クラブ・レインボー④
「――あの台は動かすなって言ったでしょう!」
舞台袖にはけるなり、私は音響を担当する黒服の胸ぐらを掴み上げた。
ショーが終わると、客の入れ替えで店内が雑然とする。けれど閉店まで残る客もいるため、声を潜めて絞り出すように言った。
「すみません、マチルダ。花道の照明ははじめから使う予定だったので……」
「そもそもどうして私が呼ばれたわけ? 今日のトリは別の子の予定だったでしょう?」
「それが、何度電話しても連絡がつかないんです。ショーの構成的にトリは歌姫のほうがいいから、あぐりがマチルダに頼むようにって」
キャストの無断欠席はそう珍しいことではない。それがオーナーの指示とあらば私は従うよりなかったが、胸ぐらを掴む手を離すことができなかった。
「花道の照明を使うのはわかるわ。でも、舞台の電源は入れるなっていつも言っているでしょう? あのステージも古いものだし、もしあれがダンスの最中だったら踊り子が転んで怪我をしていたかもしれないのよ?」
「でも素敵だったわよ、マチルダ」
いつの間にかあぐりが舞台袖に来ていた。キャストが黒服に暴力を働くなど言語道断、私は手を離すしかない。琉生もあぐりの後を追い、私が鼻息荒く噴き出す様を見てもなお口を開く。
「そうです、とても綺麗でした。お客さんもみんなマチルダさんに見とれていました……なんていうか、歌う姿に艶があって」
「あの舞台を使わないなんてもったいないわよ。いっそ、次回からも演出として取り入れたらいいじゃない」
二人は私のショーをいたく気に入ったらしい。なだめすかそうと必死だが、声音は興奮でうわずったまま鎮まらなかった。
「そもそも、舞台の電源を入れたのは誰なの」
店内を取り仕切る黒服はたくさんいるが、音響や照明を扱える者は数えるほどしかいない。封印していた舞台装置を操作できる者などこの店にいただろうか。乱れたシャツを正す黒服は、青ざめた表情のまま言った。
「バイトです、マチルダの紹介の」
それに私の喉が小さく鳴った。
回転舞台を使ったショーの構想を語るあぐりを置いて、私は厨房に向かう。クラブで提供するフードは簡単なつまみや乾き物だが、酒のグラスは洗っても洗っても間に合わない。皿洗いの黒服を見つけ、私はその細い手首を掴んだ。
「さとわ」
日がな惰眠をむさぼってばかりの飼い猫は、この店で働くときだけ人の姿を取り戻す。
長い髪をひとつにまとめ、Yシャツのボタンを首元まで留めた彼女は、薄化粧でも整った顔立ちをしていた。私たちがお金や時間を費やして得る長いまつげもふっくらとした頬も、彼女はうまれながらに持ち合わせている。
けれどその表情は能面のように変わることがなく、肩で息をする私を見ても眉ひとつ動かさなかった。
「舞台をいじったのはあんたね?」
「……ショーの時、人が足りないから手伝えって言われて」
彼女の存在は店でも異端であり、フロアに出ることは滅多にない。特に混雑した今日は黒服たちも接客に追われため、さとわが演出の助手にかり出されたらしい。彼女なら舞台の仕組みを知っていても何らおかしくはない。
「マチルダさん、何もそんなに怒らなくても……」
琉生は存外粘り強い男だった。酔いでふらつく足で果敢に厨房の扉をくぐる。しかし狭い通路では私の図体が幅をとってしまい、彼は背中に話しかけるしかできなかった。
「ショーのダンスも、あらかじめ打ち合わせをすれば危険はないはずですよ。もし心配なら、一度業者にメンテナンスを頼むとか」
「古いものだから直せる人はもういないのよ」
かつて、あの舞台の上で踊っていたのは一糸まとわぬ姿の女性たちだった。
「この店は昔、ストリップ劇場だったの。ステージが動くのはその時の名残よ」
現在、北の歓楽街にストリップ劇場は存在しない。施設の老朽化により全国の劇場も次々と閉鎖され、風営法により新しい劇場が作られることもなかった。回転するお立ち台――業界用語では盆と呼ばれるそれも絶滅危惧種となっているはずだ。
振り向くと、琉生は意味が理解できないのかきょとんとした表情を浮かべていた。ややあってから、顔を真っ赤にして狼狽えはじめる。うぶな反応にこちらまで恥ずかしさが伝染しそうだ。
「約束して、さとわ。あの舞台はもう動かさないって」
「わかった」
厳しく詰め寄る私に、さとわは素直にうなずいた。彼女にとってあの装置を動かすことに深い意味はなかったのだろう。濡れた手をエプロンで拭くと、ふいに私の腕に触れる。
「通して」
冷たい指先に、彼女が素手で皿洗いをしていたのだと気づく。厨房の設備は古く、給湯器を使い続けると水に変わることがあった。私は良心がちくりと痛むが、さとわはそれに気づかず通路の隙間に身体をねじ込む。
「……誰?」
見知らぬ人物に気づき、彼女は眉をひそめる。琉生はすみませんと身を引いた。
「待って、さとわ」
つかつかと足早に歩く後ろ姿を追うと、彼女が立ち止まる。冷えた指先を心配する私を知ってか知らずか、さとわはその手を私の頬に伸ばした。
まるで氷のような冷たさだ。それに手を重ねる寸前、彼女が唇を開いた。
「さっきの舞台、あたしのこと真似したでしょう」
彼女は知っている、舞台装置の使い方を。
さとわはあの舞台の上で、うまれたままの姿で踊る側の人間だった。
