《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜「30」(2026)】監督・コーチ・野手の背番号から投手の背番号へ
(写真 中央・5年目を迎えた25代廣畑敦也、左上から・背番号30を背負って指揮を取った8代宇野光雄(左)と10代田丸仁(右)、いぶし銀の守備を見せた17代森田芳彦、右上から・抑えとして君臨した21代小林雅英、バットとピッチングで日本一を手繰り寄せた22代伊藤義弘)
「30」 監督・コーチ・野手の背番号から投手の背番号へ
背番号30の系譜を辿ると、その時代時代で顔となる選手や監督が背負って来た番号である。初代の苅田久徳はNPB創設年からプレーしていた選手で、1936年秋期に初代盗塁王に輝いた選手だった。続いてコーチ・二軍監督として30を背負った2代の中根之は同じくNPB創設年からプレーし、1936年秋期に初代首位打者を獲得した選手だった。その後、一軍監督となる本堂保次や一軍監督として宇野光雄、田丸仁も背負った。ロッテオリオンズとなってからは職人的な野手に引き継がれ、マリーンズとなってからは投手が引き継いだ。背番号30を大きく育てたのは「幕張の防波堤」こと小林雅英だった。試合最後に背番号30がマウンドに上がると安心感があった。その後も投手に引き継がれているが、25代となる廣畑敦也も小林に負けない大きな背番号として育てて欲しい。
----- 現在の背番号「30」 -----
★《25代》2022(R4)年~・25(R7)年は4年目 廣畑 敦也 投手(在籍4年目)
1997(H9)年12月3日生(入団時24歳)、右投右打
岡山・玉野光南高(–)–帝京大–三菱自動車倉敷–千葉ロッテ(22〜)
【廣畑 敦也 背番号変遷】30(3)
2021(R3)年のドラフト3位で社会人・三菱自動車倉敷オーシャンズから入団した廣畑敦也が背番号30を引き継いだ。
ルーキーイヤーの2022(R4)年から開幕一軍入りを果たす。開幕5戦目・3月31日のソフトバンク3回戦(ZOZOマリン)に3番手として初登板。4月5日の日本ハム1回戦(札幌D)では3番手として登板しピンチを切り抜ける好救援でプロ初ホールドを記録する。しかし、ピンチを招く場面も見られ、以降一軍と二軍を往復する。1年目は30試合に登板し0勝1敗2ホールド、防御率4.91で終えた。
2年目の23(R5)年も開幕一軍入り。しかし、リリーフ登板した試合で失点し1試合で抹消される。再登録後の5月21日の楽天7回戦(楽天モバイル)では予告先発の森遼大朗が先発回避。2点リードした2回から2番手として登板し3回1失点で切り抜け初勝利をマークする。その後は初先発にも指名されるが失点が続き6月上旬に再び抹消され、そのままシーズンを終えた。2年目は8試合に登板し1勝1敗、防御率5.73で終えた。
24(R6)年は開幕二軍スタートとなったが、二軍で状態が上がらず苦しいスタート。5月にようやく安定感を見せ6月初旬に一軍登録。自身初セーブを記録する。しかし7月中旬に抹消されると、そのままシーズンを終えた。3年目は8試合の登板、0勝0敗1セーブ2ホールド、防御率3.18だった。
25(R7)年は二軍スタート。その二軍で安定した投球を見せ5月4日に一軍昇格。シーズン初登板の5日の楽天戦は無失点で切り抜けたものの続く2試合は連続失点して抹消。以降、二軍で再び安定した内容を見せたものの再登録は9月5日。3試合で好投した後2試合で失点して抹消。そのままシーズンを終えた。最終的に8試合、0勝1敗、防御率は5.87だった。
(2025(R7)年 シーズン終了時)
◆在籍時通算投手成績<54試合、1勝3敗、防4.86、1セーブ、4ホールド、1先発、0完封、54奪三振>
◇初登板<2022(R4)年3月31日・ソフトバンク3回戦/H(ZOZOマリン)/3番手/1回0失>
◇初ホールド<2022(R 4)年4月5日・日本ハム1回戦/R(札幌D)/3番手/1回0失>
◇初先発登板<2023(R5)年5月18日・オリックス8回戦/H(ZOZOマリン)/先発/2回0失>
◇初勝利<2023(R5)年5月21日・楽天7回戦/R(楽天モバイル)/2番手/3回1失>
◇初セーブ<2024(R6)年7月10日・楽天13回戦/H(ZOZOマリン)/2番手完了/3回3失>
----- オリオンズ&マリーンズ「30」の系譜 -----
★《初代》1950(S25)年・9ヶ月 苅田 久徳(かりた ひさのり(きゅうとく)) 内野手(在籍1年、コーチ2年)
【野球殿堂入り】1969(S44)年 競技者表彰

1910(M43)年1月19日生(コーチ就任時47歳)、右投右打
神奈川・旧制本牧中(–)−旧制法政大−東京倶楽部−セネタース(36〜40)−大洋軍(41〜42)−大和軍(42〜43)−川崎いすゞ−東急(47〜48)−毎日(50途中)−近鉄(50途中〜52)
毎日コーチ(57〜58)
【苅田 久徳 背番号変遷】30(1)、コーチ/51(2)
NPB創設年からセネタースでプレーし初代盗塁王に輝く。戦中は現役を退き、戦後はプロ野球に復帰し急映(東急)でプレー。前々年の1948(S23)年限りで現役を再び退いていた苅田久徳が39歳でプロ野球界に再復帰。毎日球団創設に参加し、初代背番号30を背負った。名二塁手と評価され、NPB史上初めて「隠し球」をした選手としても知られていた名選手が合流した。
1950(S25)年の毎日初出場は4月15日の東急5回戦(後楽園)に8番遊撃で初出場。毎日初安打、初打点も記録する。その後、20試合に出場し打率.262を記録していたが、シーズン途中(時期理由不明)に近鉄に移籍した。
57(S32)年にコーチとして復帰する。
→ コーチ/苅田久徳 背番号 51 へ(有料エリア)
◆選手在籍時成績<20試合、打率.262、42打数11安打、0本塁打、3打点、1盗塁>
◇初出場、初スタメン、初打席、初安打<1950(S25)年4月15日・東急5回戦/R(後楽園)/8番遊撃/4打1安/初打点適時打>
※1951(S26)年 空番
★《2代》1952(S27)年~1953(S28)年・2年 中根 之(なかね すすむ) 二軍コーチ ⇒ 二軍監督 ⇒ 一軍コーチ(在籍3年)
1910(M43)年9月21日生(入団時41歳)、右投左打
兵庫・第一神港商(甲)–明治大–名古屋(36)–イーグルス(37~38)
毎日コーチ(52、54)、二軍監督(53)
【中根 之 背番号変遷】30(2) ⇒ 50(1)
戦前は名古屋でプレーし、NPB初代首位打者となり、戦前の1リーグ時代の最高打率を記録した中根之が、1952(S27)年に創設された二軍の打撃コーチに就任し、背番号30を着けた。
翌53(S28)年には二軍監督だった若林忠志が一軍監督に復帰したため、中根が二軍監督に就任した。54(S29)年には一軍コーチに就任するのに伴い、背番号を50に変更した。
→ 中根之 背番号 50 へ(有料エリア)
★《3代》1954(S29)年・1年 阪田 芳秀(さかた よしひで) 捕手(在籍4年)
1930(S5)年4月10日生(入団時21歳)、右投右打
大阪・浪華商業高(甲)–コロムビア–毎日(52~55)
【阪田 芳秀 背番号変遷】43(2) ⇒ 30(1) ⇒ 32(1)
→ 阪田芳秀 背番号 43 へ(有料エリア)
1952(S27)年に社会人・コロムビアから入団し、54(S29)年に3年目を迎える阪田芳秀が背番号を43から30に変更した。
前年2年目に初めて一軍に出場(15試合)したが、54年は一軍未出場に終わり、オフには背番号を30から32に変更した。
→ 阪田芳秀 背番号 32 へ(有料エリア)
◆打撃成績<15試合、打率.179、28打数5安打、0本塁打、1打点、1盗塁>
◇初出場<1953(S28)年5月30日・南海5回戦/H(後楽園)/代走>
◇初スタメン、初打席<1953(S28)年6月2日第1・東急7回戦/H(熊谷)/8番捕手/2打0安>
◇初安打、初打点<1953(S28)年6月11日・近鉄4回戦/H(富山)/7番捕手/適時打/4打1安>
★《4代》1955(S30)年・1年 大館 勲夫(勲)(おおだて いさお) 内野手(在籍6年)
※1954(S29)年まで勲、55年は勲夫
1917年4月9日右投右打
米ハワイ・マッキンレー高–(旧制)平安中(甲)–旧制大日本武徳会武道専門学校–兵庫県警–全京都–阪神(49)–毎日(50〜55)
【大館 勲夫 背番号変遷】32(5) ⇒ 30(1)
→ 大館勲夫 背番号 32 へ(有料エリア)
6年目を迎えた大館勲夫が1955(S30)年に背番号を32から30に変更した。主に代打として活躍し、前年54(S29)年は主将を務めた。
前年は31試合と出場試合数を減らしていたが、55(S30)年はさらに減らした。このシーズンも開幕ベンチに入り2戦目には代打で登場してヒットを放つスタートを切った。しかし、以降はヒットが出るもペースが減り、打率もジリジリ落とす。最終的に21試合に出場し21打席で5安打(.263)、本塁打は移籍以来初めて0本に終わり、このシーズン限りで引退した。
◆在籍時通算打撃成績<222試合、打率.263、300打数79安打、13本塁打、48打点、0盗塁>
◇毎日初出場、初スタメン、初打席、初打点<1950(S25)年3月12日・近鉄1回戦/R(藤井寺)/7番一塁/4打0安/初打点は内野ゴロ>
◇毎日初安打<1950(S25)年3月30日・東急2回戦/R(後楽園)/7番一塁/3打2安>
◇初本塁打<1950(S25)年8月13日・阪急13回戦/R(秋田・手形)/途中一塁/柴田英治から>
★《5代》1956(S31)年〜1957(S32)年・2年 本堂 保弥(ほんどう やすや(安次) 内野手兼任コーチ(現役8年、コーチ/5年、監督/3年)
※1950年〜1951年・安次、1952年〜1962年・保弥、1963年〜・安治(読みは全てやすや)
1918(T7)年3月18日生(移籍時32歳)、右投右打
大阪・(旧制)日新商業学校(甲)−大阪(37〜47)−太陽(48)−大阪(49)−毎日/大毎(50〜58)
毎日/大毎コーチ(52, 54〜56, 59〜62)、大毎/東京監督(63〜65)
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手元にある世に出ている資料、手元で眠っている表に出ていない資料に加え、関係者から見聞きした情報(オリオンズメモ(笑))を中心に「ロッテオリ…
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