クラブ・レインボー⑦
〇
ラウンジでのアフタヌーンティーは数日にわたって私の胃を蝕んだ。
日ごろ愛用しているドレスは身体のラインがわかるものが多く、ゆったりとしたデザインを選ぶと常連客が珍しがっていた。身体を動かせば減量も早いだろうが、雪深い季節はそう簡単に外に出ることもできない。
私が琉生からの依頼を伝えると、さとわは能面のような表情のまま口を開いた。
『……大丈夫』
『それはOKという意味でいいの?』
『服を脱ぐ必要がなければ』
それはあらかじめ琉生に確認していた。彼女の身体に刻まれた傷跡を知るのは一緒に暮らす私だけ。氷の女神像が裸体かそれに近い姿になるであろうことは、歴代の大賞作品を見ても容易に想像できた。
琉生にヌードの必要性を訊ねると、顔を真っ赤にして否定した。そもそも彼が女性の裸体を前に平静でいられるとも思えない。何度かのやりとりを経て、氷像製作に協力するのはクラブ・レインボーの閉店後と決まった。
カウンターの中でグラスを磨くさとわに、私は酔い覚ましの水を飲みながら声をかける。
「モデル、本当にいいのね?」
「どうせ嫌だと言っても無理矢理やらせるんでしょ」
放っておけばアパートの部屋から一歩も出ようとしない彼女を、小遣い稼ぎという名目でクラブに連れてきたのは私だ。さとわから家賃や光熱費などは受け取っておらず、文字通り私が養っているのが現状。身ひとつで北海道に渡った彼女はろくに着替えも持っておらず、通帳の残高もすずめの涙だった。
ストリップ劇場の踊り子も我らドラァグクイーンも、仕事で稼いだ金を衣装代に費やしてしまいがちだ。ステージと客との距離が近ければ細部の粗にも気づかれやすい。クラブ・レインボーではドレスの貸し出しもしてはいるが、キャストひとりひとりの体格が異なるため兼用できるのはせいぜいハイヒールくらいだ。
「私は別にお金のことを言っているわけじゃないの。あなたの気持ちが辛くならないか、それを心配しているのよ」
「別に、裸になって踊るわけでもないんだし」
皿洗いがメインとはいえ、仕事中の彼女は黒服の制服を着ている。エプロンの下にはワイシャツと黒いベスト。外出時は下着に入れ物をしているため、彼女の身体に違和感を覚えることはない。もとよりこのクラブでは、私のように乳房を持たぬキャストが胸パッドを詰めるのはごくごく普通のことだった。
約束の時間よりも早く、琉生は大きな鞄を提げて登場した。アルコールのまわったあぐりが彼を抱擁で出迎え、キャストたちは三々五々帰宅の準備をしている。
「モデルが決まってよかったわ。わたしに協力できることがあったらなんでも言ってちょうだいね」
「ありがとうございます、オーナー。お店にはご迷惑をおかけします」
彼は大きな瞳で店内をきょろきょろと見回す。そしてカウンター内にいるさとわに気づくと、背筋をしゃんと伸ばして声をかけた。
「さとわさん、お疲れ様です!」
それに彼女は塩対応で返すが、琉生は怯むことなくカウンター席に座る。事の経緯は私から伝えてはいたが、モデルの具体的な内容を聞くのは当人たちが顔を合わせてからと決めていた。
「何度かこうしてお話しする時間をもらえたら嬉しいですが、僕もできる限りクラブに通います。その時に働いている姿を見せて欲しくて」
「あたしはいつも皿洗いだから、フロアに出ることはないけど」
とはいえ、忙しくなればつまみやフルーツを運ぶ時間くらいあるだろう。琉生は店でキャストたちのショーを見る時間も欲しいのだと語る。
「もしよければ、さとわさんの写真や動画を撮らせて欲しいんですが大丈夫ですか?」
棚にグラスを並べていた手が、ぴたりと止まる。
「……写真は嫌いですか?」
沈黙は肯定を意味する。琉生は彼女の機嫌を損ねないよう、すぐに方向転換をした。
「では、スケッチを描かせてもらっていいですか? 僕も紙に描き起こしたほうがイメージを掴みやすいので」
やけに大きな鞄だと思っていたが、彼はそこから一冊のスケッチブックを取り出した。中にはカメラの機材も入っていたのだろう。準備万端で臨む真摯さに、さとわの表情がかすかに緩む。
「モデルはどんなポーズをとったらいいの?」
彼女がようやく心を開いた。それに琉生の表情がぱっと明るくなる。
「今日は自由にしてもらって大丈夫です。具体的にイメージが決まったらその時にお願いすると思いますが、まずはさとわさんの自然な姿を見せてもらいたくて」
言いながら、彼はスケッチブックに鉛筆を走らせる。迷いのない手つきに私が覗き込むと、少ない線でもさとわの特徴をとらえているのがわかった。
身体の輪郭に歪みがない。ひとつに束ねた黒髪と、長い前髪の下に潜む瞳のアンニュイさを的確に表現する様に、私は小さく口笛を吹いた。
「上手ね」
「ありがとうございます。学生時代は美術部だったので」
聞けば、学生時代の彼は進路を選ぶ際、美大受験を視野に入れていたらしい。しかし、皿の上に乗る洋生菓子の芸術性に惹かれパティシエの道を選んだのだそうだ。やがて就職したホテルで氷彫刻の世界を知り、その儚い芸術性にのめり込んでいったらしい。
「インバウンドが復活したおかげでコンテストに協賛するホテルも増えたんですが、うちはまだ、そこまでの余裕がないみたいで」
すすきのをはじめとする飲食店と同じく、感染症禍は観光業も苦しい経営が続いたに違いない。氷の彫刻が必要とされる結婚式やパーティーも軒並み数が減ったはずだ。
「コンテストの時期になると、職場の人たちもシフトを調整してくれるんです。今年は休みまで増やしてくれて……だからなんとしてでも大賞をとらないと」
パティシエの仕事は朝が早く、かといってそのぶん退勤時間が早まるわけでもない。夜の世界に生きるクラブ・レインボーの営業時間は彼の睡眠時間を削ってしまうだろう。しかし、モデルを引き受ける際にさとわが出した条件があるのだ。
打ち合わせの場所はクラブ・レインボーで、私の同席も必須だった。
「マチルダさんも、お仕事で疲れてるところすみません」
「いいのよ、私もショーの構成を考えないといけなかったから」
クラブの営業時間は午前一時までだが、私は閉店後も店に残ることが多い。常連客に付き合って夜通し酒を飲む日もあれば、悩みを抱える後輩キャストの相談に乗るのも仕事のうちだ。
BGMを垂れ流すフロアを黒服たちが掃除し、あぐりは閉店後の精算業務を行う。黙々とグラスを磨いていたさとわは、最後のひとつを片付けると額の汗をぬぐった。
「お疲れ、さとわ。おごるから一杯飲むといいわ」
「まだ掃除が残ってるから」
そう言って彼女は黒服たちの仕事に加わる。モップ掛けを代わったが、フロアのあちこちではテーブルやソファーを消毒する姿が見受けられた。琉生は華やかな世界の裏側に好奇心を隠せない様子だ。
「さっきからずっと気になってたんですが、ステージにあるあの棒は何なんですか?」
彼の視線の先、ステージの中央に一本の鉄棒がそびえ立っている。
「あれはポールダンスで使うの。今日のショーで得意な子がいたのよ」
バーレスクなど専門的なショーを行うクラブでは備え付けのポールがあるが、クラブ・レインボーは取り外し可能なものを使っていた。
「マチルダさんも踊れるんですか?」
「今日はお酒飲んじゃったから無理」
私は反射的に見栄を張った。妖艶に踊るポールダンサーに憧れ身につけようとしたことはあるが、あれは強靱な筋力と柔軟性が必須とされる世界だった。踊るには踊れるレベルにはなったが、ショーとして人前に出るにはあまりに稚拙すぎる。
「ショーの日はずっとポールを出しておかなきゃいけないから、他のキャストの時に邪魔になることもあるの。だから滅多に出せるものじゃなくて」
「そうなんですね」
琉生が残念そうに嘆息する。クラブのショーは出勤するキャストによって内容が変わるため、次いつポールダンスがあるとも約束できない。
あの世界は肉体美が際立つため、創作の糧として大いに役立つだろう。酒で重くなった腰を上げ、私はポールを解体しようとする黒服に「ちょっと待って」と声をかけた。
有線放送のBGMが洋楽に変わる。フロアは照明を絞り、ステージに残ったひとすじの光がポールを浮かび上がらせていた。私がステージの階段を登るよりも早く、脱ぎ捨てたエプロンが床に放られた。
いつのまにか、さとわがポールを握っていた。
黒服の窮屈なベストを着たまま、彼女は襟元のボタンを外す。つま先立ちの素足はまるで高いヒールを履いているかのようだ。ゆったりとしたバラード曲に合わせポールにしなだれかかる彼女の姿に、清掃中の黒服たちが手を止めた。
ダンスで使用するポールは土台に固定されているスタティックタイプか、ポール自体が回転するスピニングタイプのいずれかで躍る。スピニングポールは身体を近づけると回転の速度を増し、その緩急を利用して技――トリックを決める。さとわがポールに片脚をかけると、華奢な身体が緩やかに回転を始めた。
即興のダンスだが、動きがBGMと合っている。一見すると軽々舞っているように見えるが、ポールを挟む脚だけで身体を支えるにはそうとうな筋力が必要であり、加減を誤れば落下の危険もあった。
すごい、と、誰かが呟く声が聞こえた。それが琉生か黒服のものかはわからない。私はステージの真下で彼女の踊りを見つめていた。
ストリッパーは一つの劇場に専属するわけではなく、全国各地にある劇場を巡業して生計を立てている。ステージも地域ごとに特色があり、ポールが常設されている劇場も珍しくない。
ストリップの文化が始まった戦後の時代と違い、現代は女性の裸を見る方法などいくらでもある。劇場で踊る道を選んだ女性たちは、やみくもに肌をさらすのではなく、己が身体を美しく魅せるため表現の技術を磨いていった。バレエやヒップホップをはじめ、身体の魅力を引き立てるポールダンス、天井から吊り下げたリングや布を使ったエアリアルダンスなど、さとわがそれらを習得していても疑問は感じない。
ポールに腕を絡める彼女は、まるで誰かを抱きしめているかのようだ。頬を撫で、唇を重ねるダンスの艶やかさに、私はストリップ劇場にいるかのような錯覚に陥った。渋谷の劇場で観た彼女もまた、愛しい人との情事を垣間見せるような、背徳感ですら覚えるセックスを演じてみせたのだ。
恋人の身体に寄せては離すを繰り返す彼女だが、トリックは下半身ばかりで上半身を使うことはなかった。
傷痕が邪魔をするのだと、気づくのに少しだけ時間がかかった。
彼女の両胸には大きな傷跡がある。それは乳がんの手術の跡だった。
女性の九人に一人は乳がんになると言われている時代。彼女のような若い女性がかかるのも珍しいことではない。早期に発見できれば生存率も高く、腫瘍の部位によっては乳房を温存することも可能だ。もし全摘出が必要となったとしても、医療用シリコンを使うなど再建手術の方法も確立されている。
さとわの左胸は乳房が全摘出されている。右胸は温存だが、切除部位が大きくお椀のような丸いかたちは損なわれていた。彼女のように両胸に腫瘍があるのを両側乳がんというのだと、私は自分なりに勉強していた。
