【百合小説】隣の彼女は秘密を知っている<7>【創作大賞2025】
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第3章:美花の章 -言えない秘密-
1
「美花は、私の——『特別』だよ」
菜奈のその言葉は、私の心に、強く響き渡った。
それは、するつもりもなかったカミングアウトを、させてしまうくらいに。
「私ね——女の人が好き、なんだ」
私は、自分のグラスに視線を注ぐ。菜奈の方を見ることなんてできなかった。彼女は…どんな顔をしているんだろう。
静かな個室の中で、自分の心臓の鼓動だけが、やけにうるさく耳に響く。
自分のセクシュアリティに関して誰かに話すのは、人生で初めてのことだ。
もちろん、今日菜奈に言うつもりも全くなかった。今日は出会って6回目の菜奈の誕生日で、いつものようにイヤリングをプレゼントして。
でも、「それだけでいいんだろうか」って、ずっと気にはなっていた。菜奈は絶対喜んでくれるけど、もしかして心の底では「またか」って思われてるんじゃないかって。だから、他に欲しいものを聞いた、ただそれだけだったのに。
まさか、「家に来たい」だなんて。
出会ったあの日を思い出す。
菜奈は、私の仮面を剥がすのが得意だった。あの時も、取り繕いたくても全然できなくて、かなり焦っていた気がする。今は——その時以上、だけど。
「…………」
グラスから視線を移せない。言ってから今、どれくらい経っただろう。だんだん心臓の鼓動も落ち着いて、遠くの個室からかすかに人の笑い声が聞こえてきた。
菜奈は、何も言わないのか。今、何を考えているんだろう。怖い。怖いけど——きっと、菜奈なら。
私は精一杯の勇気を振り絞り、目線を一瞬、菜奈の方へ向ける。
菜奈は、私の方に体を向けたまま、固まっていた。眉間に少しだけ皺が寄る。その表情は、信じていたものに裏切られたかのように、何かひどい痛みを堪えているかのように見えた。
「女の人、って………嘘、でしょ…?」
その声はか細く、震えていた。それは疑問というより、ほとんど懇願に近い響き。私はそれを聞いて、後ろから強く殴られたような気分が、した。
菜奈が、性的マイノリティに対してどういう思いを抱いているのか。この六年間、その話題に触れるのをずっと避けてきてしまったために、私は全く分からなかった。…怖かったのだ。大切になりすぎて、もしかして——否定されてしまうのではないかって。
菜奈はきっと、全くそういう人達に対して「考えが及んだことがない」のだろう。普通に生きていたら、きっとそれが大多数だ。社会にそういう人達がいるということも、ましてや身近にいるなんて、想像もしていなかったのだと、その時気づいた。
「嘘でしょ」。その反応が、素直な菜奈の、一番最初に出た言葉。
それが今の、菜奈の私に対する、気持ち。
…私はそれを、受け止めることは、できなかった。
「————…なーんて、冗談!嘘だよ」
私はぱっと表情を明るくして、笑った。
面食らったような菜奈を横目に、私はグラスに残ったワインを、くいっと飲み干す。
「冗、談?」
「そう。だって、菜奈がうちに来たいオーラすごく出すから。私女性が好きだから来るの危ないよって言ったら、ちょっと引くかなと思って」
タブレットを操作し、次のアルコールを選ぶ。わずかに手が震えるが、菜奈には見えないように、体で隠す。
「うち部屋汚すぎて、今日はほんと無理だもん。でも…よく考えたら、そうやって嘘つくのって、よくないよね。ごめんごめん」
口だけが、勝手に回っていく感覚。声が少し上ずっているのが自分でもわかる。だめ、いつも通り。菜奈の目を見て、笑って。絶対に——今まで通りに、振る舞わなきゃ。
タブレットを元の場所に戻し、菜奈の方に視線を戻す。そして目を逸らさず、まっすぐに見る。
菜奈も返すように私の目をじっと見て——すっと、その顔から緊張が抜けた。
「——なんだ、冗談?やめてよ、驚いた!」
菜奈の表情に笑顔が戻る。彼女は軽く私の肩をぱんぱんと叩いて、軽く諌めるように言った。
「その発言、今の時代には不適切でしょ!あぁびっくりした」
空気が和らぎ、私も「ごめん」とまた軽く謝罪の言葉を口にして笑う。
何年も培ってきた、菜奈にもバレることはないであろう、完璧な笑顔。菜奈の前ではうまくできなかったそれを、やっと私は今、することができた。
——今までの人生で一番、強固な仮面を被ることによって。
「え、美花の部屋って汚いの?それは意外すぎるんだけど」
「うん、やばいの、ほんとに。…知られたくなかったんだけど」
真剣な表情をして、人差し指を唇に当て、「誰にも言わないで」と懇願する。菜奈はどうとったら良いか一瞬迷った様子だったが、真剣な表情で「わかった」と頷いた。
…私が隠していたことが、そのことだと、思ってくれただろうか。
私はもうその話は終わったとばかりに、スナックを口に運ぶ。その後はお互い、笑顔で楽しく、菜奈の誕生日を過ごした。けれど、私の心の中は、ずっと嵐の中に居た。
私は、見逃していなかった。さっき、菜奈の顔から緊張が抜ける直前——ほんの一瞬だけ、私の表情を値踏みするような、鋭い視線が彼女から向けられたのを。
「いつかぁ、みかの部屋、行かせれねぇ〜」
「はいはい。わかったわかった」
いつものように呂律が回らなくなった菜奈を見て、私は苦笑いしながら、タブレットでお冷やを注文する。
——…菜奈を部屋に呼ぶことは、きっと、ないだろうな。
菜奈のふわふわした幸せそうな笑顔を見ながら、私の胸には、寂しさが広がっていた。
◇
「はぁ〜…あつ…」
刺すような日差しに目を細め、私はその大元を睨む。とは言え、直射日光には誰も勝てない。すぐに目を逸らし、額から流れる汗をハンカチで拭った。
「残暑ってなに、これ酷暑でしょ…」
もうすっかり温くなってしまったペットボトルの水を、喉を鳴らしながら勢いよく飲む。仕事帰り、もうあとは家に帰るだけだというのに。日中の暑さの残りか、辺りは信じられない気温を保っていた。
菜奈の誕生日から、およそ三ヶ月。
あれ以来、私は菜奈に連絡する頻度がめっきり減ってしまっていた。最初の頃は菜奈からも頻繁に連絡がきていたが、私からの返信が遅いせいで、ここ一週間のやりとりは数えるほどだ。
本当は、普段通り振る舞わないといけないのに、結局こうなってしまった。あの日はどうにか取り繕えた気がするが、あれを彼女に会うたびにしないといけないと思うと、できる気がしない。けれど、あの時のような反応をまた目の前で見てしまったら、もう、立ち直れないと思う。
——…あともうちょっとだけ。心の整理を、つけなきゃ
私は、駅のホームで行列に並ぶ。皆暑さからか、顔がぐったりして生気がない。私の心の重さも、周囲のその様子に紛れているようで、少し安心した。
その時。少し離れたところから、遠くまで通る声が、聞こえた。
「美花!」
「…菜奈」
私は驚いて、思わず名前を返す。菜奈だった。仕事から帰る時間は基本的に事務仕事の私より営業職の菜奈の方が遅く変則的で、帰る駅が一緒でもホームで鉢合わせることなんて滅多になかった。…それなのに、よりによって今、どうして?
「美花待ってたんだ。大体この時間だったと思って」
軽い足取りで、笑顔の菜奈が近づく。あぁやっぱり、待ち伏せされていた。私は誘いを断り続けている罪悪感から、一瞬目を逸らしてしまったが、すぐ取り繕うように、菜奈の方に向き直った。
「ごめんね。なかなか会えなくて。…何か用だった?」
取り繕えてない。心の中で、今放った言葉を後悔する。用がないと話しかけてはいけないの?と、菜奈に怒られてしまいそうだ。
しかし菜奈はなぜか、その言葉は気にも留めず、会話を続けた。
「うん、実は。メールじゃなくて、直接会って話したいことがあって」
心なしか、彼女の頬は紅潮し、目もキラキラしている気がする。暑さと汗のせいかと思ったが、違った。これは、化粧だ。普段の菜奈とあまりにも違いすぎたから、すぐには気づくことができなかった。明らかに、今までより数段メイクが濃い。
こんなに気合いを入れてどうしたんだろう。「女の人が好き」と嘘——実は本当なのだけれど——をついたばかりの人の前に、どうしてこんなに気合いを入れて現れる必要があったのだろう。
…だめだ、勘違いだ。そう必死に自分に言い聞かせても、心臓が言うことを聞かない。私のためでは、決してない。会えない時間が本当の気持ちに気づかせてくれるなんてそんな——上手い話は現実には、ないんだ。
どくどくと早い鼓動が、このうだるような暑さのせいなのか、目の前の彼女のせいなのか、もうわからなかった。『もしかしたら』なんて、ありえない。ありえないのに、期待するなと叫ぶ理性を、彼女のその笑顔が溶かしていく。
私は思わず菜奈を見つめた。彼女がふっと私に微笑み返し、私の胸の高鳴りが最高潮に達した時、——彼女の後ろから、誰か知らない男性の声が、した。
「菜奈さん。早いよ、追いつけないって」
菜奈が振り向く。その彼女の横顔を見て、男性の姿を見るよりも早く、私は気づいてしまった。
「ごめんなさい。行かれたら大変だから、ちょっと慌ててしまって」
菜奈の声が、いつもよりワントーン高い。それに、私といる時の菜奈より、気合いを入れているような——完璧な菜奈を演じているような、そんな雰囲気。
「美花。突然ごめんね。紹介したくて」
菜奈がこちらへ向き直る。その肩越しに、男性の姿が見えた。
「この方、同僚の笹本くん。実は——昨日から、お付き合いしてるの」
その言葉を合図に、駅のホームの喧騒が、すうっと遠のいていく。電車の接近を告げるアナウンスも、周りの人々のざわめきも、何も聞こえない。目の前にいる菜奈の、幸せそうな笑顔だけが、やけに鮮明に目に焼き付く。
——ああ、私はやっぱり届かないんだ。
ごう、と地響きを立てて、ホームに電車が滑り込んでくる。生ぬるい風が、いつの間にか涙で滲んだ視界を、少しだけ乾かしていった。
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