温故知新(21)用明天皇(竹田皇子 池辺皇子 聖徳太子 聖徳王) 推古天皇 植山古墳 崇峻天皇(厩戸皇子 聖徳太子 聖徳法王) 赤坂天王山古墳 山背大兄王(聖徳太子) 西宮古墳 穴穂部皇子(石上皇子) 宅部皇子(倉皇子) 藤ノ木古墳 斉明天皇 穴穂部間人皇女 牽牛子塚古墳 敏達天皇 梅山古墳 橘諸兄 飛鳥寺 四天王寺 チャタル・ヒュユク 七星剣 橘寺 叡福寺 ジェッダ
神武天皇陵 廣田神社 鷲林寺 矢田寺 龍田大社 瀧谷不動尊 小墾田宮跡 スカラ・ブレイ 生石神社 出雲大社 彌彦神社 雨の宮古墳群 元伊勢籠神社 聖ミカエルの山 池坊 六角堂 頂法寺 佐紀神社 聖徳太子磯長墓 山田高塚古墳 春日向山古墳 椿井大塚山古墳 海神神社 神宮神田(矢田宮) 伊弉諾神宮 石龕寺 ローマ 熊野本宮大社 聖ミカエルの山 法隆寺 紫雲山中山寺 白兎神社 都祁山口神社 鶴林寺 備前車塚古墳 浦嶋神社(宇良神社) 浦間茶臼山古墳 元伊勢籠神社 倭文神社 ブリンディジ 神武天皇陵 大津皇子二上山墓 田出井山古墳 長田神社 高取神社 吉備池廃寺 セリヌス 百済寺 メンフィス 難波八阪神社 聖徳太子二王子像 天寿国繡帳
飛鳥寺と神武天皇陵、四天王寺、廣田神社、鷲林寺、チャタル・ヒュユク
飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村)には複数の呼称があり、法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)で、平城遷都とともに奈良市に移った寺は「元興寺」と称し、国の史跡の指定名称は「飛鳥寺跡」です。『日本書紀』によると、飛鳥寺は、用明2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したとされています。
蘇我氏は、『古事記』や『日本書紀』では、武内宿禰を祖としていますが、稲目の父の名が高麗であることなどから、渡来氏族と推定され、稲目の妻が葛城氏の出であることから、その血統に連なったとする説があります。飛鳥寺は、日本ではほかに類例がない高句麗の金剛寺と同じ様式で、三方に中金堂、東金堂、西金堂がある伽藍配置です。『元興寺縁起』には、法師寺を作り百済僧を招いて受戒させるため、用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたとあります。
飛鳥寺とアナトリア地方の新石器時代から金石併用時代の遺跡で、最下層は、紀元前7500年にさかのぼるチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くには、神武天皇陵畝傍山東北陵、四天王寺(大阪市天王寺区)、天照大御神の荒魂を祀る廣田神社(兵庫県西宮市)、空海により開創された鷲林寺(じゅうりんじ)があります(図1)。

四天王寺の創建瓦の中には、奈良県生駒郡斑鳩町にある斑鳩寺(法隆寺)のいわゆる若草伽藍(現存する法隆寺西院伽藍の建立以前に存在した創建法隆寺の伽藍)の出土瓦と同笵の軒丸瓦があり、四天王寺と法隆寺の創建は同じ頃と推定されています。
587年に、蘇我馬子と物部守屋による権力争いの丁未の乱(ていびのらん)が起こっていますが、四天王寺は、蘇我氏に味方した聖徳太子が勝利を祈願して創建されたことになっています。『日本書紀』によれば推古元年(593年)に建立が開始されたとされていますが、四天王寺は推古朝にはすでに存在したことが考古学的に確認されています。
七星剣と八握剣
四天王寺の伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つです。四天王寺には、聖徳太子の佩刀であったと伝えられる国宝の七星剣が所蔵(東京国立博物館に寄託)されています。七星剣は、古い中国の道教思想に基づき、国家鎮護や破邪滅敵を目的にして作られた刀剣の総称で法隆寺にもあります。四天王寺の「七星剣」は、62.4cmの刀身に北斗七星や雲、竜虎などが金象眼で描かれた、わずかに内反りの片刃を持つ直刀です。かつては現存する以上の長さがあったようで、「八握剣」ではないかと思われます。四天王寺は、レイラインから孝霊天皇と関係があると推定されますが、「七星剣」は、須佐之男命(孝霊天皇と推定)が八俣大蛇を退治した天十握剣(十束剣(約75cm))と関係があると思われます。
四天王寺七宮
聖徳太子によって創建された四天王寺七宮(大阪府大阪市天王寺区)には、豊受大神を祀る大江神社や天照大御神を祀る久保神社があります。図1のレイラインから、もしかすると、四天王寺は、聖徳太子(崇神天皇)が神武天皇、孝霊天皇、天照大神、豊受大神を祀った寺だったのかもしれません。
飛鳥寺と矢田寺、龍田大社、瀧谷不動尊、小墾田宮跡、スカラ・ブレイ
飛鳥寺とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くには、藤原宮や矢田寺(奈良県大和郡山市)があり、矢田寺と瀧谷不動尊(明王寺)(大阪府富田林市)を結ぶラインは、図1のラインとほぼ直角に交差します(図2)。瀧谷不動尊と矢田寺を結ぶラインの近くには、崇神天皇の時代の創建と伝わる龍田大社(奈良県生駒郡三郷町)があります(図2)。

図2のチャタル・ヒュユクと飛鳥寺を結ぶラインの近くには、推古天皇と聖徳太子が政治を行った小墾田宮跡と伝わる古宮遺跡や推古天皇 豊浦宮跡があります(図3)。しかし、古宮遺跡と同緯度で、飛鳥寺とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くにある雷丘東方遺跡(図3)から「小治田宮」と墨書された土器が多数出土したことから、こちらが小墾田宮跡と推定されています。

藤ノ木古墳と石上皇子(穴穂部皇子)、倉皇子(宅部皇子)
図書館の調査資料によると、丁未の乱は、用明天皇の薨去後に、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を天皇に立てようとした物部守屋と蘇我馬子が対立したことにより起こり、丹後半島(京丹後市丹後町)にある「間人(たいざ)」の地名の由来は、用明天皇の皇后の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が、「丁未の乱」の難を避けて大浜の里に滞在し、乱が収まって退座されたことによるようです。
穴穂部間人皇女の同母弟に穴穂部皇子がいます。穴穂部皇子は、物部の本拠地である八尾の「穴穂」で養育された可能性が高いといわれ、「穴穂部」の名は、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)で養育されたことに由来すると考えられています。穴穂部間人皇女は、欽明天皇の第三皇女で、母は蘇我稲目の娘とされていますが、丹後に逃れているので、丹波に逃れた顕宗天皇や仁賢天皇と同様に、母は物部氏の系統ではないかと思われます。穴穂部皇子は、物部守屋と結び、蘇我馬子に対抗して誅殺されていることからも、母は物部系と推定されます。
法隆寺西院伽藍の西方約350メートルに位置する藤ノ木古墳は、6世紀第4四半期の築造と推定され、被葬者は穴穂部皇子と第28代宣化天皇(せんかてんのう)の皇子の宅部皇子(やかべのみこ)とする説が有力とされています。欽明天皇と宣化天皇の稚綾姫皇女の間の皇子には、石上皇子(いそのかみおうじ)がいます1)(図4)。このことから、石上皇子は穴穂部皇子と同一人物と思われます。稚綾姫皇女の別名は、倉稚綾姬皇女(日本書紀)、倉之若江王(古事記)なので、倉皇子の母の日影皇女は、稚綾姫皇女と同一人物で、石上皇子と倉皇子は同母の兄弟ではないかと思われます。宅部皇子は『扶桑略記』『本朝皇胤紹運録』等には欽明天皇の皇子とあるので、蘇我馬子の命令によって穴穂部皇子が殺された時に一緒にいた宅部皇子は倉皇子と思われます。二人を殺したのは、的真噛、佐伯丹経手、土師磐村とされていますが、古代豪族の佐伯氏や土師氏が関わったとされているのは創作と思われます。

穴穂部間人皇女や穴穂部皇子(石上皇子と推定)の母親は、蘇我稲目の娘の小姉君(おあねのきみ)ではなく、宣化天皇の皇女の稚綾姫(倉稚綾姫)と推定されます。第32代崇峻天皇は、欽明天皇の第十二皇子で、穴穂部間人皇女や穴穂部皇子の同母兄弟とされています。
崇峻天皇は、592年に蘇我馬子の命令で東漢駒(やまとのあやのこま)に暗殺され、すぐに埋葬されたとされていますが、天皇でありながら、殯(もがり)が行なわれていません。推古天皇即位の前年の592年に暗殺されたのは崇峻天皇ではなく、穴穂部皇子(石上皇子)と宅部皇子(倉皇子)と推定されます。崇峻天皇の母とされる小姉君は、『日本書紀』では蘇我稲目の娘で、姉妹に蘇我堅塩媛がいますが、『古事記』では「岐多志毘賣の命の姨、小兄比賣(堅塩媛の姨(おば)のおあねひめ、あるいはおえひめ)」と記されています。蘇我氏一族の小姉君を馬子の指示で暗殺された崇峻天皇の母とするには疑問があることからも、記紀の系譜は創作と推定されます。
飛鳥寺と生石神社、出雲大社、彌彦神社
『播磨国風土記』印南郡大國里条にある生石神社(おうしこじんじゃ)の「石の宝殿」についての記述に、「聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」と記され、「弓削の大連」は物部守屋とする説があります。生石神社は、飛鳥寺と出雲大社(島根県出雲市)を結ぶラインの近くにあります(図5)。これは、孝元天皇(大国主命と推定)が、物部氏の祖神の宇摩志麻遅命と推定されることと整合します。
出雲大社と天香山命(孝元天皇と推定)を祀る彌彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)を結ぶラインは、飛鳥寺と聖ミカエルの山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、和珥氏の墓と推定される雨の宮古墳群の近くを通ります(図5)。飛鳥寺と聖ミカエルの山を結ぶラインの近くには、丹後一宮 元伊勢 籠神社があります(図5)。このラインは、『元興寺縁起』にある、用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて飛鳥寺を建てるべき土地を検討させたという記述と整合します。

飛鳥寺は588年に蘇我馬子が建立し、用明天皇は587年に崩御したことになっていますが、用明天皇が即位2年後の587年に崩御したというのは史実ではなく、蘇我馬子が飛鳥寺を建立し、聖徳太子(厩戸皇子)が四天王寺を建立したという話に合わせるために蘇我氏が創作したのではないかと思われます。
守屋は敏達元年(572年)に大連に任じられ、用明天皇の代も大連として天皇を補佐しています。706年に彫られたとされる法起寺塔露盤銘に「上宮太子聖徳皇」とあり、千田稔氏によると、養老令の注釈書である『令集解(りょうのしゅうげ)』の古記(738年頃の成立)に死後賜る諡(おくりな)について、「上宮太子を聖徳王と称するの類なり」とあり、「聖徳」は、死後上宮太子に与えられたようです。これらのことから「聖徳王」は、用明天皇と推定されます。
用明天皇(池辺皇子)と池坊
華道の家元池坊家の伝承によれば、四天王寺建立のため京都に赴いた聖徳太子が、中京区に六角堂(現頂法寺)を建立し、同道した小野妹子に太子持仏の如意輪観音を本尊として守るよう命じたといわれています。『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』によると、用明天皇は諱を池辺皇子(いけのべのみこ)といい、「池坊」の由来と関係がありそうです。
頂法寺と橘寺(奈良県高市郡明日香村)を結ぶラインの近くには、経津主命を祀る佐紀神社や、聖徳皇太子御誕生所の石碑があります(図6、7)。このレイラインから、六角堂(現頂法寺)は、用明天皇(聖徳王)が誕生した厩戸皇子のために建てたものかもしれません。


用明天皇(橘豊日皇子、竹田皇子、葛城王)、植山古墳
景行天皇の后は、大橘比売命(橘皇后)なので、孝元天皇の曾孫で、崇神天皇の孫の八坂入媛命が大橘比売命と推定されます。宣化天皇の后は、橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)で、仁賢天皇の皇女です。用明元年(585年)に第30代敏達天皇が崩御し、橘豊日皇子(用明天皇)が即位しています。橘氏は、飛鳥時代末期に県犬養三千代(橘三千代)・葛城王(橘諸兄)を祖として興った皇別氏族とされ、敏達天皇の後裔とされています。用明天皇は橘豊日皇子なので、欽明天皇と蘇我稲目の娘の堅塩媛の皇子ではなく、実際は敏達天皇の皇子と推定されます。『古事記』に記された敏達天皇と推古天皇の子の葛城王(かずらきのみこ)は、『古事記』にのみ記載され、『日本書紀』には記載がありませんが、用明天皇のことと思われます。
敏達天皇と推古天皇の子である竹田皇子(たけだのみこ)の名前は葛城地方の地名に由来し、早くから皇位継承の有力候補と目されていましたが、泊瀬部皇子(崇峻天皇)の即位後は、竹田皇子は史料から登場しなくなるので、この頃に薨去したと考えられています。用明天皇は、585年の即位後、わずか2年で崩御したとされ、中臣勝海は用明天皇2年(587年)に竹田皇子の像を作り呪詛したとされています。竹田皇子の墓は『日本書紀』に推古天皇が竹田皇子の墓に合葬するように遺詔したことから、宮内庁により推古天皇陵として治定されている山田高塚古墳(磯長山田陵)(大阪府南河内郡太子町山田)とされています。近年の発掘調査により、橿原市五条野町にある植山古墳が、山田高塚古墳へ改葬される前の、推古天皇とその子息竹田皇子の合葬墓であった古墳ではないかといわれています。
敏達天皇と梅山古墳
奈良県高市郡明日香村平田にある梅山古墳は、宮内庁により「檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)」として欽明天皇の陵に治定されています。梅山古墳は、高橋輝彦氏は敏達天皇陵と推定し、白石氏は蘇我稲目の墓と推定しています2)。梅山古墳は橘寺の方向を向いていますが、橘寺、梅山古墳、植山古墳を結ぶ三角形のラインを引くと、梅山古墳と植山古墳と結ぶラインは、橘寺とジェッダを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図8)。後者のラインは、聖徳太子ゆかりの叡福寺(大阪府南河内郡太子町)の近くを通ります(図9)。は、推古天皇と竹田皇子(敏達天皇の皇子、用明天皇と推定)の合葬墓と推定されていることから2)、梅山古墳は、敏達天皇の陵墓と推定されます。橘寺のある場所は、もともと欽明天皇の別宮があった場所なので、梅山古墳が橘寺の方向を向いていることが理解できます。


宮内庁により推古天皇・竹田皇子の合葬陵墓に治定されている山田高塚古墳(磯長山田陵)とパレルモを結ぶラインと、チャタル・ヒュユクと春日向山古墳(用明天皇河内磯長原陵)を結ぶラインの交点近くに聖徳太子磯長墓(叡福寺北古墳)があります(図10)。聖徳太子磯長墓(叡福寺北古墳)は、考古学的にも厩戸皇子の墓の可能性が高い古墳として知られています。『日本書紀』では、用明天皇は、はじめ「磐余池上陵」に葬られたとされています。用明天皇(竹田皇子と推定)は植山古墳(合葬陵墓)から春日向山古墳に改葬されたのかもしれません。そうすると、植山古墳が「磐余池上陵」と思われます。

橘寺と崇神天皇(救世観音)
橘寺は、四天王寺式伽藍配置をとり、本尊が聖徳太子で、観音堂には、如意輪観音を本尊として祀っています。橘寺の如意輪観音は「救世菩薩」とも呼ばれます。顕真の「聖徳太子伝私記」では「橘寺は法隆寺の根本の末寺なり」とあり、「南都七大寺巡礼記」(平安中期)には、橘寺は聖徳太子の菩提寺として金堂には救世観音が納められていたとのことです。本尊の聖徳太子は、崇神天皇(豊耳命)と推定されます。『古事記』には、垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」と呼ばれる不老不死の力を持った霊薬を持ち帰らせたという話が記され、非時香菓を「是今橘也」(これ今の橘なり)と記し、橘寺の由来にもなっています。橘寺の付近には聖徳太子が誕生したといわれる場所がありますが、この「聖徳太子」は、用明天皇の皇子の厩戸皇子と推定されます。
橘寺の真北には、崇神天皇の異母兄で、日向三代の鸕鶿草葺不合尊(開花天皇)の陵墓と推定される椿井大塚山古墳があり、醍醐寺(京都市伏見区)と橘寺を結ぶラインの近くに三室戸寺(京都府宇治市)、椿井大塚山古墳があります(図11)。

橘寺(北緯34度28分12秒)は、対馬国一宮 海神神社(北緯34度27分51秒)、伊弉諾神宮(北緯34度27分36秒)、矢田宮(神宮神田 北緯34度28分)とほぼ同緯度にあることから(図12)、上宮王家と須佐之男命や天太玉命や饒速日命(瓊瓊杵尊)やとの血縁関係を示していると推定されます。

四天王寺と石龕寺、熊野本宮大社
四天王寺とローマを結ぶラインの近くに、兵庫県丹波市山南町岩屋にある高野山真言宗の石龕寺(せきがんじ 山号は岩屋山)があります(図13)。寺伝によると、用明2年(587年)に聖徳太子が蘇我馬子と共に物部守屋と戦った後、毘沙門天を祀ったことに始まるとされ、南北朝時代、足利尊氏が京都から播磨国に逃れる際に留まった寺です。石龕寺の鎮守として弁才天が祀られていましたが、明治時代の神仏分離により市杵島比売命(丹生都比売命と推定)を祀ることとなりました。石龕寺の修験者達は、熊野先達として熊野本宮に向かったようです。聖ミカエルの山と熊野本宮大社(和歌山県田辺市)を結ぶラインの近くに石龕寺があります(図13)。

天寿国繡帳と孝元天皇
日本最古の刺繍遺品として知られる天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、尾張皇子(敏達天皇の皇子・母は第33代推古天皇)の娘の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、聖徳太子を偲んで、祖母に当たる推古天皇に願い作らせたとされています3)。天寿国繡帳を見ると、亀形や中に兎がみえる月など、尾張(吉備)の孝元天皇(珍彦命の亀、菟道彦の兎)と関連があるように思われます。法隆寺とチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くには、聖徳太子の創建によると伝えられる紫雲山中山寺(兵庫県宝塚市)や、白兎神社(はくとじんじゃ)があります(図14)。白兎神社は、白兎神を主神としていますが、大国主命(菟道彦)を祀っていると推定されます。

尾張皇子は、『上宮聖徳法王帝説』においても、聖徳太子の妃の1人である位奈部橘王(いなべのたちばなのみこ 橘大郎女)の父親として登場しています。『天寿国繡帳』の銘文(飯田瑞穂が考証・校訂を加えたもの)には、「尾治大王之女名多至波奈大女郎」の記載があり、「尾張大王の女、名は多至波奈大女郎(たちばなのおおいらつめ)」と解釈されています4)。また、天寿国繡帳左上の亀形に「部間人公」の4字が確認でき、これは人名「孔部間人公主」の一部で、橘豊日皇子(用明天皇)の后の穴穂部間人皇女のことだと考えられています(図15)。

崇峻天皇(厩戸皇子)と山背大兄王
図15の「崇峻天皇」に当たるのは、穴穂部間人皇女の兄弟の穴穂部皇子(石上皇子(図4)と推定)と考えられます。『日本書紀』によると、崇峻天皇の妃の大伴小手子は、天皇の寵愛が衰えたことを恨んで、蘇我馬子に密告したとされ、『先代旧事本紀』によれば、寵愛を受けたのは夫人の物部布都姫とされているようです。崇峻天皇の女御(にょうご)の河上娘(かわかみのいらつめ)は、蘇我馬子の娘とされ、東漢駒が崇峻天皇を殺した後に駒が河上娘を奪ったので、駒は馬子に殺されたといわれています。河上娘は、馬子の娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)と同一人物とされることもあります。そうであれば『上宮聖徳法王帝説』7)より、山背大兄王(やましろのおおえのおう)の母は刀自古郎女とされるので(図15)、山背大兄王は崇峻天皇の子で、崇峻天皇が厩戸皇子(聖徳太子)と推定されます。崇峻天皇は、蘇我氏への抵抗もあって、物部守屋の妹である物部布都姫を寵愛の対象としたと考えられていて、崇峻天皇(厩戸皇子と推定)は、馬子の娘の河上娘(刀自古郎女)との結婚を拒否したため殺されたのかもしれません。山背大兄王も蘇我氏に殺されていることから、山背大兄王の母は、蘇我馬子の娘の刀自古郎女ではなく、物部布都姫(太媛)だったのではないかと思われます。
竹田皇子が用明天皇で、厩戸皇子を崇峻天皇として、上宮王家の系図(図15)を見ると、第29代欽明天皇から山背大兄王まで、父子関係だったと推定されます(図16)。

用明天皇の生年は不詳とされていますが、聖徳太子の誕生は敏達3年(574年)とされています。用明元年は585年なので、用明天皇(竹田皇子)が聖徳太子だったとすると11歳で即位したと考えられます。『聖徳太子伝暦』には、太子が11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されています。
『日本書紀』によると聖徳太子(厩戸皇子)は、推古9年(601年)に斑鳩宮(いかるがのみや)を造って、以後そこを居所としたとされます。法隆寺金堂の「東の間」に安置される薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ大王天皇(推古天皇)と東宮聖王(聖徳太子)があらためて推古15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述があります2)。用明天皇が607年に崩御したとすると享年は33歳と推定されます。用明天皇の享年は様々ですが、最も若い『水鏡』で36歳とされています。
推古天皇は、崇峻天皇が馬子の命令で暗殺された後、崇峻5年(593年)に即位し、在位期間は628年までの36年(『古事記』では37年)となっていますが、622年に聖徳太子(崇峻天皇)が亡くなったとすると、在位期間は実際には6年程度だったと推定されます。複数の男子の皇位継承者がいる中で推古天皇が即位することになったのは、生母が蘇我氏出身だったためと考えられています。法隆寺金堂の中央に安置される釈迦三尊像には「推古29年(621年)に前大后(穴穂部間人王)が亡くなり、推古30年(622年)に、王后が亡くなり、翌日、上宮法皇(聖徳太子)も亡くなったとあり、像は623年に司馬鞍作止利に造らせた」という内容の光背銘があります。大山氏は、聖徳太子の妻の「王后」の「后」は、即位した大王の妻のことで、誤りとしていますが3)、崇峻天皇の「后」で正しいと考えられます。法隆寺には、聖徳太子が16歳の折、父用明天皇の病気平癒を祈り、病床で看病した際の様子が描かれたとされる鎌倉時代の聖徳太子像(孝養像)が遺されています(写真1)。

用明天皇が亡くなった年が607年で、その時、厩戸皇子が16歳だったとすると、崇峻天皇(厩戸皇子)が生まれたのは591年と推定され、31歳頃に亡くなったと推定されます(表1)。崇峻天皇の諱は『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とあり、若くして亡くなったことを表していると思われます。
第30代 敏達天皇(538年?~585年)
第33代 推古天皇(554年~628年)
第31代 用明天皇(竹田皇子 聖徳太子)(574年~607年頃)(推定)
第32代 崇峻天皇(厩戸皇子 聖徳太子)(591年頃~622年)(推定)
厩戸皇子と斑鳩の宮、若草伽藍
斑鳩宮(いかるがのみや)は、厩戸皇子が現在の奈良県生駒郡斑鳩町に営んだ宮殿で、『日本書紀』によると、推古天皇9年(601年)に斑鳩宮を造営し、推古天皇13年(605年)に移り住んだとされます。厩戸皇子が591年に橘寺で生まれたとすると、斑鳩宮に移り住んだのは14歳と推定され、斑鳩宮を造ったのは用明天皇と推定されます。斑鳩宮には、厩戸皇子の薨去後は、山背大兄王一族が住んでいたことから、竹田皇子(用明天皇)、厩戸皇子(崇峻天皇)、山背大兄王は、崇神天皇から続く上宮王家だったと考えられます。崇峻天皇(厩戸皇子と推定)の「崇」と「厩戸」は、崇神天皇(みまきのすめらみこと)と関連付けていると推定されます。『聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、聖徳太子(用明天皇と推定)は推古6年(598年)に諸国から良馬を貢上させ、舎人の調使麿に命じて飼養したとされるので、厩戸皇子(崇峻天皇と推定)の名前は、少年時代に住んだ橘寺(用明天皇の別宮と推定)の近くに馬小屋が多数あったことに由来すると推定されます。
法隆寺(斑鳩寺)に遺跡が残る若草伽藍(わかくさがらん)は、発掘調査によって、斑鳩宮と同時期に造られたと考えられ、日本では最も古い建築様式の四天王寺式伽藍配置だったことがわかり、若草伽藍が創建時の法隆寺である可能性が高いとされています。若草伽藍は、崇峻天皇(東宮聖王 厩戸皇子と推定)と豊御食炊屋比売命(推古天皇)が、607年頃に亡くなったと推定される用明天皇の冥福を祈って建立したと推定されます。
法隆寺と橘諸兄
『日本書紀』には天智9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事があります。養老2年(718年)には、県犬養橘三千代(橘夫人)が西円堂を建立したとする伝承があります。第45代聖武天皇の皇后である光明皇后(こうみょうこうごう 701年-760年)は、藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、仏教に篤く帰依し、多くの寺院の創建や整備に関わり、また、救貧施設の「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善などを行っています。『法隆寺資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しています。県犬養三千代は、はじめ敏達天皇系の美努王(みぬおう/みのおう)に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)を生んでいますが、橘諸兄は、和銅4年(711年)に馬寮監に任ぜられています。天平10年(738年)には正三位・右大臣に任ぜられているので、法隆寺の再建は、主に橘諸兄によって行われたのではないかと思われます。
厩戸皇子(崇峻天皇)と磯長陵、赤坂天王山古墳
聖徳太子は、推古30年(622年)に妃の膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)と共に病となり、1日違いで死去し、叡福寺北古墳(磯長陵(しながりょう))に葬られたとされています。磯長陵は、聖徳太子、太子の母・穴穂部間人皇女、太子の妃・膳部菩岐々美郎女が埋葬されているとする説があり、「三骨一廟」と呼ばれています。磯長(しなが)は蘇我氏ゆかりの地で、推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされています。『上宮聖徳法王帝説』4)によると、山代大兄(山背大兄王)は、厩戸豊聰耳聖徳法王が菩岐々美郎女を娶って生まれた異母兄弟の舂米女王(つきしねのひめみこ)を妻としています(図15)。したがって、磯長陵に一旦葬られた聖徳太子(聖徳法王)は、厩戸皇子(崇峻天皇)と推定されます。厩戸皇子が「法王大王」などの称号をもっているので、厩戸皇子を後の天皇だとみる学説もあるようです6)。
『日本書紀』に、崇峻天皇は暗殺された後に倉橋の地に葬られたと記されており、陵墓は、6世紀末から7世紀初頭に築造された赤坂天王山古墳とする説が有力とされています。赤坂天王山古墳は、岡山県倉敷市にある由加神社本宮と同緯度(北緯34度30分)にあり、赤坂天王山古墳とパレルモを結ぶライン上には法隆寺があります(図17)。赤坂天王山古墳とパレルモを結ぶラインは、橘寺と都祁山口神社(奈良市都祁小山戸町)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図17)。これらのラインは、赤坂天王山古墳が崇峻天皇の陵墓で、崇峻天皇が厩戸皇子(聖徳太子)と推定されることと整合します。

崇峻天皇(厩戸皇子)と三経義疏
611年から615年に『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)を著し、620年に『国記』『天皇記』を編纂したのは崇峻天皇(厩戸皇子)と推定されます(表1)。『三経義疏』は、中国の学僧の注釈を基礎に独自の解釈を加えたもので、大乗菩薩行の実践の精神に貫かれ、日本仏教の原点的意義をもつ(百科事典マイペディア)とされています。
山背大兄王(聖徳太子)
『日本書紀』皇極紀によると、山背大兄王の家臣であった三輪文屋君は、入鹿の軍勢に襲われ斑鳩宮から生駒山に逃亡した際に、山背大兄王に、東国の「乳部(壬生部)」のもとで再起を期し、入鹿を討ってはどうかと進言していますが、山背大兄王は、戦闘を望まず「吾が一つの身をば入鹿に賜わん」と言って自害しています。これは、法隆寺にある玉虫厨子の「捨身飼虎図」を連想させます。
蘇我氏と同じく武内宿禰を祖とする巨勢氏の巨勢徳太は、皇極天皇2年(643年)に蘇我入鹿の命により斑鳩宮の山背大兄王を襲い一族を自害させているので、蘇我氏と同様に渡来系氏族と思われます。
崇峻天皇が、20歳の時に山背大兄王が生まれたとすると611年頃と推定され、上宮王家(山背大兄王)が滅亡した643年には、山背大兄王は32歳頃で、王子は12歳頃だったと推定されます。
西宮古墳と山背大兄王
山背大兄王の墓所の候補とされている生駒郡平群町の西宮古墳は、楯築遺跡(大日孁貴の墓と推定)や金蔵山古墳(垂仁天皇の陵墓と推定)とほぼ同緯度にあります(図18)。西宮古墳とチャタル・ヒュユクを結ぶラインは、大樹寺(鳥取県八頭郡八頭町)や白兎神社の近くを通り、ジェッダと西宮古墳を結ぶラインは、出雲大社や中山神社の近くを通り、楯築遺跡と白兎神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図18)。

聖徳太子によって創建された四天王寺七宮には、崇峻天皇(厩戸皇子と推定)を祀っている堀越神社があります。この神社は、聖徳太子とされた山背大兄王が創建したのかもしれません。西宮古墳とラス・ダシャン山を結ぶラインは堀越神社や兵庫県加古川市の鶴林寺の近くを通ります(図19)。このラインから、西宮古墳は山背大兄王の墓と推定されます。

聖徳太子と鶴林寺
「聖徳太子及び二王子像」(「唐本御影」とうほん みえい)と同様に、二王子と共に描かれた聖徳太子像は、鶴林寺にもあります(写真2)。

加古川市内には、法隆寺と同じ伽藍配置を持つ、西条廃寺、石守廃寺、中西廃寺などの寺院があったようです。鶴林寺の前身は、四天王寺聖霊院といわれ、聖徳太子が14歳の時(587年)に、馬子が守屋を滅ぼした後、四天王寺を建立しましたが、2年後に、景行天皇所縁の賀古の郡においても三間四面の精舎を建て、釈迦三尊と四天王を祀ったのがはじまりとされています。
鶴林寺と備前車塚古墳(孝元天皇の陵墓と推定)を結ぶラインは、浦間茶臼山古墳(崇神天皇の陵墓と推定)の近くを通ります(図20)。また、鶴林寺と、瀧原宮、出雲大神宮、豊受大神社(元伊勢外宮)とレイラインでつながっているブリンディジを結ぶラインの近くには、建葉槌命(卑弥呼と推定)を祀る伯耆一ノ宮 倭文神社があります(図20)。このラインは、備前車塚古墳と浦嶋神社(宇良神社)(京都府与謝郡伊根町)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図20)。また、浦嶋神社と鶴林寺を結ぶラインの近くには、元伊勢 籠神社があります(図20)。

神武天皇陵とジェッダを結ぶラインと大津皇子二上山墓(奈良県葛城市)、田出井山古墳(反正天皇 百舌鳥耳原北陵)(大阪府堺市)、事代主神を祀る長田神社(神戸市)、高取神社(神戸市)、鶴林寺があります(図21)。

鶴林寺の鎌倉時代に描かれている聖徳太子像にある「天部」は仏法の守護神で、「天部」が四天王のうちの広目天と多聞天(毘沙門天)とすると崇神天皇(豊耳命)を表しているのかもしれません。鶴林寺には、聖徳太子坐像及び二王子立像もあり、二王子は山背大兄王と、弟の殖栗王とされていますが、「聖徳太子と二王子」は、山背大兄王と王子の尾治王ら(図15)を描いたものかもしれません。鶴林寺の山門前には安産子育地蔵尊が祀られ、播磨のこの地域は、8月23日に地蔵盆をするそうです。地蔵には、特に幼くして亡くなった子供の魂を救済する役割があるので、山背大兄王(聖徳太子)の王子らを祀ったのが始まりかもしれません。
秦氏と聖徳太子二王子像
紙幣の肖像の原画となった「聖徳太子二王子像」は、 「 唐本御影 」「 阿佐太子御影」という、2つの異名があり、笏(しゃく)を持ち帯刀して立つ太子が描かれています。眉などの描き方から、8世紀半ばの奈良時代に描かれたというのが通説になっています。「阿佐太子」は 百済の王族の画家で、日本に仏教を伝えた聖明王(武寧王の子)の子孫で、『日本書紀』には推古5年(597年)に来日したという記録があります。厩戸皇子(崇峻天皇)が591年に生まれたとすると、年代的には合いません。「阿佐太子御影」の異名の由来は、当時朝廷の最高実力者だった関白・九条道家(1193-1252)の兄の慶政が伝えた話によるもので、九条道家は、藤原北家、関白・藤原忠通(1097-1164)の曾孫です。「 唐本御影 」は、鶴林寺の「聖徳太子孝養像及び二王子・二天像」を見た渡来人が唐人風に描き直したものかもしれません。「聖徳太子二王子像」は、秦氏の「魔多羅神とニ童子」の絵と似ているというブログがあります。秦河勝と深い関係のある京都太秦・広隆寺境内の大酒神社には、仮面と装束を着けた摩多羅神が牛に跨がって赤鬼・青鬼とともに練り歩き、災厄退散の祭文を読み上げるという牛祭があります。
秦氏と弥勒菩薩半跏思惟像
京都市右京区太秦にある広隆寺は、秦氏の氏寺で聖徳太子を本尊とし、国宝の弥勒菩薩半跏思惟像があります。弥勒信仰は、56億7千万年後に、いわばキリストに当たる弥勒仏がこの世に出現してきて、悩める衆生を救うという教えです7)。広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、韓国国立中央博物館にある新羅領内慶尚北道奉化郡で発見された金銅弥勒菩薩半跏思惟像と類似していることが知られています。弥勒菩薩半跏思惟像は、早くには敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)の北魏の塑造があります。広隆寺の弥勒菩薩半跏像の右手の形は、景教徒がよく使ったシンボルで、敦煌の大主教を描いた壁画にも見られ8)、キリスト像の右手の形と似ているともいわれています(出典:京都最古の寺・広隆寺ー古代キリスト教寺院説の謎 中村 昂)。佐伯好郎氏は、弓月国から敦煌を経て、朝鮮半島を経由して日本に来たとしています9)。
法隆寺の 四騎獅子狩文錦や救世観音像などには、紀元後226年に登場したササン朝ペルシャの影響が見られるといわれています。ササン朝はネストリウス派キリスト教の信仰に寛容で、北インドのクシャーナ朝が衰退すると、ササン朝と中国(魏晋南北朝時代)が国境を接するようになり、ネストリウス派キリスト教も中国に伝えられ、後に景教と言われるようになりました。須佐之男命の高天原追放の話は、『新約聖書』のヨハネの黙示録12章7節~12節の内容と似ているといわれます。また、髭と爪を切ったうえで追放されたのは、魔力を封じる呪術で、『旧約聖書』の士師記13章〜16章に登場するサムソンの神話と全く同じ性質のものであるといわれています10)。松村武雄氏は『日本神話の研究』の中で、『古事記』のタケミカヅチとタケミナカタが力比べの際に手を握り合う話は、ペルシャの伝承にみられると指摘しています11)。また、『古事記』のニニギノミコトが、地上のコノハナサクヤヒメを妻としたことで、その子孫の寿命が縮まったという話は、『旧約聖書(タナフ)』に同様な話があるといわれています12)。
用明天皇と十七条の憲法
600年の遣隋使の派遣、603年の冠位十二階の制定、604年の十七条の憲法の制定は、用明天皇の時代だったと考えられます。『先代旧事本紀』によると、十七条の憲法にある「篤く三法を敬え」の「三法」とは、『日本書紀』にある「仏・法・僧」ではなく、「儒・仏・神」となっているようです6)。唐から帰国した僧・道慈(どうじ)が、『日本書紀』の仏教関係記事の述作に関わり、聖徳太子関係記事に関わったとされています13)。聖徳太子(用明天皇)は、宗教の形式にはこだわっていなかったと思われます。冠位十二階や十七条の憲法を最初に制定したのは、用明天皇(聖徳王)と推定されます。
用明天皇と多利思比孤
天足彦国押人命(天押帯日子命)を氏祖とする小野妹子は、『日本書紀』によれば607年(推古15年)大唐(当時の隋)に派遣され、608年に隋の使臣裴世清を伴って帰国しましたが、隋の皇帝煬帝からの返書を百済において紛失したと報告しています。野田利郎氏によると、『隋書』と『北史』で「倭」ではなく、「俀」を使用したのは、隋の王朝が「倭国の多利思比孤」を不正に継承された王と考えたことによる可能性があるとしています。「俀」は「弱い」という意味で、「倭国」を貶めて使用したとも考えられています。『隋書』には、「姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)」とあり、吉村武彦氏は、「阿毎多利思比孤」は天足彦(あめたりしひこ)のことで、天子(天児)の和語としています7)。『新唐書』によると用明天皇の別名が「目多利思比孤」とされ、600年と607年に遣隋使を送ったとされるので、用明天皇の没年が587年ではなく、表1にあるように607年頃とすると整合します。下記のように、アメタリシヒコは聖徳太子という説がありますが、用明天皇が聖徳太子の一人とすると整合します。
遣隋使の派遣は、推古朝の時代とされていますが、『隋書』倭国伝には、「王妻号難弥(王の妻は難弥と号した)」とあり4)、遣隋使を派遣した倭王は男性としてとらえられています。これについて、吉村武彦氏は、単なる誤りとは考えられないとしています6)。難弥は、用明天皇の后の穴穂部間人皇女と思われます。
舒明天皇と吉備池廃寺
敏達天皇の皇子の押坂彦人大兄皇子の母は息長真手王の娘・広姫で、子は、第34代舒明天皇(じょめいてんのう)と茅渟王(ちぬのおおきみ)です。茅渟王は、皇極天皇・孝徳天皇を儲けています。奈良県桜井市大字吉備にある吉備池廃寺は、舒明天皇が発願した我が国初の勅願寺・百済大寺(639年発願、673年移築)であることがほぼ明らかになっています。吉備池廃寺は、法隆寺と同じ日本独自の伽藍配置を持ち、東に金堂、西に塔という配置になっています。金堂は、一辺が法隆寺の約1.5倍で塔は九重もあったといわれています。
吉備池廃寺跡(敏達天皇百済大井宮跡・舒明天皇百済宮跡推定地)と古代都市セリヌス(Selinus Ancient City)を結ぶラインの近くには、北葛城郡広陵町大字百済にある百済寺があります(図22)。『日本書紀』には、舒明天皇が「今年、大宮及び大寺を造作(つく)らしむ」と命じた旨の記事があるので、百済寺付近には大宮があったのかもしれません。

吉備池廃寺の付近は、古代ヤマト王権の根拠地として、履中天皇の磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)、清寧天皇の磐余甕栗宮(御逗子神社)、継体天皇の磐余玉穂宮、神功皇后の磐余若桜宮、用明天皇の磐余池辺雙槻宮などの諸宮があったと伝えられています。用明天皇磐余池辺雙槻宮跡伝承地とメンフィス博物館を結ぶラインの近くには、百済寺や四天王寺があり(図23、24)、メンフィス博物館と吉備池廃寺跡を結ぶラインの近くには、伯耆稲荷神社(鳥取県東伯郡琴浦町)、土師神社(鳥取県八頭郡智頭町)、西宮神社(兵庫県西宮市)、難波八阪神社(大阪市浪速区)があります(図21、22)。


斉明天皇と天寿国繡帳、薬師如来坐像
第35代皇極天皇が重祚した第37代斉明天皇(在位:655年- 661年)は、茅渟王の第一王女で、母は吉備姫王、敏達天皇の皇曾孫にあたります。また、舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母です。現存する天寿国繡帳の古い部分は聖徳太子(622年没)の没後まもない頃の制作とみなすのが通説となっていますが、推古天皇の呼称が和風の諡号であることから、628年以降のものであるとする説があり、また、描かれた人物の服装から684年以前とする説もあります。天寿国繡帳には。亀が刺繍されていますが、亀は長寿のシンボルでもあり道教の神仙思想につながります。斉明天皇は道教を好み、多武峰(とうのみね)に道教の「道観(どうかん)」を建て、「両槻宮(ふたつきのみや)」とし、この宮を天帝の宮殿である「天宮(あまつみや)」とも呼びました(斉明天皇と道教)。天寿国繡帳は、斉明天皇が作ったのではないかと思われます。
道教では最高神を「天皇大帝」と称し、これがもとになって「天皇」という称号が生まれました(斉明天皇と道教)。天寿国繡帳の銘文には天皇号がありますが、法隆寺の薬師如来坐像の光背銘にも「天皇」の記載があります。日本における天皇号は、持統朝(在位・690年 - 697年)が天武朝(在位・673年 - 686年)に対して使用したのが最初とされ、飛鳥浄御原令が編纂された持統3年(689年)以後の成立と考えられています。しかし、斉明天皇と道教とのつながりが深かったことを考えて、天皇号は斉明朝から使われていたのではないかとも推測されています(斉明天皇と道教)。薬師如来坐像の光背銘を刻ませたのも、斉明天皇と思われます。
斉明天皇と牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、斉明天皇とその娘間人皇女の合葬陵である可能性が高いとされています。牽牛子塚古墳とパレルモを結ぶラインの近くには、大阪城、紫雲山中山寺(図14)や石龕寺(図13)があります(図25)。

橘寺と聖ミカエルの山を結ぶラインは、法隆寺の近くを通り、牽牛子塚古墳と赤坂天王山古墳を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図26)。このラインは、崇峻天皇(厩戸皇子と推定)と斉明天皇や間人皇女との関係を示していると推定されます。

文献
1)篠川 賢 2022 「物部氏 古代氏族の起源と盛衰」 吉川弘文館
2)白石太一郎 2018 「古墳の被葬者を推理する」 中央公論新社
3)大山誠一 1999 「〈聖徳太子〉の誕生」 吉川弘文館
4)東野治之 校注 2013 「上宮聖徳法王帝説」 岩波文庫
5)敗者の歴史研究会(編) 2020 「敗者の日本史」 宝島社新書
6)吉村武彦 2019 「新版 古代天皇の誕生」 角川ソフィア文庫
7)宮田 登 2023 「弥勒」 講談社学術文庫
8)ケン・ジョセフ Sr.&Jr. 2024 「隠された十字架の国・日本」 徳間書店
9)坂東 誠 2016 「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」 PHP文庫
10)戸矢 学 2020 「スサノヲの正体」 河出書房新社
11)三浦佑之 2016 「古事記・再発見 神話に隠された神々の痕跡」 株式会社KADOKAWA
12)坂東 誠 2016 「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」 PHP文庫
13)大山誠一(編) 2003 「聖徳太子の真実」 平凡社
