クラブ・レインボー⑮
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お客さん、着きましたよ。乗務員から声をかけられるまで、私たちは寝苦しい夜行バスで浅い眠りをくり返していた。
日付が変わる前に札幌を出発し、知床に到着したのは午前七時前。空はとうに白み、カーテンから差し込む朝日が寝不足の目に沁みた。
夜行バスは地域の停留所で地元の人々を下ろした後、観光客たちをそれぞれが予約したホテルへ送り届ける。乗務員は私たちを終着駅で下ろすとそそくさと発車していった。
ほかの乗客たちに流されるままホテルに入り、寝起きのぼんやりとした頭でフロントに行った。コンシェルジュに勧められるがままに部屋を取ったが、早朝からチェックインできるプランはないらしい。あくびを噛みしめ、私はロビーのソファーに座るさとわに声をかける。
「部屋に入れるのは午後からだけど、朝風呂は利用できるみたいよ。汗を流して少し休んだら?」
「……別にいい」
バスの車内は暖房が強く、変に汗をかいてしまった。源泉かけ流しの温泉と海鮮が売りの人気ホテルを予約できたのはいいが、寝ぼけまなこの私たちは豪華な装飾が施されたロビーですら夢の中にいるように思えてならない。
隣に座ると、彼女は再び横になった。当たり前のように膝枕をし、私は寝乱れた髪を撫でる。窮屈な座席ではいくら眠ったところで疲れもとれないだろう。
着の身着のままの私たちだったが、店を出る前に服だけは自前のものに着替えていた。羽二重で押さえつけていた頭は蒸れたにおいがし、メイク落としのシートで拭いただけの顔は乾燥して脂が浮いている。
「ごめんね、家族風呂は夜だけみたいなの」
風呂に入れば目も覚めるだろうが、さとわをひとり残して行くわけにはいかない。アパートの狭いバスタブで長湯をする彼女は温泉も好きだろうが、手術の傷跡を気にして公衆浴場を避ける女性は多いらしい。
知床に到着したはいいが、予定も何も決まっていない。午後のチェックインまでずっとここにいるわけにもいかないだろう。ロビーは早朝でも賑わい、ダウンジャケットやニット帽でしっかり防寒をした客たちの姿があちこちで見受けられた。
自動ドアの向こうにマイクロバスが停まる。しかし降りる客はおらず、運転手はバインダーを片手にロビーで声を張り上げた。
「知床五湖ツアーに参加のお客様」
その声に、隣のソファーに座っていた宿泊客が立ちあがる。ホテルの前には大小さまざまなバスが停まり、ロビーでは盛んに声が上がっていた。
「バードウォッチングをご予約のお客様」
「スノートレッキングに参加のお客様」
「流氷ウォークに申込みされたお客様」
冬の知床ではスノーアクティビティーが人気らしい。各種ツアーの会社がホテルへの送迎を行っているようだ。続々と集まる宿泊客の様子を眺めていると、上から下までアウトドアブランドの防寒着に身を包んだ男性に声をかけられた。
「タナカさんですか?」
「いえ、違います」
男性はロビーに座る人々に声をかけて回る。タナカさんとやらは集合時間を間違えてしまったのだろうか。その騒がしさに耐えきれず、さとわがのろのろと身体を起こした。
「目は覚めた? 朝ごはん食べるなら、ホテルのバイキング申し込むけど」
朝に弱い彼女は、言葉にならない声を漏らすのみ。色とりどりの防寒着に身を包む観光客に比べ、私たちはなんとみすぼらしい格好をしていることか。日常から離れた旅行の高揚感も持ち合わせていなかった。
「あの、すみません」
声をかけられ、振り向くと先ほどの男性がいた。
「私はタナカじゃありませんよ」
「それはわかっています。もしお時間があったら、流氷ウォークに参加しませんか?」
突然の誘いに驚く私に、男性は申し訳なさそうに眉を下げる。
「どうやら無断キャンセルのようで……ツアーに空きがあるんです。お二人と同じサイズのドライスーツもありますので、準備に時間もかかりませんよ」
様々なツアー会社が呼びかける中、ソファーから動きもしない私たちは自ら暇だと言っているようなものだ。男性はそれに気づき声をかけたようだった。
「ツアーは人が集まらないと赤字になっちゃうんです。参加費もすこし割引しますから、いかがでしょうか?」
懐事情を素直に話す男性に、警戒心はすぐに和らいだ。さとわも眠気が去ったのか、私が目くばせをすると首を縦に振る。
「……参加します」
行く当てのなかった旅だが、到着早々予定が埋まった。
ホテルで流氷ウォークの申し込みをしたのはタナカ一行だけだったらしく、男性が運転するのはマイクロバスではなく軽自動車だった。
「いやー、なんか無理やり参加させちゃったみたいですみませんね。無断キャンセルされた挙句、手ぶらで帰るのも悔しいもんで」
「こちらこそ、朝ごはんをありがとうございます」
「なんもなんも、どうせ僕の昼飯ですから。冷めないうちに食べちゃってください」
ツアー参加を決めたはいいが、夜からろくに食べていない私たちは動く元気もなかった。腹の虫を盛大に鳴らすさとわに、男性が車に積んでいた握り飯をくれたのだ。
「海に着いたらほかの参加者も待ってますよ。僕もガイドで一緒に歩きますし、帰りも宿まで送るので安心してくださいね」
彼が握ったのか、こぶし大の爆弾おにぎりはひとつ食べただけでお腹いっぱいになりそうだ。中の具は定番の鮭だが、コンビニとは比べ物にならないほど具がつまっている。さとわが小さな声でおいしいと呟き、魚が好きなのだとはじめて知った。
男性は近藤(こんどう)と名乗った。知床も例に漏れず圧雪路面だが、慣れた手つきで車のハンドルをさばいている。北国の車は四輪駆動車が主流で、小さな車体でも安定感のある走りをしていた。
高度を上げた太陽で空が白んでいたが、薄くたちこめる雲が仄暗い印象を与える。窓ガラスに映る自分はひげが生え、疲れた表情が脂ぎった中年男性そのものだ。近藤氏も仕事とはいえ、よくもまあ得体の知れない男女に声をかけたものだ。
「それにしても、宿からけっこうかかるんですね。海は遠いんですか?」
ホテルは高台に位置していた。知床は半島全体を指す言葉であり、私たちがいるのは斜里(しゃり)町ウトロ地区だ。街の中心部から離れているものの、観光ホテルが乱立しているところに世界遺産みを感じる。集落にはコンビニや個人商店をはじめツアー会社や道の駅もあるが、住宅街を抜けるとだだっ広い雪原が広がっていた。
「流氷には船で行くんですか?」
「いやいや、もう見えてるじゃないですか」
「え?」
寝不足の目を凝らし、私は外の景色を眺めた。道路標識の青看板がウトロ漁港を示し、圧雪路面が地の果てまで続いている。
「あそこに見える岩はゴジラ岩って呼ばれてます。角度によってそう見えるんですけど、ツアーが終わったらホテルに帰る前に寄っていきましょうか」
近藤氏が指差す先、集落の中に黒く大きな岩がそびえ立っていた。その向こうに道の駅と知床ネイチャーセンターの建物が見える。どこまでも続く雪原を眺めていると、その中に赤い灯台がぽつねんと立っていることに気付いた。
「……もしかしてこれ、全部流氷なんですか?」
「そうですよ。お客さん、流氷見るのはじめてですね?」
流氷とは、海の上にぷかぷかと浮かぶ氷のかたまりだと思っていた。テレビで見る観光砕氷船は、青い海を漂流する流氷のベルトを砕きながら航行していたはずだ。
流氷が漁港を塞いでしまうなど想像してもみなかった。さとわも同じことを思っているのだろう。窓ガラスにへばりついて海を凝視している。
「港からスタートする流氷ウォークもあるんですが、うちは海岸から行きますんで。知床ではガイドが同行しないと流氷の上を歩けない決まりになってますから、今日は貴重な体験ができますよ」
車がすすむにつれ、流氷の詳細が見えてきた。大きな氷の塊が隙間もないほど密集し、海に蓋をしてしまっている。時にでこぼこと重なり合う氷の塊が、水平線の先まで果てしなく白く続いていた。
