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クラブ・レインボー⑯


 海岸の駐車場に着くと、数台のワゴン車が停まっていた。近藤氏の案内で私たちはドライスーツに着替える。普段よりひと回り大きなサイズを選ぶのは、中に服を着たまま装着するためだ。アウトドア用品は原色や蛍光色など自然の中で目立つ色合いになっていた。

 先に到着していたのは若い学生のグループだった。他は年配の夫婦や女性二人組など、誰かしら連れ合いがいるようだ。ガイドは近藤氏と長いひげをたくわえた男性であり、ツアーの前に注意事項を説明する。

 これから歩く海は入り江に位置するため、海面の動きは穏やかだが、水深は五、六メートルと深い。万一落ちてしまった場合は両腕を挙げてドライスーツの中に海水が入らないよう指導された。スーツにはポケットがなく、歩行中のカメラやスマートフォン転落を防ぐため、撮影スポットに着くまでガイドが背負うリュックに預けなければならない。

 ドライスーツは手袋から長靴まで一体化しており、近藤氏からニットの帽子を借りた。全身をぴたりと覆うスーツは少々歩きづらい。氷が分厚いとはいえ、もし突然割れてしまったらと不安になる。ガイドは揺れの少ない安定した道を選び、不安定な足場になると若い女性たちが悲鳴まじりに渡っていた。

 歩くのに慣れてきたころ、ガイドが止まって写真撮影の時間を作る。スマートフォンを受け取り、参加者たちにもまわりを見る余裕が生まれた。

 空を覆っていた雲がいつの間にか消えていた。その抜けるような青さが、流氷の白さを際立たせている。果てしなく続く水平線、目を凝らしても海面が見えず、はるか沖までこの道が続いているのだと知る。

 波の音が、しない。足場があまりにも安定して、ここが海の上だと忘れてしまいそうになる。

 このまま歩き続ければどこまで行けるのか。ふらふらと歩き出す私を見て、近藤氏が声を張り上げた。

「次のスポットに行きますよ。あまり離れないでください!」

 叱られ、私はすごすごと一行に戻る。さとわは学生グループにつかまり、熱心に話しかけてくる青年たちを適当にあしらっていた。

 流氷の上にも雪が積もっている。先を歩く人々の足跡に混じって、動物の足跡が続いていた。年配のご夫婦がキタキツネだねと言う。ここは海の上でも大地とつながっているのだと、髭を生やした老人が感慨深く呟いていた。

 次のスポットでは、流氷に空いた穴に入る体験をした。湯船ほどの大きさの穴に、女性ふたり組が順番に入る。ドライスーツのおかげで服が濡れる心配はなく、海水の浮力でふわふわと浮かぶ様はまるで入浴中のようだ。こぞって写真撮影がはじまり、穴から出る際はアザラシのように腹ばいになって這い出るのがかわいらしかった。

「さとわも入ってきたら?」

 学生グループから解放された彼女は、冷たい潮風で頬が赤くなっていた。歩いたおかげで体温が上がったのか、ロビーで寝ていた時よりも顔色が良い。

「せっかくなんだし体験したらいいじゃない」

「いいの。歩いているだけで十分」

 少し離れたところでは、学生グループが流氷割りを体験している。氷の薄い場所で輪になって並び、全員でジャンプして流氷を割るというものだ。しかしへっぴり腰で飛べない男子が多く、氷がなかなか割れてくれない。ジャンプするたびに驚きとも恐怖ともつかない声があがっていた。

 年配のご夫婦はアニマルトラックに夢中になっている。足跡はキツネのような小動物だけでなく、羽休めに降り立った鷲の跡もある。エゾシカなど大きな動物までもが流氷を渡るのだと、雪が無言で教えていた。

 今ならガイドの目もない。私たちは言葉もなく、沖に向かって歩き出していた。

 何かに導かれるように、さとわは先を歩いている。私はその後ろに続く。学生たちの声が遠ざかり、あたりがしんと静まり返る。

 歩くたびにシャーベット状の雪を踏むが、依然、海の音は聞こえない。寄せては返すはずの波が、流氷という蓋で閉ざされてしまっていた。

「さとわ」

 あまりの無音に、私は彼女を呼んだ。

 どこまで行くの。そう言いかけて、やめる。彼女はこのまま、ずっと先まで歩いていきたいのだろう。

 呼びかけにさとわは足を止めた。こちらを振り向き、ふと、そばにあった流氷の山に目をやる。

 それは盆と同じ大きさの流氷だった。

 彼女は滑らないように気をつけながら、一歩、二歩と近づいていく。流氷は日に当たると少し青みがかって見えた。氷が寄せ合い盛り上がったそこは階段のようになっており、さとわはドライスーツの靴底で慎重に段差を登った。
 流氷の上に立つ彼女をからかうように、一陣の風が吹く。それに呼応するように足もとが揺れ、彼女の身体が傾いだ。

「さとわ」

 バランスを立て直し、彼女は涼しい顔で流氷の上にいた。海が動いたのだろう、氷同士が擦れあってキリキリと音が鳴る。遠く沖から聞こえるのは流氷のぶつかる音だろうか。静寂が破られ、さとわは音色を拾うように地の果てを見つめていた。

 ドライスーツで着ぶくれた身体。潮風で絡まる髪と、りんごのように真っ赤な頬。舞台で踊っていた彼女とは似ても似つかないが、白い息を吐く横顔はいつもと変わらなかった。

 さとわは風を受け止めるように両手を広げる。胸に海風を抱き、その声をたしかめるように耳を寄せた。

 海が鳴いている。それは彼女の耳にどんな言葉を囁いているのか。穏やかな表情で、さとわはその声を包み込むように抱いた。

 腕の中には何も存在しない。そこにあるのは虚空だ。けれど彼女は、愛しい人を抱きしめるかのように、流氷鳴きを孕む風を受け止めていた。

 その腕の中にいるのは自分でありたいと、私は思った。彼女のしぐさが、渋谷の劇場で見たあの日の姿と重なった。

 いま、彼女は、盆の上にいる。

 擦れ合う流氷が楽譜のないメロディを奏でる。快晴の空の下、輝く太陽はどんな照明よりも明るく彼女を照らす。抱きしめた風を解き放つよう、空に伸ばした手は羽ばたくようにしなやかで、その所作ひとつひとつに隠しきれない艶があった。

 私は声も出せぬまま、ただただ、その姿を目に焼き付けていた。

 時間にすればほんの数分だったのだろうか。身体が寒さを感じ始めたころ、さとわが流氷の階段を降りた。

「……行こう」

 ドライスーツスーツ越しに、彼女が手を握る。その足取りは、沖ではなく陸へと向かっていた。

 気づけば、ガイドが私たちを呼んでいた。だいぶ歩いたと思っていたが、まだ彼らの許容範囲にいたらしい。グループに戻ると「海に落ちたら大変ですから、ツアー以外では絶対に流氷に乗らないでくださいね」と念を押されてしまった。

 小一時間ほど散策し、ツアーは海岸に戻った。帰り道の途中、私たちが離脱しないか目を光らせていた近藤氏が、海の穴から氷を削り出してみせる。

「これ、舐めてみてください」

 流氷のかけらを手渡され、私は口に含む。きつい塩辛さを覚悟していたが、汗をかいたからか不思議と甘く感じられた。

「流氷はロシアのアムール川の水が流れ込んで、塩分濃度が薄まった部分が冷やされ氷になったので、舐めてもそんなにしょっぱくないんですよ。はじめは小さな氷の塊でも南下していくにつれどんどん大きくなっていくので、この中にはロシア産だけでなく日本産の流氷もあるんです」

 他の客もその説明を熱心に聞いている。学生グループは海水をすくって口に含んでいた。

「この時期にやってくる流氷は磯を掃除する役割があります。氷から解けだしたプランクトンが海を豊かにしてくれる。だから流氷は、海からの贈り物って言われてるんですよ」

 氷を太陽にかざすと、ガラスのように透き通っていた。中に入った気泡に日の光が反射し、雪の上に光の粒を降らす。さとわは私に顔を寄せ、その輝きを見上げていた。

「……綺麗だね」

 口数の少ない彼女が、そう、言葉を紡いだ。

 氷を海に戻し、ツアーは陸地に戻る。さとわは名残惜しそうに沖を振り向き、私のスーツの袖を掴んだ。

「こんなに綺麗な景色見たの、はじめて」

 そうつぶやく彼女の手を、私は何も言わずに握り返した。



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