【百合小説】隣の彼女は秘密を知っている<17>【創作大賞2025】
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最終章
3 美花視点
私は、菜奈の口から紡がれる言葉の全てが、信じられなかった。
私の一番近くに、ただ一緒にいたい。そう、菜奈が望んでくれている。
私が何度も胸に抱いては、打ち砕かれてきた、あの希望。私が想いを寄せる特別な人が、私に想いを返してくれるという、奇跡。
ずっと望んできたそれを、今、菜奈が私にくれたのだ。
菜奈は、目の前の席で俯き、私の方を見ていない。全身に力が入って強張っているのがわかる。こんなにも緊張して、菜奈は私に気持ちを伝えてくれたのだ。私は、胸の奥から熱い喜びと、とめどない菜奈への愛しさが込み上げるのを感じた。
そしてその衝動のまま、彼女に触れようと手を伸ばし——寸前でそれを、止めた。
——本当に、いいの?
頭の中で、そんな声が聞こえる。
この手を取るということは、私と菜奈の関係が、これまでのものから一変してしまうということ。私はずっと、それを望んできたのだけど、菜奈は本当に、それを望んでいるのだろうか。
「私と一緒にいる」という言葉の中には、「今まで通り」という意味が、含まれているのではないか。
私は咄嗟に、伸ばした手を引っ込めた。自分の戸惑いに、押し黙る。
しばらくの重い沈黙の後、私の口から漏れたのは、謝罪の言葉だった。
「…ごめん、なさい……」
声が震えているのが、自分でもわかる。吐き出した言葉とともに、一筋の涙が、静かに頬を伝った。
どうして、私は嬉しいはずのこの場面で、泣いているのだろう。涙で声が詰まって、次の言葉が出てこない。
菜奈は、震えるほどの覚悟をもって、気持ちを打ち明けてくれたのだ。…私も、ちゃんと伝えなければ。
「…心の準備、して、なかったから」
私は、はーっと息を吐き、両手で顔を覆う。そのまま少しだけ深呼吸をして、その手で涙を拭い、顔を上げた。
菜奈と視線が合う。彼女は強張りながらも、私の次の言葉を待っていた。
「私、今日、菜奈に玉砕するつもりで、来たの」
「…え?」
予想外だったのか、菜奈は目を丸くしたまま、きょとんと瞬きを繰り返す。私は菜奈のその感情が抜け落ちたような表情を見て、なんだか可愛らしいなと、思わず笑みをこぼした。
「多分、もう…わかってると思うけど」
前置きをして、一拍、間を置く。鼓動の音が、他の何も聞こえなくなるほど、私の耳元まで激しく鳴り響いている。吐きそうになりながら、私はやっとの思いで、言葉を絞り出した。
「私…ずっと、菜奈のことが、好きだった」
菜奈の瞳が、わずかに大きく開かれる。
私が菜奈に惚れたのは、出会った時。美しく凛とした佇まいと、他の誰とも違う輝きに、一瞬で目を奪われた。
その気持ちに蓋をしようと、何度も努力した。でも、彼女の魅力は、それをさせないほどに強いもので、私はそこから目を逸らすことなど、到底できなかった。
「ずっと一緒にいると、どんどん自分の気持ちが大きくなっていくことに気がついて。…だからあのバーで思わず、誰にも言ってなかった私の一番の秘密を、言っちゃったんだ」
私は、窓の外へと目を向ける。車や人々が行き交う景色は目に入りながらも、意識は全て、目の前に座る菜奈に向いていた。
初めての告白に、菜奈の顔を見るどころではなかった。彼女が先ほど俯いていた理由が、痛いほどよく分かる。
「菜奈は…どこまで、ちゃんと考えてる?」
「『ちゃんと』?」
私の問いかけに、その意図が読めないかのように、菜奈は問い返す。
「私たち、もう、27歳だよ。みんな結婚し始めて、子供ができる時期。…私と一緒にいるのを選ぶってことは、その未来は、なくなるってこと…なんだよ」
話しながら、胸の奥が締め付けられるような痛みを感じ、左手で自分のシャツの胸元を強く握りしめる。
私はもう、何年もかけて、その事実は受け止めてきた。両親から感じるプレッシャーや、職場の同僚の結婚、出産も、ずっと横目にしながら、自分はそこには立てないんだと、何度も打ちのめされてきた。
でも、菜奈は違う。
今まで、好きになる人はみんな異性で。きっと、普通に恋愛をして、普通に結婚をして、普通に出産をする、そんな未来をずっと思い描いてきたはずで。
「…それを考えずに今言ってるんだったら、私は…すぐに『一緒にいよう』とは、言えない。だって、私の一番の願いは菜奈の幸せだもん。私と一緒にいることで、それが壊れてしまうんだったら」
ここまで言って、押し黙る。口を開こうとすれば、言葉がせき止められたように出てこない。
本当は、これ以上何も言いたくなかった。このまま菜奈の言葉に「はい」と答えるだけで、夢のような喜びに浸れると、わかっているのに。
それでも、言わなければいけない。菜奈の、ためにも。
「…それなら私は、菜奈と一緒には、いられない」
絞り出すように放った私の言葉は、重い空気に吸い込まれ、そのまま私自身の胸の奥深くに、冷たく、深く突き刺さった。
店内に穏やかなジャズが流れ、ちらほら散らばる客たちが、皆が笑顔で談笑している。そんな喧騒の中にありながら、私たち二人だけは、まるでその空間から切り取られたように、静寂に包まれていた。
店内を見渡す私の視界の端で、菜奈がソファにもたれかかるのがわかった。私の言葉で、もしかしたら菜奈は深く傷ついているかもしれない。でも、菜奈の未来のことを思えば、そう告げるしかなかった。
私の心が暗く沈んでいく。
しかし、菜奈の声は、私の予想を裏切るものだった。
「なんだ、そういう理由。…それなら、安心した」
私は驚いて、弾かれたように菜奈に視線を向けた。
彼女はつきものが落ちたかのような、穏やかな微笑みを浮かべていた。先程までの張り詰めていた緊張は、もうどこにも見当たらない。彼女は包み込むような、柔らかい声で、話を続けた。
「てっきり、私の気持ちがあなたには重すぎて…そのせいで、断られたのかと」
「そんなわけない!」
私は反射的に声を荒げ、菜奈の言葉を真っ向から否定した。その声に、周囲のざわめきが一瞬、止まる。私たちに注がれる視線に、しまったと口元を押さえた。
彼女はふふ、と声に出して笑う。
「うん、ごめん。私の早とちりだった。でも…美花、私を甘く見ないでもらってもいいかな」
口角を上げ、冗談めいたセリフと表情で、私の方を見る。
「私は、亮太のプロポーズを断ってるんだよ。結婚という選択肢が目の前にあって、将来の明確なビジョンも見えていたの。その上で、選択して、今…美花に告白してる」
告白、というはっきりとしたワードに、胸の奥が、小さく高鳴る。
さっきまで決して私の目を見なかった菜奈が、今は私をその瞳にしっかりと捉えて離さない。
「結婚や子供を諦めて、その代わりに美花と一緒にいるとか、そう思ってるなら、それは違うよ。私は何かを犠牲にしたんじゃない。そうじゃなくてむしろ…諦めたく、ないんだ」
「美花の一番側で過ごせる、これからの未来を」
菜奈の言葉は、まるで澄んだ水のように、私の心の奥底に染み渡っていく。
その慎重に選びぬいて紡ぎ出された一言一言に、彼女の覚悟が強く、感じられた。彼女はもう、決意したのだ。これからの、私たちの未来のために。
——彼女の思いに応えたい。
そう思ったが、口を開いても言葉にならず、瞳からは大粒の雫がとめどなく流れ落ちる。しゃくりあげながら必死に伝えようとするが、できない。そんな私を見て、菜奈は制するように手を差し伸べた。
「大丈夫、ゆっくりでいいよ。…時間はたくさん、あるんだから」
彼女の手が、私の手をゆっくりと包み込む。その温かさが、私の張り詰めていた心の蓋を優しく開いた。
私は時間が許す限り、ただ子供のように、涙を流して泣きじゃくった。
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