温故知新(159)推古天皇 竹田皇子(用明天皇) 植山古墳 安閑天皇 河内大塚山古墳 宣化天皇 雲部車塚古墳 スカラ・ブレイ 息長真手王 和珥氏 桜井皇子 息長氏 広姫 葛城氏 磐井の乱
伏見稲荷大社 春日大娘皇女 巣山古墳 山背大兄王 西宮古墳 神功皇后 尾綱根命 富雄丸山古墳 藤森神社 法起寺 仲姫命 上石津ミサンザイ古墳 慈眼寺(野崎観音) 聖ミカエルの山 雨の宮古墳群 白山比咩神社 近江八幡山城跡 不動寺 彦五瀬命(天足彦国押人命) 敏達天皇 春日老女子 和珥氏 纒向石塚古墳 和邇日子押人命 ホケノ山古墳 彦坐王(日子坐王) 桜井茶臼山古墳 倭迹迹日百襲姫命 箸墓古墳 姥津媛(意祁都比売命) 西殿塚古墳 フィラエ神殿 アレクサンドリア 廣姫息長陵 麻績郎女 荳角皇女 継体天皇 今城塚古墳 斎宮跡 蓬莱山 ローマ 太郎坊宮 長岳寺 敏達天皇 梅山古墳 押坂彦人大兄皇子 牧野古墳 クサール・ヌアイラ 馬見古墳群 葛城氏 モン・サン・ミシェル 遠智娘 持統天皇 尾張目子媛 断夫山古墳
和珥氏と尾張氏、伊福部氏、息長氏
伏見稲荷大社と和珥氏の春日大娘皇女の墓と推定される巣山古墳を結ぶラインの近くには、藤森神社、神功皇后と尾綱根命の墓と推定される富雄丸山古墳、法起寺(奈良県生駒郡斑鳩町)があります(図1)。このレイラインは、尾張氏の尾綱根命と春日大娘皇女が血縁関係にあると推定されることと整合します。

神功皇后(息長帯比売命)は、尾張氏(伊福部氏)の金田屋野姫命と推定され、尾張氏は和珥氏と同族と推定されるので、息長氏も和珥氏と同族と推定されます。
伊吹山周辺には、たたらに風を送る「息吹き」「火吹き」が語源であるとされる伊福氏、伊福部(いおきべ)氏、など製鉄由来の名を冠した豪族がいたことなどから、息長氏についても製鉄に関係したとも考えられる。
法起寺は、聖徳太子(厩戸皇子)の遺命により子の山背大兄王(聖徳太子と推定)が創建した寺です。聖徳太子(厩戸皇子)の子である舂米女王(つきしねのひめみこ)は、異母兄である山背大兄王と結婚しています。舂米女王は、春日大娘皇女の母の春日和珥童女君と壬生部でつながりがあると推定されます。
富雄丸山古墳と、神功皇后と品陀真若王の娘の仲姫命の墓と推定される上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市)を結ぶラインは、巣山古墳と聖ミカエルの山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは、山背大兄王の墓と推定される西宮古墳(奈良県生駒郡平群町)や慈眼寺(野崎観音)(大阪府大東市)の近くを通ります(図2)。これらのラインは、神功皇后と仲姫命との血縁関係を示していると推定されます。

敏達天皇、推古天皇、用明天皇と和珥氏
第33代推古天皇の夫である第30代敏達天皇の妃には、和珥氏の血筋の春日老女子が入り、和珥氏は皇室と深い姻戚関係にありました。春日老女子の子の難波皇子の子孫に橘諸兄がいて、橘氏一族には第52代嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子がいるので、現代の皇室にその血脈は受け継がれています。
第31代用明天皇(聖徳太子と推定)は、竹田皇子と推定されますが、下記の文献によると、若狭に竹田郷丸部里という地名があり、竹田皇子は和珥氏と関係があったと推定されます。
敏達天皇と豊御食炊屋姫(推古天皇)との間に生まれた竹田皇子は六世紀末か七世紀初めの人物で、かなり新しい子代の例となる。和尓部(丸部)は、中央豪族和珥氏所管の部民であろう。美濃・尾張・越前・甲斐・備中・出雲などに分布する。
大王家の外戚となった蘇我馬子が、推古天皇に葛城県を本居として請うた際、直轄領のため許されませんでした。推古天皇は、馬子に従っていないことから、豊御食炊屋姫(推古天皇)も和珥氏だったのかもしれません。
和珥氏の墓域と推定される雨の宮古墳群(石川県鹿島郡中能登町)と、推古天皇と竹田皇子の合葬墓と推定されている植山古墳(奈良県橿原市)を結ぶラインは、白山比咩神社(石川県白山市)、近江八幡山城跡(滋賀県近江八幡市)、不動寺(大津市)の近くを通ります(図3)。

和珥氏は大和から山城や近江へ分かれ、滋賀郡(大津市周辺)だけでなく、湖東・蒲生郡(近江八幡市周辺)にも土着して基盤を築きました(和邇氏族概観)。このレイラインは、推古天皇が和珥氏と推定されることと整合します。
植山古墳と纒向石塚古墳、ホケノ山古墳、桜井茶臼山古墳
植山古墳と彦五瀬命(天足彦国押人命と推定)の墓と推定される纒向石塚古墳、和邇日子押人命の墓と推定されるホケノ山古墳、彦坐王(日子坐王)の墓と推定される桜井茶臼山古墳の関係を調べてみました。
植山古墳と纒向石塚古墳を結ぶラインは、桜井茶臼山古墳と台与(姥津媛、意祁都比売命と推定)の墓と推定される西殿塚古墳とつながるフィラエ神殿を結ぶラインとほぼ直角に交差し、ホケノ山古墳と植山古墳を結ぶラインは、桜井茶臼山古墳と卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命と推定)の墓と推定される箸墓古墳とつながるアレクサンドリアを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4、5)。植山古墳は、和珥氏の祖と関係付けられていることから、植山古墳の被葬者と推定される推古天皇は和珥氏と推定されます。


廣姫息長陵と今城塚古墳、植山古墳、斎宮跡
敏達天皇の皇后である広姫の父は息長真手王とされていますが、滋賀県米原市村居田字北屋敷にある廣姫息長陵は、考古学的には5世紀代の築造と見られ、広姫の墓とするには否定的な見解が強いようです。
息長真手王は5世紀から6世紀頃の皇族で、王女の麻績娘子(麻組郎女)は継体天皇の妃として、伊勢神宮の斎王となった荳角皇女(佐佐宜郎女)を産んでいます。廣姫息長陵と継体天皇の陵墓と推定されている6世紀前半の築造の今城塚古墳(大阪府高槻市)を結ぶラインは、斎宮跡(三重県多気郡明和町)とローマを結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインの近くに蓬莱山があります(図6)。これらのラインから、廣姫息長陵は、継体天皇の妃の麻績娘子の陵墓と推定され、斎王だった荳角皇女も合葬されたのかもしれません(図6)。

廣姫息長陵と桜井茶臼山古墳を結ぶラインは太郎坊宮(東近江市)を通り、植山古墳と廣姫息長陵を結ぶラインは長岳寺(天理市)を通ります(図7、8)。廣姫息長陵と和珥氏や推古天皇は関係付けられていると推定されるので、廣姫息長陵の被葬者と推定される麻績娘子の娘の荳角皇女が、推古天皇の母ではないかと思われます。


植山古墳と斎宮跡を結ぶラインは、JR伊勢奥津駅や伊勢本街道札場跡(三重県津市美杉町奥津)の近くを通ります(図9)。伊勢本街道の奥津宿周辺は、かつて奈良と伊勢を結ぶ街道として栄えた歴史ある地域です。推古天皇の母が斎王の荳角皇女とすると、植山古墳と斎宮跡が関係付けられていると推定されることと整合します。

推古天皇と石上部皇子、桜井皇子
推古天皇の同母兄弟の石上部皇子は、名前から物部系と推定され、蘇我稲目の娘堅塩媛の子ではなく、荳角皇女と欽明天皇の子と思われます。また、同じく同母兄弟の桜井皇子も、家来の桜井部犬が物部氏に味方していたことなどから、丁未の乱で物部氏に味方し戦死したと思われることから、蘇我稲目の娘堅塩媛の子ではなく、荳角皇女の子と思われます。桜井皇子は娘として吉備姫王を儲け、吉備姫王は押坂彦人大兄皇子の子、茅渟王の妃となり、皇極天皇・孝徳天皇を儲けています。
酢香手姫皇女と広姫、葛城氏
GoogleAIで「推古天皇」と「斎王」で検索すると、推古天皇の時代は、用明天皇の皇女の酢香手姫皇女が斎王を務めたとされます。酢香手姫皇女の斎王退下は621年、もしくは622年と推定されていることから、用明天皇(574年~607年頃と推定)から崇峻天皇(591年頃~622年と推定)の代まで斎王だったと推定されます。用明天皇も崇峻天皇も30代前半に亡くなっていると推定されることから、酢香手姫皇女は、用明天皇の皇女ではなく、同世代だったと推定されます(図10)。酢香手姫皇女の母は、葛城直磐村の娘、広子とも言われることから、押坂彦人大兄皇子の母の広姫は葛城広子と思われます(図10)。

推古天皇の即位は崇峻天皇が暗殺された後の592年12月とされていますが、そうすると女帝と斎王が重複することになるので、実際は622年に即位したと推定されます。592年に暗殺されたのは崇峻天皇ではなく、穴穂部皇子(石上皇子)と宅部皇子(倉皇子)と推定されることと整合します。
女帝と斎王の基本関係
・斎王の基本:男帝(男性の天皇)の即位に伴い、その娘や身内から占いで選ばれるのが原則でした。
・女帝の場合:女性の天皇が即位した際、自身の娘を斎王として出すケースや、女帝自身が神事の主宰者として重なる役割を持つなど、時代やケースによって運用に変化がありました。
広姫が広子で、和珥氏と婚姻関係があったと推定される葛城氏とすると、馬見古墳群に墓があると推定されるので、敏達天皇の陵墓と推定される梅山古墳、押坂彦人大兄皇子の陵墓と推定される牧野古墳との関係を調べてみました。モン・サン・ミシェルと梅山古墳を結ぶラインは馬見古墳群を通り、牧野古墳と馬見古墳群(の中心部)を結ぶラインとほぼ直角の関係にありました(図11)。これらのラインから、広姫の陵墓は馬見古墳群にあると推定され、広姫は葛城氏と推定されます。広姫の父を息長真手王としたのは、推古天皇と息長真手王の関係を隠すためかもしれません。

持統天皇と蘇我氏
大田皇女の母を蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘としたのは、遠智娘を母とする第41代持統天皇が関係していると思われますが、穴穂部間人皇女や穴穂部皇子の母や、山背大兄王の母を蘇我氏としたのと同様に、推古天皇の母を蘇我氏としたのも持統天皇が関係していると思われます。
おそらく、蘇我氏と聖徳太子を血縁で結び付けて、蘇我氏の権威を高める目的があったのではないかと思われます。そのためには、蘇我馬子が暗殺した崇峻天皇と聖徳太子(厩戸皇子)を別人とする必要があったと考えられます。額田部皇女(推古天皇)が穴穂部皇子の誅殺を命じ、彼に組した物部守屋も滅ぼしたという話も創作と推定されます。
5世紀後半に葛城氏の主流派(円大臣など)が雄略天皇(昆支王と推定)によって没落させられた後、葛城氏の血統や地盤を引き継いだのが蘇我氏であるという説が有力視されています。
廣姫息長陵と河内大塚山古墳、雲部車塚古墳
第27代安閑天皇と第28代宣化天皇の母は、尾張目子媛とされていますが、安閑天皇の陵墓と推定される河内大塚山古墳や、宣化天皇の陵墓と推定される雲部車塚古墳は、尾張目子媛の墓と推定される断夫山古墳と結ぶレイラインはみつからなかったので、廣姫息長陵との関係を調べてみました。
廣姫息長陵と雲部車塚古墳を結ぶラインは、今城塚古墳や河内大塚山古墳とスカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図12)。これらのラインから、安閑天皇や宣化天皇の母は、息長真手王の王女の麻績娘子(麻組郎女)と推定されます。

安閑天皇や宣化天皇の母を尾張目子媛としたのは、仲哀天皇の後裔である倭彦王の娘と推定される手白香皇女(図10)を母とする欽明天皇を有利にするためと思われます。安閑天皇や宣化天皇の母を尾張目子媛としたのは、仲哀天皇と関係があったと推定される藤原氏(中臣氏)が関係していたのではないかと思われます。
磐井の乱
男大迹王(をほどのおおきみ)が擁立された後、継体天皇は、和珥氏の系統の麻績娘子(麻組郎女)を后に迎えたのではないかと思われます。和珥氏の本拠地が大和から大津方面に移っていたとすると、継体天皇が即位後長く大和に入れなかった理由がわかります。渡来系のヤマト政権は、倭彦王の擁立をあきらめ、継体天皇に妃を送ることで妥協したと思われます。欽明天皇の誕生後は、継体天皇、安閑天皇、宣化天皇が邪魔になり、新羅と関係があったと推定される筑紫国造の筑紫君磐井に反乱(磐井の乱)を起こさせたのではないかと思われます。
