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クラブ・レインボー⑥



     ◆◆


 東京にいたはずの彼女が北海道に現れたのは、世界中を震撼させた感染症が終焉を迎えた頃だった。

 いまだマスクを手放せない人々も多いが、夜の街の経済活動はほぼ通常に戻っている。オンライン開催だった雪まつりも大通公園での会場が復活し、すすきのの駅前通りが例年どおりの開催になったときはオーナーが涙を流して喜んだものだ。

 経済活動が再開しても、物価高が飲食店や様々な企業を苦しめた。クラブ・レインボーも値上げせざるを得なかったが、インバウンドのおかげで雪まつりシーズンに蓄えることができた。

 バレンタインを挟みながら三月三日のひな祭りを迎え、キャストの息抜きがてらイベントを企画した。

 あぐりがこの日のために仕立てた着物でお雛様に扮し、キャストはめいめいとびきりの衣装で我が身を飾り立てた。イベントを知る常連客はこぞって差し入れを持参し、ステージの上には本物の七段飾りを置くほど、女の子の祭りはクラブで大切にされていた。

 私がショータイムで歌っていると、一人の女性客がフロアに案内された。一見客とわかる場違い感に自然と目が行った。ひな人形よろしく頭に大きな冠をかぶったキャストが挨拶をしても、彼女は表情ひとつ変えなかった。

 その客こそが、さとわだった。

 東京の舞台で一度見ただけの彼女に気付いた自分に驚いた。彼女は薄い水割りをちびちびと舐め、キャストが接客をしても退屈そうにあくびをするばかりだった。

 ろくに金を落とさぬ彼女を気にするキャストはおらず、ショータイムが終わり帰ろうとする彼女を、私は夢中で追いかけていた。

『あなた、行く場所はあるの?』

 そして私は、文字通りさとわを『拾った』のだった。


      ○


 人生でもう二度と行くことはないと思っていたホテルのラウンジに呼び出されたのは、回転舞台の事件から一週間後のことだった。

 コーヒー一杯二千円の世界に慣れることはない。周囲の席には結婚式の下見に来たカップルや、ご年配の同窓生たちが姦しく話す姿があった。その中でひとりアフタヌーンティーセットを食べる私は、たとえ男の恰好をしていようとも周囲から好奇の視線を向けられていた。

 ラウンジで予約の名前を告げると、頼みもせずにケーキスタンドが出てきた。ここにクラブのキャストがいれば歓声が上がっただろうが、私は甘いものが得意ではない。下段から軽食のサンドイッチ、真ん中にスコーンや焼き菓子、上段にケーキが乗った王道のアフタヌーンティーセットに紅茶が運ばれ、私は作法もわからぬままキュウリのサンドイッチをかじった。

 ラウンジの窓から大通公園を見下ろすと、大雪像の製作が着々と進んでいることに気づく。先日見たときよりも鉄骨の足場が減り、雪像のてっぺんが姿を現していた。今年の陸上自衛隊の歴史的建造物は日本の名城らしく、天守閣や鯱とおぼしきものが見え隠れしている。

「マチルダさん、今日はありがとうございます」

 琉生が現れるまでに少しばかり時間があった。彼はコックコートの上にパーカーを羽織っていたが、給仕を務める同僚たちがそれに不躾な視線を浴びせることはない。

「こちらこそ、こんなにかわいらしいものを用意してもらって悪いわね」

 ケーキスタンドの中身が減っているのを見て、彼は安堵したように瞳を細める。こわばった表情で席に着いた琉生だが、私が『類』の姿でいることも彼の緊張をほぐしたのだろう。

「今日のケーキは僕が作ったんです。お口に合うといいんですが」

「あぐりも来れたら良かったんだけどね。あの人、甘いものに目がないから」

 当初はオーナーも来る予定だったが、前日の深酒がたたり起き上がれないと連絡があった。ケーキスタンドは明らかに二人分あり、琉生は飲み物を頼まず水だけですませている。

 このアフタヌーンティーは彼のおごりなのだろう。残すわけにはいくまいと、私は今晩着る予定だったタイトなドレスを諦めた。中段のスコーンを割ると小麦の芳ばしい香りが立ち上り、そこにクロテッドクリームをたっぷりと塗る。ホテルにつとめるパティシエは焼き菓子担当や洋生菓子担当など分業制だと聞くが、最上段にそびえるショートケーキは生クリームの先端の角度まで計算されたような美しさだった。

「それで、話って?」

 大口を開けてスコーンにかぶりつき、唇についたクリームをぬぐう。ケーキスタンドに焼き菓子とケーキが残っており、私が促すと彼はクッキーに手を伸ばした。

「……実は、悩んでいた女神像のイメージが決まりまして」

「あら、よかったじゃない」

 思わず口調がゆるんでしまう。唇に手を当て、私は咳払いで誤魔化す。

「僕、氷像製作はモデルはのスケッチからはじめるんです。写真を参考にするよりも、実際に水族館や動物園で生きている姿を見たほうがイメージを掴みやすくて。それで、今回もモデルをお願いしたい人がいるんです」

 アーモンド入りのクッキーをかじる姿はまるで子リスのようだ。

「クラブ・レインボーで働いている方で、紹介して欲しい人がいるんです」

「わかったわ。ショーに出ていた子?」

「いえ。あの、裏でお皿洗いをしていた……」

 顔を真っ赤にして、彼は言った。

 あの狭い厨房の中、琉生がさとわを見たのはわずかな時間でしかない。

「あの日からずっと、彼女のことが忘れられなくて。思い出すたびに氷像のアイディアが浮かんでくるんです。どのポーズにすればあの人の美しさを引き立てられるか、それを考えると夜も眠れなくて」

 熱っぽくうわずった声で彼は言う。さとわを思い出し頬を染める様はまるで女子のようだ。氷像のアイディアを早口でまくしたて、私はそれに適当な相づちを打ちながら二つ目のスコーンに手を伸ばした。

「……それで、あの人に氷像のモデルをお願いしたいんです」

「わかった。私から話しておくわ」

 私の快諾に、彼の瞳がぱっと輝く。

「ただし、さとわが良いって言うかはわからないけどね」

「あの人はさとわさんっていうんですね」

『さとわ』にはサンスクリット語で純真や調和ーーあるいは創造や愛といった意味があるが、琉生はそれを知っているのだろうか。真っ赤になった顔を冷やそうと、彼はお冷のグラスを頬に当てながらまぶたを伏せた。

「僕、この気持ちをどうやってコントロールしたらいいかわからなくて。ステージに立つマチルダさんは大輪の薔薇のようでしたが、裏方を務めるあの人も、道端に咲く野菊のようで……なんというか、あの凜とした姿に心臓を打ち抜かれたような気持ちで」

 胸に手を当て、熱い吐息を漏らす。しかし本人はその想いに戸惑っているらしく、唇を噛んで苦しげにうつむいた。

「男の人に、こんな気持ちを抱くなんて……」

 上段のケーキに手をつけた私は、生クリームが崩れるのも構わずフォークで一刀両断した。

「さとわは女の子よ」

「え?」

「うまれたときからずっと、ホルモン注射も何もしてないわ。身体も戸籍も生粋の女の子よ」

 私の言葉に、彼はぽかんと口を開けた。

 時間にしてほんの数秒だろう、こわばっていた表情が徐々に緩んでいくまでを、私はケーキを頬張りながらまじまじと見つめる。

「……そうだったんですね」

「そう。だから、あなたが抱いた気持ちに戸惑うことなんてなにもないの」

 ステージの上で着飾る私たちよりも、店の裏で皿洗いをする彼女のほうが彼の目に魅力的に映ったのだ。その事実に、胸の中をどす黒い気持ちが渦巻く。しかし琉生の言葉のとおり、さとわは着飾らなくとも素の姿でさえを惹きつける色香があった。

 それは私がどんなに望んでも手に入らないものだ。

「すみません、僕、失礼なことを言いましたよね」

「仕方ないわ。私たちみたいな人間と関わることなんて、人生でもそうそうないでしょうから」

 クラブ・レインボーはいわゆるニューハーフが接客する場だが、訪れるすべての客がその世界を理解しているわけではない。好奇心丸出しの客に本物の女性みたいだと囃し立てられ、酔客が管を巻きながら胸はシリコンなのかと聞いてくる。工事がどこまで終わっているか竿は残っているのか、ずけずけ踏み込まれるのも日常茶飯事だった。

 テレビやメディアの影響でLGBTQに対する知名度は上がったとはいえ、琉生のような反応をする人のほうが多い世の中だ。

「さとわにモデルを頼むこと、店の子たちには伏せたほうがいいでしょうね。キャストを差し置いて黒服がモデルになるなんて、嫉妬する子もいるだろうし」

「あの……できればマチルダさんにもお願いしたいと思っていて」

「いいのよ別に、私に気を遣わなくても」

 フォークで切り分けるのも面倒になったケーキを、私はやけになって口に押し込む。結局ひとりで二人前のアフタヌーンティーを食べてしまっていた。明日の体重計が恐ろしくてたまらない。

「なにはともあれ、テーマが決まったのは良いことだわ。さとわには私から連絡するけど、オーナーには自分の口で言うこと。筋を通さなきゃいけないのはわかっているわね?」

「もちろんです」

 はじめて会ったときと違い、琉生のまなざしにははっきりとした意志がこもっている。私はそれに安堵し、生クリームがへばりつく胃を紅茶で洗い流した。

「……僕、偏見なんてないつもりだったんですけど、無意識のうちに言動に出ていたんですね。クラブで働く人たちだってれっきとした女性なのに、それを偽物だと思ってしまうなんて」

「まあ、うまれた時の性別や戸籍は紛れもない男だったんだから、その反応も仕方ないけどね。それに、あの店にいる人すべてが性転換して女性になりたいわけでもないし」

「マチルダさんは違うんですか?」

 私は昼と夜とで性別が変わる。中には手術費用を稼ぐため、昼間はガテン系の仕事に就いているキャストだっているのだ。結婚して子供が産まれてから自分の気持ちに気づき、酔った拍子に我が子への愛情を語りはじめるベテランキャストもいる。

「私たちの世界は白と黒はっきりわけられるものではないのよ。でも、それを口で言ってもすぐには理解できないでしょう? あなたもあの店で少しずつ勉強したら良いんだわ」

 男の姿をしているのに、すっかり口調が女性化してしまっている。自分でもその違和感に気づいているが、彼を前にすると私はマチルダが表に出てしまうらしい。

「ちなみに、私が好きなのは女性だからその点は安心してね」

「……え?」

 私の告白に、琉生の頭がついにフリーズしてしまったようだ。

 男として生まれ男として育ち、けれど自分の意志で女性の格好をするようになった自分。トランスジェンダーの中でも、男と女の格好を行き来する私は比較的トランスヴェスタイトに近かった。

 町田類もマチルダもどちらも私。女性の身体に憧れを持ちながらも、トランスセクシャルの人々のように自らの身体を変えようは思っていない。

 なぜ自分は男として生まれたのか。

   その意味を、私はずっと考え続けていた。

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