【百合小説】隣の彼女は秘密を知っている<15>【創作大賞2025】
<プロローグ> <1> <2> <3>
<4> <5> <6> <7> <8>
<9> <10> <11> <12> <13>
<14> <15> <16> <17> <18>
<エピローグ>
<前の話 次の話>
最終章:二人の章
1 美花視点
私は震える手を押さえつけ、意を決して扉を開けた。
からんからんと、懐かしいドアチャイムの音が響く。店内を見渡し、あの時と同じ一番奥の席に、久しぶりに見る——菜奈の姿を見つけた。
彼女は、紅茶が入っているのであろうカップを片手に、窓の外を眺めている。さきほどのドアチャイムには気が付かなかったのか、通りを通る女性がいるたびに、彼女の目線が揺れるのが分かった。
——綺麗だな。
何年も一緒にいるのに、相変わらず息を呑んでしまうほど美しい。久しぶりということもあってか、いつもより一層輝いて見える。
背後で次の客を知らせるドアチャイムが鳴り、はっと我に帰った。同時に、菜奈がこちらに気付き、その表情全体がぱっと華やいだ。
「美花!おかえり!」
無邪気な笑顔が弾けるように咲きこぼれ、先ほどの美しさとはまた違う、可愛らしい菜奈の魅力が顔を覗かせた。先ほどまで緊張で固くなっていた私も、思わず綻んでしまう。
「ただいま。…来てくれて、ありがと」
そう言葉にした瞬間、今までの、菜奈との思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
あの教室の特等席から見た、目を逸らすことができないほどの輝き。
初めてこの喫茶店で聞いた、熱い紅茶をすする小さな音。
居酒屋の安っぽいテーブルの上で、彼女が流した涙と、私の心の中の熱。
そして、駅のホームで私の世界を無慈悲に壊した、あの一言。
嬉しさも、悔しさも、愛しさも、絶望も。私の感情のすべてが、目の前にいるこの人に、いつだってぐちゃぐちゃにかき乱されてきた。
今から私が彼女に伝える言葉で、この笑顔が、深い悲しみへ変わるかもしれない。もう二度と私と彼女は、この席に座ることはできなくなるのかもしれない。それは私の人生で、きっと最も辛く、耐え難いことだろう。
——それでも。
私は、バッグを持つ手に力を込める。
このまま何も言わず彼女のそばにいることはもう、考えられなかった。無理やり押さえつけた感情の蓋はもう壊れかけ、割れた時のその破片は、自分自身も、もしかしたら彼女も、傷つけてしまうかもしれない。その前にもう、この蓋を取り除いてしまわないと。
私は、まっすぐに菜奈のいるテーブルへ向かう。背筋をしゃんと伸ばしたまま、彼女の向かいの席に腰を下ろした。
「ありがとうって…誘ったのは、私だけど。こっちこそ、ありがとう」
菜奈はそう言って、私に微笑んだ。
テーブルを見ると、そこには固めながらもしっかりとした味わいのあるプリンと、昔ながらのレトロな容器に注がれているメロンソーダが、すでに置かれていた。
「これ…」
「あぁ、懐かしすぎて、つい。いつも私たち、喫茶店ではプリンとメロンソーダを頼んでいたなって」
菜奈は弾んだ声で言う。正直、とてもメロンソーダを飲むような心境ではなかったけれど、そのことを菜奈も覚えてくれていたという事実に、胸の奥が温かくなった。私はそっとメロンソーダを手に取り、ひとくち口に含む。
「この店、だよね。私があなたに、親友になりたいって伝えた、最初の場所。…今になって考えると、本当、不審者だと思われても仕方ないよね」
菜奈は、こらえきれないと言った様子で、肩を震わせくすくすと笑った。
それは紛れもなくいつも通りの菜奈なのだが、ここ最近見ていた彼女とは、何かが決定的に違っているようだった。体全体から、幸せや嬉しさが溢れ出ているようなその雰囲気。
その理由は——一つしか、思いあたらなかった。
「…結婚」
「え?」
思考がそのまま音になった。まだ口にするつもりはなかったのにと、慌てて口元を押さえる。菜奈は目を丸くしたまま、次の言葉を促すように私を見つめている。
言ってしまったものは取り返しがつかない。私は観念して、あのことを話した。
「結婚…するんだってね。笹本さんに聞いた。おめでとう」
『おめでとう』という言葉が、何の抵抗もなく自分の口から滑り出たことに、自分でも驚く。そうか、私は本当に、受け入れられたんだ。ずっと胸の奥に刺さっていた氷の棘が、静かに溶けていくような、不思議な感覚だった。
菜奈は、驚きからか、その場に縫い付けられたように固まっていた。何を言うか考えているのか、もしくは、どうして私と笹本さんが連絡を取っているんだろうなんて、考えているのかもしれない。誤解を与えないようにしなくちゃと口を開こうとした瞬間、彼女の唇が動いた。
「…『おめでとう』で、いいの?」
彼女の声は心なしか、僅かに震えていた。その瞳はまっすぐこちらを捉えているが、そこに先ほどまで宿っていたはずの喜びや幸福は、ない。
言葉の真意を測りかね、私は一瞬、思考を巡らせる。
「それは、結婚なんだから…おめでとうじゃ、ないの?」
私のその言葉を聞いた瞬間、菜奈の全身からふっと力が抜ける。彼女はそのまま柔らかく、ソファの背にもたれかかった。
「…美花は…」
「え?」
菜奈の口からこぼれ落ちた言葉は、小さく掠れ、何を言っているかが聞き取れなかった。私は耳を向けもう一度聞き直す。
菜奈は、今まで見たこともないほどに寂しげな顔をして、問いかけた。
「美花は、私のことを…どう、思ってる?」
その問いかけに、私は呼吸すら止まったかのように、全身がこわばった。
今日、確かに私は、これまでに募らせた思いを伝えるためにここに来た。でもまさか、相手からの問いに答える形で伝えるということは、想像もしていなかった。用意していた言葉ではこの場にふさわしくなく、頭の中で必死に言葉を紡ごうとするが、なかなかうまくいかない。
私が口をつぐんでいると、彼女は頭を振り顔を右手で覆った。
「いや、ごめん。私の方がまだ何も話してないのに、それを聞くのは、違った」
はぁ、と大きく息を吐き、視線を落としたまま、菜奈はしばらく動かなくなった。
やっぱり、今日の彼女は、いつもと違う。
彼女のその気配から、確信した。きっと彼女も私と同じように、何か大きな決意をして、ここに辿り着いたのだと。
私は、息を詰めるようにして、彼女の続きを待った。
ほんのひととき、お互いの言葉が途切れたあと、彼女は徐に、口を開いた。
「…私、亮太とは、別れたよ。自分の…本当の気持ちにがどこにあるか、ようやくわかったから」
菜奈は、まるで私の真意を確かめるかのように、私の瞳の奥を見据える。
——本当の、気持ち。
私は、分かっていた。
菜奈が本当は、笹本のことを好きではないということを。
それでも、本当に彼のことを尊敬していて、大切に思っていることは確かだと、彼女の言動から感じていた。だからこそ、そういう形の愛もあるだろうと、二人を祝福しようと思っていたのだ。
でも、菜奈が求めていた愛は、そういう形ではなかった。きっと、そういうことなんだろう。
「…そっか」
私は、目を伏せる。こういう時に、なんと言っていいかが分からない。
心の底で、ほんの少しだけ、喜んでいる自分がいることは事実だった。でも、菜奈が笹本と別れたからと言って、私と菜奈との間には何の関係もない。
私が言葉に詰まっていると、菜奈が真剣な声で言った。
「美花、ここから少し、話が長くなると思う。…聞いて、くれるかな」
彼女の意を決したような表情に、私は一瞬、虚を突かれた。一体何を話すのだろう。だがそれはきっと、彼女の人生にとって、これ以上ないほど大切で、重要なことであるに違いなかった。
「うん、いいよ。…というか、聞かせてほしい」
私も視線を菜奈に合わせ、しっかりと頷く。
私のその反応を見て、菜奈はこわばっていた表情をふっと緩め、安心したような微笑みを浮かべた。
「ありがとう。…私ずっと、気づかないふりをしてたんだと、思う」
「まず、最初に伝えるね」
菜奈は一度きつく目を閉じ、先ほどの落ちたため息とは違う、覚悟に満ちた深呼吸をした。一瞬、決意を固めるように、唇をまっすぐに結ぶ。
そしてゆっくりと目を開くと、私の瞳を射抜くように見つめ、こう告げた。
「…美花。私、やっと分かったんだ。私の『特別』は、亮太じゃなかった。最初からずっと、美花——あなただけだったんだ、って」
<前の話 次の話>
<プロローグ> <1> <2> <3>
<4> <5> <6> <7> <8>
<9> <10> <11> <12> <13>
<14> <15> <16> <17> <18>
<エピローグ>
