《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜「20」(2026)】野手の系譜から、杉下、堀本、木樽とタイトル投手の系譜へ
(写真 左上から、ミサイル打線の要捕手3代谷本稔、中日で200勝達成後移籍復帰した4代杉下茂、巨人でタイトル獲得し移籍した堀本律雄、投手の系譜に変えたエース6代木樽正明、先発ローテ守った7代仁科時成、メジャーにも挑戦した在籍16年8代薮田安彦)
※名前横の【殿堂】は野球殿堂入りしている選手、【サイン】はサインが掲出されています(クリックで拡大)
「20」野手の系譜から、杉下、堀本、木樽とタイトル投手の系譜へ
背番号20も投手の系譜だが、創成期から大毎時代は野手の系譜だった。ミサイル打線の正捕手だった谷本稔も優勝時は20だった。その後、晩年だったが中日で200勝の杉下茂、V9巨人の最多勝・新人王の堀本律夫が移籍して投手の歴史としてスタートさせる。投手の系譜として定着させたのが木樽正明。そして、それは仁科時成、薮田安彦、現在の東條大樹のつながる。マリーンズとなってからは4投手が引き継いでいる、息の長い投手の背番号だが、24(R6)年限りで東條大樹が引退し、25(R7)年は空番となった。
----- 現在の背番号「20」 -----
★2025(R7)年〜2016(R8)年は空番
----- オリオンズ&マリーンズ「20」の系譜 -----
★《初代》1950(S25)年~1954(S29)年・5年 片岡 博国(かたおか ひろくに) 捕手(在籍5年/二軍監督・コーチ4年)
1916(T5)年11月24日生(入団時35歳)、右投右打
愛知・(旧制)東邦商業学校(現東邦高)(–)−早稲田大−昭和製鋼−名古屋鉄道管理局−函館オーシャン−毎日(50〜54)
毎日/大毎コーチ(55〜57、59)
【片岡 博国 背番号変遷】20(5)、コーチ/60(2) ⇒ 61(1)、54(1)
球団創設に社会人・函館オーシャンから入団した片岡博国が初代背番号20を着けた。34歳でのプロ入りだった。
捕手も出来る内野の控えとして一軍開幕ベンチ入り。開幕3戦目3月15日の南海戦(大須)で7番一塁で初出場、初スタメン、初安打も記録する。その後も堅実なバッティングで一塁、代打で出場。捕手として5試合のマスクも被った。1年目は63試合に出場して打率.303と3割をマーク。4本塁打26打点を記録し、リーグ制覇に貢献。日本シリーズでも3試合でスタメン出場し、15打数4安打2打点を記録し日本一に貢献した。
翌51(S26)年は第1回オールスターに出場したものの打撃が低迷。55試合に出場して打率.229に終わる。以降、52(S27)年は42試合で打率.271、53(S28)年は51試合で打率.160、54(S29)年は32試合で率.077に終わり、54年限りで引退した。翌55(S30)年は二軍監督に就任した。
→二軍監督、コーチ/片岡博国 背番号 60 へ(冒頭試読)
→コーチ/片岡博国 背番号 61 へ(冒頭試読)
→コーチ/片岡博国 背番号 54 へ(有料エリア)
◆打撃成績<243試合、打率.239、393打数94安打、6本塁打、68打点、2盗塁>
◇初出場、初スタメン、初打席、初安打<1950(S25)年3月15日・南海1回戦/H(大須)/7番一塁/4打1安>
◇初本塁打、初打点<1950(S25)年3月16日・阪急1回戦/H(大須)/7番一塁/4打1安/天保義夫から>
◇オールスター出場/1回(51)
※1955(S30)年 空番
★《2代》1956(S31)年~1957(S32)年・2年 佃 明忠(つくだ あきただ) 捕手(在籍4年)
1935(S10)年5月19日生(入団時18歳)、右投右打
東京・早稲田実業学校高(甲)–毎日(54~57)–近鉄(58〜59)
【佃 明忠 背番号変遷】19(2) ⇒ 20(2)
→ 佃明忠 背番号 19 へ(有料エリア)
3年目を迎えた佃明忠が、1956(S31)年から背番号を19から20に変更した。
1、2年目とルイスが正捕手としてマスクを被っていたが、ルイスの退団で前年にイースタンで首位打者に輝いた佃に期待がかかった。その56(S31)年は正捕手争いに加わり、68試合でマスクを被ったが、打率は.198と低迷し、定位置獲得には至らなかった。
57(32)年には早稲田実業の後輩の醍醐猛夫が入団し、1年目から正捕手に定着。佃の出番は大きく減らし、オフには近鉄に移籍した。
◆在籍時通算打撃成績<175試合、打率.222、423打数94安打、14本塁打、42打点、7盗塁>
◇初出場、初打席<1954(S29)年3月28日・南海2回戦/R(大阪)/代打/1打0安>
◇初安打<1954(S29)年3月29日・南海3回戦/R(大阪)/代打/1打1安>
◇初打点<1954(S29)年10月16日第1・近鉄18回戦/H(甲府緑が丘)/代打/1打1安/適時二塁打>
◇初本塁打<1954(S29)年8月2日・トンボ10回戦/R(川崎)/6番捕手/相沢進から>
◇イースタンタイトル、記録<首位打者(55)>
※1958年(S33)年 空番
★《3代》1959(S34)年~1960(S35)年・2年 【サイン】谷本 稔(たにもと みのる) 捕手(在籍7年)

1937(S12)年2月1日生(移籍時21歳)
愛媛・八幡浜高(–)–大映(55~57)–大毎/東京(58~64)–阪神(65~68)
【谷本 稔 背番号変遷】30(1) ⇒ 20(2) ⇒ 27(4)
→ 谷本稔 背番号 30 へ(有料エリア)
前年1958(S33)年に大映との合併で大映から移籍し背番号30だった谷本稔が、59(S34)年から背番号を20に変更した。
前年に若手の醍醐猛夫と正捕手争いの末、60試合でマスクを被った(出場は73試合)が、背番号を変更した59(S34)年は97試合(出場は105試合)と正捕手に座る。打撃が好調で、打率.276、初の二桁となる10本塁打、46打点と全て自己最多を記録する。
翌60(S35)年は、本塁打は3本塁打と少なかったものの打率.265、43打点を記録し、ミサイル打線の正捕手としてリーグ優勝に貢献する。しかし、日本シリーズでは第2戦の8回裏、一死満塁で谷本が打席に立つとスクイズを失敗。併殺となり、短期決戦で大切な勢いを断ち切るプレーとなった。谷本も15打数3安打に終わり、取り返す事が出来なかった。また、このプレーを巡り、オフには西本幸雄監督の辞任にもつながった。谷本は背番号を20から27に変更した。
→ 谷本稔 背番号 27 へ(有料エリア)
◆在籍時通算打撃成績<179試合、打率.266、2008打数534安打、41本塁打、278打点、7盗塁>
◇大毎初出場、初打席<1958(S33)年4月5日開幕戦・近鉄1回戦/R(奈良鴻ノ池)/途中捕手/1打0安>
◇大毎初安打<1958(S33)年4月17日・阪急3回戦/H(後楽園)/代打/1打1安>
◇大毎初スタメン<1958(S33)年4月27日第1・近鉄3回戦/H(川崎)/7番捕手/3打1安>
◇大毎初打点<1958(S33)年5月13日・南海3回戦/R(大阪)/代打/1打1安/適時打>
◇初本塁打<1958(S33)年5月21日・近鉄6回戦/R(日生)/途中一塁/小林経旺から>
◇オールスターゲーム出場/2回 (60、63)
★《4代》1961(S36)年~1962(S37)コーチ・2年 【殿堂入り】杉下 茂(すぎした しげる) 投手(在籍1年、コーチ在籍1年)
【野球殿堂入り】野球殿堂競技者表彰(1985年)

1925(T14)年9月17日生(移籍時35歳)、右投右打
東京・旧制帝京商業学校(現帝京大高)(–)–いすゞ自動車–明治大–中日(49〜60)–大毎(兼任61〜62)
他球団監督/中日(59〜60)
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手元にある世に出ている資料、手元で眠っている表に出ていない資料に加え、関係者から見聞きした情報(オリオンズメモ(笑))を中心に「ロッテオリ…
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