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笑いの理論 ~或いは、その体系化への試論~(1)

「笑いが何であるか首尾よく知ることができたのならば、私はすべてを知ることになろう、哲学の問題を解決したことになろうと思っておりました。笑いの問題を解くことと哲学的問題を解くこととは明らかに同一だと私には思えたのです」
                ――G・バタイユ「非-知、笑い、涙」

酒井健『バタイユと芸術 アルテラシオンの思想』青土社、2019年、p.146


はじめに


20代の前半の頃に、ずっと立川談志師匠の落語(論)を聴いていて、談志師匠は延々と「落語とは何か」「良い芸とは何か」「良い笑いとは何か」「笑いとは何か」を問い続けていました。僕はそれを聴きながら、一緒になって考えておりました。

“プレイヤー” が笑いについて本格的に考え始めたのは、漫画『のらくろ』の作者・田河水泡(1899-1989)さんが最初かと思います。『滑稽の研究』がそうで、1987年の出版です。しかし、正確な年代は不明ですが、着手したのはかなり早い頃だったそうです。本人曰く――

[…]自分は滑稽な漫画を描いて生活しているけれども、それについて滑稽とはなんなのか、基礎的な教養として、そのくらいのことは知っておきたいものだ、と考えたことから、こんな研究を始めたものでした。

田河水泡『滑稽の研究』講談社、2016年、p.3

このように、作品を作ってはいるが知識・理論も知りたい、とのことで滑稽の研究に取り掛かったそうです。(当書の出版は88歳の時。)

もう一人、笑いについて探究した人が、落語家・桂枝雀(1939-1999)師匠です。枝雀師匠は、かの有名な「緊張と緩和」という理論を提唱し、笑いの世界では誰もが知る言葉・理論になっています。特に笑いに興味の無い人でも、どこかで耳にしたことはあるかもしれません。そして、笑いの学術研究書でも多く取り上げられています。

しかし、当の笑いの学術研究では、「笑いとは何か・人はなぜ笑うのか」という問いに対して決定的な答えは出せていないようです。そこで、それならば、そろそろ “プレイヤー” の側から答えを出そうではないか、ということで、本稿を書こうと思います。しかし、僕は以前に「笑芸ダダ宣言2019」という作品で「笑いの理論」について書いており、本稿はそれを基にしたものになります。その時点で「笑いとは何か・人はなぜ笑うのか」の結論は出ており、それは今回も変わっていません。しかし、それよりもかなり詳細に、また、より広範囲に笑いについて触れていきます。

僕は “笑芸家” なる笑いの文学家なので実践・実作プレイをしたいのですが、本稿は理論ロジックが主です。また、かなり「理論のための理論」となり、実践・実作プレイには結び付きにくいものになっているのですが、#創作大賞2025#オールカテゴリ部門)があるとのことなので、これを機に、「笑いの理論」を完成させたいと思います。

なお、実践・実作プレイ的な理論は他記事で書いていますので、興味のある方は以下をご覧ください――

『笑芸』なる「笑いの文学」の実践・実作プレイについての答えはすでに出ており、上の記事にも書いているのですが、シュルレアリスムの言葉で “デペイズマン” となります。そして、それが最大になるような “構成Composition” を目指します。その究極がベートーヴェンであり、カンディンスキーなのですが(またスーラも)、この二人が『笑芸』なる「笑いの文学」の師匠である、ということは述べておきます。(そして、笑いの作品において “構成Composition” という言葉を使うのは、多分、僕が最初です。)


さて、以下より本論に入っていきますが、先に簡単に全体構成・流れを示します。

本稿では、笑いの起源・統一理論として、“警戒解除” という理論を提唱したいと思います。(後述しますが、これはラマチャンドランとブレイクスリーという学者達の「誤警報理論」が基になっています。)  そして、この理論によってすべての笑いを説明したいと思います。

この “警戒解除論” については第1章で書きますが、そこでは主に「おかしさ・おかしみによる笑い」を扱います。これは笑いの芸能やコメディー映画やギャグ漫画やジョーク等(まとめて「笑劇」と呼ぶことにします)での笑いで、「笑いの文学」に必要なのも この おかしさ・おかしみ による笑いです。そのため、これを最初に説明したいと思います。しかし、それだけで笑いの統一理論になれるほど甘くはなく、これ以外の相当量の笑いを説明していかねばなりません。それが次章以下です。

第2章以降は おかしさ・おかしみ以外の笑いを扱い、もちろん “警戒解除” からすべての笑いを説明していくのですが、その前に、本稿では扱えない領域を第2章で挙げます。これらは専門的で膨大な量・範囲になり、僕の手には負えませんので、他研究に譲らせて頂きたく思います。しかし、これらを挙げることによって、笑いの研究の全体像が見渡せるかと思います。

第3章では、主要な笑いの理論を紹介します。笑いはアリストテレス以来研究されてきた分野ですが、その中で有力であった説を簡単に紹介します。もちろん それらを “警戒解除論” から批判するのですが、本格的にやったらキリがないので詳細には触れず、概要に留めます。しかし、カントやショーペンハウアーの理論は実践・実作プレイと相性が良いので、詳しく見ていきます。

第4章では、笑いの分類をします。まずは おかしさ による笑いの分類(機知wit滑稽comic諧謔humor等への)を挙げますが、これらは僕のオリジナルの案ではありません。実際のところ、おかしさ による笑いの分類をしたところで実践・実作プレイには結び付かないため、笑芸家ぼくはしません。これも他研究書・他研究者に譲らせて頂きます。その後に、次の第5章で取り扱う笑いの種類を挙げます。例えば、「挨拶の笑い」や「くすぐりによる笑い」や「照れ笑い」や戦争・災害時の「極限状態での笑い」等で、30~40種類ほどになります。これらを挙げてから、第5章へ入っていきます。

そして、第5章で、それらの笑いをすべて “警戒解除” という点から説明していきます。文量としてはこの第5章が一番多くなります。(紙本にしたら十数ページほどになるでしょうか。)   この章の最後は「挨拶の笑い」と「笑い顔の万国共通性」になるのですが、これらはそのまま最終章の第6章へと繋がっていきます。この二つの笑いを説明するためには人類史を7~8年遡る必要があり、そこでの人類絶滅の危機(インドネシアのトバ火山噴火)とそれ以降の「出エジプト」が大きなテーマとなります。そして、そこから、人類ホモ・サピエンスの “新世界進出性” と笑いを接続したいと思います。同時に、笑いは通常考えられているよりも創造的クリエイティブな活動であり、その精神イズムとしても手法としても十分に “芸術” に成り得る、ということを示したいと思います。


以上が本稿の簡単な流れです。
笑いの起源・統一理論を “警戒解除” として、すべての笑いを説明していきたいと思います。そして、この “警戒解除論” で笑いの理論を一本化=体系化したいと思います。現在のところ、それが可能な理論は無いので(数多の学者の奮闘にも関わらず)、成功したら “警戒解除論” はの笑いの統一理論になります。

なお、本稿の副題に「試論」と付いているのは、先述の通り、本小論では取り扱えない領域が多いためで、それらを埋め合わせることができたら ほぼ完全に笑いの理論を体系化できると思います。そして、その概要・全体像と流れを示すことができたら、本試みは成功です。

それでは、本論に入っていきたいと思います――




*本稿は長くなるため、記事を4つに分けての投稿になります。本記事は第1章のみです。第2章~4章は「笑いの理論 ~或いは、その体系化への試論~(2)」を、第5章は「笑いの理論 ~或いは、その体系化への試論~(3)」を、第6章と「おわりに」は「笑いの理論 ~或いは、その体系化への試論~(4)」をご覧ください。






第1章   “警戒解除論”

1・笑うと力が抜ける

ここまで何度も “警戒解除” という言葉を使いましたが、これを説明する前に、絶対的な事実を確認しておきたいと思います。それは、笑うと力が抜ける、ということです。これは誰もが経験したことがあると思いますが、笑うと力が抜けますね。また、力が入らなくなりますね。例えば、笑いながら重い物を持つのはかなり難しくなります。しかし、これはどういうことでしょうか?

笑うと「副交感神経」が働き、身体は弛緩・リラックスし、休息に向かいます。いわば「OFF」の状態になります。志水彰・角辻豊・中村真『人はなぜ笑うのか 笑いの精神生理学』によれば――

[…]副交感神経はエネルギーをたくわえる方向に生体を向ける。心臓の拍動および呼吸はゆっくりであり、消化器は活発に活動し、血圧、血糖は低下して安定している。

志水彰・角辻豊・中村真『人はなぜ笑うのか 笑いの精神生理学』講談社、1994年、p.91

反対に、「交感神経」が働いている場合は、身体は活発になり、いわば「ON」の状態になります。同書によれば――

交感神経は、たとえば驚いて逃げようとするときなどに強くはたらき、瞳孔は大きくなり、目は大きく見ひらき、心拍は速くなり、気管がひらいて呼吸が促進し、多くの酸素を取り入れようとする。また手のひらに発汗してものをしっかりつかもうとし、血圧、血糖は上昇し筋肉への血流が増加し、消化器の血流は減少し消化機能は抑制される。これらの状態はすべてエネルギーの面から見るとそれを使って発散させて状況に対応しようとしているといえる[…]。

同書 pp.90-91

こうあるように、交感神経が働いている時は「戦闘モード」となります。(副交感神経は「休息モード」です。)  

ボクサーがパンチを打つ時、口を締め、歯を食いしばり、息を止めて酸素を逃がさないようにし、目一杯力を溜め込みますが、笑っていては強いパンチを打てません。笑いは副交感神経=休息モード=OFFであり、交感神経=戦闘モード=ONです。笑いはのであり、身体の脱力・弛緩です。これは最初に確認しておかねばならない絶対的な事実です。


2・草むらのゴソゴソ

しかし、なぜ「笑う=息を吐く」のか?

現在では地球の王者のような人間ヒトですが、動物としては弱者です。武器を持たずに自然界の動物と戦えば負けます。死、です。現在でさえそんな弱者ですが、初期にはもっと弱かった。ヒトは700~1000万年前にチンパンジーから分化して進化してきたそうですが、その初期には二足歩行などなりませんでした。当分は樹の上で歩いていたそうですが、いつか樹を降りる日が来て、地上を歩くようになりました。しかし、その頃でもまだ上手く走ることはできず、ヒョウなどの猛獣に襲われ、よく食べられていました。そんな弱者が、歩いている時に、草むらで何かがゴソゴソしたら……?

この局面では、生死が懸かっています。そのため、最大限に身体に力を溜め込む必要があります。先の引用では、「交感神経は、たとえば驚いて逃げようとするときなどに強くはたらき、瞳孔は大きくなり、目は大きく見ひらき、心拍は速くなり、気管がひらいて呼吸が促進し、多くの酸素を取り入れようとする。」とありますが、戦闘(または防御や逃走)のために酸素を蓄えます。同書『人はなぜ ~』にはこうあります――

「少しの驚き・発見の笑い」は、あたえられた外来あるいは内因性の刺激にまず驚き、思わず息を短く吸ってとめる。少し大げさに言えば、息をのむ。これは緊張したときに共通の行動である。つまり、ともかく酸素を吸いこみ、次の緊急事態にそなえるのである。

同書 p.39

こうして “警戒” 状態は最高潮に達するのですが、しかし、草むらから飛び出して来たのがヒョウではなくて、ミッキーマウスだったら? 

つぎにその刺激が無害または愉快であることに気づいて安心し、ほっという言葉のとおり少し息をはく。これが第一回目の「アッ」または「ハッ」という呼気をもたらす。そしてこの一連の心と身体の反応ないし動作自体が愉快でもあるのでくり返す結果、短い呼気の断絶となる。

同書 pp.39-40

このように、。それは、「その刺激が無害または愉快であることに気づいて」、戦闘・防御・逃走の必要が無くなったからであり、から、です。そうして、息を吐いて、OFF=“解除” 。緊張した身体を弛緩させる。

「アッハッハッハ」という笑い声では、息が通常の呼吸で吐き出すものより何倍も強く吐き出されますが、それは蓄えた酸素が通常より何倍も多いためです。その大量の酸素を吐き出すには通常の呼気では不十分であり、生死が懸かった緊張の後では、このような大きな放出が必要になります。或いは、笑い声とは、蓄えたが不要になった酸素の放出、です。

もちろん、身体だけでなく、顔も弛緩します――

顔の表情もそれにあわせて、最初は刺激をしっかり受けとめるために目をかなり大きく見ひらき驚きに似た表情をしめすが、その刺激に害がなく、むしろ愉快なものとわかった瞬間から、「愉快」を表現するほおの筋肉が強く収縮し、さらにもはや刺激に害がないということがわかりそれほど注意しなくてもよいので、目を細めるための目のまわりの筋肉も収縮する。

同書 p.41

こうあるように、頬や目に緩みが出て、「笑い顔」となります。しかし、その前には、「刺激をしっかり受けとめるために目をかなり大きく見ひらき驚きに似た表情をしめす」。この表情で分かりやすいのは、自動車で事故を起こす前の運転手の映像かと思います。正面衝突か何かをする直前の運転手は、目を大きく見開き、「ハッ」と口を開けています。これも、危険をよく見極め、それに備えて酸素を蓄えようとするからです。そして、その危険が無いと分かったら、頬や目を緩める・息を吐く=「笑う」。

これが笑いのメカニズムであり、起源です。
以上のように、危険に対して “警戒” し、安全だと分かったら “解除” する。これが “警戒解除論” です。名称の通りそのままですが、人間ヒトは動物から進化してきたのであり、笑いもであり、その起源は原始・サバイバルの世界に求めねばならないと思います。(これまで多くの学者による笑いの理論の統一の試みが失敗してきたのは、笑いの身体的・生物的根拠を求めなかったからです。)  そして、そうすると、大体このような結論になるかと思います。

『人はなぜ ~』には次のことも紹介されています――

敵機の爆撃を受け、じっと防空壕のなかにひそんでいた兵隊が、敵機が去るとホッとしてニッコリするとか、緊迫した対話が長時間続くと何となくほほえんでその緊張をゆるめようとする[…]。緊張を要する手術を終わったあとの外科医は、その手術の結果にかかわらずホッとほほえんでいるし、厳粛で長い葬式が終わったときにほほえむ人は多い。

同書 p.58

このように、強い緊張の後に弛緩する(=笑う)というのは現代でも行われていて、それは、サバイバルの時代から何百万年(或いは、何千万年、または何億年)経っても変わっていないようです。

ちなみに、この “警戒解除論” は枝雀師匠の唱えた「緊張と緩和」理論とかなり近いことはお気づきだと思います。そして、ここまで「緊張」と「」という言い方もしてきました。「緩和」でなく「」としているのは、こちらの方が生物学的だからですが、枝雀師匠の「緊張と緩和」理論はもう一歩踏み込めます。それは、なぜ緊張し緩和するのか、と。その答えはここまで見てきた通りですが、もちろん僕は「緊張と緩和」理論を踏まえており、 “警戒解除論” は “巨人達の肩の上に立つ” ものである、ということは述べておきます。

しかし、笑劇での「おかしさ・おかしみによる笑い」の説明ができていないと思いますので、この “警戒解除論” を基にして、以下で説明していきたいと思います。


3・階段のジョーク

古今亭志ん生師匠がよくやっていた小咄に(志ん生師匠が作ったかは分かりませんが)、寄席で聴いた噺のオチがその場では分からず、家に帰ってきても分からず、風呂に入ってもご飯を食べても分からず、布団に入って寝る頃になってようやく分かり、「あぁ、なんだ、そういうことか! あはははは……!」と笑う、というものがあります。

こういったものは西欧では「階段のジョーク」と呼ばれているそうで、中村明先生によれば――

[…]西欧で「階段のジョーク」というように、帰るころになってようやくさっきの冗談が通じ、階段を下りながら笑いだすこともある。

中村明『笑いのセンス――日本語レトリックの発想と表現』岩波書店、2011年、p.44

このように、ジョークはオチが分かって初めて笑えるようです。しかし、それはなぜでしょうか?


4・なぞなぞ

ジョークでオチが分かって笑えるというのは、「なぞなぞ」が解けた時と似ているかもしれません。なぞなぞ も自分では解けないで答えを教えてもらったら、「あぁ、なんだ、そういうことか!」と納得しますが、なぞなぞ の答えがずっと分からなかったら、どうでしょう? かなり嫌だと思います。人によっては眠れないと思います。また、人によってはその答えを教えてもらうために500~600円払うと思います。しかし、なぜ なぞなぞ が解けないと嫌なのか?

状況シチュエーションを変えてみましょう。
草むらでゴソゴソしている奴が何なのか分からなかったら、どうでしょう? ヒョウかもしれないし、ミッキーマウスかもしれないし、雄と雌のラブタイムかもしれない。しかし、原始世界では恐怖でしかありません。生死が懸かります。そして、“警戒” 。草むらから飛び出して来たのがミッキーマウスだったり、聞こえてきたのが雌の喘ぎ声だったらいいのですが、そういったものが無くずっとゴソゴソしていたら……? ずっと “警戒” 。永遠にそれに怯え続けねばなりません。それが無害であることが分かるまで “解除” はできません。早く “解除” をしたいのだが、それをさせてもらえなかったら……?

なぞなぞ が解けないと嫌なのも、これと同じことです。その対象が何なのか判明しなければ永遠に “警戒” 状態となりますが、これが「嫌」の正体です。その対象が自分にとって脅威なのか無害なのか、それをハッキリさせたいのが動物の性です。そして、スッキリと “解除” したいはずです。

そうして、なぞなぞ が解けたら、「あ、わかった!」と喜ぶことになるでしょう。これは、ジョークのオチが分かった時と同じ気持ちであるはずです。マシュー・M・ハーレーとダニエル・C・デネットとレジナルド・B・アダムズJr.の共著『ヒトはなぜ笑うのか ユーモアが存在する理由』にはこうあります――

すでに言及しておいたように、ユーモアの愉しみと問題解決の愉しみには否定しがたい類似性がある。ジョークに「ピンときた」ときに感じる発見の感覚は、問題を解決できたときに覚える「してやったり」の感覚とよく似ている。また、なかなか問題が解けずにいるときに感じる混乱と知識不足の感覚には、ジョークがどうにもピンとこないでいるときの感情を思わせるところがある。

マシュー・M・ハーレー、ダニエル・C・デネット、レジナルド・B・アダムズJr.『ヒトはなぜ笑うのか ユーモアが存在する理由』片岡宏仁訳、勁草書房、2015年、p.58

ディーコンやケストラーをはじめとする人たちが述べているように、「わはは!」と「あ、そっか!」の類似性は、両者がよく共起していて、しかも両者でよく使われる問題解決の仕組みがよく似ていることから生じている。

同書 p.474

ハーレーとデネットとアダムズJr.達もこのように書いており、ジョークが分かった時と問題解決(僕は「なぞなぞ」としていましたが)した時の感覚には共通することが多いそうです。しかし、そのは一つであるはずであり、それは “警戒解除” です。


5・なぜ驚きが “快” になる?

本章の「2・草むらのゴソゴソ」での最初の引用を「少しの驚き・発見の笑い」としたのは、それとこの「あ、そっか!」が同根であることを示すためでした。(実際、ジョークによる笑いもここに分類されている。)  また、ハーレー達は『ヒトはなぜ ~』で、「どうしてユーモアに驚きを感じるんだろう?」(p.108)と問い――

大半の――少なくとも多くの――滑稽ユーモラスな刺激には、驚きの要素が含まれている。そのため、一部の人たちは驚きがユーモアの根源的な原因だと考えているほどだ。

同書 p.108

と書いています。また、志水先生達の『人はなぜ ~』には「愉」という語が多出しますが、なぜ「少しの驚き・発見」が “快” になるのでしょうか? 笑劇での笑いはほとんどが “快” 的ですが、同書によれば――

「快の笑い」のルーツについてはよくわかっていない[…]。

同書 p.30

これについて考えてみようと思います。

しかし、これもここまでの考え方と同じで、 “警戒” を “解除” した場合に笑いとなるのですが、これを言い換えてみると、“前提としての不快の解消” となります。「警戒」=「前提としての不快」であり、「解消」=「解除」です。このように、“警戒解除” は “前提としての不快の解消” と言い換えることができます。ここで、人間の三大欲求である食・睡眠・性について考えてみますが、これらの欲求が満たされた時にも笑い(笑みや笑顔)が起きます。お腹がいっぱいになったら「あぁ、よく食べた」と、たくさん寝た後には「よく眠った」と、性行為の後では(上手くいけば)「気持ち良かった」と、笑いが出ます。これらはすべて “快” ですが、どれも生命を維持・存続するために必要な行為であり、生命の存続の危機を脱する=前提としての不快が解消されることが “快” であるはずです。例えば、宝くじで何億円も当たったらそれ以降はお金の心配が無くなるため、喜び笑います。生物にとっての “快”(または喜びも)とは、“前提としての不快の解消” だと思います。

志水彰先生の『笑い/その異常と正常』にはこうあります――

保育園で成長していく幼児を観察した友定啓子は、乳を飲んで笑い、くすぐられて笑った乳児が、やがてすべり台やブランコで遊ぶとき、さらに走り回るときなどに笑うようになることを観察して、これらを自らの身体に緊張感を与え、その解消を楽しむ動きと考えている。つまり、「緊張緩和の笑い」である。

志水彰『笑い/その異常と正常』勁草書房、2000年、p.22

友定先生は、子供がすべり台やブランコで遊んで笑うのは、高さや速さなどの緊張の解消によるものだと考えられていて、志水先生はそれを「緊張緩和の笑い」とされていますが、これも “快” = “前提としての不快の解消” です。また、大人もジェットコースターやお化け屋敷で楽しみますが、これも同じく、「自らの身体に緊張感を与え、その解消を楽しむ」のでしょう。

そうして、「驚き=警戒=前提としての不快」の「解消=解除=快」となるはずです。

なぞなぞ やジョークを楽しむのもこれと同じことで、これらにはまず「?」の段階があります。聞いた時点では分かっていない状態で、「階段のジョーク」です。しかし、答えやオチが分かると、「あ、そっか!」「わはは!」と笑います。「?」= “警戒” で、「あ!」= “解除” です。そして、この「?」と「あ!」を楽しむのが笑劇です。


6・「おかしさ・おかしみ」による笑い

そうして、“プレイヤー” にとって最も重要な「おかしさ・おかしみ」による笑いの説明に入っていきます。この おかしさ・おかしみ による笑いは笑劇が主に扱うものですが、これも “警戒解除” から説明していきたいと思います。しかし、ここまででほとんど説明はできており、笑劇での典型的な「アッハッハッハ!」という笑い方の根拠も示してあるので、「?」= “警戒” で、「あ!」= “解除” ということを改めて体験して頂けたら、本論の証明は終了です。そのため、ここでやることはほとんど残っておらず、ジョークをいくつか挙げるだけにします。

それでは、一つ目のジョークです――

新聞広告:「読み書きができない? お助けできます。いますぐ申し込みを。」

マシュー・M・ハーレー、ダニエル・C・デネット、レジナルド・B・アダムズJr.『ヒトはなぜ笑うのか ユーモアが存在する理由』前掲、p.297

このジョークは分かったでしょうか? まだ分かっていなかったら「?」ですが、その状態をよく覚えておいてください。以下に解説していきます。
このジョークのおかしいところは、「 」内の文章によれば「読み書きができない」人向けの広告ですが、そういった人はこの文章を読むことができないし、「申し込みを」求めているが書くこともできないので、この広告の意味が無い、ということです。「?」だった人が納得して、「あぁ、なんだ、そういうことか! あはははは……!」となってもらえたら良いです。この “解決” が笑いです。

二つ目のジョークを、同書から引用します――

マフィンが二つ、オーブンのなかにある。一方のマフィンがこう言った、「おい、ここはあっついなぁ!」するともう片方が答えた。「うわぁ、マフィンがしゃべってる!」

同書 p.232

これは分かったでしょうか? そして、「アッハッハッハ!」となったでしょうか?(もちろん、「アハハハハ」や「ふふふ」等でもいいのですが。)  これは、後に登場するマフィンが、先に登場するマフィンが喋っていることに驚いているのですが、驚いている自分自身も喋っている、という おかしさ ですね。

次のジョークで最後にしますが、これはかなりねくり回されています――

「象はなぜ爪を赤く塗るの?」
「サクランボの林に隠れるためさ。」
「象がサクランボの林にいるの見たことあるの?」
「いいや。」
「だったら,うまくいってるんだ。」

雨宮俊彦『笑いとユーモアの心理学 ――何が可笑しいの?――』ミネルヴァ書房、2016年、pp.91-92

これは「?」ですか? それとも、「アッハッハッハ!」?
先述の通り、笑劇での笑いは おかしさ・おかしみ でのものなのですが、この「おかしいこと」に気付くと、「あ!」となります。では、このジョークでおかしいところは何でしょう?
まず、一行目の〈象はなぜ爪を赤く塗るの?〉ですが、通常 象は爪を赤く塗りません。冒頭からいきなり間違っています。次に、〈サクランボの林に隠れるためさ。〉と もっともらしく答えていますが、象はそんなことはしません。〈サクランボの林〉というのも怪しいです。しかし、そんなことを気にせずに〈象がサクランボの林にいるの見たことあるの?〉と訊き、〈いいや。〉という答えが返ってくる。彼は「象がサクランボの林に隠れる論者」なのに、自分で否定しています。しかし、その答えに対して彼女は、〈だったら,うまくいってるんだ。〉と納得してしまう、という。一行一行すべてが間違っている、という、なんともな会話です。
このジョークのおかしいところが分かりました? そして、「アッハッハッハ!」となりました?

また、笑劇はある意味では「間違い探し」のようなものでもあります。どんなギャグも「おかしい」=通常とは違うことが起きていますが、その おかしいことを「発見」するのを楽しむ、とも言えます。そして、文章作品なら「次の文のどこが間違っているでしょう」と言って出すことも可能です。それを少しやってみます。では、次の文のどこが間違っているでしょう?

当を犬けば歩も棒たる

「?」→「あ!」となりました? これは少し見ていたら分かるかと思いますが、元の文章は〈犬も歩けば棒に当たる〉です。その〈犬〉〈歩〉〈棒〉〈当〉をアナグラム(入れ替え)したものですが、その気付き・発見・“解決” が笑いです。

ちなみに、今の文章は僕の作品で、『新しい諺』(無料お試し版)でのものです。これは創作の諺集なのですが、今の〈当を犬けば歩も棒たる〉もです。そういうです。意味は、皆さんでお考えください!


7・笑えないギャグについて

今挙げたものは笑えるという前提なのですが、もちろん(残念ながら)、笑えないギャグもあります。ここでは簡単にそれについて考えてみます。

しかし、まずは、笑うとはどういうことか、の確認をします。今まで述べてきた通り、なぞなぞ のように未知の対象に “警戒” し、それが何か分かったら “解除” する、というのが笑いです。では、「笑えない」というのはどういう状態か? ここでは、“解除” できないもの=理解できないもの、とします。

木村覚先生は『笑いの哲学』(講談社、2020年)で「笑いのレヴェル」について書かれていますが(pp.129-132)、そこでは「知識のレヴェル」と「想像力のレヴェル」が挙げられ、前者は「言葉の意味がわかること」(p.129)であり、後者は「頭の中に描く力」(p.131)とされています。ここでは、まず、前者を試してみます。皆さんは以下の文の言葉の意味が分かりますか?

橋の端を走る箸

これは僕が子供向けに書いている言葉遊び集『だだぁ・ぐぅす① パロノマジー ~芸術的なダジャレ~』のものですが、もちろん意味は分かりますね。そして、頭の中で思い描くこと(=想像)もできますね。この「意味」と「想像」が欠けたら理解=“解除” はできず、笑えないということになります。「橋」も「端」も「走る」も「箸」も知らなかったら何も面白くないですからね。

では、もう一つ挙げます。これは既存のダジャレ〈布団がふっ飛んだ。〉をアレンジしたものですが、ここに出てくる語がすべて分かりますか?

布団と うどんと ルドンがぶっ飛んだ。

〈布団〉と〈うどん〉と〈ルドン〉という語が出てきましたが、「ルドン」が何か知っていますか? ご存じの方も多いと思いますが、このルドンとは、19~20世紀のフランスの画家です。かなり幻想的でユニークな作品を描いていて、その絵は何億円もの値が付きます。ここではその絵としますが、それと、布団とがぶっ飛んだ、ということです。(それとも、ルドンは知っているけど、布団とは知らない……?)  これは子供向けに作っているのですが、ルドンはあまり知らないだろうと思うので、子供達には笑えないと思います。「?」で終わるのでしょう。(音の楽しさはありますが。)

知識の問題については、「笑いの文学」は避けて通ることができません。文学は語彙ボキャブラリーありき のようなところがあり、大量の語を使います。そして、木村先生が『笑いの哲学』でこう書いて頂いているのはとても有り難いです――

不一致の笑いは、突拍子もなく、意外な情報を受け取り手に渡して、笑いを生み出す。それが笑えるためには、常識も知っていて、非常識(の側の常識)にもある程度の理解がなければならない。つまり、「笑う者」には、それ相応の教養が求められるということである。

同書 p.131

また、ラップの世界にも同様の問題があるそうで、ラッパーの Zeebra さんはラップを志す初心者達に、かなり勉強するように諭しているそうです。(p.128)  僕の《だだぁ・ぐぅす》もラップみたいになりますが……。


8・笑いを超えた「笑い」 ~或いは、“芸術” としての~

笑劇にとって「笑えない」というのは通常ネガティブなことですが、ポジティブなそれも存在します。例えば、次のような文章はいかがでしょう?

生長への傾向がみずからの有機体の同化する分子の量とつりあわない成人女性における乳房の発育停止の法則のように美しい。

A・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』巖谷國士訳、岩波書店、1992年、p.69

この文章を笑えましたか? 笑えませんでしたか?
これは、シュルレアリスムの先祖的存在であるロートレアモンという作家の文章です。正確な意味は もはや不明ですが、各語の “デペイズマン” の乱舞のようで、“言葉のサーカス” を観ているような気持ちになります。

今、「意味は不明」と言ってしまったのですが、その点では “解除” (クラシック音楽流に言えば、“解決” )は無く、そのため笑いには至りません。しかし、このロートレアモンの文章はとして価値が無いものなのか? そんなことは全然ありません。それどころか、笑いとしてかなり “高級” であることは間違いありません。こんなに文章を書けるというのは紛れもなく “才能” です。並大抵の人間にはこれほどの文章は書けません。この文章は、『笑芸』なる「笑いの文学」にとって相当の価値があります。

しかし、では、これを「笑い」としてどう位置づけるべきか? 木村先生の『笑いの哲学』中の「シュルレアリスムから見た対話」という項にはこうあります――

[…]芸術は、笑いという終点/目的に歩みを止めることなく、笑えなくなる地点にまでも突き進んで、未知の出会いを私たちに体験させようとするのである。

木村覚『笑いの哲学』前掲、p.121

こうあるように、芸術は「笑えなくなる地点にまでも突き進」みます。何度も触れたように、笑い=解除=対象認識=理解ですが、この理解を超えたものを、『笑芸』は “芸術” と呼ぼうと思います。

しかし、理解できることなど大したものではありません。それらは合理・理性・常識の内でしかなく、真正の「おかしい」とは、それら さえからも逸脱することです。(或いは、アール・ブリュットのような?)  笑いをいくらか本気で突き詰めると、笑いを超えた「笑い」という領域があることに気付きますが、『笑芸』は “芸術” を目指します。「ダダの革命を発明した男」トリスタン・ツァラは『ダダ宣言1918』でこう言いました――

われわれに必要なのは、強靭で、直截で、的確で、かつ永久に理解されることのない作品である。

大平具彦『トリスタン・ツァラ 言葉の四次元への越境者』現代企画室、1999年、p.82


9・“謎”

或いは、これを “謎” と言うことができるかもしれません。巖谷國士先生はシュルレアリスム芸術について「謎」という言葉をよく使われていますが、特にこのように書かれています――

デ・キリコの謎からイヴ・タンギーの謎、ルネ・マグリットの謎にいたるまで、シュルレアリスムの絵画は、しばしば解のない謎を、あるいは解としての謎を描いてきたのである。

M・エルンスト『カルメン修道会に入ろうとしたある少女の夢』巖谷國士訳、河出書房新社、1996年、p.232

「解のない謎」。しかし、ダリの作品は「心理学的に意味の解けてしまう」(p.231)とされていますが、そうでない、答えの出せない謎――。或いは、「解けない なぞなぞ」と言ってみてもいいかもしれません。人間に理解できることなど高が知れています。そして、人間の理性を超えた・理性の及ばない領域が存在するのも確かで、それを “謎” と呼ぼうと思います。これは理解= “解除” の無いものであり、“警戒” すべきものですが、しかし、謎というのは人の心を捉えます。例えば未解決事件がそうで、解けないからこそ惹かれるものです。ちょうど なぞなぞ のように、解けてしまえば その魅力は消滅してしまいます。しかし、芸術・文学作品ならば、“謎” は永遠の鑑賞性=寿命となります。『笑芸』は笑い以上に、“謎” を愛しています。

最後に、言語学者L・ウィトゲンシュタインと並び、西欧理性の最高到達点であったようなL・キャロルの最大の至言を挙げて終わります――

解けてしまうならどんな謎々も私には面白くない

『ルイス・キャロルの知的ゲーム』鈴木瑠璃子・長島富太郎編訳、大修館書店、1987年、p.48


10・まとめ

以上が、 “警戒解除論” での、笑劇で扱う「おかしさ・おかしみ」による笑いの説明です。納得して頂けましたでしょうか? 他にも取り扱わねばならない笑いがあるのですが、ひとまずここで、まとめておきます。

本稿は “警戒解除” ですべての笑いを説明するという試みであり、その発生を原始・サバイバル世界に求めました。草むらでゴソゴソしているのがヒョウかもしれないため “警戒” し、戦闘・防御・逃走等のために酸素を蓄え、それが無害だと分かったら “解除” し、頬・目・口を緩め、息を吐き出します。これが笑い声の起源であり、その正体は「蓄えたが不要になった酸素の放出」でした。そして、現代の笑劇での おかしさ・おかしみ による笑いでも同じ構造メカニズムで、ギャグやジョークに対して、最初は理解できず “警戒” し、また「?」となるが、それが理解できたら「あ!」と “解除” し、さらに酸素を「ハッハッハッハ」と放出していく。これが笑いの正体でした。そして、笑いは、生死さえも懸かった生命活動の一つなのでした。

以下には、この “警戒解除論” の基になった研究・文献を挙げます。そして、それで第1章は終わります。第2章以下は、おかしさ・おかしみ以外による笑いの説明に入っていきます。


11・岸田秀 理論

さて、この “警戒解除論” の基になった一番最初のものは、心理学者・岸田秀先生のもので、「笑いについて」という論文です。(『続 ものぐさ精神分析 改版』中央公論新社、初版1982年、pp.287-296)  

この論文で岸田先生は、ベルグソンやパニョルやフロイドや梅原猛の笑いの理論を挙げ、ベルグソン・パニョル・梅原の理論は――

[…]人間において、なぜ笑いという特定の結果を生じさせるかを説明していない。

同書 p.295

と批判されています。これは非常な至言だと、僕は思います。笑いは何よりもまずによるものなので、いくら構造や原理を調べたところで身体面に結び付けることができねば、理論としては失敗です。また、後述しますが、アリストテレス以来 笑いの研究は行われてきたのですが、現在に至るまでその統一に失敗してきたのは、笑いの身体的基盤を求めなかったからです。そして、この岸田先生の言葉を受けて、僕は笑いの理論(本稿)を身体的な考察から始めました。なお、この「笑いという特定の結果」とは、おかしいことがあると笑うが、例えば、泣くでもなく、歌うでもなく、眠るでもなく、飛ぶでもなく、なぜ笑うのか? ということで、「笑いの理論」はこの最も根本的なことを答えられねばなりません。

岸田先生はフロイドはこの点に触れているとして、フロイドの理論を紹介するのですが、「[…]あまりにもエネルギー論的立場に囚われており、もっと機能的な見方が必要であろう。」(pp.295-296)と書かれています。

そして、岸田先生の笑いの定義はこうです――

[…]笑いとは、「共同幻想(擬似現実)の崩壊または亀裂によって起こる、それが要求していたところの緊張からの解放」の表現である。ただ、断っておかねばならないが、共同幻想の崩壊は必ずしもつねに笑いを惹き起こすとはかぎらない。よく言われるように、われわれは、紳士がころべば笑うが、彼がけがをして血を流せば心配して不安になるであろう。共同幻想の崩壊が笑いを惹き起こすのは、それが好ましく、たいして重大ではなく、別の緊張を要求しない場合であり、条件次第で、笑いのほかに、悲しみ、怒り、恐れなどの情緒を惹き起こすであろう。

同書 p.296

この「共同幻想(擬似現実)」という言葉は岸田心理学の特徴的なものですが、ここでは簡単に、「常識」や「社会通念」といったくらいでいいと思います。そして、それが「崩壊または亀裂」して起きる「緊張からの解放」が笑いである、と。この常識の崩壊とは、今の引用中にあるものでは、「紳士がころべば笑う」です。通常 紳士とはクールなダンディさんであり、そんな人は転ぶはずがないと皆 思っています。それが「常識」です。しかし、転ぶ。そして、その常識が「崩壊または亀裂」=常識が崩れる。そして、笑う。しかし、「それが要求していた」場合に。これは例えば、紳士に大変な憧れを抱いている人は、そのクールでダンディな「共同幻想」が崩れては困るので、要求していない。そのため、笑わない。また、要求している人の場合でも、きちんと「彼がけがをして血を流せば心配して不安になるであろう」とフォローしてありますが、この「心配」や「不安」とは “警戒” です。そして、「共同幻想の崩壊が笑いを惹き起こすのは、それが好ましく、たいして重大ではなく、別の緊張を要求しない場合」とあるのも、“警戒” を起こさない範囲で、ということです。

僕が岸田先生を知ったのは立川談志師匠の落語論からなのですが、この岸田理論は笑いの学術書にはまず出てきません。誰も知らないのでしょうか? 僕としてはこの理論は、何も間違っているところなどない、と思っているのですが、それどころか細部にまでケアが行き届いていてもないと思っているのですが、皆さんはどう思われますでしょうか?


12・ラマチャンドラン理論 ~誤警報理論~

僕の “警戒解除論” が最も影響を受けている理論が、ラマチャンドランという(エスニック料理と特撮の怪獣が混ざったような名前の)学者とブレイクスリーの「誤警報理論」です。この理論は前出のハーレーとデネットとアダムズJr.の共著『ヒトはなぜ笑うのか ユーモアが存在する理由』で紹介されていて、先の岸田先生の身体面への言及と併せて、初読で「あ、これだ」と思いました。ご察しの通り、ラマチャンドラン&ブレイクスリーの「誤警報理論」と僕の “警戒解除論” は名称が似ており、内容もほぼ同じです。しかし、この理論の紹介の前に、まずは “警戒解除論” の名称の良さについて書きます。

簡単なことなのですが、この “警戒解除” というのは、が良いです。〈〉と、[kkkj]です。[k]が3連続し(軽快に?)、最後の[j]で重く締める。また、中句(〈戒解〉)で[カイ]が2連続するのもリズミックです。結語の[ジョ]も、例えば、[]や[]や[]では駄目で(弱く締り無さすぎ)、また、[]や[]や[]でも駄目で(重さは良いが響き・派手さが弱い)、やはり[ジョ]が一番良いです。当書にはこの訳語は出てこないのですが、ラマチャンドランの理論を読みながら、僕が勝手にこう訳しました。が、名訳になったと思います(!?)。笑いの世界において、語呂というのは非常に重要です。

さて、この理論は同書『ヒトはなぜ ~』のp.422 ~ 425 で紹介されているのですが、まずはその核心部分を引用します――

ラマチャンドランとブレイクスリーは、笑いは「虚偽の警告」シグナルから進化してきたのだと答えている。

同書 p.422

チンパンジーも含め、一部の種では、「安心しろ、ヤバイのはいない」シグナルがあり、警戒を解くのに使われる。たとえば、類人猿や初期のヒト科の群れは、草むらがガサガサ音を立てているのはライオンが忍び寄っているからだと予想してパニックに陥ったとき、実はそにに脅威はいないと判断したメンバーが発声して心配から解放されうる。ラマチャンドランの理論によれば、そうしたシグナルこそが、まさに進化の上で笑いの先祖となっている。笑いもまた、文化に慣れ親しむことなく創発できるように見受けられるし(Eibl-Eibesfeldt 1989)、また、警戒の叫びと方法も使用パターンも似ているように見受けられる(Deacon 1989; Preuschoft and van Hooff 1997; Provine 1996, 2000)。

同書 pp.422-423

お気づきだと思いますが、本稿はこの引用部の流れをかなり踏襲させて頂いております。(元々の「笑芸ダダ宣言2019」は別の説明の仕方でしたが。)  まず、「「安心しろ、ヤバイのはいない」シグナル」が「警戒を解くのに使われる」とありますが、これがそのまま “警戒解除” になっています。次に「草むらがガサガサ音を立てている」とありますが、これも本章「2・草むらのゴソゴソ」でそっくりお借りした状況シチュエーションです。多分、この説明が一番分かりやすいのだと思います。そして、「実はそにに脅威はいないと判断したメンバーが発声して心配から解放されうる。」  これは “解除” です。そして、「ラマチャンドランの理論によれば、そうしたシグナルこそが、まさに進化の上で笑いの先祖となっている。」  これについては、本章以降でおかしさ以外の笑いを説明しますが、僕もラマチャンドランと同様に、笑いのすべての起源は “警戒解除” だと思っています。

このように、ここまで我が物顔で唱えていた “警戒解除論” は本当はラマチャンドランとブレイクスリーのものであり、僕の笑いの理論は彼等の肩の上に乗っているだけです。

当書の著者のハーレー達はこの理論によって二つ説明されることがあるとし、「一つは笑いで感じられる愉しみ」(p.423)、「もう一つは笑いの感染」(同貢)と書いています。前者は、しかし、「ユーモアを知覚して感じられる愉しみとは別物かもしれないとされる」(同貢)と書いていますが、僕はここまで見てきた通り、ユーモア=おかしさ・おかしみと “警戒解除” は同根だとしています。後者の「笑いの感染」については、これは実はとても大きなテーマで、簡単な例では「つられ笑い」がそうなのですが、なぜ誰かが笑うと自分や他の人も笑うのか? これも後述しますし、今の引用中にもありますが、「安心しろ、ヤバイのはいない」というシグナルによって群れの仲間に知らせていたこと(また、知らされていたこと)がその起源であるはずです。弱者だった人類ヒトは常に群れで行動しなければ猛獣に襲われるだけだったのですが、誰かが “解除” の合図を出したら、近くにいた仲間も “解除” し、その近くにいた仲間もさらに “解除” し…… と連鎖が続いていったのだと思います。現代でもよく生じる つられ笑いというのは、このように起源を求めることができるはずです。

また、ハーレー達はこう書いています――

おそらく、笑いの誤警報理論と遊戯理論家の説明は、一本化できる。遊戯理論によれば、遊んでいるとき攻撃する気がないことを伝えるシグナルとしてあえぎ声を発していたのが儀礼化した形式が笑いなのだと考えられる。

同書 p.423

笑いの理論では「遊びの笑い」もかなり大きなテーマですが、僕もハーレー達と同様に、「笑いの誤警報理論と遊戯理論家の説明は、一本化できる」と思っています。遊びの笑いについても後述しますが、動物でもヒトでも子供が遊ぶ時(追い掛けっこやチャンバラごっこやプロレスごっこ等)、「ハッハ」や「キャッキャ」といった声を出して笑います。これも “警戒解除” から説明すると、本章の冒頭「1・笑うと力が抜ける」を思い出して頂きたいのですが、笑っていたら力が入りません。そのため、の攻撃(ボクサーのパンチのような)にはなり得ません。この笑いが「遊び」であること(本気ではないこと)のシグナルになっているはずです。しかし、遊びの生物的役割はかなり大きいので、それについては後述します。

そして、ハーレー達はこの節を以下のように締めくくっています――

こうしたシグナルの応用を遊び行動にまで拡張するのは小さな一歩でしかない。というのも、こうした行動は潜在的に死に至るほど深刻だと誤読される余地があるからだ。遊び行動が洗練されていき、また、真性の警告の機会が遠ざかるにつれて、いまや昔の名残となった本能的な叫びは、信頼でき仲間に感染する「いい気分だな」シグナルとして生き残ったわけだ。

同書 p.425

基本的な理路は まったくこの通りだと思います。

「警戒シグナルの進化に関する文献では、激しい論争が展開されている。」(p.425)と書かれていますが、「笑いの理論」はラマチャンドランとブレイクスリーの “誤警報理論” で決着がつくと思います(アリストテレス以来2000年以上も続いたこの難問が!)。

しかし、「虚偽の警告」や「誤警報」は、あまり語呂が良くない……


13・ハーレー理論 ~バグ取り理論~

“誤警報理論” はハーレー達の『ヒトはなぜ ~』で知ったのですが、では、当のハーレー達の理論は何か? 

それは、「バグ取りの報酬」という理論です。これは、バグ(間違い)を発見した時にその報酬として “快” を感じる、というものです。なぜバグ(間違い)を発見すると良いのかは、エラーを探し出した分だけ自然界で生き残れる可能性が高くなるからです。そして――

不一致の発見で生じるおかしみ・ユーモアの情動は、一種の報酬だ。エネルギーたっぷりの果糖がもたらす甘さの快感が果糖を含む食べ物を探し求める動機付けになるのと同じように、ユーモアの情動は、知識・信念のバグをつきとめる作業をうながす動機付けになっている。

同書 pp.520-521

こういったものがハーレー達の「バグ取り理論」です。

僕は「6・「おかしさ・おかしみ」による笑い」で、「笑劇はある意味では「間違い探し」のようなものでもあります」と書いたのですが、これと近いものです。実際、彼等はこう書いています――

[…](基本的な)おかしみとは、[…]特定の種類のまちがいを明るみに出すことに感じられる快感、愉しみのことだ。また、(基本的な)ユーモアとは、意味論的な環境[…]の一種だ。外生的なものであれ内生的なものであれ、意味論的な環境でこうしたまちがいがなされ、首尾よくそれが発見されれば、どんなものでもそれはユーモアにあたる。

同書 pp.199-200

僕はジョークや笑劇を、おかしい=間違っているところを発見して楽しむもの、という風に書きましたが、ハーレー達もバグ取りが “快” になるとしています。

このように、大体の方向性は一致しているのですが、何度も言っている通り、彼等の理論には笑いの身体的基盤・根拠が弱いです。後出の雨宮俊彦先生も指摘されていますが、くすぐり での笑いが説明できません。また、挨拶の笑いや可愛いものを見た時の笑いや極限状態での笑いも説明できないと思います。僕は本章以降でこれらを “警戒解除” から説明しますが、当書ではハーレー達の理論より、ラマチャンドラン&ブレイクスリーの理論の方が素敵でした。(ジョークはたくさん載っていて面白かったですが。)


14・雨宮俊彦 理論 ~「くすぐり」による笑いから~

最後に紹介するのは、雨宮俊彦先生の「くすぐり」による笑いからの説明です。ただ、僕の “警戒解除論” はラマチャンドランとブレイクスリーからのもので、雨宮理論にはそこまで影響を受けていないのですが、くすぐり という身体的基盤を求めてそこから始めていらっしゃるので、紹介することにします。

『笑いとユーモアの心理学 ~』(前掲)の「第3章 可笑しさの系譜を探る」(pp.53-97)にこの理論が載っています。雨宮先生はまず――

くすぐりによる笑いは身体の笑いの典型であり、ジョークの滑稽さによる笑いは精神の笑いの典型である。

同書 p.53

として、さらに――

本章では、くすぐりから始めて言語的ジョークまで、身体の笑いから精神の笑いへと、可笑しさの系譜を探ってみることにする。

同前

このように、くすぐり という身体的な笑いから始めて、ジョークに代表されるような精神的な笑いを説明しよう、という試み・流れです。なお、くすぐり による笑いと滑稽さによる笑いの類似性は、ダーウィンとヘッケルという人達が早くも指摘していたそうです。そして、雨宮先生は くすぐり の基本的な考察から始めて、それを遊びの笑いに接続し、最終的にユーモア(諸々の可笑しさ)へと結び付けます。

何度も言う通り、これまでの笑いの理論が失敗に終わってきたのは、その起源・基盤を身体面に求めなかったからですが、雨宮先生はきちんと「くすぐり」という身体的な笑いから始められています。しかし、途中で遊びの笑い(「プレイ・ファイティング」)に接続するのですが、この遊びの笑い自体がもう一歩踏み込めると思います。僕はそれにすでに触れましたが、雨宮理論はこの遊びの笑いの根拠が弱いように思えます。

また、「ユーモア(おかしさ・おかしみ)」に関する笑いの研究なのでこう批判するのは的外れですが、この理論では、例えば、挨拶の笑いや可愛いものを見た時の笑いや極限状態での笑いが説明できなさそうです。これらは最初から度外視されているのだと思います。しかし、“笑いの統一理論” はすべての笑いを説明できねばならないので、僕は本章以降で説明していきます。

ちなみに、当書ではラマチャンドランの理論も1ページほど紹介されています(p.74)。そこでは「アラーム解除」とされていますが、[]はどうも丸まっこくて弱い……。やはり[k・k]が良いです……。


以上で第1章は終了です。
第2章では、僕の手には負えない膨大な量・範囲の笑いの研究について書いていきます。






*本稿は長くなるため、記事を4つに分けての投稿になります。本記事は一旦ここで終えます。続きは「笑いの理論 ~或いは、その体系化への試論~(2)」をご覧ください。



note 運営様へ

本作の続編を以下に載せますので、よろしくお願い致します――

「笑いの理論 ~或いは、その体系化への試論~(2)」
「笑いの理論 ~或いは、その体系化への試論~(3)」
「笑いの理論 ~或いは、その体系化への試論~(4)」



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