ことばを書く前に、ことのねを聴く──僕にとっての墨と声
墨について考える機会が増えました。
墨で線を書くこと。
アセミック一文字詩を書くこと。
墨象のようなものを描くこと。
それは、僕にとって単なる技法や作風ではなく、もっと根に近い行為なのかもしれません。
墨には、色が少ない。
黒と余白。
線と間。
それだけです。
だから、ごまかしがきかない。
呼吸。
迷い。
身体の癖。
祈り。
咒。
気配。
そういうものが、線に出てしまいます。
うまく書こうとすれば、うまく書こうとした線になる。
迷えば、迷った線になる。
削れば削るほど、隠れていたものが出てくる。
墨は、正直です。
けれど、その正直さの奥に、静けさがあります。
僕が墨に惹かれるのは、たぶん、墨が「空」に近いからです。
色彩が増えれば、世界は豊かになります。
けれど墨は、逆に、世界を黒と余白へ削っていく。
黒がある。
余白がある。
線がある。
それだけなのに、何かが立ち上がる。
描いているのに、描きすぎない。
意味がありそうなのに、意味として固定されない。
何もないようで、何かがある。
その感じが、僕の中にある虚空や、ことのねの感覚に近いのだと思います。
──ことのね。
言の根。
事の音。
言霊の震え。
どれでもあり、どれでもないもの。
完成した言葉ではなく、言葉になる前のひびき。
意味として固まる前の震え。
名前を持つ前の気配。
僕はたぶん、「書く」より前に、ことのねを聴こうとしているのかもしれません。
アセミック一文字詩は、その意味で、言葉になりきる前のしるしです。
読める文字ではない。
けれど、読もうとしてしまう。
意味はない。
けれど、何かがあるように見える。
名前はない。
けれど、名付けられる直前の気配がある。
意味以前。
けれど、無意味ではない場所。
そこから、線を取り出しているのかもしれません。
線は、僕自身を描いているようで、ほんとうは「僕より少し奥にあるもの」を通している気がします。
自分を表現する、というより、
自分という器を通って、何かが線になる。
それが虚空なのか、根源的な何かなのかは分かりません。
似たようなことは、声にも言える気がします。
僕はよくフースラーメソードやゴルジャメソードなどの発声論に触れていますが、声というものは、ただ出すためだけのものではないのだと感じます。
声は、身体の奥から出てくる。
息がある。
響きがある。
振動がある。
共鳴がある。
声を出すことは、音を鳴らすことではなく、身体の根に触れることでもある。
筆は虚空をなぞる。
声は根を鳴らす。
墨は、黒と余白によって、ことのねに触れようとする。
声は、音と振動によって、ことのねに触れようとする。
どちらも、完成した言葉の手前にあるものへ降りていく行為なのだと思います。
以前、僕のアセミック一文字詩のひとつを見て、ジャズを感じると言ってくださった方がいました。
意外でした。
でも、不思議としっくりきました。
※追記
あとから思い出したのですが、僕には以前「裏拍」という墨象がありました。
言葉ではなく、線でリズムや間を表そうとした作品です。
そう考えると、アセミック一文字詩を「ジャズのようだ」と見てくださった方がいたことも、意外でありながら、どこか納得できます。
読めない文字なのに、どこか鳴っている。
意味のない線なのに、リズムや間がある。
決まった譜面ではないのに、即興のように立ち上がるものがある。
たしかに、線にも音があるのかもしれません。
墨は、還ってゆく原初。
声は、鳴りはじめる原初。
そしてアセミック一文字詩は、そのあいだにあるもの。
言葉になる前。
けれど、ただの沈黙ではない。
意味になる前。
けれど、ただの無ではない。
名前になる前。
けれど、こちらを見てくる何かがある。
だから僕は、墨で線を書くのだと思います。
「ことのは」の前の「ことのね」を聴くために。
線を一筋。
声をひとつ。
息をひとつ。
