変遷】15(2)
戦中に大洋軍/西鉄軍に在籍。戦後は社会人・愛知産業でプレーしていた祖父江東一郎が球団創設に入団。初代背番号15を背負った。
戦中は打者だったが、社会人では投手も務めており、毎日では投手としてマウンドに上がった。毎日での初マウンドは先発だった。3月30日東急戦(後楽園)に先発したが5回途中7失点KOで初黒星。以降、50(S25)年は3試合に先発、計5試合に登板し0勝1敗、防御率は6.92だった。
翌51(S26)年はリリーフで2試合登板しただけに留まり、オフには引退した。
◆在籍時投手成績<7試合、0勝1敗、防5.68、3先発、0完封、14奪三振>
◇毎日初登板、初先発<1950(S25)年3月30日・東急2回戦/R(後楽園)/4.2回7失●>
◆在籍時打撃成績<7試合、打率.200、5打数1安打、0本塁打、0打点、0盗塁>
★《2代》1952(S27)年~1955(S30)年・4年 宮崎 一夫(みやざき かずお) 投手(在籍4年)
1932(S7)年12月10日生(入団時19歳)、右投右打
神奈川・逗子開成高(–)–コロムビア–毎日(52~55)–高橋(56)–大映(57)
【宮崎 一夫 背番号変遷】15(4)
1952(S27)年に社会人・コロンビアから入団した宮崎一夫が、背番号15を引き継いだ。
1年目から一軍でフル回転する。初登板は4月6日の東急戦(沼津)。以降リリーフとして登板し7月12日の近鉄戦(藤井寺)でリリーフで初勝利を挙げる。最終的に先発6試合、リリーフでは抑え役として19試合に登板。5勝2敗、防御率は2.30とシーズン通して安定したピッチングを見せた。
翌53(S28)年も抑え役を中心に、32試合(5先発)に登板し7勝4敗、防御率2.78と安定した成績を残す。
54(S29)年に別当薫が監督に就任すると先発に回ることが多くなり、12試合に先発し12試合でリリーフ登板し5勝4敗、防御率は3.31と3点台に落ち込んだ。この裏には、起用法を巡って別当監督と対立したことが影響した。
翌55(S30)年は30試合(10先発)に登板し4勝1敗、防御率2.19と結果を残しながら、戦力外を言い渡され退団。新球団・高橋に移籍した。
◆在籍時通算投手成績<111試合、21勝11敗、防2.66、33先発、1完封、166奪三振>
◇初登板<1952(S27)年4月6日・東急5回戦/R(沼津)/3番手完了/1回0失>
◇初先発<1952(S27)年4月27日第2・近鉄2回戦/R(藤井寺)/先発/3回0失勝敗なし>
◇初勝利<1952(S27)年7月12日第1・近鉄11回戦/R(藤井寺)/2番手完了/5回0失>
◇初完封、初完投<1952(S27)年8月31日・大映17回戦/R(川崎)/先発/9回0失>
◆在籍時通算打撃成績<114試合、打率095.、105打数10安打、0本塁打、6打点、0盗塁>
★《3代》1956(S31)年途中(変更日不明)・1年 伊藤 則旦(いとう のりただ) 投手(在籍4年)
1937(S12)年1月15日生(18歳)、右投右打
愛知・津島高(–)–毎日/大毎(55〜58)
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手元にある世に出ている資料、手元で眠っている表に出ていない資料に加え、関係者から見聞きした情報(オリオンズメモ(笑))を中心に「ロッテオリ…
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