笑いの理論 ~或いは、その体系化への試論~(2)
*本記事は「笑いの理論 ~或いは、その体系化への試論~(1)」の続きです。未読の方はそちらを先にご覧ください。
本記事は第2~4章のみの掲載です。
第2章 本稿が取り扱えない領域
第1章では “警戒解除” から笑劇での「おかしさ・おかしみ」による笑いを説明しましたが、それ以外の笑いも “警戒解除” から説明していかねばなりません。しかし、その前に、本稿が取り扱えない領域を示します。そのことによって、笑いの研究の全体像が把握できるかと思います。なお、それらを取り扱えない理由は主に三つで、一つはかなり専門的であるため、もう一つは膨大な量であるため、もう一つは “プレイヤー” がやることではないため、です。そのため、この章では、それらの分野と参考文献を挙げるのが主になります。簡単な説明・紹介もしますが、興味をお持ちになった方は、ぜひそれらをご覧ください。
1・精神生理学・脳科学等
まず、本稿が取り扱えない領域は、精神生理学や脳科学等の医学的領域や動物の進化学です。これはまったく “プレイヤー” がやることではないため、すべて専門の方・研究にお任せします。今回参考にさせて頂いた文献は以下のものです(既出のものもあります)――
志水彰・角辻豊・中村真『人はなぜ笑うのか 笑いの精神生理学』講談社、1994年
志水彰『笑い/その異常と正常』勁草書房、2000年
苧阪直行『笑い脳 社会脳へのアプローチ』岩波書店、2010年
昇幹夫『最新版 笑いは心と脳の処方せん』二見書房、2015年
ノーマン・カズンズ『笑いと治癒力』 松田銑訳、岩波書店、2001年
友定啓子『幼児の笑いと発達』勁草書房、1993年
鈴木光太郎『ヒトの心はどう進化したのか――狩猟採集生活が生んだもの』筑摩書房、2013年
正高信男・辻幸夫『ヒトはいかにしてことばを獲得したか』大修館書店、2011年
正高信男『ことばの誕生』紀伊國屋書店、1991年
エヴァ・メイヤー『言葉を使う動物たち』安部恵子訳、柏書房、2020年
NHKスペシャル取材班『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』KADOKAWA、2014年
NHK BS『コズミック フロント☆NEXT』「人類絶滅寸前! 超巨大噴火」初回放送2018年8月2日
NHK BS『ヒューマニエンス 40億年のたくらみ』「 “快楽” ドーパミンという天使と悪魔」初回放送2021年9月9日
簡単に触れますと、まずノーマン・カズンズさんの『笑いと治癒力』ですが、こちらは もはや古典となっているもので、著者のカズンズさんが難病を笑い(ユーモア)によって克服した、というものです。近年では笑いが健康に良いということは完全に判明していて、「笑いヨガ」といったものも出来ていますが、そういったものの草分け的存在となった書物です。なお、笑いが健康に良いということを “警戒解除” から簡単に説明してみます。笑うことによって全身へ血液が巡るため身体・健康に良いということなのですが、その呼吸は普通のものでは弱いです。僕は第1章で――
「アッハッハッハ」という笑い声では、息が通常の呼吸で吐き出すものより何倍も強く吐き出されますが、それは蓄えた酸素が通常より何倍も多いためです。その大量の酸素を吐き出すには通常の呼気では不十分であり、生死が懸かった緊張の後では、このような大きな放出が必要になります。
と書いたのですが、生死が懸かった局面での酸素の蓄え・放出でなければ、全身へ血液を送ることはできないと思います。
『人はなぜ笑うのか 笑いの精神生理学』と『笑い/その異常と正常』では、笑った時の顔・身体の科学的考察や、動物から引き継いだ笑い顔・表情の研究や、人間の笑い声・顔のデータ的分析等が載っています。この二書は第1章でも引用させて頂きましたが、笑いの身体的研究にはこれらをオススメします。また、『笑い/その異常と正常』には笑いの起源となった表情について書いてあるので、後のためにここで触れておきます。
まず、「笑いの起源となった表情とされるものの中で最も有力なものは動物の歯をむき出す動作である。」(p.33)とされ、二つ考えられるうちの一つが――
[…]口に入った有害なものに対する防御反応であり、口角を後へ引き、歯をむき出し、舌を突き出し、口腔内のものを吐き出そうとする動作がその原形である。やがて、フクロネズミから霊長類に至る多くの哺乳動物で、驚いた際にこの表情がみられるようになる。この表情は高い音声を伴ってみられることが多いが、これは有害物質が吸い込まれないように声門を閉じ、呼吸を中断した後それに続く強い呼気が起こるためであり、言語の原形との推定もなされている。より進化した霊長類ではこの発声が省略され、驚きに際して歯をむき出すという動作だけが残り、これが仲間に危険を報せる意味をもつようになる。こうして最初は防御反応であった歯をむき出すことが、やがて防衛のための表情としての意味をもつようになる。さらに変化してこの動作は、自分が攻撃する意図はないが、攻撃を受けるかもしれない相手に近づく時に敵意のないことを示す意味で用いられるようになり、これがマカク類のサルの「劣位の表情」となった。この表情がさらに人間のあいさつの際などのほほえみへ発展したことはすでに述べた。こうして有害物質を吐き出すための歯をむき出す動作は「社交上の笑い」へ発展した。
少々長いですが、このように、「あいさつの際などのほほえみ」や「社交上の笑い」は元々は「口に入った有害なものに対する防御反応」だったそうで、動物の長い進化の結果、現在に至っているようです。
苧阪直行先生の『笑い脳 社会脳へのアプローチ』では、人間が笑う時に脳内でどのようなことが起きているかが書かれています。後で「不一致・ズレ」や「予期・予測に反すること」による笑いの理論を扱うので、ここでそれについて触れておきます。
当書では、驚きや期待していない事柄が出現した際に出る「N400」と呼ばれる脳波が紹介されています。(pp.26-27) このN400は1980年にクータスとヒルヤードという学者達によって発見されたそうですが――
おもしろいのは、単語や文章を理解する際に、意味的に逸脱した言葉や馬鹿げた言葉が出現すると観察されることである。筆者の考えでは、これはユーモアやジョークなどの理解につながる。言い換えれば、N400は文脈的に期待していた言葉が意外な言葉に置き換えられたとき、その意外性やコントラストに比例して、かつ期待を裏切られた不一致の程度に比例して出現するというおもしろい性質を帯びている。
このように、予期・予測に反した事象・言葉に出会った際に出る脳波があり、それが「ユーモアやジョークなど」の笑いに関係していくそうです。また、意味的に逸脱した際にN400が大きく出るという実験結果もあるそうで、次の文が挙げられています――
彼は焼きたてのパンに靴下をぬった。
これはギャグそのものですが、〈靴下〉をパンに塗ったということで、通常の事象・言葉とはかなり逸脱し、N400が大きく出たそうです。そして、苧阪先生はこう書かれます――
このように、N400は意味的逸脱をよく反映することから、ズレ(不一致)によって笑いが生まれると考えたい筆者にとっては魅力ある指標だ。
僕は笑いの起源を “警戒解除” としていますが、実践的には「不一致・ズレ」や「予期・予測に反すること」を目指すので、それらの脳的な根拠はここにあるのかもしれません。或いは、シュルレアリスムの “デペイズマン” の脳的根拠も……?
友定啓子先生の『幼児の笑いと発達』ですが、これは友定先生が実際に保育の現場で観察したもので、子供達の笑いがどう身についていくかが感動的に書かれています。僕は名著だと思っています。ぜひ一読をオススメします。また、後の「遊びの笑い」にも子供達の笑い(特に「学習」)が深く関係してくるので、その時にまた取り上げます。
NHKスペシャル取材班による『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』ですが、この研究が「挨拶の笑い」と「笑い顔の万国共通性」を説明するために必要となるので、第5章で取り上げます。この『ヒューマン』も大著です。また、この研究・取材を基に作成されたNHK BS『コズミック フロント☆NEXT』「人類絶滅寸前! 超巨大噴火」も参考にさせて頂きます。そして、最後のNHK BS『ヒューマニエンス 40億年のたくらみ』「“快楽” ドーパミンという天使と悪魔」は、「笑いの理論」の完成のラストピ-スであり、最終章で必要になります。(だから、NHKというのは凄いです。)
2・民俗学・民族学
日本の笑いの民俗史や外国の笑いの考察、また、それらの比較も本稿では取り扱えません。これらも参考文献を挙げるので、すべてそれらのご研究にお任せさせて頂きたく思います。しかし、笑いのメカニズム・構造・原理は世界で普遍的であり、特に笑劇での おかしさ による笑いは第1章で見た通りです。また、日常生活での笑いについても、第5章で説明してきますが、すべての根底に “警戒解除” があります。特に挨拶の笑いが分かりやすいですが、日常生活での笑いは人間関係を保つために必要なので、後でそれを示すことができたらと思います――
柳田国男『不幸なる芸術・笑の本願』岩波書店、1979年
深作光貞『日本人の笑い』玉川大学出版部、1977年
樋口清之『日本人の歴史◎第九巻 笑いと日本人』講談社、1982年
塚埼進『笑いの誕生 日本人の心にあるもの』社会思想研究会出版部、1960年
梅原猛『笑いの構造 感情分析の試み』角川書店、1972年
小林章夫『イギリス紳士のユーモア』講談社、2003年
宮田光雄『キリスト教と笑い』岩波書店、1992年
大島希巳江『日本の笑いと世界のユーモア――異文化コミュニケーションの観点から』世界思想社、2006年
井上宏『笑いの人間関係』講談社、1984年
3・各笑い論
最後に、本稿の参考文献として、諸々の笑い論を載せます。本稿は笑いの起源を “警戒解除” に求めようという試みのため、それから外れるものが多いですが、笑いの研究はかなり多岐に渡っていて相当な量がある、ということを知って頂けたらと思います(既出のものもあります)――
マシュー・M・ハーレー、ダニエル・C・デネット、レジナルド・B・アダムズJr.『ヒトはなぜ笑うのか ユーモアが存在する理由』片岡宏仁訳、勁草書房、2015年
雨宮俊彦『笑いとユーモアの心理学 ――何が可笑しいの?――』ミネルヴァ書房、2016年
エリック・スマジャ『笑い―その意味と仕組み』高橋信良訳、白水社、2011年
ベルクソン『笑い』林達夫訳、岩波書店、1938年
マルセル・パニョル『笑いについて』鈴木力衛訳、岩波書店、1953年
木村洋二『笑いの社会学』世界思想社、1983年
梅原猛『笑いの構造 感情分析の試み』角川書店、1972年
山口昌男『笑いと逸脱』筑摩書房、1984年
井上宏『笑い学のすすめ』世界思想社、2004年
井上宏・織田正吉・昇幹夫『笑いの研究』フォー・ユー、1997年
織田正吉『笑いとユーモア』筑摩書房、1986年
織田正吉『笑いのこころ ユーモアのセンス』岩波書店、2013年
中村明『笑いのセンス――日本語レトリックの発想と表現』岩波書店、2011年
木村覚『笑いの哲学』講談社、2020年
加藤尚武『ジョークの哲学』講談社、1987年
『現代思想 特集=笑い』1984年2月、青土社
麻生磯次『笑いの文学』講談社、1969年
H・ベルクソン/S・フロイト『笑い/不気味なもの 付:ジリボン「不気味な笑い」』平凡社、2016年
ここでは3つの文献に触れてみます。
一つ目は、雨宮俊彦先生の『笑いとユーモアの心理学 ――何が可笑しいの?――』です。これは第1章でも取り上げさせて頂いたのですが、笑いの研究書を読んでみたい人に一冊だけ勧めるなら、この本です。かなり網羅的な内容で、ユーモア自体の考察や身体面の分析や笑いの小哲学史が紹介されていて、これ一冊でかなり多くのことが学べます。また、他の本では紹介されていない新しい理論も多く載っています。300ページほどあり、引用・参考文献だけで20ページくらいあります(!)。定価は3500円ですが、これ一冊あれば他の文献はそこまで読まなくてもいいくらい充実している本です。かなりオススメの文献ですので、ぜひご一読を!
二つ目は、梅原猛先生の『笑いの構造 感情分析の試み』です。この研究は次の第3章でも挙げるのですが、それとは別のもので、現在でも有効な論が展開されています。それは日本人の精神・社会構造なのですが、江戸時代から続いている根深いものだそうです。そして、現代の笑いもこの精神の延長であることがよく分かります。50年も前の研究ですが、現代でも十分に読む価値があります。また、梅原先生は、笑いを研究するにつれて、それを理解するには笑い以外の感情も理解しなければならないとして、日本人の心全体を研究対象とし、古代日本にまで遡って行かれました。完全に正しいと思います。
最後は、H・ベルクソン/S・フロイト『笑い/不気味なもの 付:ジリボン「不気味な笑い」』です。これはベルクソンとフロイトの両論文が載っているのですが、それ以上に、ジリボンという人の「不気味な笑い」が凄いです。これはその二人の著作を通底させながら、言語=「枠」=意味の崩壊した世界(「カフカ的宇宙」とも言われている)を示現してくれます。「不気味な笑い」は50~60ページほどの小著ですが、相当に力の強い作品です。ベルクソンとフロイトの著作がメインとされていますが、ジリボンの著作の方が強烈です。これも一読の価値はあります。なかなか難解ですが、ぜひ挑んでみてください!
このように、笑いの研究と言っても相当な領域があります。これを僕一人でやりきるのは難しいので、今回は他研究に譲らせて頂きます。また、ここに挙げたのは今回僕が参照したもののみで、これら以外にも大量にあります(特に科学・医学と社会学、また人類学と動物進化学)。しかし、これらを “警戒解除論” と接続できたら、ほぼ完全な「体系」となるはずです。今回はその全体像を示すことができていたら、と思います。
第3章 古典的な笑いの理論
第3章では、これまでに唱えられてきた主要な笑いの理論を簡単に紹介し、批判していきます。もちろん僕の立場は “警戒解除論” なのですが、従来の笑いの理論をこの立場から見ていきます。
まずは、主要な理論を箇条書きにして挙げます。そして、その後に一つ一つ検討していきます――
1・アリストテレス:滑稽理論
2・ホッブス:優越理論
3・パニョル:勝利の歌 理論
4・ベルクソン:機械的こわばり理論
5・カント:期待・予期の無化 理論
6・ショーペンハウアー:不一致・ズレ理論
7・梅原猛:異なった意味・価値領域に属する二つのものの、コントラストにより起こる価値低下 理論
8・スペンサー:余剰エネルギーの放出 理論
以上の8つの理論を、以下で見ていきます――
1・アリストテレス:滑稽理論
まず、万学の祖・アリストテレスの笑いの理論ですが、彼は笑いを滑稽さによるものとしています。特に、劣ったものや醜いものへの嘲笑的なものであり、いわゆる「優越理論」に分類されます。彼は、人が他者の欠点や失敗を見たときに笑いが生じるとしていますが、この考えでは、挨拶の笑いや空腹が満たされた時の生理的な笑いや照れ笑い等、諸々が説明できません。この理論以外もそうですが、従来の笑いの理論は正しいところはあるものの、それは一部であり、すべての笑いを説明できるものではありません。また、岸田先生が言われていた通り、「なぜ笑いという特定の結果を生じさせるか」についても判明しません。「笑いの統一理論」はこういったことを説明できねばなりません。
2・ホッブス:優越理論
次に16~17世紀の哲学者トマス・ホッブスの有名な「優越理論」ですが、彼のこの理論はアリストテレスからの影響があり、かなり近しいものです。そして、同様に、人が他者の欠点や愚かさを認識し、それと比較して自分を賞賛する時に笑いが生じる、としています。しかし、アリストテレスとは異なり、「突然に優越を感じた場合」という条件付きです。が、この条件を付加したところで、先と同様に、挨拶の笑いや空腹が満たされた時の生理的な笑いや照れ笑い等の笑いを説明できるものではないので、「統一理論」にはなりません。彼等の優越理論は根強いですが、そこまで気にするものではありません。
3・パニョル:勝利の歌 理論
19~20世紀の劇作家マルセル・パニョルは、笑いを「勝利の歌」としていて、これも優越理論の一種です。彼によれば、例えば、バナナの皮を踏んで転んだ男に対して、自分なら転ばなかった、と優越を感じて笑うそうです。これに対して、岸田先生は「笑いについて」でこう批判されています――
パニョルの説では、なぜ笑いが好意や歓迎を示すために用いられるのかの説明がつかない。
そして、岸田先生はこの後に続けて挨拶の笑いを挙げてパニョル説を反駁するのですが、このように、これまで唱えられてきた笑いの理論は、笑いの一部をしか説明していません。もちろん、その一部は正しかったとしても(実際、パニョルの言うような仕方で笑うことがある)、すべての笑いを説明できねばなりません。
4・ベルクソン:機械的こわばり理論
笑いの理論の中で一番有名なのが、ベルクソンの『笑い』かもしれません。そして、彼(とフロイト)がこの著作を20世紀初頭に発表して以来、「笑い」が本格的に学術・哲学として探究され始めたそうです。その歴史的意義はかなり大きい彼の『笑い』ですが、ここでは批判しなければなりません。
まず、彼の『笑い』を読み始めてすぐに(副題に)、「おかしみの意義についての試論」(前掲、p.5)とあります。これを読み落としてはなりません。彼が当書で問題にしているのは「おかしみ」(主には喜劇での)であり、ここまで他の説を批判してきたように、おかしみ以外の笑いは対象とされていません。そのため、当書を笑い全般に関する研究とするのは見当違いです。多くの研究者が「笑いと言えばベルクソン」としていますが、すべての笑いを説明するものではありません。この点を踏まえていれば、笑いの研究でいちいち彼の説を取り上げ批判する労は無くなるはずです。
さて、彼の理論ですが、流動する生命の上に張り付けられた機械的なこわばりを笑う、というものです。先のバナナの皮で滑って転んだ人の例で言うと、生命を持つ者なら柔軟な対応をしてバナナの皮を避けるべきなのに、そのまま変わらず(機械的に)歩き続け皮を踏んでしまう、というところに おかしさ があるとしています。バラエティー番組ならこれで良いのですが(実際、現代の喜劇にも応用されています)、彼はさらに、その人を笑うことによって「矯正」すると言い、笑いには機械的なこわばりを修正する社会的な機能がある、としました。これは なかなかネガティブな嘲笑のようですが、元々『笑い』はベルクソン哲学の一部として書かれたものなので、ここにも彼の「生の躍動」といった哲学が貫かれているようです。
そして、彼の理論の有効な範囲もそこまでで、何度も挙げるように、挨拶の笑いや空腹が満たされた時の生理的な笑いや照れ笑い等の笑いを説明できません。つまり、笑いの起源・統一理論を求める際には彼の理論は、あまり熱心に取り上げる必要が無い、ということが分かって頂けたかと思います。
5・カント:期待・予期の無化 理論
次に取り上げるのは、18世紀の哲学者イマヌエル・カントが唱えたものですが、まずこれまでと同様の批判をすると、この理論も挨拶の笑いや生理的な笑いや照れ笑いが説明できません。特に「おかしさ」や「諧謔」についての分析です。しかし、この理論はほぼ必ず笑いの研究書で取り扱われ、また、現代の(日本の)笑劇ともかなり相性が良く、先述の桂枝雀師匠の「緊張と緩和」理論はこの系譜にあります。そのため、以下で、「おかしさ・おかしみによる笑い」の分析として考察してみます。
しかし、その前に、カント哲学においての「笑い」の位置ですが、重要な位置を占めるものではありません。笑いについて書かれているのは『判断力批判』なのですが、その「第2章 崇高の分析論」の「B 自然における力学的崇高について」の「54 注」(または「注解」)として書かれているにすぎません。彼にとっては笑いは「注」です。笑いの研究では彼の理論は有り難がられますが、彼にとっては「注」です。なお、この「注」の中には、笑いの他に「賭け事(ギャンブル)」と「音楽」も含まれています。前者については元々美学的でないとして除外されていますが、音楽も高い位置ではありません。笑いと音楽について、彼はこう書いています――
[…]これら両種の遊びにおいて我々の心に与えられる生気は、たとえ心における理論によって喚びおこされるにせよ、しかし畢竟は単なる身体的なものにすぎない[…]。
このように、笑いと音楽という遊びは「単なる身体的なものにすぎない」とされています。同様に、心・精神への貢献も少ないとされています。しかし、では、バッシングされているのかと言うと全然そうではなく、むしろ肯定さえしています。例えば、彼はこう書いています――
[…]かかる遊びがどんなにか楽しいものであるに違いないということは、我々の催す夜会がこれを証明している、実際こういう遊びが加わらないと、およそ夜会というものは一向に面白くないのである。
生真面目な性格で知られるカントですが、こういった遊びにも嗜んでいたそうで、懐の深い人です。しかし、こういうようなわけで、彼の笑い論には身体面への言及が多くなっており、僕の説とも相性が良いです。そうして、彼の理論を見ていきましょう。
最初に確認しておきますが、彼はこう書いています――
およそ我々の一切の思考は、同時に身体の諸器官におけるなんらかの運動と調和的に結びつくものである[…]。
彼は思考と身体は関係していると考え、さらにこうも書いています――
[…]およそ一切の感覚的満足は、たとえ美学的理念を喚びさますような概念を機因として生じたものであるにせよ、すべて動物的感覚、換言すれば身体的感覚に帰するというエピクロスの説は、十分に認容されてよいと思うのである。
このように、彼は「感覚的満足」(笑いはここに含まれる)が「身体的感覚に帰する」とし、それも「動物的感覚」とまで言っています(エピクロスがですが)。こういうことを書いてくれないと僕は認めませんので、さすがはカント様です。そして、笑いについてはこう書いています――
[…]身体的な生の営みの促進であり、従ってまた内臓や横隔膜を運動させるところの情緒である[…]。
これに続けて彼は「心によって身体に達し」(同貢)とも書いています。僕は笑いを「生命活動」としていますが、カントも「身体的な生の営み」と捉えています。そして、笑うことによって――
[…]肺臓は、極く短い間隔で急速に空気を吐き出し、こうして健康に有益な運動を生ぜしめるのである。
現代では笑いは健康に良いということは判明していますが、カントはこの頃からすでにそれに気づいていたようです。こう言う彼を、僕が否定できるわけがありません。
そうして、おかしさ による笑いの定義ですが、彼によればこうです――
およそ激しい、身体をゆすぶるような哄笑をひきおこすものには、何か理屈に合わないものが含まれているに違いない[…]。笑いは、緊張した期待が突然無に転化することから生じる情緒である。
これが彼の有名な笑いの定義です。これは「緊張と緩和」による笑いとも言え、実際、彼は「緊張」と「弛緩」という言葉を使って説明しています。彼がこの笑いの実例として挙げているのは二つあり、両方ともジョークのような実話ですが、その内の一つはこうです――
[…]金持の親戚が死んだので、その遺産相続人は故人の葬式を立派に執行しようとする、しかしそれがなかなか自分の思い通りにならないので当惑する。(彼はこう言うのである)、『送葬者に仕立てた人達に、悲しげな様子をするようにと言ってお金をやればやるほど、あの連中はますます陽気な様子をするからです』。
そして、この後にカントは、この話を聞いて笑う理由は――
[…]期待が突然無に転化するところにある。
としています。では、その「期待」とは何か? これは「予期」とも訳されることがありますが、今の話では、金持ちの親戚の遺産相続人が故人の葬式を立派に執行しようするが、それが思い通りにならないので当惑する、という点です。ここで普通は、金持ちなら思い通りに立派な葬儀を行えるだろう、と思います。これが「期待・予期」です。しかし、どうやらそれが上手くいかないようなので、「何か理屈に合わ」ず、「?」となります。そして、『送葬者に仕立てた人達に、悲しげな様子をするようにと言ってお金をやればやるほど、あの連中はますます陽気な様子をするからです』と理由を明かされ、「?」が解消され、それが無に帰し、「あぁ、なんだ、そういうことか! あはははは……!」となる、ということです。このように、カントの笑いの定義は、「緊張した期待」= “警戒” 、「無に転化する」= “解除” とすることができます。
この説はまた、「何か理屈に合わないものが含まれている」という点から、予期・予測との「不一致理論」ともされ、次のショーペンハウアーにも影響を与えたので、この続きを見ていきましょう――
6・ショーペンハウアー:不一致・ズレ理論
カントのこの理論に影響を受け、19世紀の哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーは、笑いの「不一致・ズレ理論」を提唱しました。この説への批判はカントと同様のものですが、引き続き おかしさ・おかしみ による笑いとして考察します。実践・実作的にはこの理論が最も有用で、しかし、理論云々で「不一致・ズレ」や「予期・予測に反すること」が重要だということは誰もが経験的に知っています。ほとんど自明の事実ですが、念のため、論理的に分析していきます。
しかし、彼の説に入る前に、パスカルも同種のことを言っていたそうなので、それを挙げます――
「予期したことと実際に見ることとの間に生じる驚くべき不釣り合い以上に笑いを生み出すものは何もない」
これはシュルレアリスムでは “デペイズマン” と呼ばれますが、ショーペンハウアーの おかしさ による笑いの定義はこうです――
笑いが生ずるのはいつでも、概念と、なんらかの関係においてこの概念によって思考された実在の客観とのあいだにとつぜん認められる不一致からにほかならず、笑いはそれ自身、まさにこの不一致の表現にほかならない。
言い方はややこしいですが、「概念」と「実在の客観」の間に生まれる「不一致(ズレ)」によって笑いが生じる、ということです。では、「概念」と「実在の客観」というのが何か? 「概念」というのは、先のカントの言葉では「期待・予期・予測」のようなもので、もっと簡単に、通常そうであるところの「常識」といったくらいでいいです。(岸田秀先生なら「共同幻想」と言うでしょう。) 「実在の客観」は、認識対象や現実の対象で、大雑把に言って、(言葉の上でも)実際に起きた事・現実、といったくらいです。また、パスカルも「実際に見ること」と言っています。要するに、予期・予測・予想していたことと実際に起きたこととのギャップに笑う、ということです。
しかし、これには反論があり、志水彰先生はこう書かれています――
しかしすべてのズレが笑いを呼ぶわけではない。公園の小道を母親の方へ走り出した幼児が突然バイクにはねられることは確かに期待と現実のズレではあるが笑いをもたらすことはない。ズレが笑いを呼ぶためにはそのズレた結果が無害でありそのもたらす感情が小さいものに限られる。
岸田先生も「共同幻想の崩壊が笑いを惹き起こすのは、それが好ましく、たいして重大ではなく、別の緊張を要求しない場合」と書かれていましたが、笑えるためには “警戒” を起こさないこと(=無害)が必要です。或いは、「許容・肯定」できるかどうか、という。
ショーペンハウアーは先の定義に続けて、こう書いています――
[…]概念に対する現実のものの不適合が大きく著しいものであればあるほど、それだけこの対立から生じてくる滑稽さの効果も強い。
これは、先のN400という脳波の例に挙げた文章で試してみましょう。この「N400は文脈的に期待していた言葉が意外な言葉に置き換えられたとき、その意外性やコントラストに比例して、かつ期待を裏切られた不一致の程度に比例して出現する」というものでした。「不一致」とあるように、苧阪先生や『笑い脳』で紹介されている心理学者のサルスという人もこの考えです。(当書でサルスさんはジョークでの笑いについて、僕と似た説明の仕方をされています(前掲、pp.20-21)。多分、この説明の仕方が正しいのだと思います。) そして、その文は〈彼は焼きたてのパンに靴下をぬった。〉というものでした。この〈靴下〉を様々に換えて「滑稽さ」がどう変わるか、やってみましょう――
まず、〈靴下〉を〈靴〉にしてみましょう。即ち、〈彼は焼きたてのパンに靴をぬった。〉 次に、〈靴〉ではなく〈足〉にしてみると――〈彼は焼きたてのパンに足をぬった。〉 〈足〉ではなく、〈眉毛〉なら? また、〈眉毛〉でなく、〈脳〉なら? 〈脳〉ではなく、〈恋人〉なら? 或いは、〈地蔵〉なら? 〈国防長官〉は? 〈象〉は? 〈ドイツ〉、〈ブルキナファソ〉、〈溶岩〉、〈モノリス〉、〈アメンホテプ〉、〈ヴィシュヌ神〉、〈土星〉、〈ベガ〉、〈ブラックホール〉……
ショーペンハウアーによれば、「概念に対する現実のものの不適合が大きく著しいものであればあるほど、それだけこの対立から生じてくる滑稽さの効果も強い」ということですが、焼きたてのパンに塗るのが上のどれだと「不適合が大き」いのか? 不一致・ズレが大きいのか? 或いは、おかしいのか? ショーペンハウアーの言葉の中に「対立」というものがありますが、この「コントラスト」という点から笑いを説明しようとしたのが梅原猛先生で、次にその梅原先生の理論を紹介します――
7・梅原猛:異なった意味・価値領域に属する二つのものの、コントラストにより起こる価値低下 理論
梅原先生は『笑いの構造』で、笑いを以下のように定義しました――
「異なった意味、または価値領域に属する二つのものの、コントラストにより起こる価値低下」
これもここまでの「不一致理論」と同種のものですが、梅原先生は、20世紀のオーストリアの哲学者アルフレッド・スターンの『笑いと涙の哲学』に影響を受けたそうです。そこでスターンは、笑うことを「価値の低下」とし、それを梅原先生がさらに発展させたのが上の理論です。(この理論は「優越理論」に分類されることが多いです。) そして、梅原先生はベルクソンを批判して、「[…]ころぶ人間はこわばりのゆえに一様に滑稽であるという。」(p.138) しかし――
[…]われわれは、すべてのころぶ人間が滑稽であるのではなく、ころぶ人間の滑稽度は、ころぶ人がどんな人間であるかによって、0からある数値の範囲内を変動することを認めざるをえないであろう。
要するに、どんな人間でも転べば おかしい ということではなく、その人間による、というようです。そして、ただの若い人が転んでもあまり滑稽ではないが、気取った紳士や着飾った娘が転ぶと滑稽である、とされています。(p.138) また、老人や子供が転んでも おかしくはなく、彼等は「転びそうな人」という意味領域に属している(p.140)、とされていますが――
しかし、大人がころんだ場合、人はおどろく。大人が属する強い人間という意味領域は、ころぶ人間が属する弱い人間という意味領域と相異なった意味領域であり、従って、ここで全く相異なったというより、全く相反した二つの意味領域のコントラストが生じる。
このように、転びそうにない人(大人)が転ぶことにより「コントラストが生じる。」 或いは、子供や老人が転ぶことは予期・予測の内ですが、大人が転ぶことはそれらの外なので、不一致・ズレが大きい。そして、その分だけ、大人や気取った紳士や着飾った娘に対する価値低下が起き、滑稽さが強まると言います。(p.141) そのために、笑劇において――
何ゆえにチャップリンは、愚劣な失敗を重ねるのに、フロックコートを着、シルックハットをかぶり、鼻ひげを生やし、ステッキをついて、一流の紳士づらをする必要があるのか。理由はもはや明白であろう。
このように、ある事物とある事物とのコントラストが大きいほど おかしさ が強まるので、それならば、“プレイヤー” はその “コントラスト” を大きくするのみです。音楽ではベートーヴェンが最強度でやっていますし、美術ではカンディンスキーやスーラがその “構成” を行なっています。芸術においては “対照性” というのが一つの真理でありますが、笑いもその最大値を目指さねばなりません。前掲の僕の記事「【問い】最も悦ばしい言葉の組み合わせは何だろうか?」では、このことをテーマにしています。
しかし、なぜコントラストが大きいと滑稽さ・おかしさ=笑いが大きくなるのか? 梅原先生は「大人がころんだ場合、人はおどろく」と書いていますが、まず驚くのです。それは予期・予測に反するからですが、第1章では『ひとはなぜ ~』から以下の文を引用しました――
「少しの驚き・発見の笑い」は、あたえられた外来あるいは内因性の刺激にまず驚き、思わず息を短く吸ってとめる。少し大げさに言えば、息をのむ。これは緊張したときに共通の行動である。つまり、ともかく酸素を吸いこみ、次の緊急事態にそなえるのである。
人(動物)は驚いた後、「次の緊急事態にそなえる」。或いは、身構える。人(動物)は常に予期・予測を立てて行動していますが、それによって自身の安全を確保し続けようとします。しかし、そこから外れた場合、何が起きるか分かりません。そして、分からなければ分からないだけ危険です。即ち、“警戒” が大きくなります。子供や老人が転ぶのは予測の範囲内ですが、大人が転ぶのはその外なので、驚く= “警戒” する。そして、「酸素を吸いこ」む。しかし、「彼がけがをして血を流せば心配して不安になるであろう」が、そうでない場合(=無害)、「ほっという言葉のとおり少し息をはく。これが第一回目の「アッ」または「ハッ」という呼気をもたらす。」 この「アッハッハッハ」が笑い声なのですが、笑い声とは、戦闘・防御・逃走等のために蓄えたが不要になった酸素の放出でした。そして、蓄えた分だけその放出も大きくなるのですが、その蓄える量は、“警戒” 度が大きい=予期・予測に反する(または意外な)ほど多くなります。そのため、“解除” 時には吐き出す量が多くなる=笑い声が大きくなる、のだと思います。
これは「喜び」の場合もそうで、先に僕は、“快” を “前提としての不快の解消” としたのですが、「不快」= “警戒” で、「解消」=“解除” です。この場合も、「不快」が大きい分だけ解消・解決された時の “快” が大きくなります。そして、これを最強度に行なったのが、ベートーヴェンです。彼は或る曲を〈デデデデーン〉で始め、最後には「歓喜」に到るのですが、その絶望・苦悩・葛藤が大きいほど、それに打ち勝った時の「歓喜」も大きくなります。彼はその「不快」⇒「快」の値が最大限になるように “作曲” しています。これについて、ピアニストの仲道郁代師匠(!)はこれ以上無いというほど簡潔な言葉で言われています――
お腹が空けば空くほどご飯を食べた時に美味しいのと同じ。
「突然性」について
ところで、カントとショーペンハウアーの笑いの定義に「突然」という語が出てきますが、これについて触れ損なっていたので、最後にこの「突然」ということを考えてみます。
まず、カントは「笑いは、緊張した期待が突然無に転化することから生じる情緒である」と言い、ショーペンハウアーは「とつぜん認められる不一致」と言っており、二人とも「突然性」を条件にしています。しかし、これは なぜなのか?
状況を変えてみましょう。
草むらから飛び出して来るのがヒョウではなくミッキーマウスなのだが、そのミッキーマウスはバッと飛び出して来るのではなくて、ゆっくり じわじわと2~3時間掛けて出てきたら、どうでしょうか? ここで「バッと」飛び出して来てミッキーマウスだと一瞬で認識されたら、“警戒” が即 “解除” されて、それまでに蓄えた酸素は不要になったので「アッハッハッハ」と瞬時に放出します。しかし、ミッキーマウスがゆっくり じわじわと出て来た場合、その認識= “解除” もゆっくりになり、それまでに蓄えた酸素の放出も遅くなり、例えば、「あ~……」と放出するかもしれません。ギャグがあまり理解されなかったりキレが悪かったりすると「あ~……」といった声が出ますが、これと同じものです。また、オチの台詞もゆっくり じわじわと2~3時間掛けて言っても解決= “解除” =酸素の放出が遅くなるので、笑いにはなりません(当たり前ですが)。ギャグや台詞はバシッとキメてスッキリ解決して「アッハッハッハ」となりたいものです。
以上が突然性についての説明ですが、この説明に「あぁ、なんだ、そういうことか!」となって頂けました? それとも、「あ~……」?
8・スペンサー:余剰エネルギーの放出 理論
最後に紹介するのが、19世紀のイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーによる「余剰エネルギーの放出理論」です。彼はこの説を『笑いの生理学』(1860年)で唱え、『現代思想 特集=笑い』(前掲、pp.238-249)に載っています。タイトルの通り、スペンサーは笑いを生理学から説明します。精神・心理的にはこれまで見てきた不一致理論なのですが、彼はさらに身体面をも説明しようとし、神経中枢や内臓活動や筋肉運動について分析し、笑いは、緊張した神経の、不一致を発見した際の余剰エネルギーの放出、だと言います。この説は雨宮先生による「[…]笑いの感染もふくめて、笑いの社会性はまったく無視されている」という批判もありますが(『笑いとユーモアの心理学』前掲、p.145)、しかし、個体の生命活動としてはかなり正しい流れだと僕は思います。(この点は雨宮先生も肯定されています。) 彼の言う「余剰エネルギー」とは、僕がこれまで “警戒” と言ってきた、その際の諸々の緊張であり、その「放出」とは、僕が “解除” と言ってきたもので、酸素の放出や身体の弛緩(また脳内反応)と取ることができます。これまで見てきたように、笑いは身体による活動なので、認識・精神が身体とどう関連していくかという考察は絶対に必要になります。スペンサーはこの時代に早くもそれに取り組んでおり、それは絶対に評価されるべきだと思います。もちろん、1860年(!)という科学的限界はあるものの、僕は基本的にはこの説に賛同しています。
第3章は以上です。
ここでは主要な笑いの理論を紹介し、批判してきました。カントやショーペンハウアーや梅原先生の理論は おかしさ・おかしみ による笑いとして、また、実践・実作的なものとして検討しましたが、それ以外のアリストテレスやホッブスやパニョルやベルクソンの説は、もちろん正しいところはあるものの、笑いのすべてを説明するものではなく、「笑いの起源・統一理論」にはならない、ということが分かって頂けたかと思います。しかし、僕はこれから、“警戒解除論” はそれが可能であるということを証明していきます。そのために、次の第4章では笑いの分類をし、それらの一つ一つの検討を第5章で行おうと思います。
第4章 笑いの分類
第4章では笑いの分類をするのですが、まずは、主には笑劇での「おかしさ・おかしみによる笑い」を分類します。しかし、これは他学者のものであり、僕の考案ではありません。先述の通り、分類をしたところで実践・実作には結び付きません。(また、起源や統一理論にも。) 或いは、努力 対 効果の比率が低すぎ、労力の割りには成果が出ないので、笑芸家はしません。しかし、一応はこれらを挙げておかねばならないと思うので、簡単に紹介します。その次に、おかしさ・おかしみ以外での笑いを分類していきます。
1・おかしさ・おかしみ による笑いの分類
まず、おかしさ・おかしみ による笑いの分類ですが、二例挙げます。一つは文化史研究をされている和光大学の松枝到先生のもので、もう一つは中村明先生のものです。それでは、松枝先生の分類を見てみましょう――
松枝先生は おかしさ による笑いを、「ⅰ 機知(wit) ⅱ 滑稽(comic) ⅲ 諧謔(humor)」に分類されています。(志水彰『笑い/その異常と正常』前掲、p.57) そして、それらがさらに「揶揄・皮肉・軽蔑・攻撃……」等に分類され、それらがさらに「優越感・攻撃性・不快の昇華・心理の矯正……」へと分類・細分化されます。(同前)
松枝先生は おかしさ による笑いをこのように分類されているのですが、僕はそもそもの「ⅰ 機知(wit) ⅱ 滑稽(comic) ⅲ 諧謔(humor)」がよく分かりません。実のところ、「機知(wit)」「滑稽(comic)」「諧謔(humor)」とは何なのか? humor はこれまで取り上げてきましたが、この英語の正体がよく分からず、勝手に「おかしさ」としていたのですが、ここで循環してしまいます。が、僕は答えることができないので、この松枝先生の定義には従うしかありません。
次に挙げるのは中村先生の分類ですが、中村先生は おかしみ の笑いを大きく三つに分けています。一つは、信じられないほどちぐはぐな結果に戸惑う「驚きの笑い」、もう一つは、揶揄や嘲笑や自嘲の系統の攻撃的な「働きかけの笑い」、もう一つは、関係の矛盾や違和感を発見する「滑稽の笑い」です。(中村明『笑いのセンス ~』前掲、p.53) そして、驚きの笑いはさらに「あきれ笑い」「絶望の笑い」「恐怖の笑い」に分類され、働きかけの笑いは「揶揄の笑い」「嘲笑」「自嘲の笑い」に、滑稽の笑いは「ジョーク」「エスプリ」「ユーモア」に分類されています。(同書 p.55) 中村先生もこれらは複数の要因に絡んでいることがあると書かれていますが、いくつか重複しそうなものがあります。滑稽の笑いについてはジョーク・エスプリ・ユーモアと分類されていますが、またユーモアが出てきます。そして、「エスプリ」という未知の語も。ジョークは僕はここまで おかしさ・おかしみ による笑いとしていたのですが、中村先生も「関係の矛盾や違和感の発見」とされ、これは大体合っていると思うのですが、ジョークはおかしみ・滑稽の下位概念なのか? あまりスッキリしませんが、僕からは積極的な分類案を出せない以上、何も文句は言えません。
以上が おかしさ・おかしみ による笑いの分類ですが、何度も言う通り、これをしたところで実践・実作には結び付かないので、僕は分類はしません。してみたい方がいましたら、ぜひやってみてください!
「おかしさ」とは何か?
しかし、「おかしさ」自体の定義は何か? これは自明のことですが(通常とは異なる事象という)、念のため確認しておきます。これについて詳しく書いているのが織田正吉先生で、『笑いのこころ ユーモアのセンス』(前掲)には、「本書では、笑いの要因という意味では「おかしい」を使い、「おもしろい」は原則として使わない。」(p.76)と書かれています。これはまったく正しく、僕もここまで「面白い」という言葉を不用意には使っていません。この言葉は曖昧なので使ってしまうと説明が緩くなってしまいますし、そもそも「面白いとはどういうことか?」という大変な問題を巻き込んでしまいます。そのため、笑いの分析にはこの言葉は使わない方が無難です。しかし、「おかしい」の方はハッキリしており、織田先生によれば――
日本語の「おかしい」が、「変な」と「可笑しい」の両方の意味を持つことは、「おかしさ」というものの性質を端的に語っている。たくさんあるおかしさの相当の部分を占めるのが常識とのずれである。ある社会や集団で規範とするものからずれるとおかしい。その規範は一般に「常識」と呼ばれる。ここでいう規範は[…]ある社会、ある集団の共通の認識、慣習、行動様式のことである。多かれ少なかれ規範がその集団に属する人の行動を制約する。
ここではまず「常識」というものに触れねばなりませんが、それは「ある社会、ある集団の共通の認識、慣習、行動様式」とされ、他所では、「常識とは、ある集団の多数がそれに従っている行動様式や考え方のパターンのことである。」(p.88)ともされています。岸田秀先生なら「共同幻想」と呼ぶでしょうが、そこから「ずれるとおかしい。」 第3章でカントやショーペンハウアーの不一致・ズレ理論を紹介しましたが、これが根本です。しかし、この「おかしい」は、「変な」と「可笑しい」と二つに分けられています。笑劇では後者の「可笑しい」ですが、前者の「変な」は、例えば、容疑者が取り調べで辻褄の合わないことを言ったとします。シリアスなドラマでは「変な」発言とされますが、これが笑劇なら「可笑しい」発言になります。事象は同じでも、許容・肯定できるかそうでないかで、笑うことが可能かそうでないかが決まります。
また、別の例で言いますと、パンに塗るのはバターやマーガリンやジャムなのが「常識」=「ある社会、ある集団の共通の認識、慣習、行動様式」です。しかし、〈靴下〉を塗るのはそこからズレている。そのため、「おかしい」。
これのより度合いが強まったようなものに、「ナンセンス」が挙げられています。この名称を僕が採用するかはさておき、後のために、この重要な一節を紹介します――
ナンセンス nonsense の原義は「無意味」で、ばかげたこと、たわごとという意味だが、文学や芸能でいうナンセンスは「無意味」ではない。法則、条理、時間、空間、体制、制度、論理など現実世界を取り囲む枠組みを想像の中で破壊するセンスのことである。この枠組みは人間の理性が生み出したもので、まっとうに社会生活をいとなみ、生きて行くには必要なものだが、同時に人間の精神を窮屈な枠の中に閉じこめ抑圧する。その枠組みを想像の中で破壊し、精神を束縛から解放するのがナンセンスである。
先の「常識」がここでは「法則、条理、時間、空間、体制、制度、論理など」となり、「この枠組みは人間の理性が生み出したもの」とされていますが、それは「窮屈な枠」と言われ、「その枠組みを想像の中で破壊し、精神を束縛から解放するのがナンセンスである」とされています。また、こうも書かれています――
[…]現実世界の常識や規範にとらわれない現象を想像の中で築き、日常、経験することのない感覚の世界や現象を創造するのがナンセンスである。
先の例で言えば、焼きたてのパンに〈ヴィシュヌ神〉や〈ベガ〉を塗るのが「ナンセンス」なのでしょう。織田先生の挙げるナンセンスの例にも様々なものがあり幅広いですが、この “常識破壊” を突き詰めて行くと、“DADA” に至ります。が、それは最終章で触れます。
本節は「おかしさ・おかしみ による笑いの分類」だったのですが、その分類・細分化より、こちらの “精神” の方が “笑芸家” にとっては重要です。
2・おかしさ・おかしみ以外による笑いの分類
さて、ここから おかしさ・おかしみ以外による笑いの分類をしていきます。おかしさ・おかしみ による笑いは第1章と第3章の一部で “警戒解除論” から説明したのですが、次の第5章でそれら以外の笑いもこの理論から説明しなければならないので、そのためにここで挙げておきます。
挙げる順番は説明がしやすい順です。かなり便宜的なもので、生物学的な個体・系統発生の順や、重要さの順ではありません。なお、笑いに限ることではないと思いますが、どれが一番重要でどれがそうでないかというのはあまりなく、どの笑いもそれぞれ生命活動には必要で、スポーツで言えば「ポジション」のようなものです。どこのポジションが欠けてもチーム全体として崩れてしまいますが、それと同じように、どの笑いにも機能・役割があります。
まず、大きな分類を先に挙げます。今回は便宜的に7つに区分しました。以下のようにです――
1・生理的な笑い
2・嬉しさ・喜び・楽しさによる笑い
3・おかしさ・おかしみ による笑い
4・病気・極限状態等での笑い
5・動物は笑うか?
6・笑い方と笑い声について
7・社会的な笑い
概要を述べますと、「1・生理的な笑い」は食や睡眠や性という本能的な満足による笑いです。「2・嬉しさ・喜び・楽しさによる笑い」は、常識とのズレとは違うが、嬉しい時や楽しい時に出る笑いです。「3・おかしさ・おかしみ による笑い」では、これまでに扱えなかったものがあるので、ここでもう一度触れます。「4・病的・極限状態等での笑い」は主には異常な状態で起きる笑いです。「5・動物は笑うか?」と「6・笑い方と笑い声について」はそのままですが、「7・社会的な笑い」は主に、自分以外の他者に対しての笑いであり、かなり人間関係・コミュニケーション的なものになります。先述の通り、最後には「挨拶の笑い」と「笑い顔の万国共通性」を扱います。なお、他の先生方の分類もそうですが、これらの笑いはどれか一つのみに属するものは少なく、大体どれもいくつかの種類と複合的になります。今回の分類はその要因がメインと思われるところへの配置です。そして、合計で40ほどになります。それでは、以下に挙げていきます――
1・生理的な笑い
1・食・睡眠・性的満足による笑い
2・滑り台・ブランコ等での笑い
3・くすぐり による笑い
4・猥談・ポルノグラフィでの笑い
2・嬉しさ・喜び・楽しさによる笑い
1・宝くじが当たった時の笑い
2・成功時の笑い
3・勝利の笑い
4・攻撃的な笑い
5・遊びの笑い
6・楽しさによる笑い
3・おかしさ・おかしみ による笑い
1・モノマネでの笑い
2・可愛いものを見た時の笑い
3・「いない いない ばぁ」での幼児の笑い
4・感動による笑い
5・失敗による笑い
4・病気・極限状態等での笑い
1・病的な笑い
2・薬物による笑い
3・飲酒による笑い
4・極限状態での笑い
5・戦争・災害時の笑いの封禁について
5・動物は笑うか?
1・サルの場合
2・ネズミの場合
3・イヌの場合
4・ネコの場合
5・ウマやヒツジやウサギの場合
6・魚・カエル・アリの場合
7・石は笑うか?
8・動物もギャグをする
6・笑い方と笑い声について
1・笑い(laugh)と微笑み(smile)の違い
2・笑い声の違いについて
7・社会的な笑い
1・微笑み
2・余裕の笑い・余裕を装う笑い
3・謙遜の笑い
4・照れ笑い
5・苦笑い・困惑の笑い
6・呆れ笑い
7・へつらい笑い
8・愛想笑い
9・笑いの感染性
10・挨拶の笑い
11・笑い顔の万国共通性
以上が今回の分類です。様々に異論があるかと思いますが、次の第5章ではこれらを一つ一つ説明していきます。僕がこれまでに見てきたところ、こういった笑いすべてを一つの理論で説明できるものは無かったので、これらの説明に成功したら、“警戒解除論” は世界初の笑いの統一理論になるかもしれません。果たして成功するでしょうか? お楽しみに!
*本稿は長くなるため、記事を4つに分けての投稿になります。本記事は一旦ここで終えます。続きは「笑いの理論 ~或いは、その体系化への試論~(3)」をご覧ください。
note 運営様へ
本作の続編を以下に載せますので、よろしくお願い致します――
・「笑いの理論 ~或いは、その体系化への試論~(3)」
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