温故知新(7)孝霊天皇(須佐之男命 伊和大神 大山津見神(大山祇神) 八束水臣津野命 掖邪狗 賀茂建角身命 綿津見大神 伊和大神 刺国大神 兵主神 海童神 筒男命 御穂須須美命) 三穂津姫命(倭迹迹日百襲姫命) 彦五十狭芹彦命(吉備津彦命 五十猛神 イタテ神 大屋毘古神) 庵戸宮 メンフィス サムハラ神社奥の宮 伊和神社 兵主神社 須我神社 阿字八幡宮 妻木晩田遺跡
孝霊神社 真宮神社 ローマ 淤加美神社 賀茂地神社 四天王寺 補陀洛山円通寺 吉備津神社 中山神社 熊山遺跡 石上布都魂神社 チャタル・ヒュユク 楯築遺跡 勝間田神社 福栄神社 楽楽福神社 八雲山 日御崎神社 那岐山 木華佐久耶比咩神社 伊勢神社 百射山神社 綿津見神社 稲田神社 加茂岩倉遺跡 奥宇賀神社 須佐之男神社 氣比神宮 田村神社 長浜神社 磐船神社 諏訪神社 稲田神社 縄久利神社 楽々福神社 日御碕神社
孝霊神社と真宮神社、須我神社、ローマ
須勢理毘売(すせりびめ)が、卑弥呼、すなわち、倭迹迹日百襲姫命と考えられることから、須佐之男命が、第7代孝霊天皇と推定されます。岡山県倉敷市にある真宮神社(しんみやじんじゃ)は、建速須佐之男命を祀っています(写真1)。

倭迹々日百襲姫命を祀る香川県東かがわ市の水主神社本殿後方には、祭神の父・孝霊天皇を祀る孝霊神社があります。孝霊神社とローマを結ぶラインは、真宮神社や島根県雲南市大東町にある須我神社の奥宮・夫婦岩(須佐之男命御磐座)の近くを通ります(図1)。このラインは、孝霊天皇と須佐之男命を関係付けていると推定されます。

庵戸宮とサムハラ神社奥の宮、伊和神社、メンフィス
庵戸宮(廬戸宮)(いおとのみや)は、『古事記』『日本書紀』に伝わる古代日本の首都として営まれた皇宮(皇居)で、第6代孝安天皇暦102年に、第7代孝霊天皇により現在の奈良県磯城郡田原本町黒田周辺の地に遷都されたと伝えられています。庵戸宮と古王国時代にエジプトの首都だったメンフィスにあるメンフィス博物館を結ぶラインの近くに久安寺の八代竜王祠跡(奈良県生駒郡平群町)、庭田神社(兵庫県宍粟市)、播磨国一宮 伊和神社(兵庫県宍粟市)や邇々藝命、須佐之男命、保食神を祀る賀茂地神社(鳥取市佐治町加茂)があります(図2)。このラインは、サムハラ神社 奥の宮(津山市加茂)と大山祇命を祀る坂谷神社(鳥取市福部町)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。

庵戸宮跡とサムハラ神社 奥の宮を結ぶラインの近くに四天王寺(大阪市天王寺区)があります。四天王寺は、孝霊天皇と関係があると推定される熊野本宮大社とレイラインでつながっていますが、図2でも孝霊天皇と関係付けられていることから、四天王寺は聖徳太子が孝霊天皇を祀った寺ではないかと思われます。坂谷神社と庵戸宮跡を結ぶラインの近くに淤加美神社(兵庫県朝来市)があります(図2)。淤加美神の龗(おかみ)は龍の古語で、龍は水や雨を司る神として、貴船神社で祀られています。。
伊和大神と孝霊天皇(須佐之男命)
庭田神社(図2)は、成務天皇が創祀したとされ、『播磨国風土記』によると、伊和大神が伊和の地で、国造りに力を合わせた神々を集め、饗宴を開いた山河の清庭であるといわれています。伊和神社(図2)は、大己貴神(大国主命)を祀り、伊和大神は『播磨国風土記』にみえる神で、大国主命(孝元天皇と推定)と同一化されていますが、「国堅めましし大神(伊和大神)の子・尓保都比売命(丹生都比売命)」とあり、境界を定めて国の基礎を築いたとされ、丹生都比売命の父は須佐之男命(孝霊天皇)と推定されるので、伊和大神は孝霊天皇(須佐之男命)と推定されます。
兵主神社と吉備津神社、メンフィス
図2のラインから、サムハラ神社 奥の宮は、孝霊天皇(須佐之男命)と関係があると推定されます。岡山市南区には阿津の天皇山に素盞嗚命を祀る兵主神社(へいしゅじんじゃ)があります(図3)。兵主神社とメンフィス博物館を結ぶラインの近くに吉備津神社(岡山市北区)があり、このラインは、サムハラ神社 奥の宮(津山市)と補陀洛山 円通寺(倉敷市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。サムハラ神社 奥の宮と円通寺を結ぶラインの近くには、美作国一宮 中山神社(津山市)や星神社(岡山市北区)があります(図3)。

熊山遺跡と縄久利神社、須我神社、チャタル・ヒュユク
須佐之男命と関係があると推定される熊山遺跡とチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くに、大山祇命と磐長姫を祀る縄久利神社(島根県安来市)、須我神社(島根県雲南市)があります(図4)。このラインは、素盞嗚尊を祀る石上布都魂神社(岡山県赤磐市)の近くを通る、楯築遺跡(岡山県倉敷市)と勝間田神社(勝田郡勝央町)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。

須我神社の由来は、『古事記』によると、須佐之男命が八岐大蛇を退治した後、妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名したことによります。「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」と歌われ、日本初之宮(にほんはつのみや)と称されています。
石上布都魂神社と楯築遺跡、勝間田神社
石上布都魂神社は、備前国の一宮で素盞嗚尊を祭神としていますが、明治時代までは布都之魂を御神体としていたといわれています。勝間田神社のある勝間田は、出雲街道の宿場町として栄えた勝央町の中心にあります。楯築遺跡の被葬者や勝間田神社の祭神(正勝吾勝々速日天之忍穂耳命と推定)は、須佐之男命と関係があると推定されます。
熊山遺跡と福栄神社、楽楽福神社、八雲山、日御崎神社
メンフィス博物館と熊山遺跡を結ぶラインの近くの鳥取県日野郡日南町に須佐之男命も祀る福榮神社(ふくさかえじんじゃ)があり、熊山遺跡と紀元前2,500年ごろにフェニキア人の都市として成立したティルス(現在のスール)を結ぶラインの近くに楽楽福神社(ささふくじんじゃ)、『出雲国風土記』にでている「須我山」の主峰で須我神社の奥宮になる八雲山、天照大御神と素盞嗚尊を祀る日御碕神社(出雲市)があります(図5)。孝霊天皇やその妻、細姫、娘の福姫を祭る楽楽福神社は、「ささ」は砂鉄を表し「ふく」は溶鉱炉への送風を表したものであると伝わっているそうです。

石上布都御魂神社と吉備津神社、那岐山
吉備津神社と那岐山(岡山県勝田郡奈義町)を結ぶラインは、福榮神社の近くを通る熊山遺跡とメンフィス博物館を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。前者のラインの近くに石上布都御魂神社があります(図6)。

孝霊天皇(須佐之男命)と大山津見神(大山祇神)、賀茂建角身命
孝霊神社とパレルモを結ぶラインの近くには、大山積命(大山津見神、大山祇神)を祀る百射山神社(総社市三輪)や綿津見神社(岡山県新見市)、奇稲田姫命を祀る稲田神社(島根県仁多郡奥出雲町)、加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)、奥宇賀神社(出雲市奥宇賀町)があります(図7)。このラインは、熊山遺跡と木華佐久耶比咩神社奥の宮(岡山県倉敷市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。木華佐久耶比咩神社奥宮は木華佐久耶比咩神社の本殿の後ろにある福南山の山頂に鎮座しています。

名古屋市周辺には、須佐之男を祀った神社が多くありますが、浜松市中区にある須佐之男神社(浜松市中区鴨江)は、須佐之男命と木花咲耶比売命(櫛稲田姫との娘と推定)を祭神とし、チャタル・ヒュユクと結ぶラインの近くには、白山神社(浜松市中央区佐浜町)、津々崎弁天(浜松市)、須佐之男神社(岡崎市切越町)、八州一覧石(岡崎市)、名古屋城、氣比神宮などがあります(図8)。白山神社は、豊玉姫命(倭迹迹日百襲姫命)と関係があるので、須佐之男命(孝霊天皇)と関係付けられていると推定されます。

これらのレイラインは、孝霊天皇(須佐之男命)が大山津見神(大山祇神)であると推定されることと整合します。レイラインにある「スサノオ」を祀る神社は、「素戔嗚」ではなく「須佐之男」と表記されているように思われます。
大山津見神は、瓊瓊杵尊の妃の木花開耶姫の父なので、丹生都比売命(瀬織津姫、市杵島姫命と推定)の父の須佐之男命(孝霊天皇と推定)と推定されます。これは、大山祇神社(愛媛県今治市)が、倭迹迹日百襲姫命を祀る田村神社とレイラインで結ばれていることとも整合します。また、孝霊天皇は「三島明神」の化身とされていて、三島・大山祇信仰では、三島神を賀茂神社と同一神とする説があります。下鴨神社(賀茂御祖神社)の祭神は、賀茂建角身命と玉依媛命です。
愛知県津島市にある津島神社(つしまじんじゃ)は、主神に建速須佐之男命、相殿に大穴牟遅命(大国主命)を祀っていますが、社伝によれば、須佐之男命の和魂は、孝霊天皇45年に一旦対馬(旧称 津島)に鎮まった後、第29代欽明天皇元年(540年)に、現在地近くに移り鎮まったと伝えています。弘仁元年(810年)正月、第52代嵯峨天皇は「素尊は則ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いし」と詔して、津島神社に神階正一位と日本総社の号を賜ったとされます。
八束水臣津野命と須佐之男命(孝霊天皇)
八束水臣津野を祀る出雲市にある長浜神社は、倭迹迹日百襲姫命や五十狭芹彦命(吉備津彦命)を祀る讃岐国一之宮 田村神社とパレルモを結ぶラインの近くにあります(図9)。同じラインの近くには、伊弉諾尊ゆかりの吾妻山があります。このラインは、八束水臣津野命が孝霊天皇(須佐之男命)であることを示していると考えられます。

孝霊天皇(須佐之男命)を祀っていると推定される阿字八幡宮(岡山県瀬戸内市邑久町山手)とチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くには、須佐之男命を祀る磐船神社(安来市)や、『出雲国風土記』に「出雲社」とある諏訪神社があります(図10)。諏訪神社(出雲社)は、武御名方命と八束水臣津野神を祀っているので、このラインは、八束水臣津野神が孝霊天皇(須佐之男命)と推定されることと整合します。

熊山遺跡とパレルモを結ぶラインは、日御碕神社(松江市)の近くを通り、このラインは、妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)と稲田姫誕生の地と伝えられる稲田神社(島根県仁多郡奥出雲町)を結ぶラインとほぼ直角に交差し、稲田神社と妻木晩田遺跡を結ぶラインは、大神山神社(鳥取県米子市)、楽々福神社(ささふくじんじゃ)(鳥取県米子市上安曇)、縄久利神社(島根県安来市)の近くを通ります(図11)。

これらのことから、妻木晩田遺跡は、孝霊天皇(須佐之男命と推定)と関係があると推定されます。縄久利神社の「縄久利」の由来は「縄繰」と伝えられることから、主祭神は須佐之男命と推定される大山祇命(大山津見神)と磐長姫ですが、国引き神話の八束水臣津野命(須佐之男命)を祀っていると推定されます。
伯耆国だった鳥取県西伯郡の孝霊山から続く丘陵にある、妻木晩田遺跡は、弥生後期に栄え、古代出雲の中心地だったと考えられています。孝霊天皇は孝霊45年から孝霊71年頃まで山陰地方にいたという記録があるようで、鳥取県西部の日野川沿いには孝霊天皇を祭る神社が点在し、凶賊を征したという伝承が伝わっているようです。
『古事記』と『出雲風土記』
孝霊天皇の名前は、『日本書紀』では、大日本根子彦太瓊天皇、『古事記』では、大倭根子日子賦斗邇命で、「根子」が共通しています。『古事記』で、須佐之男命は、「妣(はは)の國根の堅州國に罷らむ」と言っていますが、『出雲風土記』に、「固堅め立つる加志は、伯耆(ははき)の国」とあることから、母親の出身地の「子(ね)」の方角(北)にある伯耆国に行きたいと言っていると推定されます。島根県の「島根」は、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)が命名したとされ、古くは、西日本の本州を「大和島(やまとしま)」と呼んでいたようなので1)、「大和島」の北を意味するのかもしれません。
鹿島神宮の境内には、日本を繋ぎ止めているとされる要石(かなめいし)が埋まっており、「根」が深いところから、地震をしずめるとされていますが、石破洋氏の「国引き神話」の新研究によると、出雲市国富町の木佐家にも要石が祀られています。中央構造線が、秩父地方で北に湾曲しているのは、伊豆半島の基になった島が、フィリピン海プレートにのって、日本列島のフォッサマグナに衝突したためと考えられています。日本近海は北の北アメリカプレート、東の太平洋プレート、南のフィリピン海プレート、西のユーラシアプレートの4つのプレートの境界が近接しています。ユーラシアプレートにある紀伊半島の地下には、マグマが固まってできた巨大な火成岩体があることが知られていますが、北アメリカプレートにある鹿島神宮や香取神宮の要石も同様な火成岩体の一部と推定され、これらが、日本列島を支えているともいえるのではないかと思います。
『出雲風土記』には、須佐之男命はあまり登場しませんが、代わりに、八束水臣津野命が、国引き神話などで登場します。「十束剣」は、アマテラスとスサノオの誓約の場面などで登場します。八束や十束の「束」は、親指を除いた4本の指の付け根の幅をいい、弓矢の長さをいう場合には「そく」と読みます。「束」は、古代エジプトの「パーム(シェセプ)」(約7.5cm)に相当します2)。日本では、中国から尺貫法が伝わる以前は、手を握ったときの親指をのぞいた4本指の幅である「握」や「拳」などが用いられていました。身体尺は、シュメールから伝わったと考えられていて、ひじの骨から中指の先までの長さをキュービットという単位で表し、木材の取引の円滑をはかっていたようです2)。日本のピラミッドの発見者の酒井勝軍は、日本でも太古においてはこれを尺度に使用したから、下膊(ひじと手首の間の部分)骨(かはくこつ)を一名尺骨といっているところを見ると、キュービットと日本の尺とは同系のものだったと思われると記しています3)。『旧約聖書』にある「ノアの方船」はキュービット尺で造船されたことが記されているようです。キュービットには、ロイヤル・キュービット(大キュービット)とスモール・キュービット(小キュービット)があり、ニュートンは、それぞれ王の腕と庶民の腕からとったいう説を唱えています。スモール・キュービットを一辺とした正方形の面積は、ロイヤル・キュービットの直径を持つ円の面積に等しいようです2)。
『魏志』倭人伝によると、西暦243年に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送っています。女王は卑弥呼と推定され、「掖邪狗(やじゃく)」は「八尺」で八束水臣津野命の「八束」に由来し、京都市東山区祇園町にある八坂神社は、元は祇園社だったので、「八尺」が「八坂」に変化したとすれば、掖邪狗は、須佐之男命と推定されます。
『出雲風土記』では、八束水臣津野命が天狗山(熊野山)に住む天狗であるとして、天狗山に祠(ほこら)を造って祀るようになったのが、出雲にある熊野大社の始まりとしていますが、天狗は、後世、本居宣長によって素戔嗚尊と同一神とされました。熊野三山(本宮・速玉・那智各大社)の熊野本宮大社と、剣山、元伊勢外宮 豊受大神社をラインで結び三角形を描くと、剣山と元伊勢外宮 豊受大神社を結ぶラインは、熊野本宮大社とアレクサンドリアを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図12)。剣山と元伊勢外宮 豊受大神社を結ぶラインと白人神社(徳島県吉野川市)があり、元伊勢外宮 豊受大神社と熊野本宮大社を結ぶラインの近くには大仙陵古墳があります(図12)。熊野本宮大社とアレクサンドリアを結ぶラインの近くには、開化天皇を祀っていると推定される貴船神社(岡山県瀬戸内市)、天鈿女命・猿田彦命を祀る出雲井神社(島根県雲南市)があります(図12)。

『古事記』4)と『出雲風土記』5)は、合わせて読むと、『出雲風土記』にある「八束水臣津野」の「八束」と「津野」は、『古事記』にある、須佐之男命の「八拳須(やつかひげ)」と「御角髪(みずら)」に対応し、また、「水臣」は、須佐之男命が、伊邪那岐命から「海原を知らせ」と指示されたことに対応していると考えられます。「八束水臣津野命」は、須佐之男命であると推定され、『出雲風土記』で八束水臣津野命が、意宇の杜で「おゑ(おう)」と言っているのは、須佐之男命が妻とした奇稲田姫命が、多(意富)氏であることを表しているのかもしれません。
吉備と八岐大蛇退治の伝説
備前の中心だった赤坂郡(現在、赤坂郡と磐梨郡が合併し赤磐郡となっている)は、古くは西は旭川から東は吉井川まで達する広範囲の郡域を持ち、郡北部の山地には、石上布都魂神社が鎮座しています(図13)。和名抄には、赤坂郡に鳥取郷が記載されているので、高天原を追放されたとされる須佐之男命が降り立った「鳥髪(鳥上)」は、赤坂郡の鳥取郷の北部を表していると思われます。石上布都魂神社の南南東に、鳥取上高塚古墳があり、石上布都魂神社の北東の吉井川近くの赤磐市戸津野に、御剣を祀ったとされる古社の素戔嗚神社があります。「津野」の地名は、八束水臣津野命に由来すると推定されます。素戔嗚神社(赤磐市戸津野)と備中国総社宮(総社市)(写真1、2)を結ぶラインは、鳥取上高塚古墳とパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図13)。八岐大蛇退治の伝説は、世界中に分布し、「ペルセウス・アンドロメダ型神話」と呼ばれていますが7)、『出雲風土記』に載っていないのは吉備を舞台とする話だったためと思われます。



賀茂建角命と八束水臣津野命
神武東征の説話で、道案内をした八咫烏(やたがらす)は、『新撰姓氏録』では、葛城を治めた賀茂氏の先祖とされる賀茂建角命(かもたけつぬみのみこと)で、鴨県主(かものあがたぬし)の祖とされています。「八咫烏」の「咫」は、周尺(19.1cm)のことで、中国の文献に「周代の尺で8寸を咫という」とあるのは、1尺が24cm程度だった三国時代の頃の文献と推定されます。「賀茂建角命」の「賀茂」は「鴨」で、「鴨」の枕詞は「水鳥の」なので「水」と関係し、「角」と合わせると「八束水臣津野命」と同様に、須佐之男命と推定されます。また、熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(須佐之男命)に仕える存在として信仰されています。
モーセ(モーゼ)は、実在を疑問視する人が多いですが、古代イスラエルの民族指導者で旧約聖書の「出エジプト記」では、葦の海(紅海)を渡ったとされています。ミケランジェロの彫刻やレンブラントの絵画にみられるように、中世ヨーロッパ美術においては、モーゼはしばしば角(つの)のある姿で描かれています。ギョベクリ・テペの遺跡などから、太古から、豊穣神たる「角を生やした(主に牛の)神、有角神」への信仰があったと推測されています。古代中国の伝承に登場し、医療と農耕の知識を人々に広めた三皇五帝の一人である神農(しんのう)も、頭に角があります。これらは、須佐之男命と推定される「賀茂建角身命」の「角」と関係があると思われます。神農は初代炎帝ともされ、伝説では炎帝と黄帝は異母兄弟であり、共に関中を流れる姜水で生まれた炎帝が姜姓を、姫水で生まれた黄帝(こうてい)が姫姓を名乗ったとされています。黄帝は、神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、本来は「皇帝」と表記されましたが、戦国時代末期に五行思想の影響で「黄帝」と表記されるようになりました。彼以降の4人の五帝と、夏・殷・周・秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされています。
八咫烏とグリフィン
ギリシャ神話では太陽神アポロンがカラスを使いとしており、また、中国の神話には、太陽のなかに住むという鳥「三足烏(さんそくう)」が登場します。12世紀のポメラニア公家の紋章にあるグリフィンは、高句麗古墳群に現れる三足烏と形が類似していることから(図14)、黒いグリフィンが三足烏の由来かもしれません。

出典:「ポメラニア公家」 wikipedia
と高句麗古墳群の真坡里(しんはり)7号墳出土の6世紀後半の透かし彫りの三足烏(右)
出典:https://lunabura.exblog.jp/15054896/
ギリシャ神話では、黒いグリフィンは、女神メネシスの車を引き、メネシスはガチョウ(カモ科の鳥)に変身します。日本では「八咫烏は賀茂(鴨)氏の祖」だと言われています。ネメシスは、トルコ西部の都市イズミル(スミュルナ)で崇拝され、アフロディーテに似た性格の女神だったようです。ヘロドトスによれば、イズミルは紀元前1000年頃にアイオリス人によって建設され、その後、イオニア人たちの手に渡り、文化的・商業的中心地として大きく発展しましたが、紀元前600年ごろのリュディアの攻撃によって破壊されたようです。イズミルの付近にはエフェソスなどの古代遺跡があります。
グリフィンは、クレタ島のクノッソス宮殿の壁画にも描かれ、鷲の頭、ライオンの体、蛇の尻尾を持ち、鷲は天空の神、ライオンは地上の神、蛇は地下・冥界の神を象徴するといわれています。イングランド王室の紋章やスコットランドの紋章にあるライオンは、三本の爪の形は鷹に類似し、足や尾の形はポメラニア公家の紋章にあるグリフィンと類似し、キリスト教ではライオンや鷲を聖なる象徴としていることから、鳥類の王と百獣の王の合成獣(グリフィン)と推定されます。グリフィンの生まれた場所は、スーサとされています6)。八坂神社は、一般的には、西暦656年に韓国(からくに)の伊利之使主(いりしのおみ)が来朝し、新羅国牛頭山のスサノオを奉斎して祀ったのがはじまりとされています。したがって、高句麗の三足烏が八咫烏の由来で、須佐之男命と結びついたと推定されます。
御穂須須美命と住吉三神
長崎県対馬市にある海神神社(かいじんじんじゃ)は、豊玉姫命を主祭神とし、彦火火出見命、宗像神を配祀神としています。また、対馬市には、彦火火出見命(山幸彦 珍彦 大国主命)と豊玉姫を祀る和多都美神社(わたつみじんじゃ)があります。古くから竜宮伝説が残されていて、珍彦は浦島太郎のモデルともいわれています。和多都美神社は、北緯34度22分にありますが、広島県福山市にある沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は、北緯34度23分でほぼ同緯度にあり、神功皇后が綿津見命を祀り、海路の安全を祀られたことにはじまるとされ、鞆の祇園さんとも呼ばれ、須佐之男命も祀られています。千葉県銚子市にある渡海神社(とかいじんじゃ)は、綿津見大神・猿田彦大神を祀っているので、「ワタツミ」には「海を渡る」という意味があると推定されます。
兵庫県神戸市垂水区に海神社(わたつみじんじゃ かいじんじゃ)があり、綿津見大神を祀っています。大阪市住吉区の住吉大社(北緯34度36分)は、航海の守護神を祀っていますが、海神社(北緯34度37分)とほぼ同緯度にあり(図15)、住吉大社と対馬国一宮 海神神社(長崎県対馬市)を結ぶラインの近くに海神社があります(図15)。海神神社(対馬市)は、豊玉姫命を主祭神としていますが、江戸時代までは八幡本宮と号し八幡神(須佐之男命と推定)を祀っていたようです。住吉大社が西を向いているのは、西に海神(須佐之男命)が鎮座しているためではないかと思われます。

三浦佑之氏は、美保神社(島根県松江市)には、須須神社奥宮(石川県珠洲市)と同じく、御穂須須美命(ミホススミ)という神が祀られているとし8)、『出雲国風土記』意宇郡条の八束水臣津野命の「国引き詞章」に「高志の都都(つつ)の三埼」が出てくることから、「ミホススミ」は元は「ミホツツミ」と推定しています9)。対馬市には、多久頭魂神社がある厳原町豆酘(つつ)があり、都々智神社には天狹手依比女神と表筒男命・中筒男命・底筒男命が祀られています。御穂須須美命は、住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)と同じく、須佐之男命と思われます。
住吉大社(大阪市住吉区)は、表筒男命・中筒男命・底筒男命と神功皇后を祭神としています。住吉大社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くには住吉神社(大阪市西淀川区)、風森一ノ宮神社(兵庫県丹波市)、大年神社(金尾)(京都府福知山市)があり、このラインは、美保神社と須須神社 金分宮(珠洲市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図16)。住吉大社と美保神社を結ぶラインの近くには、安志加茂神社(兵庫県姫路市)、那岐山があり、須須神社と住吉大社を結ぶラインの近くには京都市上京区の御霊神社(上御霊神社)があります(図16)。御霊神社の地には平安遷都以前から出雲氏の氏寺・上出雲寺があり、当社の元はその鎮守社であったともされます。

須須神社の高座宮(たかくらぐう)・金分宮(きんぶんぐう)の両社には夫婦の大神が祀られています。高座宮に祀られる高倉彦神は、高倉下命(大国主命と推定)と推定されるので、金分宮に祀られているのは、大国主命(孝元天皇と推定)の后で、美保神社に祀られている三穂津姫命(倭迹迹日百襲姫命と推定)されます。
氷川神社と天叢雲剣
『東備郡村志』(吉備群書集成)には、旭川について「岡山都下を流るヽ大河也。上古には是を蓑川、或は簸川又は氷川と云ふ」とあるようです。須佐之男命の大蛇退治に記された簸川(肥の河)の「簸」は、ひる、箕で穀物のぬかやごみを除く意味があり、砂鉄を採った川と推定されます。西播磨には、古代より砂鉄を利用した「たたら製鉄」が行われた宍粟市千種町・一宮町北部・波賀町など宍粟市北部で生産された千草鉄(宍粟鉄)や、マンガン鉱(写真4)を産出した上月鉱山(佐用町上月町)などがあります。主なマンガン鉱床は、丹波や秩父にあり、埼玉県飯能市の龍崖山にはマンガン鉱山跡があります。

俵国一氏は、古代の直刀には、通常の砂鉄に含まれるより多量の銅やマンガンが含まれると指摘されているようです7)。マンガンは酸素及び硫黄と結合しやすい性質をもつため、鉄鋼の製錬時における脱酸・脱硫に使用され、また、鉄鉱石に含有するマンガンは鋼の焼入性と強靱性を高めることが知られています。八岐大蛇(やまたのおろち)の尾にあったとされる「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」で、十握剣の刃が欠けたとされるのは、「天叢雲剣」の鉄にはマンガンが含まれていて、強靭だったことを表しているのかもしれません。また、マンガンには肥料効果もあるので、「肥の河」の名前の由来かもしれません。岡山県南部の津島遺跡では、水田土壌に鉄やマンガンの層が見つかっています。吉井川の源流には「阿波」の地名があり(図17)、近くに「那岐山(なぎさん)」や土師神社のある「埴師(はにし)」や「智頭(ちづ)」があり、鳥取県八頭郡智頭町にはマンガン鉱床があったので、吉井川が八岐大蛇伝説の簸川(肥の河)だったと推定されます。那岐山は古くは那岐の仙(なぎのせん)と呼ばれ、イザナギ、イザナミに由来するとも、近隣の後山との高さ比べに負けて泣いたことから「ナキノセン」になったともいわれています。アシナヅチとテナヅチが肥河の上流で泣いていたというのは、「那岐山」の掛詞と思われます。

『古事記』では、孝霊天皇の時に皇子の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと 吉備津彦命)が弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)とともに派遣され、針間(播磨)の氷河之前(比定地未詳)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として吉備国の平定(言向(ことむ)け和(やは)す)を果たしたとされています。
須佐之男命を祀る武蔵一宮 氷川神社は、「檜川神社」とも書かれ、神戸市長田区に檜川町があるので、針間の「氷河」は「檜川」と推定されます。氷川神社とメンフィス博物館を結ぶラインは、武蔵二宮 金鑚神社(埼玉県児玉郡神川町)、總持寺祖院(石川県輪島市)の近くを通り、このラインは、富士山本宮浅間大社奥宮(静岡県富士宮市)と西ヨーロッパに見られるドルメン(支石墓)に似ている続石(岩手県遠野市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図18)。氷川神社、富士山本宮浅間大社奥宮、続石を結ぶ三角形のラインの近くには、御正体山、大國神社(仙台市)、霊山寺(福島県伊達市)、白鷺神社(栃木県河内郡上三川町)があります(図18)。

氷川神社は、元々は竜神信仰の神社であったといわれ、氷川神社(大宮区高鼻)は見沼区中川の中山神社(中氷川神社)と緑区三室の氷川女体神社と見沼で結ばれた三社一体の神社であったといわれます。これらの神社は直線上にあることが知られていますが、メンフィスと氷川女体神社を結ぶラインは、氷川神社や中山神社の近くを通ります(図19)。

武蔵一宮 氷川神社と続石(岩手県遠野市)を結ぶラインは、氷川神社と17,000~12,000年前には、北極があったともいわれるハドソン湾を結ぶライン(図20)とほぼ重なります。このラインの近くには、仙台東照宮(宮城県仙台市)、観福寺(岩手県一関市)、牛頭天王神社(岩手県下閉伊郡岩泉町)があります(図20)。

彦五十狭芹彦命と五十猛命
彦五十狭芹彦命の「狭芹」は「狹城(佐紀 さき)」と推定され、「五十狭芹(いさき)」は、邪馬台国の大夫の「伊聲耆(いせき)」で、須佐之男命の子、五十猛神(いそたける いたける イタテ神)と思われます。
須佐之男命は、その子五十猛神(いたけるのかみ)を連れて、新羅の国のソシモリに降りますが、「この土地にはいたくない」といって、土で船を造り、海を渡ってしまいます。新羅国の牛頭山は、韓国慶尚北道の高霊にある「ソシモリ(牛の頭)山」で、須佐之男命が、舟をつくるのに良いとされた楠木を探しても、見つからなかったと伝わっているようです。
エジプト・ギザのピラミッド付近で発見された「太陽の船」の部材は多くにレバノン杉が使われていますが、古代エジプトにおいても、ナイル周辺では良質の木材は得られず、遠くレバノンまで求めていたようです。紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃に地中海沿岸の広い地域に広がり、海上交易に活躍したフェニキア人は、レバノン杉を伐ってガレー船建造や木材・樹脂輸出を行い、全地中海へと進出しました。カディーシャ渓谷と神の杉の森は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。須佐之男命と五十猛神は、日本各地に木の種をまき、木の神として知られています。京都府与謝郡には、木積神社(きづみじんじゃ)がありますが、五十猛神(木の国の大屋毘古神)と大物主神を祭神としています。須佐之男命は、海洋民族のフェニキア人と関係があったのかもしれません。
和歌山市内にある伊太祁曽神社には、五十猛命(大屋毘古神)が祀られています(図20)。日前神宮・國懸神宮と竈山神社、伊太祁󠄀曽神社に参詣することを「三社参り」といいますが、伊太祁󠄀曽神社と古代都市セリヌス(Selinus Ancient City)を結ぶラインの近くに日前神宮・國懸神宮があります。これは、五十猛命と天照大御神(大日孁貴)の関係を示していると推定されます。住吉大社と稚日女尊、息長足姫尊、衣通姫尊を祀る玉津島神社(和歌山市)を結ぶラインと、伊太祁曽神社とセリヌスを結ぶラインは、ほぼ直角に交差し、交点付近に日前神宮・國懸神宮があります(図21)。玉津島は、紀氏と丹生氏の神事の場所であり、両氏族にとっての聖地であったようです(名勝和歌の浦 玉津島保存会)。伊太祁󠄀曽神社とセリヌスを結ぶラインは、和気由加神社(岡山県和気郡和気町)の近くを通ります(図21)。

また、伊太祁󠄀曽神社とセリヌスを結ぶラインは、竈山神社と大屋都姫神社(和歌山市宇田森)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図22)。

メンフィス博物館と伊太祁󠄀曽神社を結ぶラインは、長浜神社、稲田神社、靭負神社(岡山県瀬戸内市)の近くを通り、伊太祁󠄀曽神社とギョベクリ・テペを結ぶラインは、石上布都魂神社、須我神社の近くを通ります(図23)。これらのラインは、五十猛命と須佐之男命との関係を示していると推定されます。

玉置神社(奈良県吉野郡十津川村)とスール(ティルス)を結ぶラインの近くに、伊太祁󠄀曽神社、日前神宮・國懸神宮、石見神社(鳥取県日野郡日南町)、磐船神社(島根県安来市)、韓竈神社(出雲市唐川町)があります(図24)。

庵戸宮跡に建てられたのが奈良県磯城郡田原本町黒田にある法楽寺といわれています。孝霊神社は、廬⼾神社ともいわれ、もとは法楽寺の鎮守社で、明治時代初期の神仏分離令により現社地へ遷座し、⿊⽥村の⽒神として引き継がれたようです。奈良県や和歌山県を中心に「庵戸(いおと、あんど)」という名称が希少姓として数世帯存在しますが、この一族は、孝霊天皇の第3皇子を始祖とする末裔であると代々伝承されているようです。市町村で最も多いのは、和歌山県西牟婁郡上富田町で、町内に稲葉根王子神社があります。「稲葉」は大国主命との関係を表し、「根」は須佐之男命(孝霊天皇)を表していると思われます。祭神は稲荷神の姿をした金剛童子で、須佐之男命の娘の豊受大神(稲荷神)の兄弟と思われ、孝霊天皇の第3皇子の彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)で、木国(紀伊国)の大屋毘古神(五十猛神)と推定されます。稲葉根王子神社とメンフィスを結ぶラインは、孝霊神社(香川県東かがわ市)の近くを通り、稲葉根王子と孝霊天皇との関係を示していると推定されます。また、このラインは多祁伊奈太伎佐耶布都神社(広島県福山市)、亀山八幡宮(広島県神石郡神石高原町阿下)の近くを通ります(図25)。

文献
1)若井正一 2004 「ヤマトの誕生」 文芸社
2)松本 弥 1996 「古代エジプト美術手帳」 弥呂久
3)酒井勝軍 素波英彦(編) 2020 「太古日本のピラミッド」 復刻新訂版 知玄舎POD書籍
4)倉野憲司 2017 「古事記」 岩波文庫
5)荻原千鶴 2018 「出雲国風土記」 講談社学術文庫
6)林 俊雄 2006 「グリフィンの飛翔」 雄山閣
7)黒岩俊郎 1976 「たたら 日本古来の製鉄技術」 玉川大学出版部
8)三浦佑之 2016 「古事記・再発見」 KADOKAWA
9)松本直樹 2016 「神話で読みとく古代日本」 ちくま新書
