クラブ・レインボー⑪
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あぐりが広げる新聞を覗きこむと、世界遺産の知床に流氷が接岸したことを報せていた。
オホーツク海側の紋別や網走では一足早く流氷初日を迎えていたが、同じ北海道でも着岸には時間差があるらしい。あぐりは視線に気づくと、新聞を畳んで私に寄越した。
「今日はせっかくオフの日だったのに、とんだ休日出勤だわ」
「すみません。あぐりにひと声かけてから鍵を開けようと思ったんですけど」
暦はまもなく二月に変わろうとしている。雪まつりが目前に迫り、キャストたちが自主練習の時間が欲しいと私に懇願してきたのだった。
「どうしちゃったのみんな、これじゃまるで本物のショークラブみたいじゃない」
腰に響く重低音が朝からずっと鳴り響いている。普段のショーではここまで練習に力を入れることはない。多くのキャストが学芸会レベルのショーを披露していたというのに、その成長ぶりには目を見張るものがあった。
「店のSNSに練習の様子を投稿するようになったら、いつもよりコメントの数が増えたんです。みんな自分のアカウントでも宣伝するようになって、それが刺激になっているみたいですね」
クラブのSNSは主に黒服たちが担当しており、内容も営業時間や定休日のお知らせなど事務的なものばかりだった。しかし、さとわが気まぐれに練習光景を投稿したところ、今まで無反応だった常連客たちからリアクションが返るようになったのだ。
ショーのために衣装を新調するキャストも多く、本番さながらの出で立ちに店内の華やかさが増している。雪女のテーマ上、白や水色など寒色系を使ったものが多いが、選んだ演目によってはラバー素材のボンテージも健在だった。
定休日にわざわざあぐりが顔を出す必要はない。彼女は普段からステージに立つことはないが、自分も混ざりたいのか練習風景を見てうずうずしていた。
「それで? マチルダはなにをやるつもりなの?」
「私は今回お休みします」
「あらどうして、もったいないじゃない」
あぐりはそう言うが、ショーの裏方も何かと大変だ。やれ振り付けが気にくわないだの、やれあの子とは息が合わないから踊りたくないだの、キャストたちの注文に付き合っているとそれだけで時間が潰れてしまう。
「もちろん何かあれば代打で出ますけどね。私もいい歳だし、ショーも後身に譲っていかないと」
「冗談言わないで。マチルダの歌もクラブには必要なんだから」
立ちあがり、あぐりはカウンターの棚から秘蔵のウイスキーを取り出す。彼女には休肝日の概念がないのだろう、ためらいなくロックグラスに氷を入れた。
「さとわの姿が見えないけど、あとで来るのかしら?」
「今日は体調が悪そうだったので、家で寝かせてます」
「それって……」
「疲れが溜まっただけだと思いますよ。あの子もレッスンから振り付けまでたくさん協力してくれたから」
あぐりには彼女の病気を話していた。若い頃に家族と絶縁したというさとわは、万一の時に身許を保証できる人がいない。いざという時に彼女を守れる人は多い方がいい。
ロックグラスは二人分用意されている。静かに注がれる琥珀色の液体は照明を浴びる氷の輝きを引き立て、その酒の価値を知っている私は素直に頭を下げた。
グラスを合わせて乾杯し、唇をつける。しかし、香りを味わうよりも先にアルコールの強さが喉に刺さり、私は盛大に噎せてしまった。
「相変わらず、あなたはウイスキーを飲むのが下手ね」
店では浴びるように水割りを飲んでいるが、ロックだけはいまだに苦手だった。チェイサーの水で口を洗う私を見て、あぐりが笑いながら酒をあおる。
「こんなに活気がある店も久しぶりね。なんだか昔を思い出しちゃう」
「そうですね、非常事態宣言の頃は閑古鳥が鳴いていたから」
「違うわ、それよりうんと前の話よ」
カウンターに頬杖をつき、あぐりがキャストたちの様子を眺める。ポールを設置したステージは練習の順番待ちになり、その脇ではダンスグループを組んだキャストたちが撮影した動画を見てあれこれ議論している。花道の先にある盆は不動の人気であり、ソロをまかされたキャストが真剣な様子で己の表現を極めていた。
「昔はね、踊り子たちもああやって熱心に練習していたのよ」
彼女の言う、昔。それがストリップ劇場時代の話だと気づくのに、少しだけ時間がかかった。
「あぐりはどうしてこの店を買い取ったんですか?」
クラブ・レインボーの前身は、すすきので唯一存在したストリップ劇場だった。その事実だけは知ってはいるが、私は当時の劇場を知らず、それまでの経緯を訊ねたこともなかった。
若い頃のあぐりは筋肉隆々の自衛官だったと、当時の写真を見せてもらったこともある。今でこそ年齢なりの肉付きで着物を粋に着こなしているが、同性でも惚れ惚れしてしまいそうなほど迷彩服の似合ういい男だった。
「札幌の駐屯基地にいたときにね、好きだった人がストリップ劇場に連れて行ってくれたの」
同じ隊の先輩だったという彼は、劇場のトップスターの大ファンだったらしい。弟のように可愛がっていたあぐりを連れて夜のすすきのに繰り出し、休みの日は通し券を使って朝から夜まで入り浸る筋金入りのスト客だった。
「わたしは女の人の裸よりも、先輩ばっかり見ていたけどね。そのうち先輩が踊り子と付き合うようになったら、なぜかわたしも本番前の楽屋に出入りできるようになったのよ。踊り子の中には巡業で生計を立てている子も多かったから、先輩の彼女も部屋を持たずに劇場に住んでいたの」
ストリップ劇場はひと月を十日間ごとに頭・中・結と区切り、地方を巡業する踊り子たちはその期間を劇場で寝泊まりしていたらしい。さとわもまた巡業で生計を立てていたため、タイミングが違えば渋谷の劇場で彼女と出会うこともなかったのだ。
「踊り子が先輩と結婚したときに、劇場が経営不振で閉店することが決まってね。それでわたしが、貯金をはたいて店の権利を買い取ることにしたの」
そしてあぐりは自衛隊を辞めた。自衛官時代の貯金だけでは足りず、必死に工面したのだと振り返る。
「そこまでして残したかったのは、先輩との思い出の店だったからですか?」
「どうかしらね。先輩には最初から失恋していたわけだし……きっと、わたしもあの劇場が好きだったのよ。過激な演目があった時代もあるけど、踊り子はみんなプライドを持って舞台に立っていたから」
指先で氷をくるくると回し、あぐりが言う。グラスを見つめる瞳は、かつてこの劇場で行われたであろうショーの数々を思い出しているようだ。
「最初は劇場をそのまま継ごうと思ったんだけど、借金の返済もあるし、自分も身体を張って稼ぐことにしたの。憎き恋敵の名前を名乗って、その人の得意の演目だった和装で接客するなんて、我ながら女々しいと思っているわ」
『あぐり』の由来をはじめて知った。早々にウイスキーを飲み干した彼女は、酔いの回った手元で二杯目のウイスキーを注ぐ。
「……憎たらしいけど、綺麗な人だった。冬の香盤で、盆を雪景色に見立てた演目があったんだけど、あれが今でも忘れられないの」
真っ白な着物に身を包んだ『あぐり』は、かつてこの店のステージで踊っていた。
「あぐりはショーに物語性をもたせるのが得意で、その時のテーマが雪女だったの。愛する人に自分の秘密がばれてしまった雪女が、泣く泣く男の前を去っていくでしょう? あぐりが演じた雪女はね、流氷の上でうまれたままの姿になって、沖に流されながら消えていったのよ」
「……流氷?」
「昔話の雪女は山奥の話だったのにね。あぐりはオホーツクの出身だって言ってたから、それで自分なりにアレンジしたのかもしれないわ」
そして現在、クラブ・レインボーは雪をんなをテーマにショーの準備を進めている。その偶然に誰よりも驚いたのがあぐり自身だった。
私は彼女の話を聞きながら、グラスを傾けて氷を照明に反射させた。
――流氷の上で、踊りながら死にたい。
なぜ、さとわはあんなことを言ったのだろう。
「……そのあぐりさんは、今も踊り子を続けてるんですか?」
「まさか、何十年前の話だと思ってるの? 先輩と結婚したときに引退して、今は孫だっているのよ」
「そう、ですよね……」
歯切れの悪い相づちを打ちながら、私はウイスキーを舐める。さとわの年齢から逆算しても、現役時代のあぐりのショーを見ることは不可能だろう。
酔いの回ったあぐりがカウンターでうたた寝をはじめる。その背に上着を羽織らせ、私はウイスキーの氷が小さくなるまで大切に大切に味わった。
