クラブ・レインボー①
【あらすじ】
北の大歓楽街すすきののショークラブ・レインボーで歌うドラァグクイーンの類(るい)は、かつて東京のストリップ劇場で人気を博したさとわと一緒に暮らしていた。
さっぽろ雪まつりの開幕が近づき、クラブではオーナーが氷彫刻コンテストの協賛を決める。氷彫刻師の琉生(るい)はクラブで皿洗いをするさとわに一目惚れし女神像のモデルを依頼するが、さとわは病で乳房を失っていた。
クラブはすすきのに存在したストリップ劇場を改装した店だ。「流氷の上で踊りながら死にたい」と心を閉ざすさとわは、ショーダンスの指導を通して人間らしさを取り戻していくも、様々な性が交錯するクラブでは彼女を快く思わない者も存在するのだったーー
玄関の扉を開けると、湿度を孕んだ熱気が身体を包んだ。
外は連日氷点下の気温だというのに、四六時中ストーブを焚き続けては灯油代の請求が恐ろしい。けれど留守を預かる猫は寒さに弱く、主の不在時に凍える姿を思うとストーブを消すことができなかった。
「ただいま」
雪のついたブーツを脱ぎ捨て、私は声をかける。返事はないが、ベッドのスプリングが軋むのが聞こえ、いままで寝ていたのだなと判断する。
すすきの駅近くのワンルームアパート。札幌市中心部は家賃も高く、狭い部屋はベッドを置くだけでいっぱいになってしまう。昼夜逆転した生活ではテレビもただの置物状態で、観葉植物はとうの昔に枯れてしまった。台所に火の気もなく、冷蔵庫に入っているのはミネラルウォーターといくつかのサプリのみ。
この部屋の主役はきらびやかなドレッサー。そして壁一面にかけた服、服、服。出かける前に干した洗濯物が部屋の湿度を上げているが、ストーブの温風で乾燥するよりは肌に良いだろう。
柔軟剤が香る洗濯物をカーテンのようにかき分けると、猫はベッドの上で大きなあくびをした。
「さとわ」
呼びかけても鳴き声ひとつ上げない。帰りがけに買ったファストフードの袋を置くと、においにつられてのそのそと近づいてくる。
「いい加減服くらい着なさいよ」
私の飼っている猫は、陶器のような白い肌をしていた。
ひょろりと長い手足は細く、かたちの良いお尻はうつ伏せになっても張りを失わない。一糸まとわぬ姿を隠すのは長く伸ばした黒髪だけだった。
猫のすみかは私の部屋、セミダブルのベッドの上。掃除もしなければ洗濯もせず、食事は私が与えない限り口にしようとしない。ただ女性の姿形をしているというだけで、その中身は日もすがら惰眠をむさぼる猫そのものだった。
フライドポテトをぽくぽくと食べる彼女を横目に、私はつけまつげを剥がしながらドレッサーの前に座る。鏡面の横には大きな照明があり、肌のくすみやしわなど不都合なものをすべて光で飛ばしてくれる。コットンにメイク落としを含ませ、厚く塗りたくったファンデーションをぬぐいとった。
少しでも鼻を高く見せるために入れたノーズシャドウ。実物よりも大きく輪郭をとって塗った口紅。きめ細かな肌を演出するためのコンシーラー。まるで歌舞伎の隈取りがごとく、濃く、深く入れたアイシャドウ。
コットン一枚では足りず、次々ゴミ箱に放っていく様をさとわは興味深げに見つめていた。
「……類(るい)」
呼ばれ、振り向くと鼻先にフライドポテトを突きつけられる。
「嫌よ、そんなカロリー高いもの食べたら太っちゃうじゃない」
なおも彼女はポテトを離そうとしない。私はしぶしぶそれをくわえ、ウィッグを外して蒸れた頭をぐしゃぐしゃとかきむしる。ドレッサーのライトを消すと、脱いだドレスをかけて鏡面を塞いだ。
明かりの消えた鏡は私に真実を見せる。毎夜飲み続けるアルコールで荒れた肌も、化粧を落とさず寝てしまうせいで増していく小じわも、短く切った髪の中に潜む白髪も、見なければないものと同じだ。
わずか半日で青さがよみがえる顎も。
「どいて、すこし寝るわ」
さとわは黙々とハンバーガーを食べている。てこでも動こうとしない太ももに頭を乗せると、彼女は存外おとなしくそうしていた。
カーテンは夜通し開け放たれていたのだろう、蛍光灯の消えた部屋は明るく、真冬の遅い夜明けを迎えている。新聞配達のバイクの音が聞こえ、足音がアパートの階段を軽やかに上った。
このまま泥のように眠りたい。目が覚めた頃にはこの朝日も沈んでいるだろう。うらうらとまぶたが落ち、あと少しというところで鼻先にピクルスが香った。
「……いらない」
言うも、彼女は決して引かない。口を開くと強引にねじ込まれた。
私を見下ろすさとわの表情は、長い髪に隠れて影と同化している。顔にかかる毛先がこそばゆく、逃れようと顔を振ると太ももがかすかに動いた。
「ひげがチクチクする」
「悪かったわね」
私は起き上がろうとするが、それを押しとどめたのは彼女だった。
覆い被さるように、私の顔を抱きしめる。その肌や髪から、彼女の甘い香りがする。
やわらかな二の腕。吸い付くような肌。肉感的な太ももと、その奥にある控えめな茂み。この部屋に満ちる甘い香りは、まるで彼女の全身から立ち上っているようだった。
長い髪が覆う胸もと。そこにかつて、ふたつのまるい乳房があったことを私は知っている。
いま、そこにあるのは引き攣れた傷跡のみ。
私の飼っている猫には、乳房が、ない。
