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温故知新(4)邪馬台国(やまとのくに) 孝元天皇(天香山命 高倉下命) 備前車塚古墳 大神神社 石上布都魂神社 倭迹迹日百襲姫命 箸墓古墳 百枝八幡宮 阿字八幡宮 大彦命 黒塚古墳 岡山城 熊山遺跡 伊福部氏 尾張氏

孝元天皇と備前車塚古墳
 岡山市中区四御神・湯迫にある備前車塚古墳と、高良大社や吉野ケ里遺跡とレイラインでつながっているアルテミス神殿を結ぶラインは、高岡神社(岡山県真庭市)、八幡神社(岡山県新見市下熊谷)、玉依姫命を主神とする福榮神社(鳥取県日野郡日南町)、孝霊天皇を主神とする樂樂福神社(日南町)、磐船神社(島根県安来市)、奥宇賀神社(島根県出雲市)の近くを通ります(図1)。このラインは、大国主命(白兎神、孝元天皇と推定)を祀っていると推定される白兎神社(鳥取県鳥取市)と、須佐之男命(大山津見神、孝霊天皇と推定)を祀っていると推定される大山祇神社(愛媛県今治市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1)。

図1 備前車塚古墳、白兎神社、大山祇神社を結ぶ三角形のライン、備前車塚古墳とアルテミス神殿を結ぶラインと高岡神社、八幡神社、福榮神社、樂樂福神社、磐船神社、奥宇賀神社

 奥宇賀神社は、『出雲風土記』にある「彌努婆社」(みのばしゃ)の美奴麻神社などを明治に合祀した神社で、天照大神などを祀っています。備前車塚古墳とアルテミス神殿はレイラインで結ばれていることから、孝元天皇は、倭迹迹日百襲姫命と同様に、月の神であるアルテミスと関係付けられていると推定されます。

 備前車塚古墳は、最古形式の前方後方墳で、赤坂山という神奈備型の山頂にあります1)(写真1)。この地に鎮座する大神神社(おおがじんじゃ)は、千年以上続く由緒ある神社で、祭神として、奈良県桜井市三輪にある三輪明神大神神社(おおみわじんじゃ)の三神(大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、大己貴神(おおむなちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ))を奉遷し、大国主命の后の三穂津姫神を合せて祀ったとの記録があります。四御神(しのごぜ)の地名の由来は、大物主神以下四神を祀っていることにあります。大神神社は、もとは土師神社といったといわれています2)。大神神社とシチリア島パレルモを結ぶラインの近くに備前車塚古墳や八重垣神社(島根県松江市)があり、このラインは、石上布都魂神社(岡山県赤磐市)と報恩大師が創建したと伝わる龍泉寺(岡山市北区)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2、3)。大神神社と石上布都魂神社を結ぶラインの近くには、高蔵神社(里宮)(岡山市北区牟佐)、熊野神社(北区御津新庄)があり(図2、3)、龍泉寺と大神神社を結ぶラインの近くには、備前国総社宮(中区祇園)があります(図3)。

写真1 山頂に備前車塚古墳がある赤坂山 撮影1974年 
出典:茂木雅博「前方後方墳」雄山閣出版1)
図2 大神神社、石上布都魂神社、龍泉寺を結ぶ三角形のラインと熊野神社(御津庄)、大神神社とパレルモを結ぶラインと八重垣神社
図3 図2のラインと高蔵神社(里宮)、備前国総社宮、備前車塚古墳 

 備前車塚古墳とパレルモを結ぶラインの近くには、伊弉冊大神、伊弉諾大神を祀る神魂神社(松江市)、須佐之男命、誉田別命、事代主命を祀る須賀神社(松江市秋鹿町)があります(図4)。このラインは、須佐之男命と関係があると推定されるサムハラ神社奥の宮(津山市)と大山祇神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。

図4 備前車塚古墳、サムハラ神社奥の宮、大山祇神社を結ぶ三角形のラインと備中松山城、備前車塚古墳とパレルモを結ぶラインと神魂神社、須賀神社

 備前国は令制国で、元は吉備国でした。備前国総社宮(図3)は、大己貴命(大国主命)と須世理姫命(倭迹迹日百襲姫命と推定)と八神殿(はっしんでん)を祀っています。八神は天皇に直接関わる重要な神々ですが、天照大御神が含まれておらず、実際に天照大御神が最高神に位置づけられるのは7世紀後半以降で、それ以前の最高神・皇祖神は八神のうちの高皇産霊尊(高御産日神)だったする説が有力です3)。

 中区円山にある石高神社の社伝によると、かつては北手にある高倉山山頂に大己貴命(大国主命)を祀る石高神社があり、今の嶽字岩坪に須勢理姫命を祀る八幡宮があったようです。北区牟佐にある高蔵神社(里宮)(図3、5)は、備前国総社神名帳にも載っている古社で、天香山命天火明命饒速日尊)を祀り、古代の豪族上道氏の祭祀した神社だったと考えられています。高倉山山頂には磐境の遺構が残り、頂上付近は本宮高倉山(ほんみやたかくらやま)と呼ばれています。石上布都魂神社と石高神社を結ぶラインのほぼ中央に本宮高倉山があります(図5)。このラインは、天香山命と大国主命(孝元天皇と推定)を関係付けていると推定されます。石上布都魂神社と備中国総社宮(総社市)を結ぶラインは、石高神社とパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図5)。

図5 石高神社、石上布都魂神社、備中国総社宮を結ぶ三角形のラインと高蔵神社(里宮)、本宮高倉山

石上布都魂神社と熊野大社、日前神宮・國懸神宮
 赤磐市にある石上布都魂神社(いそのかみふつのみたまじんじゃ)は、素盞嗚尊を祭神としていますが、明治時代までは、素盞嗚尊の剣である布都御魂が祭神として祀られていたと伝わり、『日本書紀』には、「一書曰 その素盞鳴命の蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部の許に在り」と記しています。奈良県天理市にある石上神宮の社伝によれば、「布都御魂剣は、物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。」とあります。天火明命は、古代に熊野の地を治めた熊野国造家の祖神で、天火明命の子である高倉下命は神武東征に際し、熊野で初代神武天皇に「布都御魂」 を献じたとされています。熊野大神は、『出雲国風土記』に登場する非常に高い神格の神で、天津神に位置づけられ、宗教上の解釈としては、須佐之男命と同神とされています。

 熊野本宮大社旧社地 大斎原(和歌山県田辺市本宮町)と古代都市セリヌス(Selinus Ancient City)を結ぶラインは、石上布都魂神社(岡山県赤磐市)、熊野大社元宮 斎場跡(島根県松江市)の近くを通ります(図6)。このラインは、大山祇神社(愛媛県今治市)と青谷上寺地遺跡(鳥取市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。

図6  大斎原(熊野本宮大社旧社地)、大山祇神社、青谷上寺地遺跡を結ぶ三角形のライン、大斎原(熊野本宮大社旧社地)と古代都市セリヌス(Selinus Ancient City)を結ぶラインと石上布都魂神社、熊野大社元宮 斎場跡

 日前神宮・國懸神宮とギョベクリ・テペを結ぶラインは、石上布都魂神社や大己貴命・綾門姫命を祀る宇賀神社(出雲市口宇賀町)の近くを通ります。また、「日の生まれる(日が昇る)里」に由来する地名ともいわれる日生町日生(ひなせ)も同じラインの近くにあり(図7)、太陽信仰と関係があると推定されます。

図7 日前神宮・國懸神宮とギョベクリ・テペを結ぶラインと日生、石上布都魂神社、宇賀神社

三角縁神獣鏡と三神山
 備前車塚古墳の石室内からは、卑弥呼が魏の皇帝から贈られたともされる三角縁神獣鏡が11面出土し(11面のうち8種9面は、椿井大塚山古墳出土鏡をはじめ九州地方から北関東地方の多くの古墳の出土鏡と同笵鏡)、内行花文鏡1、画文帯神獣鏡1、鉄刀などの鉄器も出土しています。鏡に含まれる微量成分から、三角縁神獣鏡は中国鏡と倭鏡のグループに分かれることが知られていますが、中国での出土例がないことから、三角縁は山を表し、山に囲まれた神国(邪馬台国)を表しているのかもしれません。『史記』によると、仙人が住むといわれる蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)の三神山は、中国の東方海上にあると考えられ、秦の始皇帝が、徐福に三神山を探させたと記し5)、のちに瀛州は、日本の雅名となっています6)。また、『日本書紀』の神功皇后の条に、新羅の王の言葉として「吾聞く、東に神国(かみのくに)有り。日本(やまと)と謂ふ。」と記されています。

備前車塚古墳と箸墓古墳
 備前車塚古墳(前方後方墳)と倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼と推定)の墓と考えられる箸墓古墳(前方後円墳)の前方部の形はほぼ同型であることが知られていて、これらは、同時期に作られたと推定されます。後方墳と後円墳の違いは、国津神と天津神の違いによるのかもしれません。中国の天神地祇の祭りの起こりにおいても、天は円天井(円丘)と考え、地は東西南北で示されるように方形(方丘)と考えていたようです7)。

 備前車塚古墳の前方部は西向きになっているので、東に向かって祭祀が行われたと推定されます。備前車塚古墳の東にある箸墓古墳を結ぶラインは、正八幡宮(岡山市東区矢津)、岡屋八幡宮(東区藤井)、龍王山(瀬戸内市邑久町福谷)や、応神天皇陵後円部に鎮座する誉田八幡宮(大阪府羽曳野市)の近くを通ります(図8、9)。備前車塚古墳が第8代孝元天皇(大国主命と推定)の陵墓とすると、このラインは、孝元天皇と倭迹迹日百襲姫命が夫婦と推定されることと整合します。また、このラインから、孝元天皇は、八幡神として祀られていたのではないかと思われます。

図8 備前車塚古墳と箸墓古墳を結ぶラインと龍王山(瀬戸内市邑久町福谷)、誉田八幡宮
図9 図8のラインと正八幡宮、岡屋八幡宮

倭迹迹日百襲姫命と百枝八幡宮
 瀬戸内市邑久町尾張にある百枝八幡宮(ももえはちまんぐう)は、山に囲まれ、周辺には、備前車塚古墳や大神神社の他に、瀬戸内市に築山古墳靭負神社があり、岡山市中区に金蔵山古墳、岡山市東区に浦間茶臼山古墳安仁神社亀石神社西大寺観音院などがあります(図10)。安仁神社とシラクサを結ぶラインの近くに、西大寺観音院や備前車塚古墳があります(図10)。西大寺観音院は倭迹迹日百襲姫命と関係があると推定され、安仁神社の祭神は五瀬命とされていますが、孝元天皇と関係があると推定されます。

図10 百枝八幡宮(邑久町尾張)周辺の古墳、神社、安仁神社とシラクサを結ぶラインと西大寺観音院、備前車塚古墳

 安仁神社とシラクサを結ぶラインは、伊良髙八幡宮(瀬戸内市長船町)と亀石神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図11)。

図11 安仁神社、伊良高八幡宮、亀石神社を結ぶ三角形のライン、安仁神社とシラクサを結ぶラインと西大寺観音院、備前車塚古墳

 百枝八幡宮(写真2)には、高倉下命(たかくらじのみこと)が祀られている祠があり(写真3)、説明板には高倉下命に「みやけしもつみこと」と仮名が振られています(写真4)。熱田神宮の境外摂社である高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)では、高倉下命は尾張氏の祖神として祀られています。百枝八幡宮の祭神は、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后とされていますが、百枝八幡宮のある宮地にはもともと高倉下命(尾張連の祖)を祀っていたようで、772年に邑久町山手の高砂山にあった稲都神社が分社されたときに八幡神を祀り、尾張の地の総氏神としたようです。

写真2 百枝八幡宮本殿
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写真3 百枝八幡宮の祇園宮にある高倉下命の祠
写真4 百枝八幡宮の説明板

 百枝八幡宮の本殿の千木(ちぎ)は内削(うちそ)ぎなので(写真2)、女神が祀られていると考えられ、「百」の字から、倭迹迹日百襲姫命(豊玉姫命)が奉遷されたと思われます。百枝八幡宮と箸墓古墳を結ぶラインは、大阪府堺市堺区大仙町にある大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を通ることから(図12)、百枝八幡宮の祭神は、倭迹迹日百襲姫命と推定されます。

図12 百枝八幡宮と箸墓古墳を結ぶラインと大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、備前車塚古墳

 『日本書紀』には、「天火明命の児、天香山は、これ尾張連らが遠祖なり」とあり、『先代旧事本紀』では、天香山命は、高倉下命の別名で、天火明命(饒速日命)の子とされています。岡山市北区京山に、天火明命と大氣都姫神を祀る尾針神社(おはりじんじゃ)がありますが、一帯は、かつて「吉備国御野郡伊福郷」と称され、伊福部氏(いおきべうじ いふくべうじ)の居住地で、その祖神「天火明命」を奉斎し、創祀したといわれています。『新撰姓氏録』「左京神別」は、「伊福部宿禰氏」・「伊福部連氏」を載せ、「尾張連同祖、火明命之後也」とし、「大和国神別」の「伊福部宿禰氏」・「伊福部連氏」は、「天火明命子天香山命之後也」とあり、「山城国神別」の「伊福部氏」・「河内国神別」の「五百木部連氏」も「火明命之後也」と載せています。これらのことから、古代尾張氏は吉備から東遷した氏族ではないかという説があります8)。

 須佐之男命を祀る大矢田神社(岐阜県美濃市)と尾針神社(岡山市北区)を結ぶラインは、伊吹山音羽古墳公園(滋賀県高島市)の近くを通り、このラインは、熱田神宮(愛知県名古屋市)とスカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図13)。熱田神宮とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くには、五十瓊敷入彦命を祀る伊奈波神社(岐阜市)があります(図13)。このラインは、吉備の尾張と名古屋の尾張国の関係を示していると推定されます。

図13 熱田神宮、大矢田神社、尾針神社を結ぶ三角形のラインと伊吹山、音羽古墳公園、熱田神宮とスカラ・ブレイを結ぶラインと伊奈波神社

孝元天皇と高砂山
 高砂山(邑久町山手)にある八幡宮(重高大垣八幡宮)(写真5)は、稲都神社を、宝亀2年(771年)五か所に分社した際、奉遷されました。山手八幡宮(写真5)の拝殿の天井には、天の岩戸の絵が飾られています(写真6)。稲都神社に倭迹迹日百襲姫命(豊玉姫命と推定)が祀られていたとすると、天の岩戸神話は、天照大神(大日孁貴)に代わって倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼と推定)が国をまとめ、治めたことを表しているのかもしれません。

写真5 山手八幡宮(旧大垣八幡宮)
写真6 拝殿の天井の絵

 宇摩志麻治命は、宇治比古、『播磨国風土記』にみえる「宇治天皇」、莵道彦(うじひこ)、珍彦命(うずひこ)と同一人物で、孝元天皇と推定されます。岡将男氏の「吉備 邪馬台国東遷説」には、岡山市浜野の元伊勢内宮禰宜の伏見正氏の持参した岡山平野の古地図が紹介されていますが、備前車塚古墳のある「湯迫」の南に「宇治郷(うじのごう)」が記載されています2)。「うじ」には「三方を山に囲まれた地域」という意味があり、京都府南部の宇治の地名もその地形に由来すると説明されることがあるようです。山手八幡宮の祭神は、百枝八幡宮と同様に仲哀天皇、応神天皇、神功皇后とされていますが、玉垣には「宇治」の名前があるので(写真7)、元の祭神は宇治比古(莵道彦 高倉下命 孝元天皇と推定)だったと思われます。

写真7 山手八幡宮(旧大垣八幡宮)の玉垣

 高砂山にある岩屋山展望台の下には、祭壇がある磐座と推定される場所(写真8)があります。

写真8 岩屋山展望台下にある磐座

 岩屋山展望台は、日本神話「因幡の白うさぎ」の白兎神を主神とする白兎神社(鳥取市)と剣山を結ぶラインの近くにあります(図14)。また、ラインの近くには、山手八幡宮、百枝八幡宮、阿字八幡宮、高オカミ神(鸕鶿草葺不合尊 開化天皇と推定)を祀る貴船神社(瀬戸内市邑久町山田庄)があります(図15)。このレイラインは、これらの神社と大国主命(孝元天皇 山幸彦と推定)との関係を示していると推定されます。

図14 白兎神社と剣山を結ぶラインと岩屋山展望台
図15 白兎神社と剣山を結ぶラインと岩屋山展望台、山手八幡宮、阿字八幡宮、貴船神社、百枝八幡宮

 百枝八幡宮と白兎神社を結ぶラインの近くには、長船町福岡水原古墳(黒媛塚)( 津山市)、元は八幡宮だった河井神社(津山市加茂町)、吉井川源流の津山市阿波高山神社(鳥取市)があります(図16)。このレイラインは、倭迹迹日百襲姫命(豊玉姫命)と孝元天皇(大国主命 山幸彦)を結び付けていると推定されます。

図16 百枝八幡宮と白兎神社を結ぶラインと長船町福岡、水原古墳(黒媛塚)、河井神社、津山市阿波、高山神社

 倭迹迹日百襲姫命を祀っている百枝八幡宮の本殿の方向は、熊山遺跡(岡山県赤磐市)(写真トップ)と白兎神社(鳥取市)の中間方向にあり(図17)、これは、倭迹迹日百襲姫命と熊山遺跡との関係を示していると推定されます。

図17 白兎神社と百枝八幡宮を結ぶライン(左)と百枝八幡宮と熊山遺跡を結ぶライン(右)

孝霊天皇と阿字八幡宮
 高砂山にある阿字八幡宮(瀬戸内市邑久町山手)と白兎神社を結ぶラインの近くには、熊山遺跡や大崎神社(岡山県勝田郡勝央町)があります(図18)。

図18 阿字八幡宮と白兎神社を結ぶラインと熊山遺跡、大崎神社、阿波

 阿字八幡宮とチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くには、古くは御神体だった本宮高倉山(北区牟佐)があり、孝霊天皇を主祭神とする樂樂福神社(鳥取県日野郡日南町)、磐船神社(島根県安来市)、加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)、荒神谷遺跡(出雲市)、武御名方神と八束水臣津野命を祀っていて出雲國風土記中の「出雲社」に比定する説もある諏訪神社(出雲市)があります(図19)。阿字八幡宮とチャタル・ヒュユクを結ぶラインは、熊山遺跡(岡山県赤磐市)と西大寺観音院(岡山市東区)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図19)。熊山遺跡の階段ピラミッド状の構造物は、奈良時代の仏塔の一種とされていますが、須佐之男命と関連付ける説もあります。西大寺観音院には、牛玉所大権現と金毘羅大権現を祀る牛玉所殿があります。

図19 阿字八幡宮、熊山遺跡、西大寺観音院を結ぶ三角形のライン、阿字八幡宮とチャタル・ヒュユクを結ぶラインと本宮高倉山、樂樂福神社、磐船神社、加茂岩倉遺跡、荒神谷遺跡、諏訪神社(出雲社)

 阿字八幡宮とキプロス島のフェニキア時代より商港があったキレニア(ケリネイア)を結ぶラインの近くに、大倭根子日子賦斗迩命(孝霊天皇)を祀る高岡神社(岡山県真庭市)や、船通山や、出雲大社があります(図20)。このラインは、大山祇神社と青谷上寺地遺跡を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図20)。『古事記』によれば船通山の麓へ降ったスサノヲは八岐大蛇を退治し、八岐大蛇の尾から得た天叢雲剣を天照大神に献上したといわれています。このラインは、阿字八幡宮が、須佐之男命(孝霊天皇)を祀っていると推定されることと整合します。大山祇神社と青谷上寺地遺跡を結ぶラインの近くには、穴門山神社(岡山県高梁市)があり、青谷上寺地遺跡と阿字八幡宮を結ぶラインの近くには、サムハラ神社 奥の宮があります(図20)。これらのラインは、阿字八幡宮の祭神が、孝霊天皇(須佐之男命)と推定されることと整合します。

図20 阿字八幡宮と大山祇神社を結ぶライン、大山祇神社と青谷上寺地遺跡を結ぶラインと穴門山神社、青谷上寺地遺跡と阿字八幡宮を結ぶラインとサムハラ神社 奥の宮、阿字八幡宮とキプロス島のキレニア(ケリネイア)を結ぶラインと高岡神社、船通山、出雲大社

 阿字八幡宮(写真9)には、備前焼の狛犬(写真10)があり、阿字八幡宮の北側、高砂山の南斜面には、祠のある山手立石祭祀跡(写真11)があります。「阿字」はサンスクリットの最初の文字で、万有の根源を象徴した字なので、最初の八幡宮という意味かもしれません。そうすると、阿字八幡宮の祭神である孝霊天皇(須佐之男命)は、最初の八幡神かもしれません。

写真9 阿字八幡宮
写真10 阿字八幡宮の備前焼狛犬
写真11 山手立石祭祀跡

阿字八幡宮と阿部氏、大彦命と黒塚古墳
 高砂山にある阿字八幡宮の祭神は、百枝八幡宮や山手八幡宮と同じく仲哀天皇、応神天皇、神功皇后となっていますが、拝殿に飾られている絵には、氏子の阿部朝臣の名前があります(写真12)。阿部氏には大彦命の後裔とされる氏族がいて、景行天皇の妃の一人である高田媛の父が阿部木事であるとされます。徳川家康の祖父・松平清康の時代から松平氏に仕えた阿部定吉がいますが、徳川譜代の阿部氏は、始祖は孝元天皇の第一皇子阿部大彦命であると自称しています。備後国福山藩の第7代藩主の阿部正弘は老中首座を務めました。絵に描かれている二人の武士のうち、鬼を退治しようとしているのは吉備津彦命で、もう一人は大彦命と思われ、阿字八幡宮は大彦命の後裔の神社かもしれません。

写真12 阿字八幡宮の拝殿の絵

 奈良県天理市柳本町にある古墳時代前期の黒塚古墳は、オオヤマト古墳群の中の柳本古墳群に属し、その南に箸墓古墳のある纏向古墳群があります。また、三角縁神獣鏡33面(開化天皇の陵墓と推定される椿井大塚山古墳出土鏡との間に10種の同范鏡)とそれよりも少し古い画文帯神獣鏡1面が出土しています。阿字八幡宮と黒塚古墳を結ぶラインは、大阪府羽曳野市にある島泉丸山古墳(雄略天皇陵 後円部)を通ります(図21)。このラインから、黒塚古墳は、大彦命の墓と推定されます。

図21 阿字八幡宮と黒塚古墳を結ぶラインと島泉丸山古墳(雄略天皇陵 後円部)

 オリンポス山と箸墓古墳を結ぶラインは、中宮寺(奈良県生駒郡斑鳩町)や唐古・鍵遺跡を通り、箸墓古墳と石上神宮(天理市)を結ぶラインは、纏向遺跡や黒塚古墳の近くを通り、石上神宮と石上布都魂神社を結ぶラインは法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)を通ります(図22)。このラインから、大彦命は、倭迹迹日百襲姫命と共に、吉備から大和に移ったと推定されます。

図22 オリンポス山と箸墓古墳を結ぶラインと中宮寺、唐古・鍵遺跡、箸墓古墳と石上神宮を結ぶラインと纏向遺跡、黒塚古墳、石上神宮と石上布都魂神社を結ぶラインと法隆寺

貴船神社と開化天皇
 貴船神社(邑久町)と彦波限建鵜葺草葺不合尊(開化天皇と推定)を祀る美作國二ノ宮 髙野神社(岡山県津山市)を結ぶラインの近くには、野見宿禰命を祀る石津神社(岡山市東区)、大山咋命を祀る日吉神社(ひえじんじゃ)(岡山県赤磐市石蓮寺)、速玉之男命を祀る波多神社(岡山県久米郡久米南町)があることから(図23)、貴船神社(邑久町)の祭神は、開化天皇と推定されます。

図23 貴船神社(邑久町)と髙野神社を結ぶラインと石津神社、日吉神社(赤磐市石蓮寺)、波多神社

邪馬台国と岡山城、パルテノン神殿
 岡山県は、名前が示すように、中国山地からの土砂が堆積し、弥生時代の中期から後期前半にかけて、南部に台地が広がっていました8)。岡山市北区にある岡山神社の主祭神は、卑弥呼と考えられる倭迹迹日百襲姫命で、裏手には、内宮、外宮など十七社を祀った祠があります。かつては、近くに、岡山・石山・天神山という3つの小高い丘が存在していて、岡山には現在の岡山城があり、天神山は現在の天神町、石山は石山公園あたりにありました(図24)。邪馬台国の「台(臺)」は、台与(臺與)と同じく「と」と読むと考えられ9)、平らで小高い土地(台地/高台)の意味をもつことから、邪馬台国( やまとのくに)の宮は、丘の上にあったと推定されます。

 オリンポス十二神の一柱であるアテナは、アテナイ(アテネ)のアクロポリスにあるパルテノン神殿に祀られていました。「アクロポリス」とは、「高い丘の上の城塞」を意味し、アテナイのアクロポリスも丘の上にあり、現在この丘には、古代ギリシア美術を代表する、パルテノン神殿、プロピュライア(神域の入り口の門)、エレクテイオン、アテナ・ニケ神殿がありますが、ペルシャ戦争時は木造建築で、すべてが灰に帰したようです。

 岡山市中区に広がる沖積地に弥生期の埋没水田を含む百間川遺跡(ひゃっけんがわいせき)(図24)がありますが、纏向遺跡と同様に、ここからも桃の種が多数見つかっています。また、百間川原尾島遺跡(はらおじまいせき)では、西アジア起源の物質であるファイアンスの小玉が出土していて、ファイアンスは、邪馬台国の官人である一大率(いちだいそつ)が置かれた伊都国の王都、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡(みくも・いわらいせき)からも出土しています8)。

 神武東征の説話は、須佐之男命(第7代孝霊天皇)の時代と推定していますが、東征の際に立ち寄り、8年間滞在したとされる吉備の高嶋宮の場所を、百間川遺跡群の北側にある高島(図24)とする説があります2)。岡山市立高島小のある国府市場は、古代の条里制の名残を多くとどめる田園地域で、現在微高地が多く存在します。百間川遺跡で桃の種やファイアンスが見つかったのは、丘が洪水で崩れ、川に流されたためと思われます。

 岡山城と高島を結ぶラインは、百間川沢田遺跡とパルテノン神殿を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図24)。このラインから、岡山城にあったと推定される邪馬台国の宮は、パルテノン神殿と関係があると推定されます。

図24 岡山城、百間川沢田遺跡、高島を結ぶ三角形のライン、百間川沢田遺跡とパルテノン神殿を結ぶライン

 東区神崎町にある神前神社(かみさきじんじゃ)には、神武東征の先導者として知られる珍彦命(椎根津彦命)が祀られています(図25)。神前神社とパレルモを結ぶラインの近くに、大己貴命を祀る御崎宮(岡山市北区)があり、このラインは、備前車塚古墳と岡山城を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図25)。このラインは、備前車塚古墳の被葬者が珍彦命(孝元天皇と推定)と推定されることと整合し、岡山城に孝元天皇と倭迹迹日百襲姫命の宮があったと推定されます。

図25 神前神社、備前車塚古墳、岡山城を結ぶ三角形のライン、神前神社とパレルモを結ぶラインと御崎宮

熊山遺跡と邪馬台国
 メンフィスで信仰されたプタハは、エジプト神話の鍛冶や職人の守護神ともされ、後世では、冥界の神とされたオシリスと結び付けられ、プタハの分身はアピス牛とみなされて崇拝されました。古王国時代ファラオ達は第1王朝の時からメンフィスで国家を統治しましたが、第3王朝(紀元前2686年頃 ~紀元前2613年頃)のジェセル王のピラミッド複合体はメンフィスのネクロポリス(死者の都)であるサッカラにあります。ジェセル王のピラミッドは、典型的な階段ピラミッドで、その形状は後世に書かれた碑文から、王が天に昇るための階段を意味するといわれています。王の葬祭施設であると同時に、現世における王の支配権、及び権威を象徴する場としての意味を強く持ち、墳墓としての機能を持たない小ピラミッドが別に多数建設されたようです。牛頭天王とも習合した須佐之男命は、メンフィスのプタハ(アピス牛)に例えられたのかもしれません。

 熊山遺跡とサッカラにあるジェセル王の階段ピラミッドを結ぶラインの近くには、多自枯鴨神社(建部町)、福榮神社(鳥取県日野郡日南町)、大呂神社(仁多郡奥出雲町)、出雲大社(出雲市)があり(図23)、このラインは、サムハラ神社 奥の宮(岡山県津山市)と鬼ノ城跡(総社市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図26)。このラインから、熊山遺跡は、ジェセル王の階段ピラミッドと関係があると思われます。

図26 熊山遺跡、サムハラ神社 奥の宮、鬼ノ城跡を結ぶ三角形のライン、熊山遺跡とジェセル王の階段ピラミッドを結ぶラインと多自枯鴨神社、福榮神社、大呂神社、出雲大社

 熊山遺跡の南にある備前市の大内神社の祭神は、大山津見神、木花之佐久夜毘売命、神大市比売、大香山戸臣神ほかとされています。大内神社は、唐破風(からはふ)にあるアルファベットのような古代文字で知られ、一説には、対馬国の卜部氏(うらべうじ)および阿比留氏に伝わったといわれる神代文字の「阿比留文字(あひるもじ)」といわれています(写真13)。「おお(ほ)ちのやしろ」と読めるそうですが、阿比留文字には、縦に並ぶ記号を横に並べたものもあったようです。似た構造を持つ「ハングル」は、「阿比留文字」を参考にして作られたのではないかという説もあります。境内には、秦氏を祀る大酒神社があり、社記に大宝年間(701~704年)に「香登臣秦大兄」が神社を修繕したとの記述があるといわれることから、「阿比留文字」は、秦氏と関係があると推定されます。

写真13 大内神社 唐破風

 大内神社の本殿の後ろには、大物主命を祀る金刀比羅宮があります(写真14)。

写真14 大内神社 手前から総神社、本殿、奥に金刀比羅宮

 大内神社の真北の赤磐市に熊山姫大神神社下之宮があり(図27)、祭神は、木花咲耶姫命(市杵島姫命と推定)とされています。サッカラと熊山姫大神神社下之宮を結ぶラインの近くに熊山遺跡があり、熊山姫大神神社下之宮とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くに大山祗命(須佐之男命と推定)を祀る熊山油瀧神社上之宮があります(図27)。

図27 サッカラと熊山姫大神神社下之宮を結ぶラインと熊山遺跡、熊山姫大神神社下之宮とスカラ・ブレイを結ぶラインと熊山油瀧神社上之宮

 大内神社と倭国香媛(神大市比売、天照大神と推定)の陵墓と推定される楯築遺跡を結ぶラインは、西大寺観音院ヴェストラホルン(Vestrahorn)山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインの近くには石上布都魂神社があります(図28)。このラインから、「大内」の由来は神大市比売の「大市」と関係があると推定されます。

図28 西大寺観音院、大内神社、楯築遺跡を結ぶ三角形のライン、西大寺観音院とヴェストラホルン(Vestrahorn)山を結ぶラインと石上布都魂神社

 熊山遺跡と孝霊天皇(須佐之男命と推定)の陵墓と推定される鯉喰神社遺跡(倉敷市矢部)を結ぶラインは、西大寺観音院とフェロー諸島を結ぶラインとほぼ直角に交差し、坊主山山頂にある白山神社跡(岡山市北区富原)の近くを通ります(図29)。西大寺観音院とフェロー諸島を結ぶラインは、葛木城跡(岡山県赤磐市)の近くを通ります(図29)。

図29 西大寺観音院、熊山遺跡、鯉喰神社を結ぶ三角形のラインと白山神社跡(坊主山山頂)、西大寺観音院とフェロー諸島を結ぶラインと葛木城跡

 熊山遺跡から「大和黄鐘」の銘文のある遺物が見つかっています7)(写真15)。「大和」は、魏の明帝曹叡の治世の元号の「太和」と関係があるかもしれません。陳寿が『三国志』に『魏志』東夷伝を立てたのは、西晉の皇帝(司馬炎)の祖父(司馬懿)の功績や、西晉の正当性を強調するためで10)、邪馬台国への距離には誇張があり、異民族同士が争うように仕向けたことは戦果とされたようです11)。後漢末期の184年に起きた太平道(道教の一派)の農民反乱「黄巾の乱(こうきんのらん)」のように、当時の中国における道教は反体制的な立ち位置の宗教で、卑弥呼が道教の秘術を使って民衆を導いていたとすると12)、卑弥呼の死に関わったとすることは戦果だったと思われます。倭人伝に、「張政らを遣わして、詔書・黃幢(こうどう 魏の軍旗)をもたらし、難升米に仮に授けて、檄(ふれぶみ)を作り、これを告喻(告げ諭す)し、もって卑弥呼死す」と記したのは戦果を示すためと考えられます。

 殷やの時代には、日本の銅鐸と同じように、青銅器はほぼ全てが祭祀用でしたが、古代中国の金鐸(金属製の鐸)は武事すなわち軍隊を動かす際に用いられたようです。「黄幢」は、黄巾の乱の「黄巾」を連想させるために「黄鐘」を「黄幢」へ意図的に変えたのかもしれません。実際には、魏の皇帝は「黄鐘」を難升米(大国主命 孝元天皇)に贈ったのではないかと思われます。

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写真15 黄鐘 出典:若狭哲六「女王国邪馬台国の謎に迫る」吉備先史古代研究会7)

 熊山遺跡出土品には、中国殷周青銅器に類品が見られる(かなえ)もあります7)(写真16)。「鼎の軽重を問う」という故事成語がありますが、鼎は、中国初の王朝「夏」の創始者で「治水神」として知られる「禹王」が中国全土(九州)の牧(長官)から青銅を集めて作らせた「九鼎」が起源とされ13)、周代まで帝位の象徴とされていました。

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 写真16 鼎 出典:若狭哲六「女王国邪馬台国の謎に迫る」吉備先史古代研究会7)

邪馬台国と夏王朝
 (紀元前2070年頃-紀元前1600年頃)は、史書に記された中国最古の王朝で夏后氏ともいい、夏・三代といいます。河南省洛陽市偃師区翟鎮二里頭村にある二里頭遺跡は、紀元前1800年から紀元前1500年頃の遺跡と見られ、中国の史書の夏の時期に相当するため、中国ではこの遺跡は夏王朝の都の一つと考えられています。二里頭遺跡(北緯34度41分53秒)は、備前車塚古墳(北緯34度42分6秒)と同緯度にあります(図30)。これは、邪馬台国と夏王朝との関係を示しているのかもしれません。

図30 二里頭遺跡と備前車塚古墳を結ぶライン

 『日本書紀』の景行天皇の条に、天皇が筑紫に遠征した際、神夏磯媛(かむなつそひめ)が賢木(さかき)に上から順に「八握剣」「八咫鏡」「八尺瓊」を掛けて恭順しています。安田喜憲氏によると、龍に代表される黄河文明の吉数は九で、鳳凰に代表される長江文明の吉数は八か六としています14)。神夏磯媛は、八を吉数としているので後者と推定されます。

 晋の学者郭義恭が266年から280年ころにまとめたと考えられている『広志』には、伊都国の南に「邪馬嘉国(やまかこく)」があると記していますが、田中章介氏は、邪馬嘉国と邪馬臺国は、明らかに別の国であるとしています15)。もしかすると「邪馬嘉国」の「嘉(か)」は、「神夏磯媛」の「夏(か)」や「夏王朝」の「夏」と関係があり、線文字Bの「丸に十字」の「か」に由来するのかもしれません。「邪馬嘉国」は、『魏志』倭人伝の「邪馬台国」とは別の女王国で、卑弥呼の時代には邪馬台国(倭国)に属し、魏と交渉していたのかもしれません。

文献
1)茂木雅博 1974 「前方後方墳」 雄山閣出版
2)岡将男 2014 「吉備 邪馬台国東遷説」 吉備人出版
3)溝口睦子 2009 「アマテラスの誕生」 岩波新書
4)瀧音能之 2018 「出雲の謎大全」 青春出版社
5)武光 誠 2014 「地図で読む「魏志倭人伝」と「邪馬台国」」 PHP文庫
6)渡邉義浩 2012 「魏志倭人伝の謎を解く」 中公新書
7)若狭哲六 1991 「女王国邪馬台国の謎に迫る」 吉備先史古代研究会
8)柴田 一 編著 2012 「岡山県謎解き散歩」 新人物文庫 KADOKAWA
9)岡山大学埋蔵文化財調査研究センター編 2016 「吉備の弥生時代」吉備人出版
10)吉村武彦 2010 「シリーズ日本古代史② ヤマト王権」 岩波書店
11)孫 栄健 2018 「邪馬台国の全解決」 言視舎
12)並木伸一郎 2023 「日本史 書き残されたふしぎな話」 三笠文庫
13)王 敏 2014 「禹王と日本人」 NHKブックス
14)安田喜憲 2001 「龍の文明・太陽の文明」 PHP新書
15)田中章介 『魏志』倭人伝に係る、もう一つの解釈-邪馬台国位置論に関連して 大阪学院大学 人文自然論叢 <論説> 第77-78号 2019年3月