クラブ・レインボー⑧
さとわを拾った日は、夜でも気温が高く大粒の牡丹雪が降っていた。
行く当てがないという彼女を、私は自分のアパートに連れて帰った。真冬の北海道に薄手のコート一枚で現れた彼女は、身体の芯まで冷え切って紫色の唇をしていた。ろくに使っていないバスタブにお湯をはり、あたたかい飲み物を用意して待っていると、彼女は烏の行水がごとくすぐに上がってしまった。
『ちょっと、ちゃんと百まで数えなさいよ』
ドレッサーの前でメイクを拭い落としていた私は、サイズの合わないバスローブを着る姿に内心どきりとした。
舞台の上で裸を見ていたはずだった。しかし、バスローブからのぞく手足は間近で見ると華奢さが際立って見えた。肌は陶器のように白く、大きく開いた胸元に目のやり場に困る。洗い髪からぽたぽたとしずくを落とす姿に、私はたまらずバスタオルを広げていた。
『そんな頭じゃ風邪引いちゃうわよ。もう、生姜湯作ってあげたから、今日はそれを飲んで早く寝なさい』
東京から来たはずの彼女の荷物が、やけに少ないことが気になっていた。いまどきの家出少女でもまだまともな装備で来るだろう。そもそもさとわは私が客の立場だったことも覚えていないだろう。見知らぬドラァグクイーン――男に声をかけられ、ほいほい家までついてきたこと自体が危ないのだ。
ストーブの温度を最大に上げ、ドライヤーで髪を乾かしベッドに寝かせた。私のシャワー中に金目のものを盗んで消えることを覚悟していたが、彼女は布団に入るなりことんと眠ってしまった。
ぬるくなった湯船につかりながら、私は頭からアルコールが抜けるのを待った。
あれは本当にさとわなのか。渋谷のストリップ劇場で、盆の上で妖艶に踊っていた彼女なのか。私の目をくぎ付けにした、あの凛とした眼差しを凍える彼女から感じることはなかった。
他人の空似。あるいは、酒浸りの生活が見せた幻覚。様々な思いが頭を巡ったが、部屋に戻って私は確信した。
眠りが浅かったのか、彼女は布団から抜け出していた。ベッドの上に座る後ろ姿は、バスローブがはだけて肩がのぞいている。
開け放したカーテンから、さとわは窓の外を眺めていた。差し込む月明りがその白い肌を照らし、長い髪の黒さをよりいっそう深くする。なだらかな肩と無防備に晒された肌に、私は音を鳴らさないよう静かにつばを飲んだ。
やはり彼女は、さとわだ。
『眠れないの?』
声をかけると、彼女は驚きで身体をふるわせた。
『私は床で寝るから安心してね。生姜湯もまだ残ってるけど、飲む?』
彼女は振り向かない。軽くベッドに腰掛けた瞬間、私は腕を強く引かれた。
何が起きたのか、一瞬、わからなかった。いつの間にか彼女に組み敷かれていた。四つん這いになる彼女は長い髪が表情を隠し、私の部屋着をたくしあげて胸板をあらわにした。
『ちょっと……!』
その手が、私の素肌を撫でる。驚き、起き上がろうとすると腹の上に全体重を乗せられた。息苦しさに喘ぐ間もなく彼女が覆いかぶさり、鎖骨に寄せられた唇に思わず声が漏れる。
『やめなさい』
抵抗は私の力が勝った。彼女の肩を押し返すと、はずみでバスローブが滑り落ちた。
あらわになった肌を見て、私は言葉を失った。
『あなた……』
かつて、盆の上で見た彼女が、そこにいる。
豊かな黒い髪も、華奢な手足も細い肩も、なだらかな腰もまるいお尻も何も変わらない。
しかし、乳房が、ない。
どうしたの、それ。それが声にならない。訊ねるよりも先に、私はその身体に起きたことを察した。
左の胸は完全に切り落とされ、乳頭までも失われていた。右の胸は膨らみこそ残っているが、傷痕で形の美しさが損なわれている。
彼女が首を動かすと、髪がさらさらと流れて傷跡を隠した。
『……痛くないの?』
無意識に手を伸ばしていた。その指先が傷痕に触れる寸前、彼女が身をよじり、私は手を止めた。
両手で頬を包みこみ、彼女が私の顔を覗き込む。化粧を落としたドラァグクイーンの顔など見てもおもしろくないだろうに。私が見つめ返すと、ややあってから手を離した。
『……前に、あなたと会ったことがある?』
『あるわよ、一度だけね』
その一度だけで、彼女は私のことを覚えていたというのか。盆を取り囲む観客たちの視線の中、会場の隅に座っていた客などいちいち覚えていないはずだ。
けれどさとわは、たしかに、私を認識した。
『あたし、もう、踊れなくなっちゃった』
覆い被さっていた身体を離し、彼女が月を仰ぐ。長い髪がその表情を消したが、その吐息が自嘲気味に笑っていた。
『踊れなくなったら意味がないの』
私が身体を起こすのを許さず、彼女は腹の上にとどまる。細い手が顔を覆うのは涙を隠すためか。部屋はむせかえるほどの暑さなのに、その身体が小刻みにふるえていた。
『だから北海道に来たのね?』
私の問いに、彼女はうなずく。身じろぎするたびに、その肌に落ちる影が変わった。
それは盆の上で見た彼女の姿そのものだった。
『もう生きていても意味がないの。だからあたし、死のうと思って……』
『どこで?』
『流氷の上で、踊りながら死にたい』
それはまるで私のためだけの舞台だった。
『――あんた馬鹿なの?』
私が身体を起こすと、さとわは小さな悲鳴をあげた。
女性ひとり持ち上げられないほど、私の身体はやわじゃない。馬乗りをひっくり返され、彼女のすべてがあらわになる。蛙のように開いた脚、陰毛に囲まれかすかにのぞく女性器。その絶景に私は息を殺した。
羞恥でさとわの顔が赤く染まる。舞台では決して見られない素の表情と、その瞳の奥にある恐怖を見逃さなかった。
バスローブを整え、傷痕もろとも胸元を隠す。彼女はいまだ手足が冷たく、その身体を毛布でぐるぐる巻きにした。
『なんでみんな、そういう場所に北海道を選ぶのかしらね。サスペンスドラマの見過ぎなのよ』
『だって――』
『残念ながら今年の流氷はもう離岸しました。そういうのはちゃんと調べてから来なさい』
抱き枕よろしく、私は毛布ごと抱きしめて布団にもぐる。彼女は身動きひとつとれぬまま、私の顔が間近にあることに戸惑っていた。
『流氷には来年乗ればいいじゃない』
半裸で馬乗りになっていたというのに、その生娘のような反応が面白い。
頭を撫でると、彼女は大人しくそうされていた。私は新しい枕の抱き心地に満足して眠ってしまったため、その夜、彼女が穏やかな眠りにつけたかどうかはわからぬままだった。
BGMの曲が変わり、さとわはポールから手を離した。
少しの沈黙の後、フロアからぱらぱらと拍手があがる。いつの間にか店に残っていたスタッフが集まっていたのだ。事務所で清算をしていたはずのあぐりまでもが、彼女の演技に称賛の声を送っている。
肩で息をする姿に気づき、私はステージに上がった。身体を支えようとするも拒まれてしまう。黒服たちは仕事を思い出したのか、ポールを撤去して照明を落とした。
「無理をして。腕は大丈夫なの」
「平気」
乳がんの手術後、多くの女性が悩まされるのが腕や肩の運動障害だった。術後はそもそも重いものを持つこと自体禁止である。彼女が手術してから数年の月日が経っているが、リハビリを経たとてポールダンスで自らの体重を支えようとするほうが無謀なのだ。
「さとわちゃん、あなた、踊れるなら早く言ってよ!」
夜更けにパソコンをいじるオーナーの目は真っ赤に充血していた。そのまぶたに浮かぶ涙は感動のためかそれとも疲れ目か。滅多に声をかけられることがないため、さとわは明らかに委縮している。
「ポールダンス、うちでも覚えたいっていう子が多いのよ。ショーで踊れる子は昼の仕事があるから指導を頼めなくて……あなた、時間ならいくらでもあるでしょう?」
「ちょっと待ってください、あぐり」
「マチルダもレッスンには通ったんだけどね。ほらこの子、がたいが良いじゃない? ポールダンスは映えなくて、ゴーゴーボーイのほうが似合うんじゃないかしら」
人のコンプレックスをオーナーが暴露してしまう。私もポールを使って踊ることはできるが、女性らしさを強調するボンテージが皆目似合わないのだ。
「せっかくだし、雪まつりのショーの演目にポールダンスも入れちゃいましょうよ。それなら期間中ずっとポールを設置しておけるじゃない? 踊れるキャストが増えればショーのレベルも上がるし、お客さまだって喜ぶわ。ね、決まり決まり」
思いついたことはすぐに実行するのがあぐりのモットーだ。彼女が決めたことは従業員であるさとわも断ることができない。ぽかんと口を開け立ち尽くす彼女に、私は同情まじりに肩を叩いた。
「さとわちゃん、今日は飲んでいいわよ!」
オーナーがカウンターの酒をすすめる。琉生は先ほどと変わらず、席に座ったままだった。
その手には鉛筆が握られたままだ。彼は興奮冷めやらぬ様子でスケッチブックをこちらに向けた。
「さとわさん、僕、イメージが決まりました」
それはポールに脚をからめ、羽ばたくように両手を広げる姿だった。トリックとしては初歩中の初歩だが、彼女の持つ憂いを帯びた瞳が印象的だった。
琉生の頬が赤く上気している。彼は心の底から彼女に魅入られているのだろう。
私と同じ穴の狢に落ちるのは時間の問題だった。
