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クラブ・レインボー⑰

     〇

 私たちがホテルにチェックインした頃、太陽が沈み夜の帳が降りはじめていた。

「だめだもう、お腹いっぱい」

 叫びながら、私はベッドにダイブする。予約した部屋は奮発して和洋室を選んだため、ツインのベッドでお互いのびのびと眠れるだろう。さとわは畳の座敷に寝ころび、座布団を枕にして実家のようにくつろいでいた。

「温泉に入っても全然こなれないの。欲張ってたくさん食べ過ぎたわ」

 チェックインしてすぐに夕食の時間になっためた、私たちは先に食事をすませることにした。広々としたビュッフェ会場は和洋中と品揃えが豊富で、セルフ海鮮丼のほかにもライブ調理のステーキやパスタなどあれこれ目移りしてしまった。安い宿だと食事も値段なりの味だが、ハイクラスの宿なだけあって食材にも一切の妥協を許していないようだ。

 流氷ウォークが終わった後。宿への帰路を運転する近藤氏は私たちがノープランで旅していると知り『なんてもったいない!』と叫んだ。そして今日の仕事はもう終わったからと、自ら知床観光を申し出たのだった。

 近藤氏は本州の出身だが、毎年冬になると知床でリゾートバイトをしているらしい。送迎で使ったのと同じ軽自動車を運転して、オシンコシンの滝やプユニ岬など近場の観光名所を案内した。私たちが流氷ウォークで歩いた入り江はプユニ岬の麓にあり、海岸に押し寄せた流氷が満ち満ちて頑丈な足場を作っていたことを知った。

 知床自然センターでは雪の散策路を歩き、野生のキタキツネを見てさとわがはしゃいだ。道民はエキノコックス感染の怖さを知っているため、むたみやたらに近づくことはしない。餌付けしようとする観光客に近藤氏が注意していた。

 知床連峰は粉砂糖を振りかけたように雪化粧し、その雄大さにただただ圧倒された。展望台からの景色は大パノラマの海が広がり、帯状に広がる流氷と海とのコントラストがくっきりと浮かび上がる。氷の密度が薄い場所では、波の動きに合わせて帯状の流氷が行き来しているのが見えた。

 流氷は潮の満ち引きや潮流によって簡単に動き出してしまうらしい。近藤氏は流氷に乗った人が沖に流され亡くなった痛ましい事故の話をした。

『あの時、ふたりが流氷に乗っていなくなっちゃうんじゃないかって、とても心配だったんです』

 観光のクライマックスは夕陽台(ゆうひだい)展望台だった。ウトロの街を見下ろす高台から海に沈んでいく夕日を眺め、近藤氏はそう言った。

 真冬の澄んだ空気は太陽を赤く染め、それを反射する流氷で海が燃えているようだった。東の空はまだ青みが残り、徐々に移り変わっていく色あいがまるでカクテルのよう。手すりから身を乗り出すように並ぶツアー客の団体に、さとわが違和感なく溶け込んでいた。

『ロビーで見かけた時、ふたりはただの観光客じゃないって思いました。僕が初めて知床に来た時みたいで、つい声をかけてしまったんです。一日中連れまわしてすみませんでした』

『いえ、こちらこそ。とても楽しかったです』

『こんなの僕の自己満足ですよね。でも、どうしても放っておけなくて……』

 もしかしたら彼は、午後も何らかの仕事が残っていたのかしれない。無理を言って休みを取ったのだとしたら、今後の給料に響いてしまうだろう。近藤氏は私たちを宿まで送り届けてくれたが、包んだ謝礼はかたくなに受け取らなかった。

『ぜひ来年も、知床の流氷を見に来てくださいね』

 彼がはじめて知床の地を訪れた時も、きっと同じ言葉をかけられたのだろう。私たちは車が見えなくなるまで見送ってから、ホテルのドアをくぐったのだった。

 当てもない旅のはずが、思いがけず充実した一日になった。朝から歩き通しでお腹も空き、夜ご飯を食べ過ぎてしまった結果がこれだ。私は食後すぐに大浴場に行ったが、部屋に戻ってもさとわは洋服姿のままだった。

「さとわもお風呂に入ったら? この部屋のお風呂は蛇口から温泉が出るのよ」

 和洋室を選んだのは部屋に内湯がついていたからだ。窓際に設置された湯船は、温泉に浸かりながら外の景色を堪能できるようになっている。夏場は窓を開放して露天風呂を楽しめるのだろうが、真冬は水道管が凍結するため開閉禁止だと注意書きがあった。

 綺麗好きなさとわが、昨夜からシャワーひとつ浴びていない。髪の毛は皮脂と潮風でべたべたになっている。畳の上で寝ころんだまま動かない彼女の視界に、私は小さな包みを置いた。

「売店で見つけたの。これがあったら大浴場にも行けるんじゃない?」

 湯上りのビールを探す際、土産物の棚にひっそりと並ぶ入浴着を見つけた。

「ここの宿は入浴着を使って温泉に入れるんだって。濡れても重くならない素材みたいだし、お湯の中でも邪魔にならないわよ」

 手術や皮膚移植で肌に傷跡が残る女性が、人目を気にせず入浴を楽しめるよう開発された入浴着。スポーツブラのように胸を隠すそれは様々な種類が販売されているが、売店で販売されていたのは一回きりの使い捨てタイプだった。優しいピンクの色合いと胸元に寄せられたギャザーが左右差を目立たなくし、縫い目が傷痕に触れて痛むことがないようデザインも考え抜かれている。

 さとわはその包みに視線をやったが、手を伸ばすことはなかった。

「なんか疲れちゃって、今日は部屋から出たくないの」

「いいのよ。大浴場には朝も入れるからね」

 入浴着をテーブルに戻すと、彼女は畳の上で仰向けになった。疲れているのは嘘ではなく、顔色が青白い。私は温泉で芯まで温まったが、彼女はまだ外の寒さを身体に残しているようだ。

「辛いなら、フロントに行って薬とか毛布とか持ってきてもらおうか?」

「大丈夫、ちょっと頭がくらくらするだけ」

 夜行バスの移動は身体の負担が大きい。観光中は楽しさが勝りたくさん歩いてしまったが、朝からろくに休憩もとっていなかった。座敷には惰性でつけたテレビの音が流れていたが、バラエティー番組の賑やかさが辛そうで電源を切った。

 畳の上で寝るよりも、やわらかいベッドに運んだほうが回復も早いだろうか。逡巡していると、彼女はこのままがいいと言う。布団に入ると朝まで寝てしまいかねなかった。

「あたしもお風呂に入りたいの」

 身体が思うように動かずもどかしいのだろう。私は風呂の扉を開け、蛇口をひねってお湯をためた。

 内風呂はアパートの湯船とは比べ物にならない広さだった。温泉に合わせ、湯船もユニットバスではなく壷のような形をしている。入浴中どこからでも外の景色が見えるよう、浴室は全面ガラス張りになっていた。

 お湯がたまるまで、私は彼女の隣に寝転がる。畳は背中が痛くなると思ったが、意外と寝心地が良かった。狭いワンルームはベッドとドレッサーを置けばそれだけでいっぱいになってしまうが、いっそベッドを手離したほうが二人でも広々と暮らせるのではと気づく。

 さとわは私に背を向けていた。いつもの習慣で、後ろから抱き寄せてしまう。頬を寄せると彼女が抵抗した。

「汗臭いからやめて」

「平気よ」

 さとわは放っておけば日に何度もシャワーを浴びる。それはストリッパー時代、ショーの前後で洗浄と呼ばれる入浴を定められていたからだ。たくさんの踊り子が生身で寝転がる盆を汚してはならず、その習慣を彼女は今も守り続けているのだった。

 しばらくそうして横になり、時間を見計らって浴室に戻る。蛇口を閉め、私は彼女に声をかけたが返事はなかった。

 眠っているわけではないが、根を張ったかのように動かない。あまりしつこく言うと嫌がるだろうと、私は脱衣所で浴衣の帯を解いた。

 洗い場には石鹸などひととおり揃っており、不便さはない。お湯を張った湯船から白い湯気がもうもうと上がり、軽くシャワーを浴びた私はあちちと呟きながらつま先を入れた。

 客室の温泉は少し熱めに設定されているらしい。肩まで浸かると思わず声が漏れた。窓ガラスには曇り止めがしてあるのか、蒸気が満ちる室内でも外の様子が見える。

 お湯で顔を拭い、ふと部屋を見るとさとわの姿が消えていた。

 私につられて、彼女もようやく動き出したようだ。脱衣所で服を脱ぎ、洗い場の扉を開ける姿がガラス越しでもはっきり見える。まるでラブホテルのようだと思いながら、私はシャワーを浴びる彼女に声をかけた。

「寒いからそのまま入ってきていいわよ」

 冷えた浴室で身体を洗うのは辛いはずだ。しかし彼女はかたくなに身体を洗った。手早くシャンプーをし、アメニティのヘアゴムで長い髪をお団子にする。アパートでも同じように入浴しているのだろう、うなじからのぞくおくれ毛からお湯が滴っていた。

 湯船はふたりで入っても十分な広さがあり、彼女は私の身体にすっぽりとおさまる。いつも裸で抱き合って眠るというのに、彼女は恥ずかしいのか背中を向けた。

 大浴場のお湯は色の濃い源泉かけ流しだったが、客室に引く温泉は無色透明だった。お湯を舐めてみるとすこし塩辛い。効能まで覚えていないが、さとわの身体をあたためるには十分だろう。

 足を絡めると、お湯の中でもまだ肌が冷たく感じられた。腕をまわし、私は自分のぬくもりを分け与える。白い肩をむきだしにしたまま、彼女は窓の外を見つめていた。

 室内の電気が窓ガラスに反射し、眺めはあまり良くない。露天風呂として楽しむにはやはり夏に来るべきなのだろう。

「知床に来てみてどうだった?」

 私の問いに、彼女は腕の中で小首をかしげる。長い一日を過ごし、早朝から思い返すのも大変だ。

「……あたし、流氷ってもっと暗いものだと思ってた」

 彼女の言わんとしていることは私にもわかる。流氷と聞いて思い浮かぶのは、雪の降りしきる凍てついた海の景色だ。空は鉛色の雲が覆い、海風が吹雪いて視界を遮るような、そんな荒れた光景ばかりを想像していた。

 しかし今日の知床は、海はおろか風までも凪いでいた。

「あたしが教えてもらった流氷はね、あんなに綺麗じゃなかったの。吹雪の夜に、流氷に乗った女の人が、沖に流されて消えていくような悲しい話だったんだ」

「それは誰から聞いたの?」

「……昔の、お客さん」

 彼女は肩まで湯につかり、ぽつりぽつりと昔話をはじめた。



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