慰安婦論11) 賃労働と奴隷労働
マルクス『賃労働と資本』の主要な論点
賃労働とは何か:労働力の商品化
マルクスは、資本主義社会における労働者は、自身の持つ唯一の商品である「労働力」を資本家に販売して生活している、とした。これは、労働者が特定の時間や作業のために自らの能力(労働力)を資本家の支配下に置く契約である。
賃金とは何か:労働力の価格
賃金は、販売された労働力という商品の価格であると定義される。他の商品と同様に、労働力の価格もまた、それを生産(維持・再生産)するために必要な費用、すなわち労働者とその家族が生活するために必要な食料、住居、衣類などの生活資料の価値によって決まる傾向があると論じられる。賃金は労働そのものに対する対価ではなく、あくまで労働力の価格であると強調される。
資本とは何か:蓄積された労働の支配力
資本とは単なるモノ(機械、原料など)ではなく、蓄積された労働が生産手段と結びつき、生きた労働力(賃労働)を支配し、自己を増殖しようとする運動体であると捉える。資本は、過去の労働の成果が現在の生きた労働力を支配する力として現れる、という点が重要視される。
賃労働と資本の関係性:対立と増殖のメカニズム
資本家は労働力を購入し、生産過程で労働者を生きた労働力として働かせ
る。この過程で労働者は、受け取る賃金の価値(労働力価格)以上の新たな価値(生産物)を生み出す。この、労働者が生み出した新たな価値のうち、賃金として支払われた分を超過する部分が、資本の増殖の源泉となる(後の剰余価値の概念に通じる)。
マルクスは、この関係が本質的に対立的であると指摘する。賃金の上昇は資本家の利潤を圧迫し、資本の増殖は労働者の労働力の価値を相対的に低下させる傾向があるからである。
資本主義の発展と労働者の状況
資本は絶えず自己増殖を目指し、競争原理の中で労働生産性を高めようとする。これは、機械化の進展や分業の細分化、労働者のより長時間・高密度の労働によって達成される。
こうした資本主義の発展は、皮肉にも労働者のスキルを不要にし、労働者を機械の付属物のような存在に変え、資本に対する労働者の従属度を強める、と論ずる。
また、資本の増殖が進むほど、資本家階級の富は蓄積されるが、それは労働者階級が生み出した価値を吸収することによって行われるため、両階級間の経済的格差や社会的な対立は深まると示唆している。
まとめ
『賃労働と資本』は、「労働者が労働力を商品として販売し、資本家がそれを購入して自己増殖を図る」という資本主義の基本的なメカニズムを解き明かそうとした著作である。マルクスは、この賃労働と資本の関係性が、一見公正な交換に見えながらも、労働者からの価値の吸収(搾取)を内包しており、資本主義の発展が必然的に労働者の境遇を悪化させ、資本家階級との対立を激化させる構造を持っていることを、当時の聴衆や読者に訴えかけた。
『資本論』に比べると理論的な厳密さは劣るが、資本主義の本質に対するマルクスの初期の洞察が分かりやすく示されており、彼の思想の出発点を理解する上で重要な著作とされる。
マルクスにおける「賃労働」の定義の核心:
「賃労働」の定義
マルクスは『賃労働と資本』の中で、資本主義社会の根幹にある「賃労働」を、以下のように定義し、その本質を明らかにしようとした。
「賃労働」とは、労働者が、自分自身ではなく、自身の「労働力」という特定の商品を、特定の期間、資本家に対して販売し、その対価として賃金を受け取る形態の労働である。
ここで最も重要な点は、労働者が売るのは自分自身という「人間」ではなく、あくまで一定期間にわたる労働する能力(労働力)である、ということだ。
「奴隷労働」と「賃労働」の決定的な違い
売買される対象
奴隷労働: 売買されるのは、労働者自身の「人格そのもの」。奴隷は主人の所有物であり、財産として売買される。
賃労働: 売買されるのは、労働者自身の「労働力(労働する能力)」という商品。労働者自身は売買されず、自己の人格や自由は形式的には保持される。
所有権:
奴隷労働: 労働者の身体、能力、そして労働の成果の全ては主人の所有物である。
賃労働: 労働者は自身の労働力の所有者である。契約に基づき一定期間労働力を提供するが、労働者自身の身体や労働の成果の所有権は、契約外では労働者自身に帰属する(ただし、生産過程で生み出された価値は資本家のものとなる)。
関係性の期間:
奴隷労働: 主人と奴隷の関係は、基本的に永続的な隷属関係である。
賃労働: 資本家と労働者の関係は、契約に基づいた特定の期間(一日、一週間、一年など)に限定される関係だ。契約期間が終われば、関係は終了する。
報酬:
奴隷労働: 労働の対価として賃金を受け取るのではなく、主人から生存に必要な最低限の衣食住が提供されるのが一般的。
賃労働: 販売した労働力という商品の価格として「賃金」を受け取る。賃金は、労働者とその家族が、次の労働のために労働力を回復・再生産するために必要な生活資料の価値によって決まる、とマルクスは考えた。
したがって、賃労働は奴隷労働とは異なり、労働者は法的には自由な個人として扱われ、自らの労働力を売るか売らないかの契約の自由がある、という形式をとる。これが奴隷労働との決定的な違いである。
「売春婦が史上初の賃労働者」説について
「売春婦は史上初の賃労働者」という考えは、マルクス自身の著作というよりも、彼の盟友であるフリードリヒ・エンゲルスがマルクスの死後、執筆を受け継いだ著書『家族、私有財産、国家の起源』の中で展開した議論に基づいている。
エンゲルスは、家父長制的な家族制度や奴隷制が支配的だった時代において、女性が自身の性的なサービスを提供する際に、近代的な賃労働に類似する関係性が見られたと指摘した。
類似点とされる側面:
契約形式: 家父長制下の女性が家族のために行う無償労働とは異なり、個別の男性との間で、特定の行為(性的なサービス)に対して、個別の交渉や契約によって対価(金銭など)を得るという形式。
労働力の切り売り: 女性自身の身体的能力(性的な労働力と見なせる側面)を、期間や行為を区切って提供し、その対価を得るという点。
家父長制からの形式的な独立: 家父長制的な家族の枠組みや支配から外れ、自らの意志で(経済的必要性からではあっても)サービス提供の契約を結ぶという点。
エンゲルスがこの説を唱えたのは、家父長制や奴隷制といった旧来の労働形態や社会関係から、近代的な「労働力の商品化」という形態への移行・原型を捉えようとしたからだ。女性が自身の身体的な能力を自己の意志で、期間を限って販売し、その対価を得るという側面が、後に資本主義社会で労働者が自身の労働力を販売する形態に類似していると考えたのである。
ただし、この説は、あくまで近代的な賃労働契約の「原型」や「類似性」を指摘したものであり、マルクスが『資本論』で詳細に分析した、資本による労働力の購入を通じた価値生産と剰余価値の創出、という資本主義的な生産様式における賃労働の定義が、売春にそのまま完全に当てはまるかについては議論の余地がある。マルクスの賃労働論は、労働者が生産過程で新たな価値を生み出し、それが資本増殖の源泉となる、という資本主義に特有の構造に焦点を当てているからだ。
つまり、「売春婦が史上初の賃労働者」説は、賃労働という形態が持つ「個人の能力を、期間や対価と引き換えに、契約に基づいて提供する」という側面に注目したものであり、奴隷制下での労働や家父長制下の無償労働とは異なる、近代的な労働力の商品化の萌芽を見出そうとした議論である、と理解するのが適切だろう。
賃労働における「自由」と「不自由」
賃労働者は、奴隷とは異なり、法的には自由な個人である。労働力を売るか売らないか、誰に売るかを選ぶ権利がある。しかし、マルクスは、労働者が生活のために自身の労働力以外に売るものを持たない場合、労働力を販売せざるを得ないという経済的な強制に服していることを指摘した。この意味で、賃労働者の自由は形式的なものであり、資本家との関係においては、労働者は常に経済的な力関係の中で弱い立場に置かれやすい構造がある、と分析した。
このように、マルクスの「賃労働」の定義は、単に「賃金をもらう労働」という表面的な理解を超え、資本主義的な生産様式における労働力の商品化とその根底にある対立構造を深く分析しようとするものである。
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