【新しい文字!】益子禅一朗:《アセミック一文字詩》の書評(或いは、讃美) [投稿募集!! 新しい文字を作って!]1
はじめに
はじめに
僕の最愛の noter の一人・益子禅一朗さんが天才に成られました。『笑芸』なる「笑いの文学」において最も芸術的なものを書かれました。それが本記事で紹介する、“新しい文字” であるところの《アセミック一文字詩》です。
全体構成
本編に入る前に、この記事の全体構成について簡単に書きます。
本記事は長くなるので(冒頭の益子さんの記事引用だけで すでに長い!)、3つの記事に分けます。
本記事(=「1」)では、益子さんの《アセミック一文字詩》シリーズの紹介や特徴・魅力・芸術性や鑑賞法・読解について書いていきます。
そして、次の記事(=「2」)では、益子さんの《アセミック一文字詩》シリーズの55文字を僕も書いてみます!
その次の記事(=「3」)では、《アセミック一文字詩》を使って四字熟語や五七五や詩を作ります! また、僕の個人企画「#初代王天君の企画」として「新しい文字を作って!」という投稿募集もするので、お楽しみに!
※最近、僕は長い記事ばかり書いているのですが、ようやく記事を分けるということを思い付きました。念のため(?)、その数万字の記事達を新しい順で挙げてみます――
益子禅一朗さんとの出会い
最初の出会い
さて、まずは、益子禅一朗さんとの note での出会いを簡単に書きます。
僕が最初に読んだ益子さんの記事が こちらです――
「木の幹のまま、逃げてきました【駄洒落小咄】」(2025年6月23日)。この記事は #創作大賞2025 #オールカテゴリ部門 で検索していた時に見付けたのですが、ある慣用句の駄洒落・もじりから作った小咄です。僕も言葉遊びが好きで《だだぁ・ぐぅす》という子供向けの作品も書いているので、💗スキしたところ、益子さんも僕の記事を読みに来てくださいました。そして、なんと、「#初代王天君の企画」に参加してくださいました! その書いて頂いた記事が こちらです――
「《ぬん学》とは何か?【空想的企画投稿】(短歌・民俗・ヌントロピーほか)」(2025年7月5日)。「#初代王天君の企画」の第4弾・「〈ぬん学〉って何?」に挑戦してくださいました!
この作品は とても素晴らしく、「ぬん学」なる似非学問を網羅的に紹介してあり、立派な「ぬん学」入門です! 「ぬん学」について知りたい方は まず こちらを読んでください、といったもので、第1回〈ぬん学〉賞を授与させて頂きました!
現在、「#初代王天君の企画」は そこそこ人気となり77名302作の応募を戴いているのですが(#ファトラジーが主ですが)、その「#初代王天君の企画」の記念すべき最初の投稿者が益子禅一朗さんです! その1発目の作品「《ぬん学》とは何か?」が非常に素晴らしく、それ以来、仲良くさせて頂いております。
その後の交流
また、他にも多くの企画に参加してくださっています。それらを挙げてみます――
このように、益子さんは「#初代王天君の企画」に初期から多く参加してくださっていて、直近では下2つの記事がそうですが、《だだぁ・ぐぅす》の “世界一むずかしい早口言葉”・第3弾にも挑戦してくださいました! そうして、益子さんは僕の最も交流の深い方の一人であり、才能・創作力に溢れた方です。
※益子さんや他の方の全作品(77名302作)の紹介・感想は次の記事に まとめてあります――
もちろん、僕の意味不明な企画なんか ではなく、きちんと天下のNHK様から短歌を認めてもらって もいます――
「N短結果──入選五首」(2026年3月29日)。第27回NHK全国短歌大会で五首が入選したそうです! 凄いですね! 他にも――
第45回全日本短歌大会で高山邦男選者賞を受賞したり――
様々なところで入賞・入選していらっしゃるそうで、益子禅一朗さんは実力者です。
そんな益子さんが何を思ったのか急に、“新しい文字” であるところの《アセミック一文字詩》を作り始めました。それが本記事の主役なのですが、益子さんの《アセミック一文字詩》を紹介する前に、note には もう一方、#アセミックライティング をされている方がいらっしゃるので、この聞き慣れない「アセミック・ライティング」という言葉・概念・芸術の参考のために ご紹介させて頂きます――
Miho SASAKI | Mihographia さんの
“未字”
Miho SASAKI | Mihographia さん
そのアセミック・ライティングを行なっている方は、Miho SASAKI | Mihographia さんです――
Miho さんは生徒さんにも書を教えていらっしゃるプロのカリグラファーさんです。Miho さんは ご自身の書を「未字」と呼ばれていて、その作品や定義や制作過程・思考を記事にされています――
これらの記事に掲載されている未字は非常に美しく洗練されていて、さすがはプロのカリグラファーさんの作品です。線が主体で、柔らかく温もりのある曲線が多く、ときに植物のようにも見えます。画数や線的モティーフも多く、これを文字と知らずに見たら絵だと思う人もいるはずです。
「未字」
それは文字でもなく、絵でもない。
けれど確かに
何かの気配を宿している。
私はそれを
「未字」と呼んでいる。
まだ文字になっていない文字。
まだ言葉になっていない言葉。
こうあるように、「文字でもなく、絵でもない」、しかし「何かの気配を宿している」文字が未字であり、文字未満の「文字」・言葉未満の「言葉」だそうです。また――
言葉になる前のものがある。
それはまだ意味を持たず、ただ線として現れる。
未字は「言葉になる前のもの」であり、「ただ線として現れる。」 僕も昔、人間の “言語以前” の世界について考察したことがありますが(何故そんなことを したのかは さておき)、それは言葉・意味によって枠化・括られる前の、モノとモノの境界・境目の無い未分化の世界でした。(「私」という言葉が無ければ「他者」という存在も立ち上がらず、〈私-他者〉の境界の融解となります。) Miho さんも その言葉-意味以前の世界を捉えようとしていらっしゃるのかと思いますが、Miho さんは それを “線” として表現されています。
精神・無意識の表出
では、Miho さんは どのようにして未字を描いていらっしゃるのか? その初めの実験のような体験も書かれています――
〔……〕瞑想のあとに書いてみる、「何かを描こう」と意図せずに、作為なく出てくるものに委ねて描いてみることをしてみたら、今までの私の表現に近いものが、でも、予期しないもの、が出でくることに出会った。
現在、Miho さんは冷水シャワーを浴びて瞑想をした後に描くという求道者の如き制作をされているそうですが、その瞑想の後に「作為なく出てくるもの」があり、「予期しないもの」ではあるが「今までの私の表現に近いもの」だそうです。これは僕は知っています。『笑芸』なる「笑いの文学」にとっては馴染みの深いもので、今までに何度 読んだか分からないアンドレ・ブルトンのシュルレアリスム論です。その彼の有名な定義を載せます――
シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。
ここには「理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり」と書かれていますが、簡単に言ってしまえば、何にも制限されることなく心から湧き出るものを そのまま書き留める、ということです。(それが自動記述であり、シュルレアリスムです。)
※シュルレアリスムや自動記述については以下の記事で まとめて あります――
そのシュルレアリスムは夢・無意識を標榜し人間の精神の全的解放を目指しましたが、Miho さんも心に自然と浮かび上がってくる線を記録していらっしゃるのだと思います。
ジョアン・ミロ《世界のはじまり》
シュルレアリスムの開始は今のブルトンの『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』によってであり、その始まりは文学でした。しかし、彼等は言葉・意味に囚われていました。(彼等の文学は すべて文字で書かれています。) その点では、それ以前である夢や無意識には到達できませんでした。
彼等が標榜した夢・無意識に最も近づいたのは、 僕が思うに、ジョアン・ミロの《世界のはじまり》(1925年)です。世界的に有名な この画家もシュルレアリスムの影響を強く受けていて、その中心メンバーの一人でしたが、《世界のはじまり》は夢の捉えどころの無さ・捉え難さを よく表現しています。この作品は、絵というよりは線と何かしらの記号と絵具の染みですが、どのモティーフも言語化し難く、名指しできるものは赤・白の丸と黒い三角と黄色・黒の線くらいです。しかし、それほど言葉による枠化を免れており、合理的に意味を説明するのも難しいです。この作品は、暗く絶望的ではあるものの、Miho さんの未字と近しいもの であるはずです。また、この《世界のはじまり》について、次のような解説もあります――
ミロは、困窮の暮らしの中、空腹による幻覚をスケッチしました。〔……〕ミロは自分の内面に存在する純粋なイメージを忠実に再現したのです。
このように、《世界のはじまり》はミロの幻覚のスケッチであり、「自分の内面に存在する純粋なイメージを忠実に再現した」ものだそうです。これ以上シュルレアリスム的な作品はありません。(その絵ですらも多くのデッサンがあるそうですが。)
そうして、シュルレアリスム芸術と未字とは、「作為なく出てくる」「私の表現に近いもの」という点で通底します。また、「言葉になる前のもの」という点でも。
益子禅一朗:アセミック一文字詩
《無題 ──アセミック一文字詩》
では、益子禅一朗さんのアセミック・ライティングは如何なるものか? ここから、それについて書いていきます。
まずは、その作品記事を載せます――
※本記事の益子禅一朗さんの作品画像は、ご本人の許可を戴き編集・引用・掲載させて頂いています。
※タイトルの括弧の表記について。記事タイトルは 「 」 表記としますが、その作品自体は 《 》 表記とします。理由は、《 》は音楽や美術作品に用いられますが、書も美術作品として扱われるべき だからです。もう一つ理由があり、文学作品のタイトルには『 』が用いられますが、それらの多くは活字です。活字の作品と手書き・書作品とを区別するために、書作品に対しては 《 》 を使用します。
※全記事に共通する「──アセミック一文字詩」という表記は、文脈によっては割愛させて頂く場合があります。
この作品《無題 ──アセミック一文字詩》(2026年3月2日)が益子さんの最初のアセミック・ライティングです。そして、その書を載せさせて頂きます――

いかがですか、この怪しくて異様で奇妙で謎でW・カンディンスキーの《Composition》のような終末感さえ感じる未知の文字は!? 素晴らしいですよね! 僕は非常に感動したため、チップも お渡ししました! そして、後でも書きますが、この作品の実物を購入しました! この作品が益子さんの記念すべき最初のアセミック・ライティングです!(また、本記事のサムネイル画像に使用した文字です。)
「アセミック・ライティング」とは?
ところで、ここまで「アセミック・ライティング」という言葉について説明していなかったので、以下で説明します。
「無題 ──アセミック一文字詩」で益子さんが Asemic writing に関する Wikipedia を紹介されているので、それを載せます――
アセミック書体は、言葉を使わない開義的な書き方の形式です。asemic /eɪˈsiːmɪk/ は「特定の意味内容がない」または「最小の意味単位を持たない」という意味です。
このように、「特定の意味内容がない」書体が「アセミック書体」だそうです。また、益子さん自身による訳では――
アセミック・ライティングとは、 言葉を持たない “開かれた意味” をもつ書きの形式である。
こうあるように、ひとまずは「意味を持たない文字」と言えそうです。
アセミック・ライティングを始めた きっかけ
では、我らが益子禅一朗さんは何故こんなものを書き始めたのでしょうか? 「無題 ──アセミック一文字詩」では こう書かれています――
最近、詩を書いていません。
正確に言えば、書けずにいます。
本業の忙しさの中、言葉を編むだけの時間を持てていません。
その代わりに、
僕は墨を置くようになりました。
言語野を一時シャットアウトし、
線を引く。
滲ませる。
余白を残す。
それから、ふと考える。
──これは、詩ではないのか。
詩人・益子禅一朗さんは実生活の忙しさのために詩が書けなくなっていたそうですが、その代わりに「墨を置くようになりました。」 そして、「言語野を一時シャットアウトし」て出来た線や滲みや余白を「詩ではないのか」と問われています。
詩とは?
そして、その後に「詩とは何だろうか」と、詩を巡る考察や作品参照に入っていきます。そこで、有難いことに、僕の一行詩も挙げてくださいました。次のものです――

この一行詩について、益子さんは「もはや日本語ですらない文字列」ではあるが、「それでも「一行詩」と呼ばれている」と書いてくださっています。同時に、ファトラジー[綺想詩]についても思い起こしてくださったそうです。益子さんは その作品を挙げていないのですが、性質的に次の作品だと思います――

この文字群について ここで説明することは できませんが、これも “未知の文字” であり、先に挙げた益子さんの《無題 ──アセミック一文字詩》と同種であることは感じて頂けると思います。
※これらの2作は、僕の笑芸作品第4番『もし君に脳の電荷を神に手渡し、あなたはどう?』で使用したもので、他に何十ページ分もあります。勇気のある方は ご覧ください――
また、その有料 PDF ファイルも益子さんに差し上げました。
そして、益子さんは問われます。詩とは――
言葉の並びか。
意味をもつものか。
読めるものか。
「まだ名づけられない感覚」
草野心平さんの「冬眠」という作品も挙げた後に、こう書かれています――
僕は今回、「まだ名づけられない感覚」を一文字で書きました。
「まだ名づけられない感覚」、これを益子さんは書かれたそうです。また、こうも書かれています――
言葉を使わずに、言葉以前へ戻る感覚。
「言葉以前へ戻る感覚。」 先に Miho SASAKI | Mihographia さんの未字を紹介しましたが、Miho さんも「言葉になる前のもの」を捉え、「まだ文字になっていない文字」「まだ言葉になっていない言葉」を “未字” として書かれていました。益子さんも同様に、「そもそも文字と言えないかもしれない」(同前)が、言葉によって「まだ名づけられない感覚」を書-描かれたそうです。アセミック・ライティングとは こういうもの だそうです。
“一文字詩”
そして、注目したいのが、益子さんがアセミック「ライティング」ではなく、アセミック「一文字詩」と名付けられていることです。“詩” なのです。一文字の。その一文字に益子さんの「まだ名づけられない感覚」が表現されていて、その線や滲みや余白が詩なのです。それらは言語化や合理的な説明・理解はできない かもしれませんが、「詩は」と益子さんは言われます――
詩は、意味を固定して閉じるものではなく、開くための鍵。
読む者に委ねる装置。
この言葉はアセミック一文字詩の読み解きに関わってきますが、「意味を固定して閉じるものではなく、開くための鍵」が詩だそうです。先にアセミック・ライティングを「意味を持たない文字」としましたが、これだけでは不十分なようです。「意味を持たない」だけではなく、意味を「開く」という要素・志向も必要です。
しかし、それについての説明は骨が折れるので、後で、「ダダ」と呼ばれる20世紀の反芸術運動や同時代の前衛文学派「ロシア未来派」の唱えた “超意味” といった概念と絡めて試みます。
次章から、他の《アセミック一文字詩》の紹介や書評をしていきます――
《無題――アセミック一文字詩》シリーズ
~“益子文字”~
55作‼
上で紹介したのは最初の1作目だけでしたが、現在は55作あります! それが冒頭の記事達です。大量に書-描かれています!
※本記事は #創作大賞2026 の #創作大賞感想 として書いているので、益子禅一朗さんの作品の掲載・紹介は その期限の2026年7月8日までの ものとします。)
最初の作品《無題 ──アセミック一文字詩》が書-描かれたのが2026年3月2日ですが、そこから本記事執筆時点までに ほとんど毎日書-描かれています。一体 何を考えていらっしゃるのでしょうか?
タイトルは すべて「無題」と付けられ、ローマ数字で番号が振られています。例えば Ⅱ や Ⅳ や Ⅺ や ⅩⅨ 等ですが、現在では数が増えすぎていて、「XLVII」という数え方の分からない ものも出てきています。一体 何を考えていらっしゃるのでしょうか?
しかし、今後さらに増えていくそうです。「無題ⅩⅣ──アセミック一文字詩」のコメント欄では こう書かれています――
とりあえず9の倍数で、まずはアルファベットを超える27文字を目指して、いずれは108個できたらいいなと思っています(笑
「9の倍数で」構成される予定で、当分の目標は「108個」だそうです。(「笑」とも付けられています。) 益子式呪術ですね!
※益子さんはオリジナルの呪符を作られていたり、真言が お好きで悉曇文字を書き写していた時期もあるそうです(「無題Ⅳ──アセミック一文字詩」のコメント欄)。念のため、その悉曇文字を載せてみます――

『もし君に脳の電荷を神に手渡し、あなたはどう?』で
作成した文字一覧より
このような文字を好んで書き写していた という益子禅一朗さんは、真性の変態です(!)。
《無題》というタイトル
タイトルは すべて《無題》ですが、その理由について、益子さんは こう書かれています――
意味を固定したくないため、あえてタイトルは「無題」としています。
「意味を固定したくない」との思いから、タイトルは《無題》とされているそうです。先に「言葉以前」や「まだ名づけられない感覚」や「詩は、意味を固定して閉じるものではなく、開くための鍵」といった益子さんの言葉を引用しましたが、タイトルにも その念が込められているようです。
“益子文字” の実例
さて、ここから、《無題――アセミック一文字詩》シリーズ――通称(というより僕が勝手に呼び始めた)・“益子文字” ――の実作を いくつか挙げます。1作目以降、どのような文字が書-描かれているでしょうか? ぜひ感激してください――




















いかがでしたか、“益子文字” は?
素晴らしいですね💖💞💘❤️🔥
こういったものが “益子文字” です!
この種類の豊富さ・多様性・ユニークさを伝えるべく20作ほど載せさせて頂きましたが、これくらいの数を観ていると、きっと “異世界” へ迷い込んだ感覚になったと思います。この益子文字の特徴や魅力・面白さや「笑いの文学」における芸術性を、以下で書いていきます――
※他の益子文字も観てみたい方は、次の益子禅一朗さんのマガジンに まとめてあるので、ぜひフォローして ご覧ください――
益子さんの記事では、各文字が額装されて益子さんのオシャレな部屋の専用展示スペースに飾られています。
“益子文字” の特徴
上で挙げたものを観て感じた方も多いと思いますが、益子文字の特徴について書いてみます。
益子さんは「文字と言えないかもしれない」と言われていましたが、その多くは漢字がベースになっているようです。例えば、偏や旁があったり、冠や脚があったり等です。そういった上下左右の構成は かなり漢字的です。実際、何かの漢字に似ている部分もままあります。また、ひらがなやアルファベットや記号に見えるもの もあり、日本で一般的に扱われる文字感は残っています。
しかし、そういった文字の枠組みを超えて、絵に見えるものもあります。それは何かの動物であったり植物であったり純粋な記号であったりしますが、それも “益子文字” です。なお、僕の印象ですが、特に後半の作(最新作)になるにつれて、漢字的構成から解き放たれ、アルファベットや他の文字体系とも違う、自由なつくりになっているように感じられます。そして、その分だけ独創的です。
また、種類も豊富で、様々な形が試されているようです。どれもユニークであり、ユーモラスなものも多いです。そういったものは線が柔らかかったり どこか抜けていたり妙にうねったり妙な角度が付いたりしています。踊っているように見えるものもありますし、ミロやカンディンスキーも描いていたような有機的で愛らしいキャラクターチックな文字もあります。
しかし、荒々しく暴虐的な激しいものもあります。先ほど、「Miho さんも心に自然と浮かび上がってくる線を記録していらっしゃる」と書きましたが、益子さんの場合も そうであり、その時々の精神状態が反映されていて、益子さんの “生の表出” となっているのだと思います。
“益子文字” の魅力・面白さ
そのような益子文字ですが、何と言っても、形が面白いです。多くの文字が漢字の形をベースにしていながらも、ひらがな やカタカナや漢字等の日本語系の文字には無い線や動きをします。やけにくねったり、変な所から線が出てきたり交叉したり、ハネやハライが異様に強烈だったり(またフラクタル的に整っていたり)、線が妙に長かったり伸びていたりと、日本語系からしたら常に予想外の動きをしていて、新しい作品を観る時はいつも笑ってしまいます。
益子文字には音・発音・読み方の想定なんて されていませんし(「無題 ──アセミック一文字詩」)、意味の読み解きも厄介ですが、一筆一筆が新しい文字の創造であり、一筆一筆が世界開闢です。文字自体が非常に面白く魅力的で、それだけで十分に鑑賞対象になります。益子文字は第一義的には、その造形の面白さを愉しんだらいいと思います。
筆で書-描く意義
益子さんは その文字を筆で書-描かれていますが、筆で書-描く意義についても触れてみます。
まずは、益子さんがボールペンでメモ的に書-描かれたスケッチのようなものがあるので、それを いくつか挙げます――





最初の《無題Ⅵ》と最後の《無題Ⅹ》は先にも挙げたものですが、ボールペンでは このように書-描かれるようです。ぜひ筆で書-描かれたものと見比べて頂きたいのですが、どのような違いがあるでしょうか?
《無題Ⅵ》と《無題Ⅹ》で考えてみます。字形はボールペンで書-描かれた方が整っているようにも感じますが、しかし、力のようなものは筆の場合の方が強く感じられます(時には文字のバランスを崩してしまうほどに)。特に《無題Ⅹ》では、荒々しさや厳しさ・険しさや硬さが よく表れています(まるでそそり立つ岩の壁のような)。ボールペンの場合には そういったものは あまり表れていません。また、《無題Ⅵ》の場合も、柔らかさであったり丸みであったり温もり・温度であったりと、筆の場合の方が表現されている・伝わってくるものが多いように感じます。生の波動や揺らぎのようなものは、太く柔らかく動きの自由度の高い筆の方が表現・反映しやすいのだと思います。
ちなみに、僕も益子文字を書-描いてみましたが(その画像は次の記事=「2」で載せます)、ボールペンでは全く書-描けませんでした。益子文字の独特のうねりや力の入抜・強弱や柔らかさや温度等を、ペン先が固定されているボールペンでは表現しきれないのだと思います。益子さんが筆で何かを久しぶりに書いたのは《みを【抽象水墨画】》(2026年2月12日)だそうで小学生以来とのことですが、益子文字を筆で書-描いて正解だと思いますし、益子文字は筆で書-描くべきです。
創作過程・試行錯誤・バリエーション
しかし、そういった線や形を出すのに苦労や実験もされているようです。それについても書いておきます。
創作過程
まずは、創作過程について。益子文字は最初はペンで書-描かれますが、益子さんは次のように言われています――
仕事の合間にぼんやり浮かんできた線を、意味が定まる前に
まずはメモ帳にペンでアセミック・ライティングとして書き留め、
そこから筆にて起こしている感じです。
こうあるように、益子文字の最初の段階はペンでのメモだそうです。(「仕事の合間にぼんやり浮かんで」くるというのは偉いです。) そして、それらの文字も多くあります。DMで送って頂いた画像を載せます――






このように、様々な文字を大量に書-描かれています。こんなノートを親か恋人に見付かったら精神を疑われるでしょうし、警察か CIA に見付かったらスパイとして連行されますし、呪術師に見付かったら「神」と崇められますし、実在しない植物や架空の文字で書かれたヴォイニッチ手稿 愛好家に見付かったら「益子ニッチ手稿」と呼び愛でられますし、宇宙人に見付かったら「同士」と認められますが、「時間さえあれば、こんな感じで書き殴ってます(笑)」とのことです。一体 何をされているのでしょうか? 益子さんは変態ですね!
また、ボールペンで書-描いている動画も撮ってくださったので(僕がお願いして)、それも載せます。《無題Ⅹ》と《無題ⅩⅩⅩⅡ》です――
《無題Ⅹ》は3回、《無題ⅩⅩⅩⅡ》は1回 書-描かれていますが、どの文字も書-描く際に迷いのようなものがあるのが印象的です。サラサラとスムーズに書-描くのではなく、一文字・一筆ごとに立ち止まっていて(ペンも何度も持ち直して)、何かを探っているかのようです。自分の表現にしっくりくるところを探しているのかもしれません。(黒革のグローブはカッコイイですが。)
そして、その《無題Ⅹ》を筆で書-描く動画も撮ってくださいました(僕がお願いして)! こちらです――
動画というのは情報量が多く参考になるものが たくさんあるのですが、先のボールペンの場合に比べると、迷いが無くなっており、何かを決意したかのように勢いよく力を込めて一気呵成 然として書-描いています。そして、その筆致です。もう一度《無題Ⅹ》を載せます――

この力強さ・荒々しさ・硬質さ となります!
また、筆も面白いものを使われていて、ご友人から貰った「孔雀筆」というものだそうです。動画では筆先が割れるくらいに強く書-描かれていますが、そういった道具も文字の表現に重要となっていきます。(書の世界は深いです!)
他にも、書き順とか、益子さんの手足の血管とか、画面左に映り込んでいる謎の黒い物体とかも気になりますね!
完成条件
このような文字を書-描いて発表するのに、僕は一発書きで完成させていると思っていたので、「筆で書く時は一発書きですか? 何回か書き直し やバリエーションがありますか?」とお訊きしたところ、次のように お答え頂けました――
書き方としては、まずボールペンでメモに大量にいろんな線を書きます。
そこで文字っぽくなってきたものを、今度は筆で書いていく感じです。
ただ、自分の中で「特定の言葉や名前が浮かんだもの」や、「なんとなく説明的な線になったもの」「作為が出すぎているもの」はボツにしているので、一発書きのときもあれば、かなり紙を消費するときもあります😂
このように、「特定の言葉や名前が浮かんだもの」「なんとなく説明的な線になったもの」「作為が出すぎているもの」は除かれているそうで、「一発書きのときもあれば、かなり紙を消費するときもあります😂」
「😂」という絵文字を使われるほど書-描き直しをされているそうですが、そう考えると、あの文字量(55文字!)をほとんど毎日 書-描くというのは相当な創作量と情熱です。(それが益子さんの一番 凄いところ かもしれません。)
また、次の《無題XLII》について――

小さな羽根1つをピン1本で留めただけのミロのコラージュ《スペインの踊り子》(1928年)を想起してしまう この文字を完成と認めたのは、次の理由からだそうです――
〔……〕この文字は縦線が細くて、書としては少し不格好に見えるかもしれないと思ったのですが、力が抜けていて、作為があまりなかったので、これはこれで良いかなと思いました。
ここでも「力が抜けていて」「作為があまりなかった」ことが選択要素となっているようです。
そして、そういった完成条件がありつつ――
その中で、意味以前の「文字のようなもの」として立ち上がってくれたときが、一番面白い気がしています。
※本記事の制作中に、益子さん自身が創作過程や《アセミック一文字詩》と書に対する考えを書かれたので、ぜひ参考にしてください――
“益子文字” のバリエーション
先の「何回か書き直し やバリエーションがありますか?」という質問に対して、バリエーションの例も戴いたので、その画像を載せます。まずは、バリエーションではない(主題の?)文字・《無題XLIII》を挙げます――

この五線譜か音楽記号のような文字には3つのバリエーションがあるそうなので、それらを載せます――



それぞれ微妙に違うのが分かるでしょうか? 主題の文字に比べて、線やはみ出しが少なかったり、曲線やうねりが強かったりしています。このように、「1つ」の文字でも いくつも案があるそうです。
“ことのね”
先日、益子さんは《アセミック一文字詩》の核心的な詩論を書かれたので、それを紹介します――
「ことばを書く前に、ことのねを聴く──僕にとっての墨と声」(2026年6月26日)。ここでは、「ことのね」という言葉を「言の根」と「事の音」という風に解釈されています。(さすがは歌人で、日本的風情のある言い方をされます。) そして、こう書かれます――
完成した言葉ではなく、言葉になる前のひびき。
意味として固まる前の震え。
名前を持つ前の気配。
僕はたぶん、「書く」より前に、ことのねを聴こうとしているのかもしれません。
アセミック一文字詩は、その意味で、言葉になりきる前のしるしです。
このように、《アセミック一文字詩》は言語・意味以前でありつつ、益子さんは「「書く」より前に、ことのねを聴こうとしている」のだそうです。そして、こう書かれます――
線は、僕自身を描いているようで、ほんとうは「僕より少し奥にあるもの」を通している気がします。
「僕より少し奥にあるもの」。そのような根、「「ことのは」の前の「ことのね」を聴く」のが益子さんの《アセミック一文字詩》であるようです。或いは、“言霊の震え” として捉えようとしているのです。
ところで、先の書-描き直しについて、DM では益子さんと色々お話しました。そこでは、多くの書家(や種々の芸術家)が1作に対して何十・何百・何千枚も書き その中から(時間を掛けて)たった1つを選ぶ、ということを確認し合いました。また、「作為/無作為」や「偶発性」や「筆を入れる瞬間の一回性」という要素も《アセミック一文字詩》にはあるそうで、「まだ自分でもいろいろと探っている途中」と保留されていますが、いくつもの書-描き直しやバリエーションによって、益子さんは自身の “ことのね” を聴こうとしているのかもしれません。
絵か文字か?
さて、ここまで益子文字を観てきて思った人も多いはずですが、益子文字は絵なのでしょうか? 文字なのでしょうか?
これは非常に難題なので、さらに大きな問いで問い返してみます。それは、「絵とは何か? 文字とは何か? 或いは、どこから どこまでが それらなのか?」です。が、それについては この小記事で扱えきれはしないので、多くの益子文字のベースとなっている漢字から考えてみます。
欧米のアルファベットは「表音文字」であり音を表していますが、漢字は「表意文字」であり意味を表しています。簡単な例を挙げると、口は「👄」を、目は「👁️」を、木は「🌲」を、火は「🔥」を、水は「💦」を、魚は「🐟」を、月は「🌙」を表しています。そして、それらが旁や偏となって さらなる意味を付与します。しかし、これらはかなり絵的です(また具体的です)。
そこで思い付くのが、象形文字です。古代文字である象形文字も多くが物や人を象っていますが、度々何かの動物や植物や動き や表情のように見える益子さんの《アセミック一文字詩》は、“益子式 象形文字” とも言えそうです(なんとロマンのある!)。
《墨象アート》
ところで、益子さんは《アセミック一文字詩》の類作とも言える《墨象アート》というものも描かれています。参考のため、いくつか挙げさせて頂きます――




素晴らしいですね💖💞💘❤️🔥
この真にアーティスティックな《墨象アート》は、《アセミック一文字詩》とは異なり意味深なタイトルが付けられていますが、作品自体は かなり抽象的で、力そのものの放出・表現のように感じられます。
そして、「《アセミック一文字詩》と《墨象アート》の違いは何か」と お訊きしたところ、次のように お答え頂きました――
アセミック一文字詩は、
「読めないけれど、文字として立ち上がる一字」
「文字の霊」
「未分化の言葉」 のようなものだと感じています。
墨象アートは、
「文字に限らず、墨の運動や気配そのものを描く抽象表現」 でしょうか🤔
前者は文字性、後者は造形性が軸ですが、境界はかなり近いと思っています。
こうあるように、益子さん自身も「前者は文字性、後者は造形性が軸ですが、境界はかなり近いと思っています。」
「文字性」は漢字で言えば偏・旁・冠・脚等の構成であり、ひらがな やカタカナやアルファベットや数字等もそうであり、それらが感じられたら「文字」と捉えられるでしょうし、「造形性」は絵的なものです(文字性の希薄な)。しかし、それらの「境界はかなり近い」。また、益子さんは こうも言われています――
象形文字はまさに、「絵」と「文字」の境にありますよね。
そうして、《アセミック一文字詩》は「「絵」と「文字」の境」に位置しているのかもしれません。或いは、それさえも未分化な地点へ立ち還っているのかもしれません――「絵か文字か」という問いが意味を成さなくなる地点まで――。
pisat'[ピサチ]
ところで、ロシア語には pisat'[ピサチ]という言葉があり、これは「描く」と「書く」の両方を意味するそうです。ジャン=クロード・マルカデ著『マレーヴィチ画集』(五十殿利治訳、リブロポート、1994年、p.102)には こうあります――
ロシア語では「描く」と「書く」が同じひとつの動詞 pisat'[ピサチ]で表現される。この混在は筆記が情報を伝達するために、あるいはごく単純に世界の神秘的な諸力との魔術的な関係に役立つために、必然的に絵文字であった時代の表象行為の源初的な状態について証言している。
『笑芸』なる「笑いの文学」の先祖的存在である “ロシア未来派” の最大の巨匠の一人K・マレーヴィチの画集に書かれている通り、動詞 pisat'[ピサチ]は「描く」と「書く」の両方の意味を持っていて、「必然的に絵文字であった時代の表象行為の源初的な状態について証言している。」 ここでも「文字」による表現の源初性について触れられています。
それを受けて僕も「書-描く」という表記をしてきましたが、益子さんも《アセミック一文字詩》に対して「書く(描く)」という表現をされており、益子さんは “ことのね” を pisat' しているのだと思います。
書を読む=“読書”
そうして、改めて《無題 ──アセミック一文字詩》を観てみましょう――

現在この作品を所有しているのは益子さんではなく僕であり、後で僕が撮った写真も載せますが、本記事で最初に挙げた時と今とでは、感じ方が変わったでしょうか? 何か少しでも変わっていたなら、その分だけ《アセミック一文字詩》を「理解」したことになると思います。
絵と文字の臨界が融解して その未分化な地点まで降り立ったのが《アセミック一文字詩》であり、形や線そのものが「意味」です。その力の具合(波動や揺らぎ も含めて)=墨模様を感じてください。そのように書を読むのが “読書” です。或いは、益子さんの “ことのね” を聴いてください。
※《アセミック一文字詩》の全文字は次のマガジンに収録されているので、ぜひフォローして読んでください――
“益子文字” の
「笑いの文学」における芸術性
さて、ここまでは益子さんの言葉に則って読み解いてきましたが、ここからは『笑芸』なる「笑いの文学」の立場から “益子文字” の芸術性について書いていきます。(それが、僕が本記事を書いている理由・原動力なので。)
まずは、記念すべき最初の文字・《無題 ──アセミック一文字詩》への僕のコメントを載せます。それが本論の核でもあるので、要約的なものとして挙げます――
天才ですね✨💖 そうです、それで良いのです!! 僕は「笑いの文学」を “言葉=文字による おかしさ” としているのですが、その おかしさ を追求すると、「存在しない・未知の文字」へ至ります。また、僕には文学=本=活字=デジタルという制約・限界があるのですが、それを打ち破るにはアナログ=手書きしかなく、それは日本の文字の最高芸術・ “書” へ至ります。益子さんは筆が使えるので、この在り方は大正解ですよ!! 作品自体もイカしてます! そして、たくさん作って、個展を開いてくださいね❤️🔥❤️🔥❤️🔥
同様に、作品販売サイト『Creema』で書いた「販売作品に対する評価」も載せます――
非常に創造的な作品です。言葉以前の「言葉・文字」であり、“新しい文字”の発明です。それがどのような意味を持つのかは鑑賞者に委ねられていると思うのですが、そうだからこそ、自由に、既知・既存の概念や意味に囚われず、或いは、それらを超越して、“意味を超えた世界”を「想像」させてくれます。文字を媒体にした あらゆる作品の中で、最も芸術的な作品の一つだと思います。
プチプチによる厳重な梱包も、作品への愛を感じました!
この節(や この記事)で書きたいことは これらが全てではあるのですが、もう少し詳しく書いてきます――
まず、『笑芸』なる「笑いの文学」は “おかしさ” を目指し・追求します。なぜなら、笑いの芸能・芸術においては人はおかしくて笑うから、です。そして、「笑いの文学」で扱う媒体は文字です(なぜなら、文学作品は文字で書かれているから)。そうして、文字による おかしさの追求となります。
しかし、それは次第に、文字そのものの おかしさ・面白さの追求となっていきます。ところで、「おかしい」というのは、通常の世界や現実・日常とは異なる事象・有り様のことです。そうすると、「おかしい文字」というのは、現実・この世に存在しない文字となります。そうして、『笑芸』なる「笑いの文学」で求められるのは、実在しない・架空の・未知の・創造的な文字、となります。(なんと論理的な! 普通、笑いの作品を作っている人間に こんなことは書けませんが。)
※僕は笑芸作品第4番『もし君に脳の電荷を神に手渡し、あなたはどう?』で文字の おかしさ を追求し、“未知の文字” も使用しました。そのうちの一つが、先にも挙げたファトラジー(の断片)です。念のため、もう一度 載せます――

「No.29 ~fatrasie~」より
そして、益子さんの《アセミック一文字詩》はそれを達成していると判断・評価し、讃美しました。
これは「笑いの文学」の立場からですが、そうでない通常の文学・文芸にも当て嵌まる言い方をしてみます――
私達が文学・文芸作品で扱っている媒体は文字です。文字を使って書いています。ほとんど すべての文学・文芸作品は文字から成っています。反対に、文字が無かったら何も書けません。文学・文芸作品で絶対的な基盤となっている文字そのものを創る、ということ。それ以上に創造的な営為があるでしょうか? 益子さんが《アセミック一文字詩》で行なっているのは、その最も根本的なレベルでの創造です。そんな破格の益子文字には、すべての文学者・文章制作者(Web記事も含め)・読書家が驚愕してもらわなければ なりません。
日本の文字芸術の最高峰・“書”
哀しいことに、僕は依然として活字の次元に留まっています。上で挙げたファトラジーもそうですし、『もし君に脳の電荷を神に手渡し、あなたはどう?』も すべて活字です。(また、誰かが既に作ったものです。) ほとんど すべてのものが そうですが、文学=本というのは活字で出来ています。
しかし、日本には “書” という世界に誇るべき(或いは、世界が羨む)芸術があります。文学が文字から成るというのなら、文学の(或いは、文字芸術の)究極は “書” なのではないでしょうか? そうして、『笑芸』なる「笑いの文学」の最終目標は “書” であり、笑芸家は将来、書家になります。それを見越して、僕は すでに或る(美人な)書家に弟子入り してあります(破門されましたが!)。(ロシア未来派達も自分達の詩を活字にすることを拒み、手書きの詩を重んじていました。)
そうして、益子さんの《アセミック一文字詩》は、「文字を媒体にした あらゆる作品の中で、最も芸術的な作品の一つ」です。
僕は現在、活字に忙殺されており、まだまだ活字や日本語(や意味)の次元に留まらねば ならない のですが(『笑いの理論』や《だだぁ・ぐぅす》やファトラジー[綺想詩]や笑いの文学における《主題と変奏》等)、それを軽々と・悠々と超えていける益子さんが羨ましいです。《アセミック一文字詩》は本当は笑芸家が一番やりたいことなのですが、将来の自分のように思いながら、益子さんの これからの作品を楽しみにしています。僕も活字作品が すべて終わったらアセミック・ライティングを始めようと思っています。また、益子さんが挙げられていた Wikipedia には、1980年代に中国のアーティスト Xú Bīng が《天書》という本と掛け軸の作品を作り、それには「4000個の手彫りの意味のない文字が印刷されています。」とあります。笑芸家も将来は自分で創った文字のみを使って1冊の本を作りたいですが(それが完成したら『笑芸』なる「笑いの文学」は本当に終焉です)、僕がアセミック・ライティングを始める頃には益子さんは、益子文字を何万文字 創っているでしょうか?
《無題 ──アセミック一文字詩》を
買いました!!
本物を買いました!!
さて、ここまでに何度か書きましたが、僕は益子禅一朗さんの《無題 ──アセミック一文字詩》(本物)を買いました!!
先に当作へのコメントを載せましたが、そのコメントの後に、《無題》は販売するのかと そのお値段をお訊きしたところ、販売を開始してくださいました! 『Creema』というサイトにおいて です――
※現在は作品を溜めておきたい とのことで、販売は停止中です。展示中の作品は20作ほどあります。
《無題 ──アセミック一文字詩》の値段
では、《無題 ──アセミック一文字詩》の値段は? いくらだったと思いますか? 或いは、ここまで辛抱強く読んできたあなたは、いくら だったら買いますか?
僕が購入した時の値段は――
¥19,800
でした!
約2万円! この値段を あなたは どう思いますか? 高いですか? 安いですか? それとも、妥当ですか? もちろん自身の経済事情によるところも大きいですが、この「文字を媒体にした あらゆる作品の中で、最も芸術的な作品の一つ」には僕は10万円くらいなら出せると思っていたところ、「2万円」とあったので、即購入しました。
届きました(厳重に梱包されて)!
購入したのは今年(2026年)の3月だったのですが、手続きをしてから数日で届きました! その写真を載せます――

FRAGILE FRAGILE
FRAGILE

LE
GILE FRAGILE

プチプチによる分厚いガード
「FRAGILE」テープが貼られまくっていました!(こんなに書いてあったら fragile という言葉を知らなくても「壊れ物」と分ります。) そして、プチプチでガチガチに巻かれていました! 益子さん曰く、「美術品の発送は初めてですので、とにかくプチプチで包んで「割れ物注意」をアピールしました!」 益子さんの初めては僕が戴きましたが(?)、おかげさまで無事に届きました!(当然、取引評価は⭐5です!)
開けてみます
では、この厳重なプチプチを開けていきます――

しかし、中にもう1枚あります……。




そして、少し開けてみます――

(が、もう1枚あります……。)
さらに開けて――

そして――

出ました! 益子文字!

そして、このプチプチも剝いでいきます――



実物との ご対面!
感動的!

取引中に益子さんから送って頂いたものを切り抜き編集し、
掲載させて頂きました。
2026.3.1
「無題」 益子禅一朗
なお、額から外すのは恐ろしいので出来ません……。

なにかのバーガーみたい。
これだけ包まれていたら、
ポセイドンの三つ槍を以ってしても貫けまい。
(プチプチは最強の盾なので。)
実物の画像(&接写)!
そして、箱からも取り出して、本物の《無題 ──アセミック一文字詩》を撮影しました! それが こちらです――

金地で撮りました! 箔が付きましたね!
立派な芸術作品です!
そして、墨の具合が よく見えるように接写もしたので、以下に載せます――


(ガラスに光が反射していますが……。)


黒々とハッキリしています。

楔の如く打ち込まれています。

紙の目が見えるくらいに接写したのですが、
ハライの墨の かすれ も よく見えます。

どの線も鋭いです。
それが何本もリピートされていて、
何かの執着のようにも感じられます。

なにやら不穏な色合い。

こちらも暗雲が立ち込めています。

かなりハッキリした黒であるだけに、意味深長。
(しかし、墨の流れには日本的風情があります。)
このように間近で撮ってみましたが、いかがでしたか? 益子さんの筆遣い や力や呼吸が感じられましたか? 僕は その線を追いながら、益子さんの身体を通した思考・精神の追体験をしたような気持ちになったのですが、皆さんも これらの画像を観ながら、ぜひ書を読んでみてください。
なお、墨の滲み(抽象的な)の画像も載せましたが、現在(2026年7月8日)のところ、この《無題 ──アセミック一文字詩》のみに見られ、他の文字には ありません。かなり初期の特徴ではあるのですが、そのおかげで「特に根源的で混沌とした雰囲気を持つ一枚」(『Creema』)となりました。カンディンスキーの《Composition》のような終末観さえ漂っています。また、日本語系の文字のつくりとも離れていて、初期(特有)の “爆発” が感じられます。
全体構成
そういった墨の滲み や線の連続から、《無題 ──アセミック一文字詩》の全体構成についても触れてみます。
まず、左下の墨の滲み ですが、文字下のハライをすべて受けとめています――

そして、その左下の滲みは、右上の滲み とも対応しています――

さらに、左上の最初の起筆の点と右下の黒点も対応しています。そして、先の滲みを結んだ線と交叉・対称しています――

このように、益子さんは無作為・無意識的に書-描いたのかもしれませんが、画面全体で上手くバランスが取れています。
また、他の細かい線や点や滲み についても、それぞれ欠かせない要素となっています。カンディンスキーの場合も そうですが、彼の絵画中のなんてことのない小さな点や線や花片のようなもの等すべてが、空間を埋めたり どこかと対応・連続・対照していたりバランスを取ったりしています。反対に、それらの どれか1つでも取り除くと、絵全体が崩れさえします。彼の絵画は そんな風に構成してあるのですが、益子さんの《無題 ──アセミック一文字詩》もそうで、あえて注視はしなくともそれぞれの線や点や滲み は重要な構成要素となっています。そう考えると、先に取り上げた右下の黒点は かなり大きいモティーフであり、「もし この黒点が無かったら?」と思って観てみると、その重要性が よく分かります。
*
以上、記念すべき第1作目・《無題 ──アセミック一文字詩》を紹介してきましたが、この「文字を媒体にした あらゆる作品の中で、最も芸術的な作品の一つ」が2万円というのは安すぎたのではないでしょうか? 現時点(2026年7月8日)では、僕は最低でも300万円は提示されないと この作品は売りませんね。念のため訊いておきますが、買いたい人はいますか? もし いましたら、DM や この記事のコメント欄等で お伝えください。
“益子文字” の「意味」について
~意味を超えた世界~
さて、ここから、再び益子文字の「意味」について書いていきます。先にも書いたのですが、それは作者である益子さんの言葉に則ったものです。ここでは、鑑賞者である笑芸家が『笑芸』なる「笑いの文学」の立場から論じていきます。
なお、益子さんも益子文字の「意味」について書かれているので、それらを紹介します――
前者「アセミック一文字詩に関するAIとの対話」では益子さんの《アセミック一文字詩》に対する考え方が書かれ、後者「アセミック一文字詩と「呪」──意味のない文字に意味を見る」では哲学的な考察がなされています(益子文字を組み込んだ呪符も作られています)。ぜひ益子さんの言葉に触れてみてください。
“ダダ”
~ダダは何も意味しない~
さて、益子文字の「意味」について論じるにあたり、まずは「ダダ」と呼ばれる20世紀の芸術革命について簡単に書いていきます。このダダはシュルレアリスムと兄弟のようなものなのですが、シュルレアリスムについては次の記事に(実践・実作を通じて)まとめて あるので、ぜひ参考にしてください――
後者中の「「シュルレアリスム」とは何か?」という節で書いたのですが、それを引用します――
シュルレアリスムと言えばダリやマグリット等の絵画・美術の方が有名ですが、元々は詩人達による文学です。そして、20世紀最大の芸術革命となったシュルレアリスムの発端は、第一次世界大戦(1914~1918年)です。
この戦争はそれまでの(古代の)戦争とは違い、化学兵器や戦車・戦闘機が人類史で初めて使用され、古典的な戦争とは桁違いの死傷者を出しました。それらは科学の発展によるものですが、それは古代ギリシャ以来の理性・論理・合理的思考の積み重ねであり、3千年来の理性的思考の結果が第一次世界大戦であったことに激怒した当時の若者達による反乱・革命が「シュルレアリスム」(また「ダダ」)です。
ここではシュルレアリスムの紹介をしていたのですが、ダダも同様に考えることができます。即ち、その発端は「第一次世界大戦(1914~1918年)」であり、「3千年来の理性的思考の結果が第一次世界大戦であったことに激怒した当時の若者達による反乱・革命が「シュルレアリスム」」であり、ダダです。
シュルレアリスムがフランス・パリを拠点としていたのに対し、ダダの発生は(永世中立国である)スイス・チューリッヒでした。1916年にチューリッヒの文芸カフェ『キャバレー・ヴォルテール』で、フーゴ・バルやリヒャルト・ヒュルゼンベックやトリスタン・ツァラといった詩人達を中心に、ダダは生まれ成長していきました。
フーゴ・バルは意味を持たない音だけの詩・音声詩(「ガッディ・ベリ・ビムバ」等)を開発したり、ヒュルゼンベックやツァラは「同時進行詩」と呼ばれる複数人による複数の詩の同時朗読を行なったり(もちろん詩は聞き取れず理解不能となる)、太鼓を派手に叩いて叫ぶ騒音パフォーマンスを行なったりと、“無意味の祝祭” を繰り広げていました。
※フーゴ・バルが開発した(また、後にクルト・シュヴィッタースやイジドール・イズーも続いた)音声詩(或いは、「文字主義」)は僕も書いているので、ぜひ読んでみてください――
タイトルは、「ゔぁゑちぎゅらぽぬそゃんぺめこっどぅげーちゃまぴあろふぜょすぷてぉもきせぶびりょがゐっーけみぱぞれにょわぐぇねてゅーりむぉちょなそべゆっゔょ!」です。また、自称・“世界一意味不明な ひらがな作品” です。
ツァラに至っては、1920年にパリで、新聞から適当に切り取った文章を袋の中に混ぜ入れて、そこから取り出した言葉を繋げて出来たものを「詩」とする「帽子の中の言葉」というものを行なっていました。(参考:塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』筑摩書房、2003年、pp.89-93) そうして出来た「詩」には もちろん意味は無く、文法さえも吹き飛んでしまっていて、ダダの “言語破壊” を体現していました。
※文法の解体は僕も『もし君に脳の電荷を神に手渡し、あなたはどう?』で行なったので、勇気のある方は ご覧ください――
そして、「ダダの革命を発明した男」トリスタン・ツァラは「ダダ宣言1918」で こう叫びます――
☞DADAは何も意味しない
「DADAは何も意味しない」。この言葉はダダの中で最も有名なものの一つです。シュルレアリスムは意味や文法を墨守していましたが、ダダは意味や論理や合理や理性を徹底的に否定・破壊しようとしました。
「意味」とは何か?
ところで、その「意味」とは何でしょうか? これは非常に大きな問題なのですが、それに答えているのが、20世紀の哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(1918年)です。
奇しくもダダと ほぼ同い年の『論考』について、ここで すべてを紹介することはできませんが、ウィトゲンシュタインは この小著で思考の限界を求めました(p.9)。
その『論考』の1つの柱になっている理論に、「写像理論」と呼ばれるものがあります。彼は『論考』のアイディアを自動車事故の裁判から着想したと言います。そこでは事故の現場を模型を使って再現していたのですが、これは言葉と世界の関係と同様だそうです。即ち、自動車の模型が自動車を表すように、「自動車」という言葉も自動車を表す。或いは、言葉は物や世界の代理・代替物である。彼は こう言います――
二・一二 像は現実に対する模型である。
そして、こう言われます――
二・二一 像が描写するもの、それが像の意味である。
こうして、「意味」とは世界や現実を写し取っているもの、と言えそうです。(非常に簡単に言ってしまえば、絵に描けること。) また――
三・〇〇一 「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうるということにほかならない。
これを反対に考えてみると、像を結べるもの(絵に描く等で)以外には思考不可能であり、それは意味を持たないもの=無意味である、と。そして、彼は思考不可能な領域を「無意味」と切り捨てます。
“形而上的綺想”
ところで、16~17世紀の文学におけるマニエリスムには、“形而上的綺想” という言葉があります。(「類音重畳法」や「ファトラジー」と同様に日本では まともに使われていませんし、ネットで検索してもろくに出てきませんが。) まずは その実作例を挙げます。イタリアのジャンバッティスタ・マリノの一句です――
兜から夏が泡立つ
〈兜〉・〈夏〉・〈泡立つ〉という3項関係の凄さ・見事さ は ここでは書けませんが、こういったものが “形而上的綺想” です。そして、この一句を「描写する」ことができるでしょうか? 「その事態の像を作りうる」でしょうか?(「夏が泡立つ」という事態を。)
ダダ・シュルレアリスム・文学におけるマニエリスムから強く影響を受けた20世紀の日本の詩歌人に加藤郁也という人がいます。彼は『形而情学』(昭森社、1966年)という句集を書いています。

この『形而情学』の1つ前の句集に『えくとぷらすま』があり、仁平勝さんが『加藤郁也論』(沖積舎、2003年)で分析されています。そこでは、『えくとぷらすま』の2句を例に挙げて、その2句中の2つのフレーズについて こう書かれています――
「ひらがなの車」や「非ユークリッドの無人車」は、『えくとぷらすま』をはじめて読んだわたしをじゅうぶんに驚かせた。前からの続きでいうなら、これらのオブジェは像を結びようがない。
〈ひらがなの車〉や〈非ユークリッドの無人車〉というフレーズは「像を結びようがない。」 たしかに、ひらがな の車や非ユークリッドの無人車を絵に描くのは(論理的に)難しそうです。
加藤郁也は このような句をよく書くのですが、仁平勝さんは それを「非具象俳句」(p.103)と呼び、こう言われます――
この名句は、どんな像も結ばないし、どんな意味も主張しない。まさにそのことによって、俳句として名句なのである。
そして――
「形而情学」という題名はダテについているわけではない。言葉はなにか具体的なものを指示しなくても、それ自体がまさしく形而上的に叙情を表現することもできる。そういう郁也の俳句的方法を言い表わした題名である。
ここでは「「形而情学」という題名」について触れられていますが、「なにか具体的なもの」ではなく、「形而上的」なものを言葉は表現することができる、と言われています。
ところで、「形而上」と辞書を引くと、次のように出てきます――
見たり触ったりといった人間の感覚ではとらえられない、形のないもの。超自然的なものや理念的なもの。[…]
「人間の感覚ではとらえられない」「形のないもの」。また、「超自然的なもの」。そうして、形は無いが その上の次元が「形而上」です。
像が結べなければ(絵に描けなければ)思考不可能であり「無意味」であるとウィトゲンシュタインは言いますが、言葉には写像を超えた領域があり、そういった綺想が “形而上的綺想” です。
※その “形而上的綺想” を用いたファトラジー[綺想詩]を僕も書いているので、参考のために載せます。前掲の「Fatrasie(ファトラジー)7篇」中の「Fat・22」です――
Fat・22
或るダダQの慇懃なダダQの
何も意味しない頭痛薬と共に
超星・ベガをするひよこ達は
最もいやらしくJ葬された助詞動物達の
大腸の太陽フレア――或いは、太陽の大腸フレア――を論破し
素知らぬ脳をして
伝魚水答なザーウミガメもどきのスープや
〈げゑぼょぬそちべゅゐ〉という名の「をびぇもぐぁゑっぺるょんゔぉ」や
黒魔術的な黒魔術師の形而上的な “形而上的綺想” を
泡立てる
この作品は当記事では7篇中の最後の7篇目なのですが、ここまでに挙げた語を盛り込み、僕の文学の先達へのオマージュとなっています。(気が付きましたか?)
ロシア未来派
~“超意味”~
最後に、ロシア未来派が唱えた “超意味” という概念を紹介します。(このグループや概念も日本では ほとんど知られていませんが。『笑芸』なる「笑いの文学」は なんとマイナーなことか!)
その主な時期としては1900年代から1920年代で、詩・文学の中心メンバーには、ヴェリミール・フレーブニコフやアレクセイ・クルチョーヌィフやウラジミール・マヤコフスキーがいました。(少し後にはダニイル・ハルムスが現れます。) 美術では先のカジミール・マレーヴィチやウラジーミル・タトリンがいて、文学・美術・音楽・映画等の芸術すべてを まとめて「ロシア・アヴァンギャルド」と呼ばれることが多いです。(音楽ではドミートリィ・ショスタコーヴィチも いました。)
ここでは詩・文学に限って「ロシア未来派」という表記をしますが、ヨーロッパの辺境にあり後進に甘んじていたロシアの未来派達は、中欧よりも理性や合理への否定の意志が強かったです。そして、20世紀の前衛の中で最も過激であり、“前衛の王” とも言うべき存在でした。(また、作品においても中欧に先んじていました。)
そんな彼等の唱えた “超意味” について、まずは その定義を挙げます――
「заумь ザーウミ」とは、「за ум ザ・ウーム」(理知を超える)という言い回しを基にした新造語であり、「заумый язык ザウームヌィ・イズィク」(理知を超えた言語)、つまり理解不能の新造語全般を指示する記号である(そのため、「超意味言語」と意訳されることもある)。
こうあるように、“超意味” とはロシア語での新造語で、「理知を超えた言語」「超意味言語」のことです。
「理解不能の新造語」ともありますが、それは例えば、中心メンバーの一人であり理論家のクルチョーヌィフの〈ドゥイール ブール シシュイール〉(同書 p.55)といったものです。これは先に挙げたバルの音声詩「ガッディ・ベリ・ビムバ」と同質のものですが、音のみで構成した抽象言語とも言えます。(ロシアからチューリッヒに旅をしていた抽象画家W・カンディンスキーが、そこでバル達にクルチョーヌィフ達の こういった詩を伝えたという説もありますが、僕は事実だと思っています。) また、フレーブニコフに至っては、新造語を数万語も作ったと言われています。
しかし、ここで欲しいのは、音による抽象言語というよりも、「理知を超える」という志向性です。そして、「超意味」という、意味を超えるという積極性です。ツァラは「DADAは何も意味しない」と言いましたが、それは否定性に留まります(少なくとも表向きには)。その否定・破壊性(=無意味)を積極的なものに転回しようとすると、“超意味” という言葉は非常に魅力的です。(ロシア未来派達は新しい世界・秩序を作ろうと していました。)
そうして、「像を結びようがな」く「理解不能」=思考不可能であるかもしれないが、その思考-理知の限界を超えて行こうとするのがロシア未来派の “超意味” です。
ツァラの場合
しかし、「DADAは何も意味しない」と否定性の強かったツァラも、意味を超えようと していました。それは大平具彦 先生の『トリスタン・ツァラ 言葉の四次元への越境者』(現代企画室、1999年)に詳しいです。
大平先生は同書でツァラの詩例を挙げて、こう書かれます――
「瀑布へと向かうわが偶然」、「炎はガラスのスポンジ」、「頭蓋のなかでひしめく磁土」、等々のイマージュには、彼にとってのダダが破壊のための破壊などでは決してなく、言葉の新次元への真摯な実存的な賭けにほかならなかったことを知らしめる力線と凄みがある。
そして、ツァラの詩に対して、「網膜で像(意味)を結ぶことのない」(p.82)と言い、「それは見えない」(p.82)とも言われています。加藤郁也の場合と同じ「非具象」です。そして、シュルレアリスムが「表象の臨界点にまで言語のアンテナを伸ばしつつも表象のこちら側にとどまった」(p.176)のに対して、ツァラは「表象の向こう側」(p.176)を目指していました。ウィトゲンシュタインは「意味」を「像を作れること」としましたが、それは物理的な次元であり、2次元もしくは3次元です。ツァラは それを超えて行こうとしました。即ち、“4次元”。“表象の向こう側”。意味-像-思考-理知-理性を超えた世界――。
高橋康也 先生(唯一のファトラジーを日本語訳された方!)は『ノンセンス大全』(昌文社、1977年、p.321)で、ウィトゲンシュタインの『論考』に対して、こう書かれています――
しかしわれわれにとって重要なのは、〔…〕それがノンセンスの地盤固めでもありうるということである。『論考』は《センス》を擁護顕彰し《ノンセンス》を批判追放するかに見えて、実は《センス》の限界を定め、そのことによって逆説的に《ノンセンス》の領域をも保証してくれたのである。
至言です。そうなのです、ウィトゲンシュタインは『論考』で「センス(=意味)」の領域を定めたのですが、それは同時に「ノンセンス(=意味以外)」の領域をも定めたことになる、と。同様に、彼は思考の限界を見極めたのですが、そのことによって “思考を超えた領域” 「をも保証してくれたのである。」 また、示現してくれたのです。ここまで目の敵の如く扱ってきたウィトゲンシュタインに対して、高橋 先生は こう言われています――
[…]世紀末ウィーンの知的爛熟の中で若き日を過したウィトゲンシュタインが単純な西欧的理性信奉者であるはずはないのだ。
“笑いの領域”
足立和浩 先生が「マザー・グースの地平 マラルメ、キャロル、ヴィトゲンシュタイン」(『現代詩手帖 増貢特集●マザー・グース 狂気の伝承』1976年3月、思潮社)で正しく予感されており、非常に(また決定的な)感銘を受けたのですが、ウィトゲンシュタインの「無意味な梯子」(同書 p.180)の上、或いは、“理知-表象の向こう側”・ “思考を超えた領域” は “笑いの領域” です。そもそもが「無意味」という言葉は笑いにとっては(大いなる)価値です。(最も簡単な例を出すと、〈右に左折する〉という。) そういった領域や そこへの志向性を持つ “形而上的綺想” や “超意味” は、『笑芸』なる「笑いの文学」が戴きます。
思考し得ないものを「思考」すること
そのようにして、益子禅一朗さんの《アセミック一文字詩》も鑑賞すればよいのです。即ち、思考し得ないものを「思考」すること。益子文字も像を結ぶことはありませんが(たとえ その文字自体が何かの形のように見えたとしても)、意味や論理や合理や理性を超越して、それらの “向こう側” を「想像」してみてください。〈益子禅一朗〉という お名前にも その語が含まれていますが、「禅」の如く《アセミック一文字詩》を眺めてみてください。もしかしたら、“向こう側” が「見える」かもしれません。
しかし、その領域は言い表し得ず、僕が誘導できるのは ここまで ですが、「なにか具体的なものを指示しなくても、それ自体がまさしく形而上的に叙情を表現する」益子文字を、ぜひ体感してみてください。
言葉・文字でしか表現・到達できない領域
~“文学の孤塁”~
言葉は意味より広い
この言葉はロシア未来派の最も重要なテーゼの一つですが、ここまで見てきたように、言葉は意味-思考-理性よりも広い領域を表現できます。
ところで、もし言葉(の内容)を絵や映像化できるのなら、言葉は不要になります。(言葉は物や現実の代替物であり、自動車が実際に目の前に在るのなら「自動車」と言う必要は無くなるように。) そうした場合、文学も不要になります。また、言葉は絵や映像の代替物にすぎず、その下属的立場になり、文学作品は安上りな台本でしか なくなります。(現代において文学が(その芸術性の点で)非常に危機的状況にあることを理解している人が どれくらい居るでしょうか?) 文学が文学として(独立して)存在しようとするのなら、その “孤塁” を守らねばなりません。
ここまで述べてきたことは すべて言葉によって でしか表現できません(絵に描けないのだから)。そして、先述した通り、文学が扱う媒体は文字です。そうして、文字でしか表現・到達できない世界を体現している《アセミック一文字詩》は、「笑いの文学」において極めて芸術的です。文学(或いは、『笑芸』なる「笑いの文学」)は、その文字世界を死守しなければなりません。
“あちら側” へ飛び立った そんな益子文字ですが、現実世界で(論理的に)生じ得る如何なる事象も、既存の日本語や活字で書かれた如何なる文学作品も その一文字には敵わないですし、僕にとってはその一文字だけで どんな本よりも面白いです。
そう言えば、益子さんが挙げられていた Asemic writing に関する Wikipedia には、マン・レイやアンリ・ミショーやワシュリー・カンディンスキーやイジドール・イズーといった名前が載っており、アセミック・ライティングをしていたそうですが、彼等はダダ・シュルレアリスムや20世紀前衛芸術の常連です。カンディンスキーについては特に参照してきましたが、彼は《インディアン・ストーリー》(1931年)という作品を作っており、「アセミック文学の先駆者」ともされています。彼には《連続》(1935年)という作品もあり、彼特有のキャラクターチックな絵が4行ほど描かれていますが、これはほとんど文章です。それくらい文字・文学に近いです。そして、僕は『もし君に脳の電荷を神に手渡し、あなたはどう?』を書いている時、ずっと この《連続》を机の上に開いていました。(カンディンスキーは、ベートーヴェンに匹敵する僕の芸術の師匠です。ベートーヴェンの《ピアノ・ソナタ》32曲も流れていましたが。) そのようなことで、こういった名前達(或いは、系譜)を見ると、嬉しくなりますね。
総括
そうして、本記事・書評の まとめ をしますが、先に挙げたものを再掲します。《無題 ──アセミック一文字詩》への僕のコメントと作品販売サイト『Creema』で書いた「販売作品に対する評価」の2つです。短く まとめようとすると このようなことになるのですが、ここまで読んで頂けたなら、最初に読んだ時と また違った風に感じると思います。ぜひ改めて お読みください――
天才ですね✨💖 そうです、それで良いのです!! 僕は「笑いの文学」を “言葉=文字による おかしさ” としているのですが、その おかしさ を追求すると、「存在しない・未知の文字」へ至ります。また、僕には文学=本=活字=デジタルという制約・限界があるのですが、それを打ち破るにはアナログ=手書きしかなく、それは日本の文字の最高芸術・ “書” へ至ります。益子さんは筆が使えるので、この在り方は大正解ですよ!! 作品自体もイカしてます! そして、たくさん作って、個展を開いてくださいね❤️🔥❤️🔥❤️🔥
非常に創造的な作品です。言葉以前の「言葉・文字」であり、“新しい文字”の発明です。それがどのような意味を持つのかは鑑賞者に委ねられていると思うのですが、そうだからこそ、自由に、既知・既存の概念や意味に囚われず、或いは、それらを超越して、“意味を超えた世界”を「想像」させてくれます。文字を媒体にした あらゆる作品の中で、最も芸術的な作品の一つだと思います。
プチプチによる厳重な梱包も、作品への愛を感じました!
益子禅一朗さんへ
~世界的アーティストになってください~
最後に、益子禅一朗さんへ応援(とリクエスト)をして終わります。
現在(2026年7月9日)のところ、益子文字は55作あるとのことですが、ぜひ目標の108字まで完成させてください。また、それ以上に作ってみてください。そして、1冊の本にしたり、展覧会を開いたり してください。
展覧会やギャラリーについては、AI による妄想をされているそうですが、ぜひ妄想を進めていってください。
※益子文字は、1字だけでなく、複数文字で観るとさらに謎性が増すので、ぜひ ご覧ください。
それと、「益子ニッチ手稿」も大事に保管していてください。それも展覧会で並べましょう。そして、個展を開いたら僕も呼んでくださいね。絶対に行くので!
あと、フォント・ベンダーにもなってください。そして、益子文字を誰にでも使えるようにしてください。もちろん、僕も使いたいです。
それと、益子文字のグッズ化もしてください。なにやら AI を使って妄想されているようですが、ぜひ販売してください。ガチャガチャにもしてください。
そして、note の世界に留まらず、その外や海外へも進出してください。或いは、こういった謎なものは海外での方が評価されるかもしれません。ぜひ世界へ進出して、世界的アーティストになってください。
そして、有名になって作品の価値も上がって、1作の値段を高騰させてください。そうして、僕が持っている記念すべき最初期作《無題 ──アセミック一文字詩》が数百万円や数千万円や数億円になったら、売りますね(!)。いや、益子さんが最初の展覧会を開くまでは持っていますし、もちろん貸し出すので展示してください。
あとは、いつか益子文字を巨大な壁画に書-描いてください。(最近はそれを意識して(?)壁に掛けて書-描くようになったそうですが。) そして、数百年か数千年か数万年後の未来人にヒエログリフとして発掘されてください。
おわりに
以上、益子禅一朗さんの《アセミック一文字詩》の紹介や書評をしてきました。かなり長くなってしまいましたが(約3万5千字!)、ここまで読み着けた人が どれくらい居るでしょうか? 読み着けた という奇特な方は、自分を変態か暇人と誇るか諦めるか してください。
本記事を書くにあたり、文章や画像の引用・転載(編集も含め)を、「感想・紹介・説明・解説のためであれば」と快く許可してくださった益子禅一朗さんには感謝します。本当にありがとうございました。
また、本記事で紹介した益子禅一朗さんの《アセミック一文字詩》に何か少しでも魅かれるものがあったら、ぜひ益子さんの記事へ読みに行ってください。(そのためにすべての記事・作品にリンクを貼ったので!) そして、ご自身で益子文字を体感してください。(感想をコメント等で伝えると益子さんは喜ぶので、ぜひコメントもしてあげてください。)
それにしても、益子さんは変なものを たくさん書-描かれましたね。一体 何をされているのでしょうか?
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本記事は「1」ですが、次回=「2」は僕も益子文字を書-描いてみます! その次=「3」では四字熟語や五七五や詩にもしてみます! また、「#初代王天君の企画」として「新しい文字を作って!」という投稿募集もするので(応募条件あり)、お楽しみに!
それでは――
益子禅一朗さん、
素晴らしい作品を
ありがとうございました💗💓💕💞💖💝💘❤️🔥
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所蔵:初代王天君

*追記*
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