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 【百合小説】隣の彼女は秘密を知っている<10>【創作大賞2025】

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第4章:菜奈の章 -誰のための嘘-


  「この方、同僚の笹本くん。実は——昨日から、お付き合いしてるの」

 私は、後ろにいる恋人の笹本亮太を、美花に紹介する。笹本くんは、彼女に対し、軽くぺこりと頭を下げた。

 一瞬の静寂の後、美花の口が開きかける。その時、ちょうどホームに電車の音が響き渡った。美花の視線は電車に向く。心なしか、彼女の瞳が潤んでいるように見えた。
 電車が止まり、扉が開くと同時に、列をなしていた人々が電車内に吸い込まれるように進んでいく。

「おめでとう、菜奈。念願、叶ったね」

 彼女は私に、親友として完璧な笑顔を向けて、そう告げた。だが私は、彼女の瞳が、動揺を隠すかのように一瞬ふらりと揺れ戻ったのを、見逃さなかった。

 結局、美花は何かから逃れるように足早に電車に乗り込み、私たちは、ほとんど会話を交わすことはできなかった。
 窓越しに、美花が笑顔をこちらに向けている。その手は、電車に出発を促すように、小さく左右に振られていた。

 ——これで、何かが変わるだろうか。

 出発を告げるベルが鳴り響く。私もまた、彼女の動作を真似るように笑顔を作り、静かに手を振り返した。
 

 彼からの告白を受け入れたのは、三日前のことだった。

「あの、僕と…付き合ってくれませんか」

 その言葉を聞いても、私の心に大きな動揺はなかった。ある程度、予測していたことだったから。
 「やはり」と「どう対応しよう」という二つの思考が、私の中で混線する。

 目の前で、緊張した面持ちで私を見つめている彼、笹本亮太は、私の会社の同僚だ。
 私と同じ営業部に所属しながら、口数は少なく、どこまでも実直。そのギャップが、彼の人物像を特徴づけている。
 
 私たちの目の前には、普段の食事では決して見ることのない、いかにも高級そうなコース料理が並んでいる。会社の同僚である彼と私が、なぜこの状況にあるのか。その理由は、彼の言葉からも、明白だった。

「……それは、私に好意を抱いてる、ということ?」

 私は、笹本くんの瞳を真っ直ぐに見つめ返す。そして、確認するまでもないことを、あえて言語化して、彼に問いかけた。
 私のあまりの直接的な言葉に、彼の体が一瞬後ずさるが、すぐに彼は覚悟を決めたように、すっと背筋を伸ばした。 

「…はい。深月さんの、いつも芯がブレずにまっすぐ立っているところが、好きです」

 彼は、視線を逸らさない。
 私の返答を待っているのだと、その熱のある瞳が、雄弁に物語っていた。

 ——芯がブレずに、まっすぐ、か。
 仕事という限定的な状況下においては、確かにそう見えるのかもしれない。明確な目標があり、自分で決めたルール通りに動いているだけ。その単純なプロセスが、彼の目には『芯が通っている』ように映ったのだろう。
 けれど、今の私自身は、その『芯』がどこにあるのかさえ、分からずにいた。

「…そっか」

 私は一度目を伏せ、無意識に寄ってしまった眉間に指を置く。
 彼の言葉と、そこに込められた好意。それを受け取って今、私が返すべき言葉は何か。私は、耳元のイヤリングを触りながら、思考を巡らせた。
 
 つい先日、私は美花から「女の人が好き」というカミングアウトを受けていた。
 その言葉は、すぐに冗談として撤回されたけれど、その時の彼女の表情や声のトーンからは、きっと——冗談ではないのだろうと、思う。
 あの場では、私も反射的にその冗談に乗るという選択をした。けれど、その時からずっと、何かが心の片隅に居座っている。

 彼女の言う「女の人」というのは、私自身は関係がないのだろうか。それとも、私が美花から受け取っていた今までの好意は、そもそも『友情』では、なかったのか。
 …だとしたら、私たちが今まで築いてきた関係は、私が認識していたものとは、全く別ものだったのだろうか。

 かちゃん、と遠くで食器が触れ合う音が響き、私ははっと我に返った。思考が、笹本くんではなく美花に及んでしまっていた。しっかり、笹本くんのことを考えないと。
 私は姿勢を正し、意識を、目の前の彼へと強制的に向け直す。

 ——恋愛、友情、尊敬。
 これらの感情を分類する、明確な定義があるのだろうか。
 相手を『特別』だと認識することに、果たして、決定的な違いは存在するのだろうか。これらの定義が曖昧なのは、もしかして、私に『誰かと交際した』経験が無いからなのかもしれない。
 …だとしたら、その経験を、今ここで積むことで、答えは得られるのかも。

 私の長考の間も、笹本くんは焦れた様子も見せず、ただ私を真っ直ぐに見つめ続けている。
 彼は真面目で、誠実な人だ。営業としての成績は優秀というわけではないが、どんな仕事にも手を抜かないその姿勢は、他の人よりも私は高く評価し、尊敬している。
 私のこの疑問の答えを得るために、彼は、必要なのかもしれない。

「…一つだけ、条件を受け入れてくれるなら」

 私はフォークを皿の縁に置き、テーブルに視線を固定したまま、そう言った。
 私のその言葉を、笹本くんは『肯定』の返事だと解釈したのだろう。それまで緊張で強張っていた彼の表情が、目に見えて緩んだ。
 その口元には、安堵の色を浮かべた笑みが広がる。

「なんでも。言ってみて」
「………」

 彼の表情から、今の彼は、私が提示するどんな要求でも飲むつもりなのだということが読み取れた。私にとってこれは、自分の恋愛に対する価値観を確かめるための、人生で大きな決断だ。

 私は一度、大きく息を吸い、肺の中の空気を全て吐き出すことで、思考をクリアにした。そして、彼の目を見つめ返し、私の『条件』を告げた。

「私は、笹本くんのことを、恋愛対象として好きかどうかわかりません。でも、人として、尊敬はしています」
「……それでもいいと、あなたがその曖昧さを受け入れてくれるなら。私でよければ、付き合います」

 告げた瞬間、私は彼の顔から視線を逸らしていた。彼がこれから示す反応を、直視する勇気はなかった。

 自分の疑問を解決するという目的のため、相手の好意を利用する。客観的に見ても、あまりに利己的で、褒められた行為ではない。彼が、私のこの身勝手な提案に呆れ、先ほどの言葉を撤回する可能性も考えられた。

 私は唇をきつく噛み締める。
 数秒間。体感では、もっと長く感じられた沈黙を破り、笹本くんが、口を開いた。

「…もちろん。ここから育む愛もあると思う。よろしくお願いします」

 笹本くんの言葉に、私はゆっくりと顔を上げた。
 彼の表情は、安堵と、そして純粋な喜びに満ちている。そのあまりに無防備な好意を受け止めながら、私の胸には、ずしりと重い鉛の塊が沈んでいった。

 ——この先に、私が求めている答えがあるのだろうか。
 いや、見つけなくてはならない。美花と、ちゃんと、向き合うために。

 それこそが、私が彼の告白を受け入れた、唯一の理由だった。


「じゃあ、また。連絡する」
「彼氏とのデート優先でいいよ。またね」

 美花は、わざとおどけたような口調で、笑いながらそう言った。けれど、私にはその明るさが何かを隠すための空元気に見えてしまい、胸の奥に、針で刺したような小さな痛みを感じた。

 居酒屋の前で別れ、美花は私と反対方向の駅へと消えていく。
 彼女の姿が、米粒ほどまで小さくなったのを確認してから、私も踵を返した。私にしてはアルコール量が少なかったのか、足取りはしっかりしている。賑やかな飲屋街の喧騒を背景に、私は一人で駅へと歩き出した。

 耳元で揺れていた、ゴールドの少し華美なイヤリングを外す。今日の私を演出するための、小さな小道具。それを鞄の奥にしまい込むと、ようやく、いつもの自分に戻れた気がした。

 あれは重いし、私の好みではない。ではなぜ、それを身につけてきたのか。——理由は単純だ。
 それを身につけた私を見た時の、美花の反応が、見たかったから。ただ、それだけ。

 他人の感情を試すような自分の行動に、我ながら悪趣味だと思う。自嘲めいた乾いた笑いが、唇から漏れる。
 彼女の反応は、概ね私の予想通りだった。
 一瞬だけ驚きに目を見開いて、でも、すぐに完璧な『親友』の笑顔を貼り付ける。あのカミングアウト以降、美花が私に対して、強固な仮面を被っていることには、気がついていた。

 親友になりたかったのに、なれていなかった。
 六年という長い時間を共有してきたのに。美花の本心を引き出したいと、ずっと思ってきたのに。私は、彼女が安心して本音を出せる相手では、なかったのだ。
 その事実が、私の胸に重くのしかかる。

 改札を抜け、ホームのベンチに腰を下ろす。金曜の夜。アルコールで上機嫌になった集団が、楽しそうな声をあげて通り過ぎていく。
 私の体からは、とうにアルコールは抜けてしまっていた。何も考えず、ただ単純に楽しそうに振る舞う彼らが、少しだけ羨ましい、と思った。

 私は、美花の『本心』が、知りたい。その目的のために、私は、彼女を傷つける可能性も考えた上で、彼女の心を試すような行動を繰り返している。

 ——私は、何をやっているんだろう。

 大きく息を吐き出すと、白い靄が夜気に溶けた。
 誰かを傷つけたいわけではない。なのに、現実ではきっと、笹本くんも、そして一番大切にしたいはずの美花も、私の行動によって傷つけてしまっている。

 私は一体、どうなりたかったのだろう。

「菜奈さん。お待たせ」

 不意に名前を呼ばれ、私は思考の海から現実へと、引き戻される。
 そこには、同じように友人との飲み会を終えた笹本くんが立っていた。私を見つけたことによる嬉しさを、顔いっぱいに浮かべている。

「笹本くん。良かった、帰る時間が同じで」

 私も笑顔になって、ベンチから跳ねるように立ち上がり、彼に駆け寄る。
 私の今の立場や状況から、相手の感情が最もプラスに振れるであろう最適解を考え、行動する。それは私の長年の処世術で、癖でもあった。

「あれ?菜奈さん、イヤリングは?行く時つけてたよね」

 彼の視線が、私の耳元で一瞬彷徨う。私はわざとらしく「あ」と小さく声をあげ、申し訳ないという感情を顔に貼り付けて、眉を下げた。

「ごめん、少し耳が痛くなってしまって、さっき外したところなんだ。でも、美花にも似合うって褒められたよ」

 ほとんど事実だ、嘘は言っていない。ただ、全ての情報は言っていない、それだけ。
 私のその言葉を聞いて、彼の表情が、嬉しさから申し訳なさへと、分かりやすく変化した。

「え、そうなの。ごめんね、重いと大変だってことまで頭回らなかった」

 相手に、いらない罪悪感を抱かせてしまった。その事実に気づきながらも、彼のその人の良さに、私の口元からは、今度は演技ではない、自然な笑みが漏れる。
 彼のような、誠実な人とパートナーになれれば、そこにはきっと、大きな波乱のない、穏やかな日々が待っているのだろう。

「ううん、すごく可愛くて、本当に嬉しかったよ。おしゃれは我慢、って言うでしょう?」

 彼の罪悪感を払拭するため、私は、より分かりやすい『恋人』としての行動を選択する。
 笑顔のまま、笹本くんの腕に、そっと自分の腕を絡ませた。その直接的なアプローチは正解だったようで、彼の肩から目に見えて力が抜けていくのがわかった。

 私は、『特別』な関係を築くには、『まず自分が相手を好きになる』ことが絶対的な前提条件だと、今まで思い込んでいた。
 ふと、笹本くんの顔を見上げる。彼はずっと私を見ていたのだろう。不意に視線がかち合い、彼はまるで子供のように、慌てて顔を逸らした。その反応が、なんだかとても新鮮に感じられる。

 ——もしかしたら、こういう始まり方も、あるのかもしれない。
 相手からの明確な好意から始まる、そんな関係性が。

 私は、二十七年間で初めての経験を、今、しているのだった。





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