《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜「17」(2026)】佐々木朗希につながるエースの系譜
※2026(R8)年は空番
(写真 中央・15代佐々木朗希、左上から・創成期に荒巻に次ぐ活躍2代和田功、東京球場開場第1戦先発の3代中西勝己、フル回転も短命に終わった4代佐藤元彦、右上から・MVP&最多勝投手6代金田留広、先発支えたアンダースロー8代深沢恵雄、左腕エース14代成瀬善久)
「17」佐々木朗希につながるエースの系譜
オリオンズ&マリーンズの投手の背番号の系譜で10番台は投手の系譜であるが、一番投手として結果を残している背番号は17なのかも知れない。
先発28試合リリーフ21試合に登板した和田功、小野正一に隠れたものの東京球場開場第1戦先発の中西勝己、低迷期に主力投手としてフル回転した佐藤元彦、最多勝・年間MVPの金田留広、黙々とローテーションを守った深沢恵雄、タイトルホルダーの成瀬善久、そして佐々木朗希。時代は違うが、それぞれの時代でチームに貢献した投手が紡いでいるのが背番号17と言える。ただ、オリオンズ時代で残念なのは、一時期集中的に活躍し、活躍時期が短かった投手が多いのも背番号17の特徴である。
佐々木朗希がメジャーに移籍し、今シーズンは空番となっている。
----- 現在の背番号「17」 -----
★2025(R7)年〜2026(R8)年 空番
----- オリオンズ&マリーンズ「17」の系譜 -----
★《初代》1950(S25)年~1953(S28)年・4年 萩原 昭(はぎわら あきら) 投手⇒内野手(在籍4年)
1927(S2)年1月5日生(入団時23歳)、右投右打
台湾・台南一中–国鉄志免鉱業所–毎日(50~53)–高橋(54〜55)
【萩原 昭 背番号変遷】17(4)
台湾出身で社会人・国鉄志免鉱業所から球団創設年に入団した萩原昭が初代背番号17を着けた。
1年目は投手登録だった。5月31日の東急7回戦(市川国府台)に2番手として初登板。マウンドは2回2失点だったが、回った打席で適時三塁打を放ち初安打、初打点を記録。この打席をきっかけに打者に専念した。投手としての記録はこの1試合、2回を投げて防御率9.00が投手として唯一残った記録となった。打者としてもこのシーズンの出場はなかった。
2年目の51(S26)年は投手登録のまま野手として出場。一軍メンバーがハワイ遠征から開幕後の帰国となったために留守メンバーが開幕戦を戦い、萩原も開幕スタメンに5番一塁で出場する。以降、51試合に出場するも打率は.168と低迷した。
52(S27)年は内野手登録となるも27試合の出場に留まり、打率は.185だった。53(S28)年は1試合の出場に留まり無安打。オフに新球団・高橋へ移籍した。
◆在籍時通算投手成績<1試合、0勝0敗、防9.00、0先発、0完封、2奪三振>
◇初登板<1950(S25)年5月31日・東急7回戦/H(市川国府台)/2番手/2回2失>
◆在籍時通算打撃成績<73試合、打率.174、138打数24安打、0本塁打、14打点、1盗塁>
◇初打席、初安打、初打点<1950(S25)年5月31日・東急7回戦/H(市川国府台)/途中投手/1打1安/適時三塁打>
★《2代》1954(S29)年~1958(S33)年・5年 和田 功(わだ いさお) 投手(在籍7年)
1933年6月19日生、左投左打
京都・桂高(–)‐毎日(52~58)‐大阪(59)
【和田 功 背番号変遷】39(2) ⇒ 17(5)
前年14試合に先発し、5勝4敗と頭角を現していた3年目の和田功が、1954(S29)年に背番号を39から12に変更した。
54(S29)年はフル回転した。24試合に先発しリリーフとしても16試合に登板。荒巻の22勝に次ぐ16勝7敗で投球回は200回を超える202.2回、防御率は2.22と安定したピッチングを見せた。翌55(S30)年はさらに登板数を増やす。28試合に先発して21試合にリリーフ登板。投球回は220.1回に達した。それでも防御率は2.24と安定。チームトップ(3人)の18勝6敗だった。そして、和田のピッチングで特筆なのは奪三振。54年は140、55年は170奪三振と2年続けてチームトップを記録した。ただ、リーグではともに7位だった。
56(S31)年はリリーフとして33試合に登板し、24試合に先発する。投球回は211.1回だった。防御率は2.55だったものの打線の援護も少なく、14勝17敗と負け越す。この登板過多の影響からか、翌57(S32)年からは調子を落とす。57年は29試合(9先発)の登板で3勝3敗、防御率は4.13、58(S33)年は防御率は2.38だったものの、22試合(6先発)3勝3敗に終わり、オフに大阪(現阪神)に移籍した。
◆在籍時投手成績<220試合、59勝40敗、防2.63、105先発、4完封、554奪三振>
◆在籍時打撃成績<225試合、打率.194、253打数49安打、0本塁打、13打点、0盗塁>
◇初登板、初先発<1953(S28)年5月24日・大映10回戦/H(西京極)先発/〇●なし7回5失>
◇初勝利<1953(S28)年5月28日・阪急9回戦/H(後楽園)先発/〇5回1失>
◇初完投<1953(S28)年6月2日・東急8回戦/H(後楽園)先発/〇10回2失>
◇初完封<1954(S29)年5月15日・東映2回戦/H(市川国府台)先発/〇9回0失>
★《3代》1959(S34)年~1965(S40)年・7年 中西 勝己(なかにし かつみ) 投手(在籍10年、コーチ/4年)
1935(S10)年4月6日生(入団時21歳)、右投右打
大阪・市岡高(–)‐関西大学(中退)‐毎日/大毎/東京(56~65)
東京/ロッテコーチ(66、71〜73)
【中西 勝己 背番号変遷】12(3) ⇒ 17(7)
4年目中西勝己が、1959(S34)年から背番号12から17に変更した。
前年は状態が上がらなかった中西だったが、59(S34)年は調子を取り戻しフル回転。21試合に先発し、15試合にリリーフ登板。12勝6敗で防御率は2.77だった。
そして60(S35)年はさらに登板数を増やし、29試合に先発し11試合にリリーフ登板。自身初めて200回を突破する214.2回を投げて規定投球回に到達。防御率2.13でリーグ3位に初めて名前を連ねた。勝ち星も自己最多となる16勝(10敗)で、10年ぶりのリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは第1戦に先発。1失点完投も0-1で敗れて敗戦投手に。その後も第3戦でリリーフ登板も決勝弾を許して2敗目を喫する。第4戦もリリーフ登板して3回を無失点で抑えるもチームは再び0-1で敗れて日本一を逸した。日本シリーズの防御率は1.50だった。
翌61(S36)年以降も先発、リリーフで奮闘するが、61(S36)年は防御率3.50、62(S37)年は6月2日の東京球場の開場第1戦に先発するも、5回途中で5失点して降板するなど、防御率5.57と調子が上がらず苦闘する。
しかし、1963(S38)年は19試合に先発、11試合にリリーフ登板し防御率2.96と持ち直す。翌64(S39)年はリリーフに回る試合が多くなり、19試合でリリーフ登板(13先発)に回る。しかし、違和感を感じていた肩の状態が悪化する。
65(S40)年は7試合の登板(2先発)に留まり、このシーズン限りで引退した。
◆投手成績<307試合、72勝70敗、防2.82、183先発、14完封、670奪三振>
◇初登板<1856(S31)年3月21日・東映2回戦/R(駒沢)/2番手完了/1.2回0失>
◇初先発、初勝利、初完投、初完封<1856(S31)年3月25日・高橋3回戦/R(川崎)先発9回0失>
◆打撃成績<314試合、打率.113、379打数43安打、0本塁打、8打点、1盗塁>
◇オールスター出場/1回(60)
★《4代》1966(S41)年~1971(S46)年・6年 佐藤 元彦 投手(さとう もとひこ)(在籍6年)
1943(S18)年1月1日生(入団時23歳)、右投右打
熊本・熊本高(–)–慶應大–サッポロビール–東京/ロッテ(66〜71)–大洋(72)
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手元にある世に出ている資料、手元で眠っている表に出ていない資料に加え、関係者から見聞きした情報(オリオンズメモ(笑))を中心に「ロッテオリ…
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