クラブ・レインボー⑭
カウンターにグラスを運ぶさとわを見た恋人が、綺麗だと見とれていた。泣きじゃくりながら、デイジーはそう言った。
キャストと黒服が騒ぎを起こしても、クラブは通常営業を続けた。酒の勢いで起こるいざこざなど夜の店ではよくあることだ。酔いとホルぼけで足元がおぼつかないデイジーを介抱し、自宅まで送っていったのはあぐりだった。
後半のショーでも私にはトリの大役が待っていた。トラブルが起きようとも仕事は全うしなければならない。さとわを一人にするのが心配だったが、閉店まで楽屋で待っていると約束させ、私はステージで歌っていた。
スマートフォンの画面が目に焼き付いて離れない。二度目の愛の賛歌に感情が乗らず、心ここにあらずの状態で歌詞をそらんじていた。
デイジーから聞いた話では、さとわの姿を見た恋人が掲示板の写真を思い出して検索したらしい。解像度の低い画像は時代を感じたが、顔はおろか陰部まで無修正で晒されていた。羞恥に頬を染め抵抗する生々しさが、劣情を煽るのは同じ男として容易に想像できる。
それがリベンジポルノかどうかなど、掲示板で見た人間にわかるはずもない。誰かのパソコンや携帯電話に保存され、それがまた別の掲示板に投稿され、そうやって彼女の写真は長い年月をインターネットの海で漂流していたのだった。
見つけた写真を誰彼かまわず言いふらしたデイジーの行動は許されるものではない。しかし、彼女が爆発させた感情を知って、キャストにも同情的な発言をする声があった。
自分たちの数少ない居場所に、本物の女性がいることが、辛い。
しかるべき条件をクリアし、手術で自らの身体を作り替えることができれば、私たちも『女』の戸籍を得ることができる。性別違和に苦しみ、長い月日と膨大なお金をかけて望む姿を手に入れたとしても、その後の生活がすべて思いのままになるわけではなかった。
付き合うぶんにはかまわないが、結婚するなら本物の女性が良い。その言葉に傷つき涙するキャストを、私は数多く見てきた。
たとえ戸籍上は女性になれたとしても、自らの血を引いた子どもを持つことはできない。女性ホルモンの注射は生涯打ち続ける必要があり、血栓症のリスクや肝機能、循環器への影響も無視できない。胸に入れたシリコンにも寿命があり、血の通わないそれは体を冷やす原因になる。
さとわ自身に非はない。しかし、うまれながらに女性の身体を持ち、デイジーらが苦労して手に入れたものを当たり前のように享受する姿に、嫉妬せずにいられる者のほうが少ないだろう。
現に私も、彼女の女性らしさを嫉んでしまうことがあるのだから。
フランス語の愛の賛歌を歌い上げ、拍手が鳴り止まぬうちに私はステージを後にした。
「――さとわ!」
キャストたちが身支度を調える楽屋は、畳敷きの古風な部屋だった。壁一面に並ぶ化粧鏡やライトは新しいものに入れ替えてあるが、ストリップ劇場時代は踊り子たちがこの部屋で寝泊まりしていた。
黒服用の休憩室は別にある。弱っている彼女に付け込む輩を心配して、私は楽屋で待つよう伝えたのだがーー楽屋に彼女の姿はなかった。
ステージの裏にも厨房にも、さとわはいない。私は店中の扉を開けて彼女を探した。ひとりにすべきではなかったと、その後悔ばかりが頭を占める。
先にアパートに帰ったのだろうか。しかし、コートも貴重品も残されたままだ。上着を羽織るのももどかしく、私はドレス一枚でクラブの外に出た。
扉を開くなり、外にいた男性とぶつかってしまう。勢いあまって雪の上を転がる姿に、私は謝りながら手を差し伸べた。
「……琉生?」
なぜ彼がここにいるのか。立ち上がり、コートに付いた雪を払いながら彼は苦笑いを浮かべた。
「今日はもう帰ったんじゃなかったの?」
「なんか、緊張して眠れなくて……」
本番が近づき、高ぶった気持ちを鎮めるために夜の街を歩いていたらしい。行く当てもないままさ迷ううち、通い慣れたクラブに足が向いたようだった。
「何かあったんですか?」
寒空の下、薄着姿の私に琉生が異変を察知する。氷点下の気温も忘れ、私は白い息を吐きながら辺りを見渡した。
「さとわを見なかった?」
「いえ……」
彼の身体を押しのけ、私は雑踏の中を走る。人混みをかき分けるたびに不躾な視線を浴び、酔客が私を見てげらげらと笑った。
見ろよオカマだぜ。えーわたしはじめて見た。よくあんな恰好できるよな。テレビで見るけど実物はやっぱりきついな。気持ち悪いなどっか行けよ。
絡んでくる若者を無視して、横断歩道を渡る。人波を縫うように走り、その後ろを琉生が追いかけてくる。踏み固められた雪がスケートリンクのようになっていたが、私はピンヒールを突き立てて力強く走った。
白いフェンスに囲まれた工事現場。施錠したはずの扉が開いている。その鍵を最後にかけたのは、雪まつり当日に店への搬入を指示された黒服たちだった。
彼女はいつも、キャストの楽屋ではなく黒服たちの休憩室を使っている。合鍵の保管場所もすぐにわかったことだろう。
「――さとわ!」
扉を開き、私は叫んだ。
砂利の混じった雪道にヒールをとられる。溶けた雪で足が濡れ、つま先の感覚がないまま私は走った。
さとわは氷像の前にいた。照明の消えた女神像は輝きを失い、フェンスの隙間から差し込む光がぼんやりと照らしている。自分の背丈より高い彫刻を前に、彼女が振りかざしたのは一本のバールだった。
「やめなさい!」
チェーンソーは琉生が厳重に保管している。彼女があれを使えば大怪我をしていたかもしれない。私はその細い手首を掴み、すんでのところで止めた。
しかし、彫刻にはすでに無残な傷がついていた。背景の装飾が壊れて足もとに散らばっている。琉生がそれを見て無念の声をあげたが、さとわの耳には届かなかった。
「こんなもの持って危ないでしょう!」
「離してよ!」
もがく彼女からバールを取り上げる。勢いあまって宙を舞ったそれは、フェンスに当たってけたたましい音をたてた。フェンスの向こうからどよめきが聞こえるが、さとわはそれに怯むことなく抵抗を続ける。
「離して! こんなもの見たくない!」
彼女は黒服姿のままだった。デイジーが引きちぎったボタンもそのまま、胸元が見え隠れしている。私はそれを隠したかったが、力いっぱい暴れる彼女をおさえるために両手がふさがっていた。
バールの切っ先を振り回したのだろう、女神像には無数の傷がついている。その多くが豊かな胸に集中し、対して繊細な顔や指先は綺麗なままだった。
「さとわさん、僕……」
「こんなのあたしじゃない! こんな、こんなの……!」
琉生はただおろおろと声をかけるばかり。店での騒動を知らないのだから仕方ない。私の手をふりほどこうとするあまり、結んだ髪も乱れ、その瞳はまぶたの縁いっぱいに涙をためていた。
「あたしはもう、こんな身体じゃない!」
悲痛な叫びとともに、さとわが泣き出した。
「もう、こんなふうに踊れないの! 舞台に立てないの! あたしにはもう……何の価値もないのよ!」
「そんなことない、僕はさとわさんのことが――」
「綺麗事言わないで!」
私の手をふりほどき、さとわはシャツの胸元を大きく開いた。
「これを見ても綺麗って言えるの?」
乱れた肌着から傷痕が覗く。医者が丁寧に縫ったとわかる、しかし痛々しい一線が白い肌に浮かぶ。琉生はそれを見て言葉を失った。
「あたしはこんな身体なの。モデルになんてふさわしくないの。あたしはもう……」
「やめなさい、さとわ」
私がシャツの襟を合わせると、彼女はようやく抵抗をやめた。
「自分で自分を傷付けちゃだめよ」
ぽたりぽたりと、手の上に涙が落ちる。さとわはそれを拭うことなく、歯を食いしばって涙を止めようとしていた。
「あたしだって辛いのに」
そう呟く声は、寒空に吸い込まれそうなほどか細かった。
「あたしが今までどうやって生きてきたか知らないくせに」
「さとわ……」
「裸の写真をばらまかれて、どれだけ辛い思いをしたのか知りもしないくせに。なんでみんな、あたしが悪いって言うの……?」
一度拡散された写真は完全に消すことができず、半永久的にインターネットを彷徨い続ける。彼女はその身に、生涯消えることのないデジタルタトゥーを刻まれていた。
「舞台に立って、ようやく忘れられると思ったのに。あたしはもう踊れないの。踊れなくなったら、また、あの写真に縛られて生きていかなきゃいけないの」
乳房を失った瞬間、盆の上で踊っていた『さとわ』は消えた。
彼女があの舞台に戻る日は来ない。過去はいつまでも彼女を縛り続ける。その身はいつ病が再発するとも知れず、愛しい人に出会えたとしても、乳房を失った身体を受け入れてもらえるとも限らない。
身体をもとに戻すためには、再建手術を受けなければならない。シリコンを入れるのはキャストたちが受ける豊胸手術と一緒だ。
しかし、デイジーたちはそれを知らない。生まれ持った身体が羨ましいと、その妬み嫉みに弱音を吐くことも許されない。
「もう、疲れた」
とめどなく涙がこぼれる。嗚咽をこらえ、彼女は両手で顔を覆った。
「死にたい」
その小さな身体を、私は抱きしめていた。
むき出しの肌に、さとわのぬくもりを感じる。冷え切った身体に伝う涙があたたかい。頬をすり寄せ、彼女のシャンプーの香りを嗅いだ。
この小さな身体が背負う苦しみを、軽くする方法が私には見つからない。
「私も一緒に死んであげる」
自分にできることはただ一つ。その苦しみを共に背負うことだけだった。
日付が変わる直前、私たちは高速バスに飛び乗った。
予約無しでも乗れるほど、バスは空席だらけだった。雪まつりが始まれば観光客も増えるだろうが、平日の夜行便は利用する客も限られているのだろう。さとわは広々とした三列独立シートを嫌がり、最後尾の四人席を選んで私の隣に座った。
着の身着のまま、財布の中には少しの現金のみ。ろくに荷物も持たない私たちにバスの運転手は訝しげな視線を向けていた。
札幌発、知床行きの夜行バス。目が覚めるころには北の最果てに到着していることだろう。
バスが発車し、やがて車内の照明を落としても、さとわは私にぴったりとはりついて離れなかった。いつもベッドの中でそうしているように、胸に耳をあてて心臓の音を聞いている。私はその身体を抱き、背中を撫でて寝かしつけをする。
高速道路を走るバスはゆりかごのように車体を揺らす。車内は早くもいびきが聞こえ始める。身体の芯まで凍えた私は目が冴えてしまい、カーテンの隙間から差し込む外灯の明かりを眺めていた。
毎夜、彼女はこの明かりを眺めて私の帰りを待っていたのだろう。
バスが段差を踏み、そのはずみでさとわがずり落ちる。いつの間にか眠ってしまったらしい。その身体にコートをかけ、頭を膝の上に乗せた。
乱れた髪を手ぐしでととのえ、規則正しい寝息に耳を澄ます。そのまぶたは涙で赤く腫れていた。
知床の海には流氷が着岸している。彼女の望みを叶えるには十分な環境が整っていることだろう。
流氷の上で死ぬことをさとわは望んでいた。
凍てついた海でひとり寂しく死ぬより、ふたりのほうがすこしはあたたかい最期になるだろうか。
