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ヘブル語聖書文語訳創世記を終えて(1.1万文字)


ヘブル語聖書文語訳創世記を終えて

v1.4

【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。

1. 聖書学習の始まり

筆者の聖書学習は、2021年にハーベスト・タイムの動画を本格的に視聴し始めたところから始まった。特に大きかったのは、創世記とローマ人への手紙である。同じ時期に、筆者はハーベスト・タイムの聖書塾にも入塾した。

もっとも、聖書への関心そのものは、それ以前から断続的に続いていた。妻の死をきっかけに自分の死を意識するようになり、世界の教えの一次ソースに触れたいという思いから、英語学習を始め、ミルトス出版社のヘブライ語聖書とCD、アラビア語、サンスクリット語、チベット語の聖典原典や音声資料などを集めた。意味が分からないまま、それでも原典の響きに触れたいと思って聞いていた時期があった。

その意味で、今回の創世記文語訳は、突然始まった企画ではない。長いあいだ、意味の前に音があり、解釈の前に原典への憧れがあった。その延長線上に、ヘブル語聖書を横に置き、文語の響きで創世記を読み直すという今回の作業がある。

2. WEBへの絶望

2020年大統領選の結果をめぐり、2021年1月に頂点へ達したトランプ大統領周辺の騒動は、筆者にとって大きな転機だった。とりわけ強烈だったのは、Twitter、Facebook、Instagram、YouTubeがトランプ大統領のアカウントや発信経路を停止、制限し、さらにApple、Google、AmazonもParlerへの対応を通じて周辺の発信基盤を制限していったことである。

その是非をここで論じたいのではない。筆者にとって決定的だったのは、巨大プラットフォームが、政治的な言論空間の入口そのものを管理できるという現実を、目の前に突きつけられたことだった。WEBの上に、開かれた民主主義や自由な討議空間が自然に実現するという幻想は、そのとき大きく崩れた。

当時、右翼、左翼、スピリチュアル系まで巻き込んだ情報の渦の中で、筆者自身も一時は冷静さを失いかけた。だが、その混乱の中で中川健一牧師の動画に触れた。筆者には、それが最もロジカルで公平な立場からの分析に見えた。

そこから、ハーベスト・タイムの動画を本格的に見るようになった。創世記、ローマ人への手紙、マタイ福音書、黙示録、申命記などを通して視聴し、キリスト教のヘブライ的理解という視点に初めて触れた。これまで聖書解釈に対して感じていた違和感は、その観点が欠けていたためではないかと得心した。

同時に、筆者の関心は、地上の制度やプラットフォームの中で実現する平安ではなく、天国で実現する平安へと急速に向かっていった。社会の正しさを追いかけるよりも、聖書が語る終末、救い、契約、そして神の計画を学び直すことのほうが、筆者にとって切実になった。

3. 音としてのヘブル語

最初に購入したミルトス出版社のヘブライ語聖書とCDで聞いたヘブル語朗読は、筆者の耳にはかなりアグレッシブに響いた。文字としての聖書以前に、声そのものが前へ出てくるような印象があった。

その後、ハーベスト・タイムの創世記第1回で紹介されていたヘブル語の読誦に触れたとき、印象は大きく変わった。そこにあったのは、通常の朗読というよりも、詠唱に近い響きだった。

しかも、その動画では、バルミツバーの儀式にも関係する読誦形式として紹介されていた。筆者には、それがクルアーンやバガヴァッド・ギーターの詠唱を聞いたときの感覚に近く感じられた。ヘブル語聖書は、意味を読むだけでなく、共同体の中で唱えられ、受け継がれてきた音としても存在している。そのことに驚いた記憶がある。

この体験は、今回の創世記文語訳にも深く関係している。筆者はヘブル語を専門的に読めるわけではない。それでも、ヘブル語本文を横に置き、音を確認し、語の並びに触れながら、日本語の文語へ移し替える作業には、単なる翻訳以上の意味があった。

本文を情報として理解するだけでなく、響きとして受け止める。そのための自己学習でもあった。

4. 創世記1章1節

ハーベスト・タイムの創世記第1回で、筆者にとってもう一つ印象的だったのは、中川健一牧師による創世記1章1節の位置づけである。

「はじめに神は天と地を創造された。」

この一文は、単に聖書の冒頭を飾る言葉ではない。中川牧師は、この一節が、あらゆる誤った世界観を論破するものだと語っていた。無神論、不可知論、汎神論、多神論、物質主義、自然主義、二元論、ヒューマニズム、進化論。それらに対して、創世記1章1節は、神が存在し、神が創造者であり、世界は神によって始められたという宣言として立つ。

筆者には、この説明が非常に大きかった。神の実在を長い議論で証明するのではなく、「はじめに神は天地を創造した」という一文の中に、聖書全体の世界観が凝縮されている。そう理解したとき、創世記1章1節は、単なる序文ではなく、世界を見るための根本命題として迫ってきた。

人生をどう捉えるかも、この聖句にかかっている。人はただ生きているのではなく、生かされている。目的は自分で作り出すものではなく、神から与えられる。自己嫌悪から自己受容へ向かう道も、人間を価値の基礎に据えるところからではなく、創造者である神の側から開かれる。

この理解は、筆者がWEBへの幻想を失い、地上の制度や情報空間に最終的な平安を求めることをやめていった経験ともつながっている。地上の議論や正義の争奪の中に、最終的な答えを求めるのではない。創世記1章1節は、その視線を、最初から神へ向け直す言葉だった。

5. トーフ・ヴァ・ボーフ

創世記第1回では、創世記1章1節と1章2節の関係について、いわゆるギャップセオリーの説明もあった。

ギャップセオリーとは、創世記1章1節と1章2節の間に、何らかの空白を想定する解釈である。神が最初に天地を創造した。その後、サタンの堕天と神の裁きがあり、地は荒廃した。そして創世記1章3節以降で、神がその荒廃した世界を再び整えていく。このように読む立場である。

この説が筆者にとって興味深かったのは、世界を単純な直線としてではなく、下降と回復の構造として捉える点にあった。創造があり、堕落があり、荒廃があり、そこから再創造と回復が始まる。筆者には、この世界の成り立ちを考えるうえで、非常に理にかなった説明に思えた。

その根拠の一つとして説明されていたのが、創世記1章2節の「トーフ・ヴァ・ボーフ」である。一般に「混沌として何もなかった」「形なく、むなし」などと訳される箇所のヘブル語表現である。

ここで重要なのは、「トーフ・ヴァ・ボーフ」が一語ではないという点である。なお、本稿では読みやすさを優先し、この表現を「トーフ・ヴァ・ボーフ」と表記する。学術的な転写では tohu wa-bohu、tohu va-vohu などの表記も見られる。「トーフ」は、形を欠いた状態、荒廃、空虚、むなしさなどの幅をもって理解される語である。「ボーフ」は、空虚、からっぽ、むなしさを指す語として説明されることが多い。

つまり、逐語的に言えば、「荒廃、そして空虚」「形なきもの、そして空しきもの」といった意味合いになる。

中央にある「ヴァ」は、ヘブル語の文字ヴァヴであり、基本的には英語のandにあたる接続の働きをする。ただし、聖書ヘブル語の叙述では、単なる並列だけでなく、物語を前へ進める連続表現として働く場合もある。したがって「トーフ・ヴァ・ボーフ」は、トーフとボーフをただ並べた言葉ではなく、「トーフ、そしてボーフ」という接続を持つ表現である。

このヴァヴは、創世記を読むうえで非常に印象的である。ヘブル語聖書の叙述では、多くの文や節がヴァヴから始まる。つまり、「そして神は言われた」「そして神は見られた」「そして夕となり、そして朝となった」というように、「そして」という接続によって出来事が連なっていく。

この「そして」の反復は、単なる接続詞の多用ではない。創世記の物語は、出来事が切断されず、次々に結ばれながら進んでいく。神が言われ、そして成り、そして見られ、そして分けられ、そして名づけられる。創世記の文体そのものが、「そして」によって世界が展開していくような響きを持っている。

その意味で、「トーフ・ヴァ・ボーフ」の「ヴァ」は小さな文字でありながら、筆者にとっては大きかった。荒廃と空虚が、ただ孤立して置かれているのではない。トーフ、そしてボーフ。混沌、そして空虚。そこにさらに、闇があり、水があり、神の霊がある。そして、神が言われる。創世記の冒頭では、混沌の描写さえも、次の神の言葉へと接続されている。

この語を、単なる未完成の初期状態として読むのか、それとも神の裁きによる荒廃の状態として読むのか。そこには解釈の幅がある。伝統的には、神が形を整える前の未完成の状態として読む理解もある。一方で、イザヤ書やエレミヤ書における用例との関係から、裁きによる荒廃の状態として読む理解もある。

筆者は、この説明によって、創世記1章の読み方が大きく変わった。創世記1章は、単なる天地創造の説明ではない。そこには、神が混沌に秩序を与え、闇に光を命じ、荒廃に回復をもたらすという構造がある。創世記の冒頭は、世界の始まりであると同時に、救いと回復の始まりとしても読める。

この視点は、今回の創世記文語訳全体にも影響している。創世記を読むとは、過去の起源を知ることだけではない。混沌の中に秩序が与えられ、荒廃の中に回復が始まり、地上の不安定さの中で神の計画が進んでいくことを読むことでもある。

6. トルドット

トーフ・ヴァ・ボーフの次に、筆者の印象に強く残ったヘブル語は「トルドット」だった。

トルドットは、系図、歴史、由来、経緯などと訳されるヘブル語である。創世記では、「これは〜の系図である」「これは〜の経緯である」という形で、物語の要所要所に現れる。聖書入門.comでは、トルドットについて「家系、系図、子孫、歴史」などを意味し、意訳すれば「○○のその後の展開」であると説明している。また、創世記はこのトルドットという語によって11の部分に分かれるとも説明されている。

創世記における主なトルドットの箇所は、次のとおりである。

創世記2章4節

天地のトルドット。天地創造のあと、天と地がどう展開していくのかを示す箇所である。

創世記5章1節

アダムのトルドット。アダムからノアへ向かう系図の流れが示される。

創世記6章9節

ノアのトルドット。ノアと洪水の物語へ入っていく箇所である。

創世記10章1節

ノアの息子たち、セム、ハム、ヤフェトのトルドット。諸民族の広がりが示される。

創世記11章10節

セムのトルドット。セムからアブラムへ向かう系図の流れが示される。

創世記11章27節

テラのトルドット。アブラム、ナホル、ハランの流れから、アブラハム物語へ入っていく箇所である。

創世記25章12節

イシュマエルのトルドット。アブラハムの子イシュマエルの子孫がまとめられる。

創世記25章19節

イサクのトルドット。イサクからヤコブとエサウの物語へ入っていく箇所である。

創世記36章1節

エサウ、すなわちエドムのトルドット。エサウの子孫がまとめられる。

創世記36章9節

セイル山に住んだエサウのトルドット。エドム人の祖としてのエサウの流れがさらに整理される。

創世記37章2節

ヤコブのトルドット。ここからヨセフ物語が始まっていく。

このように見ると、トルドットは単なる系図の見出しではない。個別の物語を追っていた視点が、あるところでふっと引かれ、時間の流れや世代の連なりを見渡す位置へ移る。そのあとで、また次の人物、次の家族、次の物語へ焦点が絞られていく。

筆者には、この構造が非常に腑に落ちた。創世記は、ただ出来事を一直線に並べているのではない。ある人物や出来事を近くから描いたあとで、トルドットによって視点を変え、まるでズームアウトするように系図や経緯を示す。そして、その統括のあとで、次の物語へ入っていく。

この視点の変化をもって、もともと別々の2つの神話がひとつに接合されたと見る説もある。しかし筆者には、むしろトルドットという文学形式を知らなければ、そのように見えてしまうのではないかと思えた。創世記は、近くから見る物語と、遠くから見る系図や歴史を交互に用いながら、神の計画がどのように世代を越えて進んでいくのかを描いている。

その意味で、トルドットは、創世記を読むための大きな鍵だった。トーフ・ヴァ・ボーフが、荒廃と空虚の中から神の言葉へ接続されていく響きを教えてくれたとすれば、トルドットは、個別の物語が世代の流れへ接続されていく構造を教えてくれた。創世記を文語訳で辿る作業の中で、この語に気づけたことは、筆者にとって大きかった。

7. 自己学習の記録

先にヨブ記のヘブル語併記文語訳をまとめ、その振り返りを書いたあとで、筆者は同じ方法を創世記にも使えるのではないかと思った。

ヘブル語を横に置き、音を確かめ、文語の響きに移し替えながら、1章ずつ読んでいく。その作業は、翻訳を確定するためというより、本文に長く付き合うための自己学習用の記録だった。

ヨブ記の振り返りで得た手応えは、その方法が単なる一時的な試みではなく、聖書本文と付き合うための形式になり得るということだった。そこで次に向かったのが創世記である。

創世記は、聖書全体の入口にある。天地、人間、罪、契約、家族、祝福、旅、相続、イスラエルの家の始まりが、物語の形で連なっている。そこをヘブル語本文と文語訳の往復によって辿ることは、聖書の始まりを、もう一度自分の中に通し直す作業になった。

8. 文語訳という器

今回の連載では、創世記を現代語に置き換えるのではなく、文語の響きに寄せることを意識した。

それは、文語が古めかしいからではない。文語には、日常語から少し距離を取る力がある。現代語でそのまま言うと説明になりすぎる箇所でも、文語にすると、本文の重みや隔たりが残ることがある。

聖書の言葉には、すぐに分かった気になってはいけない部分がある。創世記もそうである。天地創造、エデン、カインとアベル、ノア、バベル、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ。それぞれの物語はよく知られているが、よく知られているからこそ、既成の理解で読み流してしまいやすい。

文語訳にすることで、筆者はその読み流しを止めたかった。言葉を一度、日常の速度から切り離す。意味を急いで回収せず、文の重さ、語の順序、反復、祝福、呪い、契約、名づけに立ち止まる。そのための器として、文語はとても有効だった。

9. ヘブル語併記

ヘブル語を併記したのは、筆者がヘブル語を自在に読めるからではない。むしろ逆である。自分が読めないものを読めないものとして横に置くためである。

日本語訳だけを置くと、どうしても訳文が本文そのもののように見えてしまう。しかし、ヘブル語を横に置くと、日本語訳はあくまで訳であり、読み替えであり、接近の試みであることが見えてくる。

ヘブル語の文字列は、筆者にとって完全に透明な情報ではない。だが、だからこそよい。完全には分からないものが横にあることで、本文に対する距離が残る。その距離が、かえって聖書本文への敬意を保たせてくれる。

Wordprojectでは、創世記のヘブル語本文と章ごとの音声を参照することができる。

文字として眺めるだけでなく、音として聞く。ヘブル語本文を横に置く作業は、単なる装飾ではなく、本文に戻るための導線だった。

10. AIとの制作

今回の創世記文語訳は、AIとの共同作業でもあった。

ただし、AIに任せれば聖書が読めるという話ではない。AIは、語句の整理、訳文候補の比較、文語調の調整、表記ゆれの確認、誤字の修復、注記の整理には役立つ。しかし、どの響きを採るか、どの距離を残すか、どこで断定を避けるか、どこで本文の重みを保つかは、最終的には筆者が判断するしかない。

AIを使うことで、作業は速くなる。だが、速くなるだけなら危うい。聖書本文を扱うとき、速度はしばしば読みの敵になる。だから今回の作業では、AIを使いながらも、必ずヘブル語本文、音声、既存訳、注解、文語の響きに戻ることを意識した。

AIは、筆者にとって教師ではなく、作業机の上に置いた補助具である。道具としては強力だが、信頼する対象ではない。信頼する対象は、あくまで本文である。

11. 創世記の流れ

創世記を25本に分けて進めると、全体の流れが少しずつ見えてきた。

第1に、創世記は始まりを語る。天地の始まり、人間の始まり、罪の始まり、死の始まり、言語の散乱の始まり、契約の始まり、イスラエルの家の始まりが語られる。

第2に、創世記は家族の物語である。アダムとエバ、カインとアベル、ノアとその子ら、アブラハムとサラ、イサクとリベカ、ヤコブとエサウ、ラケルとレア、ヨセフと兄弟たち。創世記では、信仰の物語が家族の傷、偏愛、争い、欺き、赦しと切り離されていない。

第3に、創世記は祝福の物語である。祝福は単なる幸福ではない。神から与えられ、受け継がれ、ときに争われ、ときに奪われたように見えながら、それでも神の計画の中で進んでいく力である。

第4に、創世記は旅の物語である。エデンからの追放、箱舟、バベルからの散乱、アブラハムの旅、ヤコブの逃亡、ヨセフのエジプト行き。人は地上に安住できず、移動し、失い、また導かれる。

この流れを文語訳で追うと、創世記は単なる古代の物語ではなく、地上に住む人間の不安定さを語る書として迫ってくる。

12. 創世記と地上

筆者が創世記を読みながら強く感じたのは、創世記が地上を甘く見ていないということである。

人間は造られ、祝福される。しかし、すぐに罪を犯す。兄弟は殺し合う。人の悪は地に満ちる。町は高く建てられるが、言葉は散らされる。族長たちは信仰者でありながら、恐れ、偽り、争い、逃げる。家族は祝福の場であると同時に、深い傷の場でもある。

創世記には、地上に理想社会がそのまま実現するという甘さはない。むしろ、地上の混乱の中で、それでも神の約束が進んでいくという視点がある。

この点は、筆者自身がWEBへの幻想を失い、地上の制度や情報空間に最終的な平安を求めることをやめていった経験ともつながっている。創世記を読むことは、地上に絶望するためではない。地上の混乱を見ながら、それでも神の計画を見るためである。

13. 契約と祝福

創世記を通して読んでいくと、契約と祝福の言葉が何度も立ち上がってくる。

アブラハムへの約束は、個人の成功物語ではない。子孫、土地、祝福、諸国民への広がりを含む大きな約束である。その約束は、アブラハム、イサク、ヤコブへと受け継がれ、やがてヨセフの物語を通してエジプトへとつながっていく。

創世記の登場人物たちは、決して清廉な英雄ばかりではない。恐れ、欺き、偏愛し、争い、失敗する。それでも契約は進む。祝福は、人間の立派さによって保たれているのではなく、神の約束によって保たれている。

この視点は、筆者にとって大きかった。自分の理解、自分の努力、自分の信仰の強さに頼るのではなく、神の約束の側から物語を見る。創世記を文語訳で辿る作業は、その視点を少しずつ確認する時間でもあった。

14. ヨセフ物語

創世記の終盤で、物語はヨセフへ向かう。

ヨセフ物語は、家族の傷と神の摂理が重なり合う物語である。兄弟たちの嫉妬、父ヤコブの偏愛、売られるヨセフ、エジプトでの試練、解き明かされる夢、飢饉、再会、赦し。そこには、人間の悪と神の計画が同時に描かれている。

ヨセフの物語を読んでいると、創世記全体が単なる起源譚ではなく、神が人間の歪みをも用いながら歴史を進める書であることが見えてくる。

人間の側から見れば、出来事は断片でしかない。なぜそうなるのか分からない。なぜその苦しみがあるのか分からない。だが、創世記は、分からないまま進む人間の歩みの背後に、神の計画があることを語る。

この点で、創世記は筆者にとって、過去を説明し尽くす書ではなく、過去を神の前に置き直す書だった。

15. 全25本の記録

今回の創世記文語訳は、全25本の記事として公開した。

ヘブル語併記:創世記文語訳(1)

ヘブル語併記:創世記文語訳(2)

ヘブル語併記:創世記文語訳(3)

ヘブル語併記:創世記文語訳(4)

ヘブル語併記:創世記文語訳(5)

ヘブル語併記:創世記文語訳(6)

ヘブル語併記:創世記文語訳(7)

ヘブル語併記:創世記文語訳(8)

ヘブル語併記:創世記文語訳(9)

ヘブル語併記:創世記文語訳(10)

ヘブル語併記:創世記文語訳(11)

ヘブル語併記:創世記文語訳(12)

ヘブル語併記:創世記文語訳(13)

ヘブル語併記:創世記文語訳(14)

ヘブル語併記:創世記文語訳(15)

ヘブル語併記:創世記文語訳(16)

ヘブル語併記:創世記文語訳(17)

ヘブル語併記:創世記文語訳(18)

ヘブル語併記:創世記文語訳(19)

ヘブル語併記:創世記文語訳(20)

ヘブル語併記:創世記文語訳(21)

ヘブル語併記:創世記文語訳(22)

ヘブル語併記:創世記文語訳(23)

ヘブル語併記:創世記文語訳(24)

ヘブル語併記:創世記文語訳(25)

25本に分けたことで、創世記を一気に要約するのではなく、章ごとの重みを保ちながら進めることができた。創世記は、全体として読まなければ見えない流れを持っている一方で、各場面の細部にも強い力がある。分冊にすることで、その両方を残せたと思う。

16. 読み返す場所

今回の記事群は、読者に対する完成された解説というより、筆者自身があとで戻ってくるための場所である。

ヘブル語本文を確認したいとき。文語訳の響きを思い出したいとき。創世記の流れをもう一度辿りたいとき。あるいは、自分がなぜ聖書を学び始めたのかを忘れそうになったとき。そのたびに戻れる場所として、この25本を作った。

聖書学習は、一度読んで終わるものではない。同じ箇所に戻り、前に読んだときとは違う響きを聞く。前には見えなかった言葉が、後になって迫ってくる。今回の創世記文語訳も、そのための土台である。

自己学習用の記録という言い方は、控えめではあるが、筆者にとっては正確である。専門家として確定訳を提示するのではない。信仰者として、また学習者として、本文の前に戻るための記録を残したのである。

17. 創世記を終えて

創世記25本を終えて思うのは、創世記は最初に読む書でありながら、簡単に読み終えられる書ではないということである。

そこには、世界の始まりがあり、人間の始まりがあり、罪の始まりがあり、契約の始まりがある。だが、それらは教科書的な説明としてではなく、物語として置かれている。だからこそ、何度も戻る必要がある。

筆者にとって、ヘブル語聖書文語訳創世記は、聖書を分かったことにするための作業ではなかった。むしろ、分からないものを分からないまま大切に横に置き、音を聞き、文字を見つめ、文語の響きで受け直すための作業だった。

ヨブ記のあとに創世記へ向かったことには、自然な流れがあった。しかし、創世記25本を終えた今、それは単なる続編ではなかったと思う。むしろ、聖書学習の出発点へ戻り、なぜ自分がヘブル語聖書に惹かれたのかを確認する作業だった。

意味の前に音があった。解釈の前に原典への憧れがあった。地上の混乱への失望の先に、天国で実現する平安への関心があった。そのすべてが、今回の創世記文語訳の背後にある。

創世記を終えたというより、創世記へ戻る場所を作った。今はそのように感じている。

参考リンク

ヨブ記文語訳を終えて:OJT「On The(Book Of)Job Training」の振り返り

ハーベスト・タイム 創世記第1回

Wordproject ヘブル語聖書 創世記第1章

聖書入門.com トルドット

Bible Hub Strong's Hebrew 8435 Toledoth

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