【百合小説】隣の彼女は秘密を知っている<5>【創作大賞2025】
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第2章
2
「え、親友に、…裏切られたって、こと?」
「まぁ簡単に言えば…うん、そうなるのかもね」
紅茶の湯気の向こうで、彼女——荒牧美花の視線が、私の話の真意を探ろうとしているのが分かった。
彼女が投げかけた問いの核心にはあえて触れず、私はそれを、笑顔と曖昧な肯定の言葉で、受け流した。
私の高校時代における、最も痛みを伴う記憶。なんとか最後まで感情を乱すことなく、話し終えることができた。私は紅茶を一口流し込んだあと、詰めていた息を細く吐き出す。
私の話を聞く荒牧さんの姿勢は、終始、真摯そのものだった。
この話は、他人が聞けば「大したことない」と判断する類のものかもしれない。誰かが死んだわけでも、いじめ抜かれたわけでもない。大切だったはずの存在が、何の脈絡もなく消えた。ただ、それだけ。
けれど彼女は、私の痛みを軽んじることはなかった。私の様子を見て合わせているのかもしれないが、それでもその真剣な眼差しに、嘘や同情の色は見当たらない。
…やはり、似ているな、と思う。
「…どうしてかは、わからないの?」
「そう。連絡先も変えられてしまって。もう、会うための手段がなくなったの」
荒牧さんの疑問に、私は肩をすくめた。
卒業式のあの日、私は事実を確認するため、すぐに亜紀へメッセージを送ろうとした。しかし、携帯の連絡先リストから、彼女の項目はすでに消えてしまっていた。
彼女はSNSを一切利用しておらず、それは私と亜紀と繋ぐ、唯一の接点だったのに。『親友』と呼んでいたのが恥ずかしいほど、あまりに脆弱な繋がりだった。
「まぁ、彼女にとって、私は重すぎたんだろうね。『亜紀さえいればいい』なんて…今思えば、あれは依存、だったんだろうな」
意図して軽い口調で話そうとしたのだが、体は正直で、視界が勝手に潤んでくる。
このことを思い出すと、いつもそうだ。二年という歳月が経過しても、この条件反射は変わらないらしい。普段の私なら、初対面の相手にここまで話すなんて、ありえないのに。
込み上げるものを誤魔化すように、私はわざとらしく息を吐き、頭を下げる。
——大丈夫。
自分にそう言い聞かせ、私は顔を上げた。
「ごめん、少し湿っぽくなったね。それで、本題なんだけど」
私は声のトーンをひとつ上げ、この話題はもう終わりだと伝えるように、笑顔を顔に貼り付けた。私のその態度から、話が切り替わることを読み取ったのだろう。荒牧さんも、こくりと頷いて姿勢を正す。
雨音が、窓を叩く音が聞こえる。…しまった、傘の用意がない。本題とは全く関係のない思考が、ノイズのように割り込んでくる。
これを話せば、彼女を不快にさせてしまうかもしれない。
——でも、この話を省略して、彼女と本当の意味で『親友』になれることなんてできるはずもない。それも、分かっていることだった。
私は意を決して、口を開く。
「…似ていたから」
「似てた?」
私の言葉に、荒牧さんの眉間にわずかに皺が寄り、私の胸が少しだけ冷える。しかし、聞こえたものをただ反芻するようなその響きに、拒絶や怒りといった攻撃的な色は含まれていない。そこにあるのは、純粋な疑問だけだった。
「普段のあなたは、いつも誰かの中心で笑っている。でも、あの授業の時だけは、違った。誰とも話さず、一人で窓の外を眺めていたあなたの横顔が…私の中で、いなくなる直前の亜紀の姿と、重なって見えたの」
一言一句、慎重に選び取っていく。その選択を一つでも誤れば、彼女を傷つけることになりかねない。彼女の表情から、私の発言がどう受け取られているかを確かめながら、次の一言を慎重に組み立てる。
「ひとりで…どこかに、行ってしまいそうだと思った、から」
その言葉に、それまでまっすぐだった彼女の視線が、わずかに揺らぐのが分かった。
大学で荒牧さんの姿を認識するたび、私は目で追っていた。彼女は誰に対しても親切で、常に輪の中心にいる。けれど、その輪から一歩離れた瞬間に見せる、ひどく孤独な色を帯びた横顔。それが、頭から離れなかった。
もちろん、大学以外の場所に、その孤独を共有する相手がいる可能性も考えた。でも、万が一、そうではなかったら?誰にも打ち明けられず、一人で抱え込んでいるとしたら?
あの特等席で窓の外を眺めていた彼女の横顔と、卒業式を前に寂しそうにしていた亜紀の姿。その二人が、私の中で重なって見えた。
普段は隠している、荒牧さんの内側の一部が、あの時だけふと顔を出したのではないか。少なくとも、私にはそう感じられた。それは、亜紀だけではなく——私自身にも、痛いほど、身に覚えのあることだったから。
窓を叩く雨音は、いつの間にか強くなっていた。不思議なほど、周囲の雑音は、もう私の耳には届かない。まるでこのテーブルだけが、周囲から切り離されてしまったかのようだった。
長い沈黙を破り、彼女が口を開く。
「…そう、だね。確かに、孤独…なのかも」
それはかろうじて搾り出されたような、小さな肯定の言葉だった。
彼女の視線が、手元のティーカップに落ちる。ひとくちもつけられていない紅茶は、すでに湯気も立たず、完全に冷え切っていた。
次の言葉を探して、考えを巡らせているのだろう。その瞳は、かすかに揺らめいている。
「…でも別に、ほっとけばいいわけでしょ。だって、私はその…亜紀さんじゃない。全くの他人だし」
これまでの、穏やかで、常に他者への配慮が感じられる荒牧さんの話し方とは、明らかに違っていた。ほんのわずかだが、明確な棘が、その言葉には含まれている。
私は少し驚きつつも、同時に、私の言葉が彼女の心の深い部分に届いたのだという、確かな手応えも感じていた。
「うん、本当にそう。どうしてなんだろうね」
私は、あえて明るい声色で笑ってみせる。彼女の立場からすれば、私のこれまでの行動は不可解で、疑問を抱くのは当然だ。
「でも、気になってしまったから。…ずっと、あなたのことを見ていたから」
曖昧な表現に、ほんの少しだけ真実を混ぜ込む。彼女の瞳が、わずかに見開かれたのが分かった。
——今だ。
そう判断し、私は言葉を続ける。
「今はもちろん、『親友』なんて烏滸がましいことは言えない。でもまずは友人として、あなたの隣にいる許可が欲しい。その先どうするかは、私を見て、あなたが判断してくれればいい」
私は、真正面から彼女の瞳を見つめる。
彼女の視線が一瞬、逃げ場を探すように揺らいだ。——だがすぐに、その揺らぎは治り、私の視線をまっすぐ受け止める。
——沈黙が、落ちる。
ほんの一瞬だったのだろう。しかしそのわずかな時間で、様々な思考が私の頭の中を駆け巡った。
どうすればもっと彼女に届くだろう。いや、これ以上の言葉は邪魔になる可能性もある。
すると、それまで真剣な顔つきで私を見ていた彼女の口元が、ふっと、柔らかく緩んだ。
「…そんなに真剣に『友達になろう』なんて言われたの…初めて」
それは、回りくどく不器用な私の提案に対する、彼女からの、肯定的であまりにも優しい、答えだった。
◇
それから六年が過ぎ、現在。
「菜奈、はいこれ」
「あぁ、ありがと…」
公園のベンチで、私は自分の頭を抱えていた。
完全に、アルコールの過剰摂取。割れるような頭痛が、私を責めるように鳴り響く。美花から差し出されたミネラルウォーターを、私はぼんやりとした頭で受け取った。
「うぅ、開けられない…」
激しい頭痛と全身の倦怠感で、指先に力が入らず、キャップを開けるという単純な動作すら実行できない。そんな私の手から、美花はペットボトルを受け取り、いとも簡単にその蓋を開けてくれた。
「ちょっと、飲み過ぎちゃったね。大丈夫?」
美花のその優しい声が、水と共に体に沁みる。彼女の優しさは瞳にまで滲んでいて、その視線を受けるだけで、心の渇きまで潤されていくような、そんな錯覚を覚える。
——もし美花が男性だったなら、間違いなく私は恋をしていたのに。
彼女の優しさに触れるたび、私はいつもそう思う。
しかしこの「もしも」を口にすることはなぜだか憚られて、一度も言葉にしたことは、なかった。
あの出会いから、およそ六年が経った。その間に、私と美花の関係性は、互いにとってかけがえのない友人——まさに『親友』という定義に相応しいものに、なっていた。会社は違うものの、私たちはまめに連絡を取り合い、定期的に会い、いつも充実した時間を共有している。
私にとって美花は、他に代わりのいない、唯一無二の存在になっていた。
——まさか、ここまで美花が『特別』になるなんて。
駅へと向かう帰り道、私は隣を歩く美花の横顔をさりげなく確認する。ヒールを履いていても、彼女の頭は私の顎の高さ程度しかなく、可愛らしい。彼女は世間一般でいう「愛され女子」という分類に入れられることが多いのだが、彼女がまとう柔らかい雰囲気も、その原因の一端を担っているのだろう。
「菜奈、家まで送ろうか?そのままじゃ危ないでしょ」
「問題ない、わらしは大丈夫!」
呂律は不完全で、その言葉には一切の説得力が欠如していた。案の定、美花の顔いっぱいに不安が広がる。
結果として、私を送ると言い張る美花をホームへ誘導し、無理やり電車に押し込み帰路につかせた。車窓越しからも、彼女は不安そうに私から視線を外そうとしない。私は本当に問題がないと伝えるために、両手で大きく手を振ってみせた。
あの最初の出会いの瞬間、この可愛らしい人の「特別になりたい」と思ったのは、本当だった。けれど、その時本心では——美花をあくまで、亜紀の代わりとしてしか、見ていなかった。
亜紀と似ている、と思った。その優しさも、他人を優先してしまう傾向も、自分の感情を押し殺しているかのような側面も。もしかしたら、私が自分の全てを曝け出せば、この子の本質——そしてその向こうの亜紀の本質を、より深く、理解できるのではないか。そうすれば、亜紀が突然私の元を去った理由も、わかるのかもしれない。そう、思った。
——要するに、美花自身のことなんて、何も見ていなかった。
「…それがどうして、こうなったんだろう」
私の呟きは、夜のホームに溶け込むように消えていく。
亜紀と似ていると思った彼女は、関係性を深めるにつれて、全く似ていないと分かった。亜紀は常に笑顔で私を肯定し、私の全てを無条件で受け入れた。しかし美花は、私の些細な変化にも気づくほどの心配性で、小さな失敗を繰り返す私を常に案じていた。そして、私が目を背けがちな問題に対しても、「そこは直そう」と、真正面から向き合う姿勢を見せた。
私は、美花の前で取り繕うことをしなかった。それでも美花は、私の隣に居てくれる。それどころか、好意を持ってくれているのだと、思う。その感覚は今、私にとってとても心地良いものだった。
亜紀は疑う余地なく『友人』だったけれど、美花はそれまでの『友人』という枠組みには収まりきらないような——まさに形容し難い、特別な存在になっていた。
…だがそれは、あくまで『私にとって』の話だ。
美花は私に、全てを見せているわけではないようだった。あの時の、特等席から外を眺めていた時の彼女の様子が、今でも時折、垣間見えることがある。私がそれに気づき、「何かあった?」と尋ねても、彼女は笑顔で「何も」と返すだけだった。
——彼女は、まだ何か、秘密を抱えている。
私はそう、確信していた。
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