慰安婦論33):貧困⇒女衒⇒娼婦
(タイトル画:貧しい農村から女衒に連れられ売春宿に身売りされた娘たち )
AIへの問い:「女郎」「遊女」「娼婦」「売春婦」の違いを解説してほしい。
これらの言葉はすべて性的なサービスを提供する女性を指しますが、時代背景、社会的文脈、ニュアンスにおいて微妙な違いがあります。以下にそれぞれの言葉を解説します。
女郎(じょろう)
解説: 江戸時代を中心に使われた言葉で、公許の遊廓で働く女性全般を指します。身分制度が存在した当時、遊女は身分の一種として公に認められていました。身売りなどで遊廓に売られ、前借金の返済のために働くことが多かったですが、その中でも太夫や花魁といった最高位の遊女は、教養や芸も兼ね備え、一種の芸能人として尊敬される存在でもありました。
遊女(ゆうじょ)
解説: 古代から中世にかけて広く使われた言葉で、歌や舞を披露しながら性的なサービスも提供した女性を指します。寺社の近くや街道の宿場などで活動することが多く、必ずしも特定の場所に限定されず、移動しながら生計を立てることもありました。歌舞音曲の才も求められることがあり、芸能的な側面が強いのが特徴です。
娼婦(しょうふ)
解説: 明治時代以降、特に近代になってから一般的に使われるようになった言葉で、性的なサービスを対価として提供する女性を指します。欧米の近代的な価値観(特にキリスト教的倫理観)が流入し、「売春」という行為自体が道徳的に低いものと見なされるようになって以降、この言葉が普及しました。特定の場所に限定されず、非公認の売春婦も含む広範な意味合いで使われます。
売春婦(ばいしゅんふ)
解説: 現代において最も一般的に使われる言葉で、「売春」という行為(性的な行為を対価として提供すること)を職業とする女性を指します。法律的な文脈や社会問題として語られる際によく用いられます。この言葉は、行為そのものに焦点が当てられ、道徳的・法的な非難のニュアンスを含むことが多いです。
まとめると、それぞれの言葉は以下の点で異なります。
時代背景と公認性:
女郎・遊女: 古代から江戸時代にかけて、ある程度公に存在が認められていた時代に使われた言葉。特に女郎は公許の遊郭に属する。
娼婦・売春婦: 近代以降、売春が道徳的・法的に問題視されるようになってから使われるようになった言葉。
ニュアンス:
女郎・遊女: 芸能的な側面や、ある種の社会的身分として捉えられていた時代背景から、必ずしも現代的な「売春婦」のような完全な蔑称ではない場合もある(特に上位の遊女)。
娼婦・売春婦: 現代の感覚では、一般的に否定的な、あるいは社会問題として捉える際の言葉として用いられることが多い。特に「売春婦」は、行為そのものに焦点を当てた、最も直接的な表現です。
このように、それぞれの言葉は単なる同義語ではなく、その言葉が使われた時代や社会の認識を反映していると言えます。
「身売り」の日本史: 人身売買から年季奉公へ
『親の借金のため、「イエ」のため、娘が泣く泣く遊女に売られていく…。性別や年齢を問わない人身売買を意味した「身売り」は、いつから女性だけのものとなったのか。中世の人買い船、戦国の「人取り」、江戸時代の人身売買禁止令を分析し、「遊女に売る」から「遊女奉公へ出す」へと人びとの認識が変わってゆく過程と社会の本質をえぐり出す。』
「身売り」から「年季奉公」への変遷:日本の人身売買と社会認識の変化
「身売り」とは、本来、本人や家族が金銭と引き換えに、自らの身柄を他者に引き渡す行為全般を指し、その対象は性別や年齢を問わなかった。しかし、中世から近世にかけての社会経済の変化、特に江戸時代における法制度の整備と公娼制度の確立が、「身売り」を実質的に「女性の遊女奉公」と結びつける大きな要因となっていった。
1. 中世:広範な「人身売買」と「人買い」の存在
中世(鎌倉時代〜室町時代)における「身売り」は、飢饉や災害、あるいは借金の返済といった困窮から、生存のための最終手段として行われた。この時代は、現代でいう「奴隷売買」に近い形態で、男女問わず、また成人であっても身売りが行われた。
飢饉と売買: 飢饉が頻発すると、家族全員が生き残るために、幼い子どもを売るという悲劇的な選択がなされた。これは、飢餓が生命の維持を最優先させる究極の状況下で、倫理観が相対化された結果といえる。
「人買い船」と流通: 中世には、「人買い(人商人)」と呼ばれる人々が各地を巡り、身売りされた人々を買い集めては、労働力が必要な地域や裕福な層に売り捌いていた。特に、船を使った「人買い船」は、遠隔地への流通を可能にし、人身売買のネットワークを広げた。売られた人々は、田畑の耕作、家事労働、山仕事、鉱山労働など、様々な労働力として利用された。
寺社への寄進: 極端な例では、寺社に子を寄進(献上)し、その見返りに金銭を得るという形での身売りも存在した。これは、救済を求める意味合いもあったものの、実質的には人身の売買であった。
この時期の身売りは、特定の性別や目的(例:性的な奉仕)に限定されるものではなく、純粋な労働力としての売買が主流だった。
2. 戦国時代:「人取り」と「売買春」の混在
戦国時代に入ると、戦乱による社会の混乱が「人身売買」に新たな側面を加えた。
「人取り」の横行: 戦争捕虜や略奪された人々が「人取り」として売買されることが常態化した。これは奴隷化に近い形で、多くの場合、身の安全と引き換えに強制的に労働力として組み込まれた。
遊女の増加: 戦乱の中で居場所を失った女性や、親を失った少女たちが、生きるために性的な労働を余儀なくされるケースが増加した。戦国大名の中には、領内の遊女を管理し、税金を徴収することで財源の一部とする者も現れた。これは、後の公娼制度の萌芽ともいえる。
男女を問わない売買の継続: 戦国時代においても、労働力としての男女の売買は継続して行われていた。しかし、女性が性的なサービスに従事する比重が、徐々に高まっていったと考えられる。
この時期は、武力による強制的な「人取り」と、貧困による自発的な「身売り」、そしてそれらが生み出す労働力や性的なサービスが混在していた。
3. 江戸時代:「人身売買禁止令」と「年季奉公」への変遷
江戸幕府が成立し、社会が安定すると、幕府は社会秩序の維持と支配体制の確立のため、人身売買に対する規制を強化した。
初期の「人身売買禁止令」: 慶安元年(1648年)には、徳川家光によって「人身売買禁止令」が出された。これは、奴隷的な売買を禁じ、人身の自由を保障しようとする画期的なものであった。しかし、現実には貧困が根深く存在したため、完全に人身売買がなくなったわけではなかった。
「年季奉公」の登場と公娼制度:
幕府は、全面的な人身売買を禁じる一方で、労働力としての流動性を一定程度許容するため、「年季奉公(ねんきぼうこう)」という制度を公認した。これは、特定の期間(数年〜十年以上)労働を提供することを条件に、前金(「前借金」)を受け取るという形である。奉公期間が満了すれば、奉公人は自由になるという建前であった。
この「年季奉公」が、特に女性の性的なサービス提供において、人身売買の実質的な抜け道として利用されるようになった。貧しい家の子女が、借金を返すために、あるいは家族を救うために、遊廓や飯盛旅籠(めしもりはたご)などに「年季奉公」に出されるという形が一般化した。
幕府は、吉原などの「公許(こうきょ)遊廓」を設置し、特定の地域でのみ売春を公認・管理した。これにより、遊廓の女性たちは「遊女」として公的に認められた存在となった。
「遊女に売る」から「遊女奉公へ出す」への認識変化:
人身売買禁止令と公娼制度、そして年季奉公の仕組みによって、直接的な「身売り」という言葉は避けられ、「娘を遊女奉公へ出す」という表現が使われるようになった。これは、建前上は労働契約である年季奉公の形を取り、人身売買ではないという体裁を整えるための言葉の変遷であった。
しかし、実態としては、幼い頃から売られ、高額な前借金によって年季が長く、実質的に自由を奪われた状況は、以前の人身売買と大差ないものであったも知れない。特に、借金が雪だるま式に増えることで、永遠に年季が明けない「足抜け(あしぬけ)」困難な状況に陥るケースも少なくなかった。
この変化は、「公の法制度が、現実の貧困が生み出す人身売買の実態を隠蔽し、社会的に許容するメカニズムとして機能した」と評価する者もいる。
(しかし、注目すべきは、年季奉公のシステムを、ゲーム理論の観点から積極的に評価したラムザイヤー教授の画期的な論考である。)
「身売り」が「女性だけのもの」となった背景
性別や年齢を問わない「身売り」が、特に「女性の遊女奉公」という側面に強く結びついていった背景には、いくつかの要因がある。
公娼制度の確立: 江戸幕府による公許遊廓の設置は、女性の性的サービスを公的に認める一方で、その供給源を貧困層の女性に限定する結果となった。
労働力需要の変化: 農業や建設などの肉体労働では男性の労働力が必要とされたが、女性の性的なサービスは、安定した需要が見込める「商品」として確立されていった。
家族制度と倫理観: 武士階級を中心に男系相続や「家」制度が強化される中で、女性は「家」の存続や経済的安定のために犠牲となる役割を負わされやすくなった。娘を売ることは、苦しい家計を支えるための「親孝行」「家のための献身」と解釈される側面も生まれ、社会的に許容される余地が作られてしまった。
女性の社会進出の制限: 当時、女性が自立して生計を立てる手段は限られており、貧困に陥った際、性的な労働以外に選択肢が少ないという現実があった。
まとめ:社会の本質をえぐり出す「身売り」の変遷
「身売り」から「年季奉公」への変遷は、単なる言葉の綾ではなく、社会の仕組みと人々の認識が、いかに現実の過酷さを覆い隠し、あるいは正当化しようとしてきたかを示している。中世の露骨な人身売買から、江戸時代の「法に触れない形」としての「年季奉公」への移行は、社会が表面的な秩序を保ちつつも、根深い貧困問題に対して、弱者に犠牲を強いることで対処しようとした本質をえぐり出している。
特に、女性の身売りが「遊女奉公」という形に特化していった背景には、当時の家族制度、経済構造、そして女性の地位といった複合的な要因が絡み合っており、その根底には常に、飢饉や貧困という切迫した生存の危機が存在していた。この歴史を深く理解することは、現代社会が抱える貧困や人権の問題を考える上でも、重要な視点を与えてくれるだろう。
「売笑婦」という概念の登場と公娼制度の有名無実化
まず、この時期における呼称の変化が示唆に富んでいる。
概念の変化: これまで「娼妓」「芸妓」「酌婦(女給・雇女など)」「私娼(密売淫)」などと細かく分類されていた性的なサービスを提供する女性たちが、昭和初期には「売笑婦(ばいしょうふ)」という言葉で一括りにされるようになった。これは、社会全体で性的なサービス提供を総体として捉えるようになった変化を示唆している。
公娼制度の崩壊: 明治以降、「性売買は娼妓だけに認める」という公娼制度が敷かれていたが、大正末期から昭和初期にかけて、芸妓や酌婦といった「私娼」の数が激増したことで、この制度が事実上機能しなくなっていた(「有名無実化」)。これは、公の規制が効かなくなり、社会の貧困化や生活苦が背景となって、より広範な女性たちが性的なサービスを提供せざるを得ない状況に追い込まれていたことを物語っている。
娼妓となる原因の分析
著者の調査に基づき、娼妓となる女性たちの具体的な原因が統計的に示されている。これは、個人の意志だけでなく、社会的・経済的な要因がいかに強く影響していたかを示すものだ。
「売笑婦」経験者の多さ: 特筆すべきは、娼妓となった女性のうち、「既に売笑婦の生活にあつたものが却々に多い」という指摘である。つまり、娼妓となる直前に芸妓や酌婦であった者が多数を占め、「親出し」(家庭から直接、売春生活に入った者)は比較的少なかったことが述べられている。これは、一度性産業に関わると、そこから抜け出すのが困難であり、さらに厳しい立場である娼妓へと転落していくケースが多かったことを示唆している。
吉原遊廓のデータ(大正15年〜昭和元年): 吉原遊廓に売られてきた娼妓681人の内訳は以下の通り。
芸妓からの転向:91人
酌婦からの転向:301人
既に娼妓として稼いでいた者の転入:131人
家庭から直接売春生活に入った「親出し」:151人 このデータからも、芸妓や酌婦から娼妓へ転じるケースがいかに多かったかが分かる。
「親出し」娼妓が性産業に足を踏み入れた原因(151人の調査)
著者が特に焦点を当てて調査した、家庭から直接娼妓となった151人の女性たちの具体的な原因は以下の通り。
貧困によるもの(合計123人):
家族の病気(47人): 父、母、祖父、兄弟姉妹の病気が大きな要因であり、家族の医療費や看病のための生活費が切実な問題であったことがうかがえる。
家族の病と徴兵関係(2人): 病気と徴兵という二重の負担が家庭を困窮させたケース。
家族の婚姻葬儀の関係(2人): 結婚や葬儀といった突発的な出費が家計を圧迫し、身売りの原因となったケース。
扶養者喪失の関係(2人): 父母の死亡や行方不明により、生活の支えを失ったケース。
併合的欠陥(4人): 家族の病気に加えて銀行破産や私生児出産といった複合的な要因で困窮したケース。
家庭の生活難(57人): 最も多い原因で、「家計貧乏」「家の債務整理」「家の零落を救うため」といった、根本的な生活苦が娘を売る原因となっていた。
社会的原因(1人): 父が連帯保証人になった債務を整理するため。
自然的原因(17人): 水害、火災、凶作といった自然災害によって家財や農産物を失い、生活基盤が崩壊したため。
自己生活難(11人): 自身の債務整理や、特に「幼児養育の資を得るため」(10人)といった、子供を養うための切実な必要性から娼妓となったケースも多く見られる。
その他(8人):
内縁の夫との離別による手切金が必要だったケースや、原因不明のケースも含まれる。
この詳細な内訳から、貧困、特に家族の病気や災害、生活苦が、娘たちを性産業に追いやる最も主要な要因であったことが明確に示されている。
娼妓を出せる家庭の職業
次に、娼妓となった女性たちの家庭が、どのような職業に従事していたかのデータが示されている(吉原三業取締事務所の資料)。合計681人の娼妓の家庭の職業別の内訳は以下の通り。
農業(191人 / 29.5%): 最も多く、ほとんどが「無産の小作百姓」であったと指摘されている。これは、農村部の貧困が売春の主要な供給源であったことを示唆している。
工業労働者及びその自営業者(138人 / 23%): 木工、金属加工、土石、建築、染色、織物、食料品製造、被服・身の回り品、雑種(工場職工、鉱夫、土木請負など)と多岐にわたるが、多くは小規模な職人や低賃金労働者であったことがうかがえる。
商業(114人): 材木商、薪炭商、魚行商、駄菓子屋、理髪職、飲食店など、これも多岐にわたるが、「薄資の商人」が多かったと記されている。
無職(109人 / 16%): 無職であるために生計が立ち行かなくなり、娘や妹を売らざるを得ない窮地に陥った家庭も多数存在した。
知能及び自由業に関するもの(36人 / 5.3%): 俳優、集金人、会社員、針医、神主など。
筋肉労働に関するもの(33人 / 5.3%): 日雇人夫、鳶職、撒水夫、道路人夫など。
交通業(21人 / 3.1%): 車力、力車夫、船乗りなど。
不詳(7人)
このデータは、当時の娼妓の出身家庭が、特定の職業に偏ることなく、むしろ社会のあらゆる階層にわたり、貧困に直面していた家々から生まれていたことを明確に示している。特に、農業や工業労働者、小規模な商業など、不安定で収入の低い職業に従事する家庭が多かったことが際立っている。
この資料は、昭和初期の日本において、「売笑婦」という総称が使われ始めたこと、そして公娼制度が形骸化していた実態を明らかにしている。何よりも、娼妓となる女性たちの圧倒的多数が、個人的な欲望ではなく、家族の病気、債務、災害、あるいは単なる生活苦といった「貧困」によって、やむなく性産業の世界に足を踏み入れていたことを、詳細なデータで示している。
また、その出身家庭も、農民、職人、行商人、日雇い労働者など、社会の経済的弱者が大半を占めており、これは日本の近代化の陰で、いかに多くの人々が貧困に苦しみ、その犠牲が女性に転嫁されていたかという、厳しい現実を浮き彫りにしている。このデータは、単なる統計ではなく、当時の社会が抱えていた深刻な問題と、そこで生きた人々の苦難の物語を雄弁に物語っていると言えるだろう。
五・一五事件と二・二六事件を動機付けた娘たちの身売り

五・一五事件と二・二六事件は、単なるクーデター未遂事件ではなく、昭和初期の日本社会が抱える様々な問題を浮き彫りにした出来事であった。農村の疲弊と身売り問題は、これらの事件の背景に深く関わっており、社会の不安定化を加速させる要因となった。
青年将校たちの決起の背景を松本清張は 「昭和史発掘 (8) 」の中で次のように書いている。
農村の疲弊は、慢性的に続いていた農業恐慌の上に、更に昭和 6 年と昭和 9 年に大凶作があって深刻化した。農家は蓄えの米を食い尽くし、欠食児童が増加し、娘の身売りがあいついだ。農村出身の兵と接触する青年将校が、兵の家庭の貧窮や村の飢饉を知るに及んで軍隊の危機を感じたというのはこれまでくどいくらい書いてきた。そして青年将校らは考えた。結局独占資本的な財閥が私利私欲を追求するために、こうした社会的な欠陥を招いたとし、それは政党がこれらの財閥の援助をうけて庇護し、日本の国防を危うくする政策を行っているからだとの結論に達した。
昭和9年(1934) 1月から11月までの間に、県内での娘身売りの数は 3,298 名 で、内訳は芸妓 249 名 、娼婦 1,420 名 、酌婦 ( 公娼に対して私娼のこと ) 1,629 名 であった。
同じ年 (昭和9年,1934年 )の10月10日現在の青森県の資料によれば、身売りしたもの、芸妓 405 名 、娼婦 850 名 、酌婦 1,024 名 で、これ以外に離村した女子は女給として 945 名、女工 1,427 名、女中その他の 2,432 名があり、合計では 7,083 名 であった。
下の写真のような張り紙をした山形県の村役場は、東北地方では珍しくない状態だった。農家は凶作がもたらした飢餓と貧困にさいなまれ、青田を売り、娘を売り、しかも子は飢えに泣く状態であった。

青田売りとは経済的に困った農民が未だ稲が青い時期に、生活資金欲しさから米の収穫を見越して先売りすることで、相手から安く買い叩かれるのが普通だった。
その当時、社会主義者の山川均は雑誌 「改造 」 に、 「 ふとんのある農家は 一軒も無いといってもいいだろう 」 、と農村の窮状を発表した。
五・一五事件と二・二六事件に至る社会状況
五一五事件と二・二六事件は、日本の近代史における重要な転換点となった事件だが、その背景には共通して当時の経済政策の失敗、それに伴う農村の疲弊、そして貧困の象徴としての娘の身売りといった問題が深く関わっていた。
経済政策
第一次世界大戦後、日本経済は好景気に沸いたが、その反動として1920年代に入ると慢性的な不況に陥った。特に1929年に始まった世界恐慌は日本にも大きな影響を与え、経済はさらに悪化した。
当時の政府は、金本位制への復帰を目指し、緊縮財政と金解禁(金の輸出解禁)を断行した。これは国際経済への復帰を目指すものだったが、世界恐慌の真只中での金解禁は、日本からの金流出を招き、国内経済を一層冷え込ませる結果となった。企業倒産が相次ぎ、失業者が激増した。
農村疲弊
都市部の経済悪化は、当然ながら農村にも波及した。米価の暴落は農家の収入を激減させ、加えて生糸価格の低迷も養蚕農家を苦しめた。当時の農家は、米や生糸の販売によって現金収入を得ていたが、これらの価格暴落により、生活は立ち行かなくなった。
また、不況下にもかかわらず、政府は軍事費の増大などを理由に農民への税負担を軽減せず、むしろ増税する傾向にあった。これにより、農家の生活はますます困窮していった。
娘の身売り
農村の極度の貧困は、「娘の身売り」という悲劇的な現象を生み出した。貧しい農家では、家計を支えるため、あるいは借金の返済のために、幼い娘を女郎屋や工場に売り飛ばすことが横行した。これは、当時の農村の窮状を最も端的に示すものであり、社会問題として大きく取り上げられた。
都市で働く娘からの送金が、唯一の収入源となる農家も少なくなかった。しかし、そうした娘たちも過酷な労働条件や人身売買の対象となり、その生活は悲惨なものであった。
五・一五事件と二・二六事件への影響
これらの経済的・社会的な背景は、五・一五事件と二・二六事件の首謀者たち、特に若手将校たちの思想形成に大きな影響を与えた。彼らは、政治家や財閥が私利私欲に走り、国民、特に農民の窮状を顧みない現状を憂慮し、これを打破しようと行動を起こした。
五・一五事件(昭和7(1932)年): 若手海軍将校らが中心となり、当時の犬養毅首相を暗殺した。彼らは、政党政治の腐敗と財閥の専横を批判し、農村の窮状を救うためには国家改造が必要であると考えた。
二・二六事件(昭和11(1936)年): 陸軍の青年将校らが、「尊皇討奸」「昭和維新」を掲げ、要人殺害や政府中枢の占拠を行った。彼らの背景には、天皇親政の下での国家改造と、農村の疲弊を救済しようとする強い使命感があった。彼らは、一部の財閥や特権階級が富を独占し、貧しい農民や兵士が苦しむ現状を「思想的・構造的腐敗」と捉え、これを排除することで社会を浄化しようとした。
どちらの事件も、軍部の一部が「自分たちこそが真の国民の代弁者である」という意識を持ち、当時の政治体制では農村の窮状を解決できないと判断した結果、暴力による現状打破を図ったものであった。経済政策の失敗による社会不安、特に農村の疲弊とそれに伴う悲劇は、彼らの行動を正当化する大義名分となったのである。
経済政策に失敗した内閣や政治家
世界恐慌とそれに続く日本の経済混乱の中で、特に批判の対象となったのは、以下の内閣と、その経済政策を主導した政治家であった。
濱口雄幸内閣(民政党)と井上準之助蔵相(金解禁断行) 1930年1月、濱口雄幸内閣は、前蔵相であった井上準之助の主導で「金解禁」を断行した。これは、第一次世界大戦中に停止していた金本位制に復帰し、国際的な経済秩序に日本の経済を組み込むことを目的としていた。しかし、この時期は世界恐慌の真っただ中であり、各国が自国通貨の切り下げ競争に走る中で、円の価値を固定する金解禁は、日本の輸出力低下を招き、国内産業に大打撃を与えた。 また、金解禁と同時に行われた緊縮財政は、政府支出の削減、公務員の給与削減などを招き、不況をさらに深刻化させた。企業倒産や失業者の増加は、都市部だけでなく、農村の経済にも大きな打撃を与えた。 この金解禁政策は、後の五・一五事件において、井上準之助が標的の一人となった直接的な原因となった。
財閥への反発
当時の日本では、三井、三菱、住友、安田といった四大財閥が経済のほとんどを支配していた。彼らは銀行、商社、鉱業、重工業など多岐にわたる事業を手がけ、莫大な富と権力を蓄積していた。
世界恐慌下で多くの国民が苦しむ中、財閥は銀行を通じて中小企業を整理統合したり、企業の買収を進めたりして、かえってその支配力を強めていった。また、政党政治と癒着し、政治献金を通じて政策決定に影響力を行使していると見なされていた。
これにより、国民の間には「財閥が不況の元凶であり、私利私欲のために国民を苦しめている」という強い不満と反発が生まれた。特に、貧しい農村出身の兵士や青年将校たちは、財閥の富と自分たちの貧困との落差に怒りを覚え、「特権階級の打倒」を訴えるようになった。五・一五事件では、政党政治家と並んで三井財閥の総帥である団琢磨が標的とされた。
部下の農村出身の兵隊の姉妹が身売りされていることに同情する青年将校
五・一五事件や二・二六事件の実行部隊の中心となったのは、陸軍や海軍の若手将校たちであった。彼らの多くは、士官学校を卒業したエリートであり、都市出身の者が多かったが、部下の兵士の多くが貧しい農村出身者であり、彼らの窮状を間近で見ていた。
当時の兵士の給与は非常に低く、多くの農村家庭では、息子の兵役期間中の給与が重要な収入源となっていた。しかし、それだけでは生活が成り立たず、親兄弟が餓死寸前であるという手紙を受け取ったり、徴兵検査の際に栄養失調で倒れる農村青年を目の当たりにしたりする中で、彼らは自国の現状に強い危機感を抱いた。
特に、農村の極度の貧困の象徴であった「娘の身売り」は、彼らにとって看過できない問題であった。自分の部下や同僚の兵士の姉妹が、借金の返済や家族の食い扶持のために、都会の遊郭や工場へ売られていく現実を知り、彼らは激しい怒りと絶望を感じた。
彼らは、自分たちの生命を賭して国に尽くす兵士の家族がなぜこんなにも貧しいのか、その責任は誰にあるのかと考え、その矛先を、腐敗した政党政治家や、貧富の差を拡大させている財閥、そして天皇の側近である重臣たちに向けた。「国体護持」と「昭和維新」を掲げ、そうした「奸賊」を排除し、天皇を中心としたあるべき日本を取り戻すことが、彼らの行動原理となった。
影響を与えたテロリストたちの思想
これらの青年将校に影響を与えた思想家やテロリストは複数存在したが、特に重要なのは以下の人物や団体である。
大川周明(おおかわ しゅうめい)
思想: イスラム研究者でありながら、日本主義、アジア主義の思想家としても知られた。彼は資本主義と西洋文明を批判し、日本がアジアを解放し、新たな世界秩序を築くべきだと主張した。また、既存の政党政治や財閥を「国体を破壊する元凶」とみなし、強力なリーダーシップによる国家改造の必要性を説いた。血盟団事件や五・一五事件に思想的影響を与えた。
団体: 直接的なテロ組織の首謀者ではなかったが、右翼団体「猶存社」「行地社」を組織し、多くの青年将校や右翼青年たちに思想的影響を与えた。
北一輝(きたい いっき)
思想: 国家社会主義的な「日本改造法案大綱」を著し、青年将校に絶大な影響を与えた。彼は私有財産の制限、主要産業の国家管理、天皇中心の社会主義国家の樹立などを訴え、財閥の解体、貧富の格差是正を主張した。また、天皇を国家の象徴としつつも、実質的な権力は国民全体にあり、その実現のためには既存の政治体制を暴力的に打破することも辞さないと説いた。
影響: 二・二六事件の青年将校たちの行動の理論的支柱となり、事件後には首謀者として処刑された。
井上日召(いのうえ にっしょう)
思想: 極端な反政府・反財閥思想を持ち、一人一殺を掲げるテロリズムを是とした。彼は、既存の政治家や財閥が日本の病根であると考え、彼らを排除することで国家を浄化できると信じた。
団体: 血盟団事件(1932年)の首謀者です。この事件では、元蔵相の井上準之助や三井財閥総帥の団琢磨が暗殺された。この事件は、五・一五事件の引き金の一つともなった。血盟団の思想は、「一人一殺」を実践することで、世間に衝撃を与え、国家改造の必要性を訴えるというものであった。
これらの思想家やテロリストの思想は、当時の社会不安、経済的困窮、そして政党政治への不信感と結びつき、多くの若手将校たちに「自分たちが行動を起こさなければ日本は滅びる」という強い危機意識と使命感を抱かせた。彼らは、暴力的な手段を通じてでも、腐敗した現状を打破し、貧しい国民を救うことが「正義」であると信じていた。
農村の疲弊と娘の身売り、そして女衒の介入
上述したように、昭和初期の農村は、金解禁によるデフレと米価・生糸価格の暴落により極度の貧困に喘いでいた。こうした状況下で、多くの農家は生活を維持するため、あるいは負債を返済するために、苦渋の選択として娘を売ることを余儀なくされた。
娼妓になる理由
多くの女性が娼妓にならざるを得なかった背景には、以下のような現実があった。
家計の逼迫と負債の返済:
米価暴落により、農家は現金収入を失い、食料さえも事欠く状態でしあった。生活費や小作料、肥料代などの借金が膨らみ、もはや自力での返済が不可能な状況に追い込まれた。
特に、子供が多い家庭や、病人がいる家庭では、より切実に現金が必要とされた。
「口減らし」としての側面:
一家の食い扶持を減らすという意味合いで、娘を売るケースも少なくなかった。娘が家を出ることで、残された家族の負担が軽減されるという、悲しい現実があった。
「親孝行」という歪んだ美徳:
娘自身が、貧しい家族を救うために自ら身を売ることを決意する、という悲劇的な事例もあった。「親孝行」という名のもとに、娘たちが犠牲になるという、当時の社会の歪みが浮き彫りになった。
病気の家族の治療費や食い扶持捻出:
病気の家族の医療費や、弟や妹の食い扶持を捻出するため、というケースもあった。家族のためという大義名分のもと、娘が自己犠牲を強いられた。
こうした状況に付け込んだのが、「女衒(ぜげん)」と呼ばれる人買いである。彼らは貧しい農村を巡回し、困窮した農家に接近しては、娘を「都会で働く」という名目で誘い出し、多額の前借金を与えて娘を買い取った。しかし、実際には遊郭やカフェー、工場などに売り飛ばし、そこで過酷な労働と、借金の返済を名目とした搾取が待っていた。一度売られてしまえば、彼女たちが故郷に戻ることは非常に困難であった。
このような娘の身売りは、単なる経済的困窮だけでなく、家族の絆や個人の尊厳が踏みにじられる、社会全体に蔓延した病理であり、多くの人々、特に当時の社会の矛盾を敏感に感じ取っていた青年将校たちの心に深く刻まれることになった。
青年将校と彼らの親の出自

青年将校たちが農村の疲弊と娘の身売りに同情した背景には、彼らが抱いていた「国家の現状に対する義憤」があった。彼らは、国民、特に農民が苦しんでいるのは、一部の特権階級(財閥や腐敗した政党政治家、重臣など)が私利私欲に走り、国政を誤っているからだと考えた。
反乱部隊の幹部(将校)について父親の職業を調べた資料によれば、調査可能な14名のうち11名までが武官であり、長年軍務に服した後はその多くが退役少将として、恩給で十分な生活を保証されていた恵まれた地位にあった。(軍事史、藤原彰)
このデータは、二・二六事件に関与した青年将校たちの多くが、必ずしも農村出身の貧しい家庭の出身ではなかったことを示唆している。むしろ、彼らの父親の多くが武官であり、退役少将として恩給で恵まれた生活を送っていたということは、彼らが社会の上層に近い、比較的安定した家庭環境で育ったことを意味している。
この事実は、一見すると「貧しい農民に同情する青年将校」というイメージと矛盾するように見えるかもしれない。しかし、以下のように解釈することで、彼らの行動原理がより明確になる。
エリート意識と使命感:
彼らは、自身が国家の防衛を担う軍人としてのエリートであり、日本の将来に対する強い使命感を持っていた。
父親の多くが軍人であったことから、彼らは幼少期から「国のために尽くす」という軍人精神を叩き込まれて育ったと考えられる。
恵まれた境遇にありながらも、彼らは国家の危機的状況を認識し、その解決のために自らが立ち上がらなければならないという強い責任感を感じていた。
「上からの視点」と「現場の視点」の融合:
直接的な貧困経験がなくても、軍隊という組織を通じて、全国から集まってくる兵士たちの悲惨な実情(農村の疲弊、娘の身売りなど)を間近で見聞していた。彼らは兵士たちからの手紙や証言を通じて、農村の窮状を肌で感じ取っていた。
自分たちが相対的に恵まれた環境にあるからこそ、そうした貧しい国民の姿に「なぜこのようなことが許されるのか」という義憤を強く感じた可能性がある。
この「現場の現実」と、彼らが抱く「国家のあるべき姿」との乖離が、彼らを既存体制への反発へと駆り立てた要因の一つと考えられる。
「清貧」と「腐敗」への嫌悪:
軍人家庭に育った彼らは、往々にして質素倹約を重んじる「清貧」の思想を尊重していた。
それゆえに、財閥や政党政治家が享受する富や権力、そして彼らの「腐敗」と見なされた行為に対し、より強い嫌悪感を抱いたと考えられる。
自分たちは国のために命を捧げる覚悟であるにもかかわらず、一部の人間が私利私欲に走っているという状況は、彼らにとって許しがたいものであった。
このように、青年将校たちの出自が比較的恵まれたものであったとしても、それは彼らが農村の疲弊や娘の身売りといった社会問題に無関心であったことを意味しない。むしろ、軍人としてのエリート意識、国家への強い使命感、そして現場で目にした悲惨な現実が、彼らを「昭和維新」という行動へと駆り立てる大きな動機となったのである。彼らは、自らが国家の現状を憂い、それを変えるべき存在であるという強い自負を持っていたと言えるだろう。
「慰安婦の多くは無知蒙昧な朝鮮家庭による女性卑下文化の産物」
【韓国メディア】「慰安婦の多くは無知蒙昧な朝鮮家庭による女性卑下文化の産物」と題された記事では、慰安婦問題に関する韓国紙ニュースタウンのスクープが紹介されている。
記事の主な内容は以下の通り。
主張: 慰安婦問題が韓米日安保協力体制を壊すために悪用されていると指摘し、挺対協(現「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」)が行う不純な慰安婦活動を中断すべきだと主張している。
紹介されているソ・ジョンヒ教授の論文要旨:
1935年から1945年の植民統治期は朝鮮の産業革命期であり、農村から都市への人口流動が活発で、女性たちの間で「新女性」への憧れが広がっていた時代であった。
この時代に、都市への憧れから家庭を飛び出した娘たちが、人身売買団(女衒)の餌食となるケースが多かったと述べられている。
挺対協が調査対象にした元慰安婦190人のうち88%にあたる168人が、脱農村期の1937年から1944年の間に慰安婦になったと報告されている。
慰安婦になった経路には、「家庭→労働市場→慰安所」と「家庭→慰安所」の2つのルートがあったと分析されている。
人身売買を促進したのが人身売買団であり、家庭内暴力や虐待、学びへの抑圧といった朝鮮家庭の女性卑下文化が、女性が人身売買団に捕らわれる環境を助長したと指摘している。
ソ・ジョンヒ教授は、挺対協の資料から、家庭から直接慰安婦になった6人の事例を見つけ出し、挺対協がこれらの事実を知りながらも慰安婦問題を政治問題化するために誤った認識を社会に広めたと主張している。
挺対協の主張する「日本巡査による強制連行」は事実ではないと述べている(ただし、シム・ミジャさんの事例のように強制連行されたケースも一部あることを認めている)。
慰安婦6人の事例(ソ・ジョンヒ教授の事例要約):
1) ムン・ピルギ: 勉強を望んだが父親に阻まれ、暴力を受けて家を追い出された後、人身売買団に騙されて満州の慰安所で働いた。現在も日本大使館前でデモに参加している。
2)イ・サンオク: 兄から学校に行くことを阻まれ、脅迫されたため家出。叔母の家を出た後、別の家で「親に売られた」9人の娘たちと出会い、下関の朝鮮人夫婦が経営する軍の遊郭へ送られた。
3)イ・ドゥクナム: 酒飲みで賭博師の父親から暴力を受け、「家にいることが死ぬほど嫌だった」ため家出。奉給の出る仕事を探しに行った先で慰安婦となった。
4)キム・オクシル: 父親から勉強をすることに厳しく鞭打たれ、家出。一度妓生になった後、靴下工場やタバコ工場で働き、その後人身売買団に引っかかった。
5)ペ・ジョクガン: 母親からのひどい虐待から自殺を図ろうとするほどで、工場で働けるという嘘に騙されて家を出た後、中国の慰安所を転々とした。
6)ソン・シンド: 母親からのひどい虐待を受け、16歳から職を転々とした後、良い仕事があるという誘惑に乗り、中国で慰安婦生活を送った。
これらの事例は、当時の朝鮮社会の状況をよく示しており、彼女たちを悲劇に追いやったのは日本の巡査ではなく、家族であったと記事は結論付けている。そして、挺対協がこれらの事情を知りながらも、慰安婦を政治目的で利用していると批判している。
日本警察と朝鮮人悪徳業者検挙のイタチごっこ
略取・誘拐での検挙数(朝鮮総督府統計年報)
1935年は朝鮮人2,482人・日本人24人、
1938年は朝鮮人1,699人・日本人10人、
1940年は朝鮮人1,464人・日本人16人。
「朝鮮人がやった場合でも『強制連行』ですか?」秦郁彦氏
現代の女衒
ナニワ金融道に登場するソープ嬢

行為後にひとり排水溝の毛髪を片付けながら涙するシーン。
現代の女衒・スカウトマンを描いた園子温監督映画「新宿スワン」
──出てくる人物のキャラがことごとく強く劇画チックだけれど、未だに相変わらず新宿の現実なんだからしょうがない。主演の綾野剛はいかにも歌舞伎町界隈にたむろしていそうなちょっと情けないスカウトマン野郎のキャラを再現していたし、まさに沢尻エリカはずばり現実にいる風俗嬢を好演して嵌り役だった。
現代のじゃぱゆきさんを買う安田顕が怪演する主演代表作・吉田恵輔監督映画「愛しのアイリーン」
──嫁不足の日本人の農村青年と言うか中年(42歳)が仲介斡旋業者(女衒)を介してフィリピーナ(現代のじゃぱゆきさん!?)と結婚。見境なく催しオナニーする主人公が情なく、日本人として非常に恥ずかしいし、東南アジアの女性に対して大変申し訳なく思うけれど、最後には純愛とは何かということにも気付かさせてくれる傑作映画(原作は漫画)。
⇒慰安婦論1)慰安婦問題に関する日本国政府の公式見解の韓国語への試訳
⇒慰安婦論2) いわゆる「河野談話」への曲解を正す
⇒慰安婦論3)談話後の記者会見でも河野は…
⇒慰安婦論4)河野談話・英文テキストの分析
⇒慰安婦論5)日本警察による朝鮮人悪徳業者検挙の新聞記事
⇒慰安婦論6):慰安所設置の目的
⇒慰安婦論7):慰安婦の証言の信憑性〜イ・ヨンス
⇒慰安婦論8):慰安婦の証言の信憑性〜キル・ウォノク
⇒慰安婦論9):兵隊やくざと慰安婦
⇒慰安婦10) 慰安婦は性奴隷だったのか?
⇒慰安婦論11) 賃労働と奴隷労働
⇒慰安婦論12) 日本軍慰安所朝鮮人管理人の日記
⇒慰安婦論13) 朴裕河・『帝国の慰安婦』著者のスタンス
⇒慰安婦論14):李栄薫・『反日種族主義』編著者の歴史実証研究
⇒慰安婦論15):朝鮮における妓生と公娼制度の導入
⇒慰安婦論16):公娼制度の歴史と遊郭文化
⇒慰安婦論17):公娼制度・慰安婦制度と女衒の手口
⇒慰安婦論18):藤目ゆき・『性の歴史学』著者の学術研究と国際的支援活動
⇒慰安婦論19):千田夏光・『従軍慰安婦』著者の功罪と"慰安婦問題"
⇒慰安婦論20):ラムザイヤーによる慰安婦制度のゲーム理論的合理性の分析
⇒慰安婦論21):C・サラ・ソー『慰安婦問題論』〜タイトル詐欺!?
⇒慰安婦論22):倉橋正直・従軍慰安婦の売春婦型と性的奴隷型の2類型論
⇒慰安婦論23):小野沢あかね・公娼制の民衆史・国際関係史と日本人慰安婦⇒慰安婦論24):吉見義明の強制連行論
⇒慰安婦論25):ネット上に流布するコピペに対するAI評価+二日市保養所
⇒慰安婦論26)慰安婦関連公文書の解釈論争
⇒慰安婦論27):有村治子議員の慰安婦問題啓蒙政治活動と河野談話曲解
⇒慰安婦論28):辻元清美議員・慰安婦問題国会質問
⇒慰安婦論29)元慰安婦の算術、サックを知らない?あり得ない!
⇒慰安婦論30):「従軍慰安婦」等の表現に関する質問・政府答弁のAI分析
⇒慰安婦論31):オーラルヒストリー、元慰安婦らの証言と元兵士らの証言
⇒慰安婦論32)日本共産党・従軍慰安婦強制論へのAI反論
⇒慰安婦論33):貧困⇒女衒⇒娼婦
⇒慰安婦論34):文玉珠、慰安婦は高給売春婦だった!?
⇒慰安婦論35):AI女衒・遊郭・売春・立ちんぼ考
