【百合小説】隣の彼女は秘密を知っている<4>【創作大賞2025】
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第2章:菜奈の章 -似ている彼女-
1
一条亜紀は、高校時代、私——深月菜奈の鬱屈とした日々に不意に現れた、眩しい光だった。
「菜奈って、ほんっと……優しいよねぇ」
放課後、私たちはふたりで、駅前にできたばかりのカフェに来ていた。亜紀はレトロで可愛いらしいメロンソーダフロートを飲みながら、しみじみとつぶやく。
「何言ってるの。私が今まで会った中で、あなたが一番優しいと思うけど」
彼女からかけられた少し意外な言葉に、私は笑ってそう返す。
自分を褒められたときは謙遜すること。相手もすかさず褒め返すこと。それが『優等生』として、私が身につけた無難な反応だった。
「んー、菜奈は、自分のいいところがわかってないんだよねぇ。もったいないなぁ」
亜紀は少しだけ眉を寄せる。思考を巡らせているのだろう。
彼女は、高校一年の時に同じクラスになって以降、友人としての付き合いが続いている。だがそれは、一般的なもので、例えば『親友』などと言うような、特別な関係ではなかった。
彼女は、本当に優しい子だ。相手が誰であっても常に笑顔を向け、物腰も柔らかい。他者に対する否定的な発言も、逆に彼女が他者から害意を向けられている場面も、私は一度も見たことがなかった。
だから、ただの友人の私にすら、そのような評価をしてくるのだろう。私は、彼女の発言に『彼女らしさ』を感じて、思わず微笑む。
数秒間の沈黙の後、彼女は思考の迷路から出口を見つけたかのように、ぱっと顔を上げた。
「そっか、私が毎日伝えればいいのか! 菜奈のいいところ!」
「え?」
亜紀の突飛な発想は、私の理解の範疇を超えていた。亜紀は自分の『素晴らしいひらめき』に、満足そうに頷く。
「うん、それいいよね! そしたら分かってくれるよね。だってさ、私、菜奈のいいところ、いっぱい知ってるし!」
言葉の字面は追えるのに、その発言の意図が全く読み取れない。けれど、そう言って笑う亜紀の表情が、やけに眩しく目に焼きついていることだけは、今でも覚えている。
喫茶店を出て、それぞれの家路につく時も、亜紀は遠ざかりながら「菜奈は〜、素直〜!」などと、自分なりの分析結果を大声で叫んでいた。周囲を顧みないその行動に対する呆れと、肯定的な言葉を投げかけられたことによる気恥ずかしさが、同時に私の胸に込み上げる。またそれと共に、その奥から、ふわりと温かい感覚が生まれるのも、感じていた。
一人になった帰り道、公園のベンチに座る二人組が視界に入る。近隣高校の制服を着た、ありふれた男女カップル。しかし、その笑顔は直視するのが難しいほど、幸福感に満たされていた。
——羨ましい。
いつからだったろう。私が、誰かの『特別』になりたいと、強く願うようになったのは。
私は幼い頃から、少女漫画が好きだった。その中で繰り返し描かれる、典型的な成功パターンに影響されたのだと思う。主人公は唯一無二の存在として愛され、恋愛を成就させ、幸せな結末を迎える。そのわかりやすく定義された幸福の形が、私にはひどく魅力的に映った。
自分もいつか、そうなりたい。そう思って、私も何度も、恋をした。
でも、どうしてか、私は、自分が恋した相手と気持ちが通じ合うことは、一度もなかった。
信号待ちのあいだ、ふと横のビルのガラスに自分の姿が映る。父譲りのすらっとした体型に、母の面影のある整った顔立ち。他人の評価を借りるなら、私は『美人』の部類に入るのだと思う。
でも、なぜだろう。私には、さっき見た二人の方が、ずっと眩しく見えた。
「……外見なんて、何の価値も、ない…」
地面に視線を落とし、吐き出すように呟く。
——いや、本当はわかっている。私は心のどこかで、あの二人を見下していた。優れているはずの私が一人で、ありふれた彼らが幸福なのは、不合理だと。
他者を無意識に見下してしまう、この歪んだ性質。これこそが、私が誰かの『特別』になれない、根本的な原因なんだろう。
信号が青に変わる。思考を中断するその合図に、私は、まとわりつく黒い感情を振り払って、一歩前へ踏み出した。
◇
それから亜紀は、まるで何かを証明しようとするかのように、本当に毎日、私の長所を一つずつ挙げていった。
「さっき紙くず拾ってたね」
「ご飯たくさん食べるの、いいね!」
「教科書の人物にちょっとだけ落書きしてるの、意外でかわいい」
そんな些細なところから、
「周りをよく見てるよね」
「言葉遣い、すごくきちんとしてる」
「人の気持ちに敏感だよね」
そんな深い部分まで。
最初のうちは、向けられる肯定的な言葉にどう反応するべきかわからず、ただ反射的に否定を繰り返していた。
けれど、それが1週間も続く頃には、亜紀がくれる言葉をひとつの評価として、そのまま受け入れられるようになっていた。
「亜紀。私、あなたが私のことをそんなに褒めてくれる、その理由が知りたい」
亜紀の、不思議な日課が始まって一ヶ月ほどが過ぎた、昼休み。
中庭のベンチで弁当を広げながら、私はずっと抱いていた一つの疑問を、ついに口にしてみることにした。
「あー……うん。あるかもね、きっかけ」
亜紀はそう言って箸を止め、斜め上を見ながら記憶をたどる。
「……多分、気づいちゃったんだよね。無理してる、菜奈に」
「無理?」
私の問いかけに、亜紀はふと、寂しさが滲むような顔をした。それまで宙を彷徨っていた視線が、私にぴたりと固定する。
「菜奈って、人前で『完璧でいよう』とか、『かっこいい私でいなきゃ』って、思ってるよね?」
「……!」
図星、だった。
私はこれまで、意図的に『完璧な優等生』という役割を演じてきた。そうしなければ、私の無意識に他者を見下してしまうような、欠陥のある人間性が、隠し通せないから。
そんな最低な人間が、誰かから好意を向けられるわけが、ないから。
「弱いところ見せたら嫌われるって、思ってるでしょ」
まるで私の思考を読むかのように、亜紀は言葉を続けた。
肯定も否定も、どんな言葉を返すのが正解なのかわからない。私はただ、黙り込む。
「私もね、似たとこあるんだ。ちゃんとしてる人って思われたくて。…でも、たまにそれが苦しくなるの」
「だから、たぶん菜奈にも気づいちゃったんだと思う。…それで、心配になった」
そのまっすぐな視線の前では、どんな取り繕いも意味がないと、思った。
これまで必死に保ってきた『完璧な私』が、音を立てて崩れていく。これ以上見つめられたら、感情が決壊してしまう。その予感に、私は咄嗟に視線を逸らした。
「菜奈は、たっくさん良いところあるよ。でも、たぶん菜奈には、ほんの少しの悪いところばっかり見えちゃうんだよね。それって、すごくもったいないし…寂しいなって」
「だから伝えようって思った。菜奈が、自分のほんとの魅力に気づけるように。ちゃんと、自信持てるように」
亜紀の言葉が、ひとつ、またひとつと、胸の奥に染み込んでいく。
亜紀は、私が『欠点』だと認識している部分すら、彼女の独自の視点で肯定的な言葉に変えてしまう。
クリーニングのタグをつけっぱなしで登校した日は、「そういう抜けてるとこ、可愛い」と笑い、寝坊した日には「いつも頑張ってる証拠だね」と、私の失敗を責めなかった。
——完璧な優等生を演じなくても、私は、私として肯定される。
その事実が、理屈抜きに、ただただ嬉しかった。
目の奥が、じんわりと熱を持つのがわかる。
泣いたらだめ。この言葉を、額面通りに受け取り過ぎたらいけない。
亜紀の優しさは、彼女の気質だ。きっと私以外の人にも、同じように向けられているんだ。そう自分に言い聞かせて視線を外すと、亜紀は不思議そうな顔で首を傾げた。
「……え、もしかして、まだ信用されてない? 私」
亜紀の言葉を、疑っているわけじゃない。
でも、今ここで言葉を発すれば、堪えていた涙も一緒にこぼれ落ちてしまう。その予感が、私の口を固く結ばせた。
けれど亜紀は、私のそんな抵抗は無意味だとでもいうように、両手でそっと私の頬を包む。そして、視線が合う角度まで、ゆっくりと自分の方へ向かせた。
「菜奈。私、誰にでも言ってるわけじゃないよ。菜奈だから、言ってるの」
真正面からその視線を受け止めると、胸の中がゆっくりと、満ち足りていくのがわかった。
——ありがとう。
この感謝の気持ちを、しっかり言葉にして返すべきだ。口を開こうとした時、亜紀は重ねてこう言った。
「菜奈は、私の『特別』だよ」
その言葉が胸に届いた瞬間、ずっと堪えていた感情が決壊し、涙が堰を切ったように溢れ出した。
そうか。私の中で、『特別』は『恋愛』のことだと思っていた。でも、違ったんだ。『大切に思う』感情は、恋だけに収まるものじゃない。
私は、衝動的に亜紀を抱きしめていた。彼女は一瞬驚いて体を引こうとしたが、すぐに力を抜き、背中に腕を回してくれた。
この涙でぐちゃぐちゃになった顔を、亜紀の視界に入れたくなかった。だから私は、しばらく、彼女の腕の中から動くことが、できなかった。
この日を境に、亜紀は、私にとっての『特別』そのものになった。
私たちは多くの時間を共有し、たくさんのことを話した。『完璧な私』の仮面をかぶる必要もなく、私の全てを見せたと言っても過言ではないほどだ。
今までずっと、恋愛による幸せを求めていた私の、これまでの価値観を覆すほどに、その日々は満たされた日々だった。
「ずっと一緒にいれるといいなぁ」
高校生の、まだ少し、幼い願望。でも、当時の私にとって、それは何より純粋な本心だった。
──ただ、その言葉に亜紀は静かに微笑むだけで、何も返すことは、なかった。
◇
卒業式の朝。雲ひとつない青空を背景に、咲き始めた桜の白さが際立っている。私の心も、この空模様に同調するかのように、晴れやかだった。
隣の席に視線を移す。亜紀の席は、まだ空いている。
この穏やかな高校生活は、間違いなく亜紀という存在に支えられていた。あの時の彼女の言葉が、私の価値観を大きく変えてくれたから。
今日こそ、最大限の感謝を伝えよう。普段は、照れという感情が邪魔をして口にできなかった言葉を。
そう、自分の中で決意を固める。
予鈴が鳴り、クラスメイトたちがそれぞれの席に戻っていく中、亜紀の席だけが空席のままだった。
珍しいな、彼女が遅刻なんて。そういえば昨日は、「もう終わりかぁ…」と、ひどく寂しそうにしていた。よく眠れなかったのかもしれない。
こういう肝心な日に限って何か抜けたことをするのも、ある意味、彼女らしいと思った。
しかし、本鈴が鳴り、ホームルームが始まっても、亜紀は現れなかった。
教室の中で、彼女の席だけが不自然な空席になっている。なのに、担任も、他のクラスメイトも、誰一人としてその事実を指摘しない。まるで何の問題もないかのように、クラス全体が、卒業式に向けて動き出す。
この状況は、何かがおかしい。生徒たちを体育館へ誘導する担任に、私は意を決して声をかけた。
「あの…一条さんが見当たらないんですが。どうしたんですか?」
その問いかけに、先生は、驚きが隠せない表情で私を見返した。
「深月さん……聞いてないの?」
背筋に冷たいものが走る。そして──その後に続いた先生の言葉に、私は絶句した。
「一条さん、もう引っ越したわよ。──今朝、海外に」
「……え?」
視界がぐらりと歪み、頭の中が真っ白になる。
処理できない情報を前に、あらゆる疑問が浮かび、唇が震えた。
——海外へ?いつ?どうして?私に、何も言わずに?
何の前触れもなく、彼女が私の前から突然姿を消した、この日。
私を肯定してくれた言葉も、私を『特別』だと言ってくれた事実も、 私が、亜紀を『特別』だと認識していた、この気持ちさえも。
それら全てが、一瞬にして、意味を失ったのだった。
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