【百合小説】隣の彼女は秘密を知っている<13>【創作大賞2025】
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第5章:美花の章 -本当の涙の理由-
1
一歩を踏み出すか、否か。その扉の前で、私は立ち止まってしまっていた。
中が少しでも見えたら様子がわかりやすいのだが、その扉はほんの少し隙間があるだけで、中を伺い知ることはできない。残念ながら見える場所に窓はなく、扉から漏れ出るジャズ風のゆったりとした音楽だけが、その店の雰囲気を想像させるものだった。
扉の取手に手をかけるが、その手を引っ込め、また考え込む。誰かが入ったり出たりしてくれないかなと思うも、かれこれ十五分、誰も通らない。
仕方なく勇気を出して取手に手をかけ、扉を押した。カランカランと、扉の上部についた鈴の音が鳴る。顔だけ少し覗かせて中の様子を伺おうとすると、「こんばんは、どうぞ」とカウンターから声をかけられた。
薄暗い照明の、おしゃれな雰囲気のバー。年末だが、隠れ家的な店だからか、人はまばらだ。カウンターは八席あるうち、二席が埋まっていた。
私はその人たちから三つ席を開け、端の方に座る。心臓が、喉元までせりあがってくるかのようだ。震える手で、メニューを手にした。
バーに来るのはもちろん初めてではない。ただ、ここのバーには、ここまで緊張する訳があった。
「やっぱり、初めてなんですね。こういうお店」
マスターは、私が注文したジントニックを作りながら、微笑んで言った。彼女の柔らかな物腰と、どこか包み込んでくれるような雰囲気に、私はふぅっと息を吐き出す。
「そうなんです。だからちょっと…緊張しちゃって」
「大丈夫ですよ。女性なら、どなたでも歓迎です」
「女性なら」。その言葉通り、店内にいる客はすべて女性で、男性の姿は見当たらない。カウンターの二人は仲睦まじそうに話していて、皆に見られる場所でのその距離の近さに、なぜかこちらが少しそわそわしてしまう。
出されたカクテルを一口、喉に流し込む。緊張でからからになった喉に流れ込んだアルコールは、体と心を潤してくれる気がした。私はその勢いのまま、マスターに思い切ってこう言った。
「あの…私レズビアンで。誰かと話したくて、今日来たんです」
少し早口になってしまった私に少し驚いたのか、一瞬マスターは目を見開く。でもすぐに、優しく私に微笑みかけた。
「そうなんですね。今日はお客さんも少ないですし、私でよければ話し相手になりますよ」
私はその返答に、張り詰めていた気が緩み、すとんと力が抜け落ちる。私が初めて来て、初めて知らない人にカミングアウトした場所。ここは——女性限定の店、レズビアンバーだった。
◇
彼に話しかけられたのは、二週間前、通勤帰りの駅でのことだった。
「美花さん?」
突然の聞きなれない声に、びくっと後ろを振り返る。そこには、人懐こそうな笑顔を浮かべた男性がひとり、立っていた。
「やっぱり、美花さんだ。お久しぶりです」
見た瞬間、もちろん誰だか分かった。二度と忘れることはないだろう、私の特別な人、菜奈の恋人——笹本亮太。
しかし私は、一瞬わざと視線を泳がせた。
「えっと…」
「あ、ごめんなさい。菜奈の彼氏の、笹本です」
彼はすぐに、軽く自己紹介をした。笹本の口から聞く「菜奈」と「彼氏」という単語に、胸がナイフで抉られる思いがする。知らないふりをすぐに後悔し、「あぁ」と今まさに思い出したように、会釈をした。
このまま会話が終わればいい。そう思ったが、彼は私のその空気を読めないのか読まないのか、続けてこう言った。
「ちょうど良かった。僕、美花さんに、聞いてほしいことがあるんです」
——聞いてほしいこと。
私は眉を顰める。嫌な予感がした。一度だけ、ちらと顔を見ただけの相手に、何を伝えたいことがあるだろう。彼女の友人だとしても、普通ならそんなこと、何もないはずだ。…普通、なら。
「私?全然話したこともないのに」
思わず、建前を作る前の言葉が口から飛び出す。ぱっと口に手を当てたが、もう遅かった。笹本はその発言に少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに申し訳なさそうな、少し困った笑顔になった。
「だって菜奈が、あなたの話ばかりするから」
彼の言葉に、思わず顰めた眉がぴくりと動く。菜奈は、私と会っている時は笹本の話ばかりしていたのに、笹本の前では私の話をするのか。笹本が、一回しか会っていない私にすぐに気がついたことにも、合点がいった。
あと十日ほどで、クリスマスが来る。そして今日の笹本の瞳には、何か決意めいたものが見えた。
「…彼女の『親友』の美花さんには、伝えておかなきゃって」
彼の顔に浮かぶ笑みに作り物を感じてしまった私は、自分の顔にも同じように笑みを浮かべる。臨戦態勢。私は自分の行動に、そしてなぜか——彼の行動にも、その雰囲気を感じてしまった。
彼は私に、純粋でまっすぐな、でもどこか挑戦的なまなざしを向けて、言った。
「僕、菜奈と——結婚します」
結婚。
今一番聞きたくないと願っていた言葉が、残酷なほどはっきりと、彼の口から放たれた。
視界が歪むのと同時に、足元の感覚が消え、自分がどこにいるのかすら分からなくなった。彼と会話を交わしたのはほんの数分のはずなのに、その時間が私には、果てしないものに感じた。
頭を垂れたまま身動きが取れず、かといって涙がこぼれ落ちるのも許せなかった。私は、足元に広がる現実を見つめ、必死に奥歯を食いしばることしかできなかった。
◇
「それで、ビアンバーを調べようと思ったんですね」
マスターが、2杯目のジントニックを作りながら、私に言った。私はそれを受け取り、グラスを両手で包み込む。冷たさが、少し熱くなってきた手に染み渡り、気持ちがいい。
「そうなんです。バカみたいだけど…もう何年も、一番近くにいる子のこと、好きで。でもそれを、周りの誰にも、言えるわけもなくて…」
アルコールのおかげか、マスターのその雰囲気のおかげか、今まで誰にも話せなかったことが、流暢に口から滑り落ちる。言葉が、何かの楔を抜いてしまったようだった。今まで蓋をしていた感情が、堰を切ったように溢れ出してきた。熱い塊が喉をせり上がり、視界が急速に滲んでいく。
私はそれが零れ落ちないように、言葉を止め、必死で唇を結んだ。
「…辛かったですね」
マスターの視線は優しく、穏やかに、私を包んでくれた。それが更に、私の溢れ出る感情を大きくさせる。あぁ私はこんなに溢れ出るほど、菜奈のことが好きだったんだ。こんなに泣きたくなるほど、彼女のことを特別に想っていたんだ。改めて、そう認識する。
上を向く口実に、グラスに残っていた少なくないカクテルを一気に呷る。ジンの植物的な香りとライムの酸味が、一瞬だけ鼻腔をかすめ、すぐにアルコールの熱が喉を駆け下りていった。
はぁ、と大きく息を吐き、心を落ち着かせる。少し間を置いて顔を上げ、私はマスターに笑いかけた。
「…なんか、なんで私たちだけ、こんな思いしなきゃいけないんでしょうね。普通に男の人を好きになれてたら、こんなに悩むことも、辛い思いを抱えることも、なかったかもしれないのに」
私の言葉に、マスターは目を大きく見開いた。それは、純粋な驚きに見えた。
言葉を選ぶように少し思案し、彼女はゆっくり口を開く。
「…もしかしたら、美花さん、それは…ちょっと違うかもしれません」
「え?」
予想外の、マスターからの否定の言葉に、私は一瞬、たじろぐ。ここで思いを吐き出したばかりの私が、何かを間違えている?菜奈への対応だろうか。誰にも何も言えなかったことなのか、それとも、ここに来たこと自体か。
彼女は、私の手元にある、空になったグラスを手に取り、続けた。
「美花さんが、今一番辛いのは…本当に、そのセクシュアリティのせいでしょうか」
私は、言葉を失う。その告げられた内容は、私が今まで、考えたこともないことだった。
彼女の瞳には、同情や憐れみなどは一切無く、ごく当たり前の日常を話しているような、そんな穏やかさが湛えられている。
新しいジントニックが、目の前に置かれる。しゅわしゅわとはじける炭酸を眺めながら、私は彼女のその問いかけに、はっきりとした答えを見つけることは、できなかった。
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