見出し画像

温故知新(24)建御名方神 沼河比売 三峯神社奥宮 生島足島神社 チャタル・ヒュユク 南宮大社 多祁御奈刀弥神社 おのころ島神社 幣立神宮 オリンポス山

権現岩 チャタル・ヒュユク 霧島神宮 上野原遺跡 藻岩山 大山祇神社 高野山奥の院 多祁御奈刀弥神社 南宮大社 小野神社 大宮諏訪神社 三熊野神社 クサール・ヌアイラ 皇大神宮(伊勢神宮 内宮) 丹生川上神社 高爪神社 セリヌス 矢彦神社 宇志比古神社 オリンポス山 大麻山神社 玉比咩神社 出雲大社 岩井戸神社 幣立神宮 三瀧神社 青谷上寺地遺跡 西寒多神社 綿津見神社 那岐神社 住吉神社 御釜神社 ギョベクリ・テペ デルポイ 線文字B 神代文字

建御名方命と沼河比売
 霧島神宮(鹿児島県霧島市)の近くには、約10,600年前(縄文時代早期前葉)の大集落で、約7,300年前の鬼界カルデラの噴火で滅亡したといわれる上野原遺跡があります。上野原遺跡とアイヌの聖地だった札幌市郊外にある藻岩山を結ぶラインは、中央付近で、三峯神社 奧宮とチャタル・ヒュユクを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1、2)。三峯神社 奧宮とチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くには、生島足島神社や神津島とレイラインでつながっている権現岩(トトロ岩)があります(図1、2)。三峯神社 奧宮と上野原遺跡を結ぶラインの近くには高野山 奥之院(和歌山県伊都郡高野町)があり、上野原遺跡と藻岩山を結ぶラインの近くには大山祇神社(愛媛県今治市)があり、藻岩山と三峯神社 奧宮を結ぶラインの近くには、鳥海山や御神楽岳があります(図2)。

図1 三峯神社 奧宮と上野原遺跡を結ぶラインと高野山 奥の院、上野原遺と藻岩山を結ぶライン、藻岩山と三峯神社 奧宮を結ぶラインと鳥海山、御神楽岳、三峯神社 奧宮とチャタル・ヒュユクを結ぶラインと権現岩(トトロ岩)
図2 図1のラインと大山祇神社、生島足島神社

 徳島県名西郡石井町にある建御名方命と八坂刀売命を祀る多祁御奈刀弥神社には「元諏訪」伝承があり、社伝によると『古事記』に書かれている「州羽」は当社の事を指し、長野県にある諏訪大社はこの神社から779年に移遷されたものであるといわれています。長野県上田市にある延喜式内名神大社 生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)の社伝によると、建御名方富命が諏訪へ向かっていた時、この地に留まり、生島・足島両神に米粥を煮て献じたとされます。生島足島神社の境内には日本中央と書かれた石碑が立っていて、御朱印には大八洲真中と書かれています。多祁御奈刀弥神社と生島足島神社を結ぶラインは、美濃国一之宮 南宮大社(岐阜県不破郡垂井町)の近くを通ります(図3)。建御名方神(諏訪明神)の尊称の中に「南宮大明神」というのがあり、名前の由来は、諏訪社が南宮大社と関係があったためともいわれています。塩尻市の信濃国二之宮 小野神社(図3)にも建御名方神が諏訪に入る前に一時滞留したという伝承が語られ、北安曇郡小谷村にある大宮諏訪神社(図3)も、建御名方神の信濃入りの際の神跡と伝えられています。

図3 多祁御奈刀弥神社と生島足島神社を結ぶラインと南宮大社、小野神社、大宮諏訪神社

 三熊野神社(静岡県掛川市)と、建御名方命と八坂刀売命を祀る多祁御奈刀弥神社(徳島県名西郡石井町)を結ぶラインは、皇大神宮(伊勢神宮 内宮)(三重県伊勢市)や丹生川上神社下社(奈良県吉野郡下市町)の近くを通ります(図4)。図3の南宮大社の近くを通る多祁御奈刀弥神社と生島足島神社を結ぶラインは、三熊野神社とクサール・ヌアイラを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。三熊野神社がこのレイラインの指標となっているのは、境内に建御名方神を祀る諏訪神社があるためと推定されます。

図4 三社権現 三熊野神社、多祁御奈刀弥神社、生島足島神社を結ぶ三角形のラインと皇大神宮(伊勢神宮 内宮)、丹生川上神社下社、南宮大社、三社権現 三熊野神社とクサール・ヌアイラを結ぶライン

建御名方命と孝元天皇
 信濃国二之宮 小野神社(長野県塩尻市北小野)と同じ社叢にある信濃国二之宮 矢彦神社(長野県上伊那郡辰野町)は、大己貴命(大国主命、孝元天皇倭建命と推定)が、事代主命や建御名方命を従えて国造りをしていた時、御在所を小野の里の彌比古澤(やひこざわ)の須賀の地に定めたのが始まりといわれています。

 生島足島神社と矢彦神社を結ぶラインは、三峯神社 奧宮と古代都市セリヌス(Selinus Ancient City)を結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは日本武尊を祀る高爪神社(石川県羽咋郡志賀町)の近くを通ります(図5)。

図5 三峯神社 奧宮、生島足島神社、矢彦神社を結ぶ三角形のライン、三峯神社 奧宮とセリヌス(Selinus Ancient City)を結ぶラインと高爪神社

 おのころ島神社と多祁御奈刀弥神社を結ぶラインの近くに、孝元天皇を祀っていると推定される宇志比古神社(鳴門市大麻町)があります(図6)。これは、建御名方命と孝元天皇との関係を示していると推定されます。

図6 おのころ島神社と多祁御奈刀弥神社を結ぶラインと宇志比古神社

科野国造と金刺舎人
 6世紀に欽明天皇に仕え、科野国造の後裔で多氏と同族の金刺舎人氏は、信濃や駿河の馬の生産を掌握していましたが、ヤマト王権は、騎馬兵力を構成しうる地域の首長を舎人として体制内に編成したと考えられています。『古事記』では葦原中国平定(国譲り)の場面で記述されているタケミナカタとタケミカヅチが相撲をとったという話は、諏訪の金刺舎人氏が、8世紀の『日本書紀』の編さんに関わった藤原氏を中心とする中央政権と対立していたことを表しているのではないかと思われます。

おのころ島神社と幣立神宮
 国生み神話で知られるおのころ島おのころ島神社)は、中央構造線を直線とした場合のほぼ中央にあり(図7)、邪馬台国エジプト説で知られる木村鷹太郎氏によると、「オノコロ」はギリシャ語の「オムファロス」に由来し「へそ」を意味するそうです1)。

図7 中央構造線を直線としたラインとおのころ島神社

おのころ島の「おのころ」について
おのころ=オムファロス(転訛→オンハロ→オノコロ)
(へそ、臍の意で、ギリシャ神話では、おのころ島はアポローンの生まれたデーロス島と合致する)。

出典:http://majinnnn.jugem.jp/?cid=26

 おのころ島神社とオリンポス山を結ぶラインは、藻岩山と島根県浜田市の大麻山神社(たいまさんじんじゃ)を結ぶラインともほぼ直角に交差します(図8)。おのころ島神社と大麻山神社を結ぶラインの近くには、玉比咩神社があり、大麻山神社と藻岩山を結ぶラインの近くには、出雲大社、蛇田神社(虻田郡洞爺湖町)があります。また、藻岩山とおのころ島神社を結ぶラインの近くには、岩井戸神社(石川県鳳珠郡能登町)、三國神社(福井県坂井市)があり、おのころ島神社とオリンポス山を結ぶラインの近くには、清水寺(島根県安来市)があります(図8)。

図8 おのころ島神社と大麻山神社を結ぶラインと玉比咩神社、大麻山神社と藻岩山を結ぶラインと出雲大社、蛇田神社、藻岩山とおのころ島神社を結ぶラインと岩井戸神社、三國神社、おのころ島神社とオリンポス山を結ぶラインと清水寺

 おのころ島神社と幣立神宮を結ぶラインの近くには三瀧神社(愛媛県西予市)があり、幣立神宮と青谷上寺地遺跡を結ぶラインの近くには豊後一ノ宮 西寒多神社(大分市寒田)と綿津見神社(新見市)があり、また、青谷上寺地遺跡とおのころ島神社を結ぶラインの近くには那岐神社があります。那岐山は、古くから全体が神として崇められ、那岐大明神と呼ばれていました。おのころ島神社とオリンポス山を結ぶラインの近くには住吉神社(岡山県備前市島根県安来市)があり、幣立神宮と青谷上寺地遺跡を結ぶラインは、おのころ島神社とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図9)。古代日本がエーゲ文明と関係があるとすると、逆に「オノコロ」がギリシャ語の「オムファロス」に転訛したのではないかと思われます。

図9 おのころ島神社と幣立神宮を結ぶラインと三瀧神社、幣立神宮と青谷上寺地遺跡を結ぶラインと西寒多神社、綿津見神社、青谷上寺地遺跡とおのころ島神社を結ぶラインと那岐神社、おのころ島神社とオリンポス山を結ぶラインと住吉神社

 天之御中主神は、日本神話の天地開闢において登場する神で、神名は天の真中を領する神を意味します。九州の「へそ」と呼ばれた熊本県阿蘇郡蘇陽町 (現上益城郡山都町)にある幣立神宮は、社伝によれば、神武天皇の孫である健磐龍命が、阿蘇に下向した際この地で休憩し、眺めがとても良い場所であると、幣帛を立て天神地祇を祀ったといわれています。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が祀られていますが、九州のほぼ中央にあります。幣立神宮とオリンポス山を結ぶラインの近くには、御釜神社(熊本県上益城郡山都町)がありますが(図10)、御釜神社は、健磐龍命矢部在住の際、狩りの本陣としたところだそうで、大釜を据えて獲物を煮たので、御釜神社という社号になったそうです。

図10 幣立神宮とオリンポス山を結ぶラインと御釜神社

 幣立神宮の「五色人祭」の「五色人」は、『古事記』や『日本書紀』より古いとされる『竹内文書』にあり、「五色」は、籠神社の高欄上の五色(青、黄、赤、白、黒)の座玉(すえたま)にも見られ、陰陽五行思想(木・火・土・金・水)に相対する五色や、中国神話の四神である東の青龍(青)、西の白虎(白)、南の朱雀(赤)、北の玄武(黒)と中央の黄龍または麒麟(黄)とも対応しています。古代エジプトでは、色(iwen)は、その色、外観、性格、存在または自然を意味し、五色のうち、黄色は太陽の色でもあり、金と並んで完璧を表したようです。天海僧正は、江戸に、目黒、目白、目赤、目青、目黄という不動尊を祀った寺を建てていますが、「目」は、古代エジプトの「ウアジェトの目」に由来するのかもしれません。伝説では、天海僧正の提言を受けた徳川幕府3代将軍家光が、江戸の鎮護・天下泰平を祈念して、四神相応の地である東西南北と中央の5ヵ所に建てさせたとされています。

ギョベクリ・テペとデルポイ
 チャタル・ヒュユクの近くにある紀元前9600年のギョベクリ・テペ(Göbekli Tepe)という遺跡は、トルコ語で「へその丘(太鼓腹の丘)」を意味するようですが2)、ギョベクリ・テペは、アナトリア地方の南東部にあり、アフリカ大陸とユーラシア大陸を合わせたほぼ中央にあります(図11)。

図11 トルコ(アナトリア地方を含む)(赤色)とギョベクリ・テペ(∇)  出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Turkey_on_the_globe_(Turkey_centered).svg 

 「世界最古の神殿」とも言われるトルコ・アナトリア地方の「ギョベクリ・テペ」の構造物は非常に古く、紀元前1万年から紀元前8000年の期間に建てられ、遺丘の隣に位置し発掘調査が待たれている構造物は1万4000年から1万5000年前のものであることがわかっています。T字型の石柱が配置された円形の構造物は、約13000年前の彗星が衝突した大災害の記念碑ではないかともいわれています。石柱や壁には、ライオン、ウシ、キツネ、カバ、ヘビ、クモといった、様々な種類の動物のレリーフが彫られていますが、イギリス・エディンバラ大学の研究によると、彫られた動物の位置が、約1万3千年前の星座の配置と一致することが明らかとなっています。

 ギリシア神話ではオリンポス山は、オリンポス十二神の居所とされています。世界大百科事典「ギリシア神話」によると、オリンポス十二神のうちで現在確実にインド・ヨーロッパ語として解釈できるのはゼウスだけとされています。オリンポス山の南約180kmに位置するデルポイ(図12)にはアポロン神殿があり、へそ石(オンファロス)がありますが、世界の中心(へそ)と信じられていたようです。デルポイは、メルカトル図法で描かれた世界地図(図13)で見ると、南北アメリカ大陸も合わせたほぼ中央に位置しています。

図12 オリンポス山とデルポイの位置関係
図13 デルポイ(青印) 出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/Delphi

 メルカトルという名前で知られている16世紀のオランダの地図製作者ジェラルド・クレーマーは、1563年にエジプトの大ピラミッドを訪問していますが、根気よく古代の文献を探したことで知られています3)。

線文字Bと神代文字
 紀元前1550年から紀元前1200年頃まで、ギリシャ本土やクレタ島で使われていたエーゲ文明線文字Bは、構造が日本語のカナ文字に類似していることが知られ4)、音節文字と表意文字を含むことは、カナ文字と漢字を組み合わせて用いる現代の日本語に比較的類似しています。

 線文字Bに含まれる「丸に十字」に類似したものには、島津家の紋である「丸に十字紋」がありますが、島津公が関東管領の時、守矢の先代に功績があり、守矢家の家紋を貰ったという話があります。国譲り神話では、オオクニヌシの子のタケミナカタは、信濃の諏訪に逃れとされ、長野県諏訪市には、神名帳に南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)と記されている信濃國一之宮 諏訪大社があります。また、守矢氏は、6世紀後半の大連で蘇我氏と対立した豪族として知られる物部守屋の後裔ともされています。諏訪は、本州のほぼ中央にあるので、「丸に十字」は「へそ」を表しているのかもしれません。

 線文字Bにみられる「丸に十字」は、日本の古代文字(神代文字)とされる「伊予文字」や「ヲシテ(秀真)」にもあり、線文字Bでは「カ」と発音しますが、「伊予文字」や「ヲシテ」では「ナ」と発音します。カラ語では「カ(カウンデ)」は、中・真ん中という意味があり、河内(かうちーカウリ)は「中つ国」を指すようです5)。「ナ」は、カナ文字の中央に置かれ、特別な意味があったと思われます。「カナ」の由来は「仮名」とされていますが、「丸に十字」の線文字Bと伊予文字の読み方を合わせると「カナ」になり、逆にすると「ナカ(中)」になります。

 「丸に十字」は、ケルト人が好んで使った、聖所やパワーを表す記号ともいわれます。起源がキリスト教以前にまでさかのぼるケルト十字は、ラテン十字と十字の交差部分を囲む環からなるシンボルで、フランスのパリ東部にあるペール・ラシェーズ墓地のケルト十字には、縄文土器の連続渦巻文に似た唐草文様が見られます。シュメールの海洋民族には、インドネシアを拠点とした「丸に十字」を神紋とする部族がいたようです6)。シュメールの都市国家の一つであるウルクからは、「古拙文字」が発見されていますが、「丸に十字」は「羊」の意味で、前2400年頃の「楔形文字」では「羊」は「田」の字に変わっています7)。シュメール語は日本語と同じく膠着(こうちゃく)語で、助詞を付けて名詞の働きを変え、また、シュメール語は、漢字と仮名交じりのような構造をしています。

 青銅器時代後期(紀元前15世紀頃~)のレバント(東部地中海沿岸)の文書にみられる原カナン文字の「丸に十字」は、フェニキア文字の「丸に✕字」と同じく「車輪」を意味します。レバントは、「(太陽が)上る」という意味で、ヨーロッパでは、「丸に十字」は「太陽十字」や「車輪十字」といい、太陽の円を太陽神の戦車(チャリオット)の車輪とする解釈から派生した太陽のシンボルと解釈されています。アメリカの先住民族などは、象徴的に装飾のために太陽十字を現在でも使用しているようです。現代の天文学の惑星記号や西洋占星術では、地球を表すシンボルとして使われていますが、宇宙の中心に地球があるとする天動説の影響かもしれません。密教の宇宙の真理を図示した胎蔵界曼荼羅では、大日如来を中心として、四如来、四菩薩が描かれていますが、「大日」という言葉は、「大いなる日輪(偉大な太陽)」を意味しているとされるので、もしかすると、太陽と8個の惑星(4個の地球型惑星と4個の木星型惑星)を表しているのかもしれません。

 車塚古墳は、前方後円墳を貴人が乗る車に見立てたことが語源とされていますが、シュメールやエーゲ文明の線文字Bの「丸に十字」は、ヨーロッパでは、「太陽十字」や「車輪十字」ということから、備前車塚古墳などの車塚古墳の「車」は、「車輪十字」に由来するのではないかと思われます。守矢家の家紋が「丸に十字」であることと関係があると思われます。

 三重県一志郡嬉野町の片部遺跡と熊本県玉名市の柳町遺跡から土器に書かれた「古代の文字」が見つかっています。いずれも「田」と読め、九州にある柳町遺跡の方が、近畿にある片部遺跡の「墨書土器」より20年から30年古いとされています。垂仁天皇の皇后の狭穂姫命の墓と思われる行燈山古墳からの出土品として、銅板1枚が知られ、拓本が残されていますが、銅板の片面には内行花文鏡に似た文様があり、他面には田の字形の文様があります。

 線文字Bには「田」はありませんが、「伊予文字」や「ヲシテ」には「田」があり「ノ」と発音します。という漢字は、区画された耕地を表す象形文字とされています。「墨書土器」の「田」は、漢字ではないとすると、「太陽」を表すのかもしれません。太陽は中心点を持つ円で表され、これは、漢字の「日」のもとになっていますが、中心点を持つ円が「日」になったことを考えると、「墨書土器」の「田」は、もとは「丸に十字」で、宇宙の中心にあるとされた「太陽」を表し、「ナ」と発音していたのかもしれません。神武天皇は、倭奴国王で、奴国(なこく)は「丸に十字」を国名にし、九州地方から日本の中心に近い大和(奈良)に東遷したのかもしれません。

文献
1)木村 鷹太郎 明治44年刊 「世界的研究に基づける日本太古史 上巻」 博文館
2)グラハム・ハンコック 大地 舜/訳 2016 「神々の魔術(上)(下)失われた古代文明の叡智」 角川書店
3)グラハム・ハンコック 大地 舜/訳 1996 「神々の指紋(上)」 翔泳社
4)矢島文夫 1999 「解読 古代文字」 ちくま学芸文庫
5)金 容雲 2011 「「日本=百済」説」 三五館
6)竹内一忠 2020 「ペテログリフが明かす超古代文明の起源」 玄武書房
7)小林登志子 2020 「古代メソポタミア全史」中公新書