温故知新(18)応神天皇(中彦命 仲彦命) 尾上車山古墳 葦守八幡宮 誉田御廟山古墳 仲哀天皇 佐紀陵山古墳 山上八幡神社 仁徳天皇 大仙陵古墳 高津宮 仲姫命 上石津ミサンザイ古墳 大中姬(大中津比売命) 仲津山古墳 履中天皇 淡輪ニサンザイ古墳 反正天皇 土師ニサンザイ古墳 允恭天皇 岡ミサンザイ古墳 草香幡梭姫皇女 鳥屋ミサンザイ古墳 八剱八幡神社 白山比咩神社 若宮八幡神社 本荘神社
応神天皇と大歳神
第15代応神天皇(おうじんてんのう)は、『日本書紀』では誉田天皇(ほむたのすめらみこと)と記され、足仲彦天皇(仲哀天皇)の第四皇子とされています。『日本書紀』によると、仲哀天皇は西征のさなかに没し、神功皇后が三韓に遠征した際には胎内にあり、帰国後に筑紫で生まれたとされています。しかし、生まれたのは仲哀天皇が崩御してから十月十日後で、実子では無いことを示唆しているとする説もあります。品陀真若王(大樹と推定)の娘が、応神天皇の后の仲姫命ですが、丹生氏の系図にある「大樹」の子の「伊集岐」は応神天皇の后の「仲姫命」と推定され、応神天皇は丹生氏の系統ではなかったと推定されます。
大歳神社は、須佐之男命と神大市比売の子の大歳神を祀る神社ですが、兵庫県南部に比較的多くあります。神戸市西区岩岡町岩岡にある大歳神社の祭神は応神天皇と大歳神で、岩岡町野中にある大歳神社では、応神天皇、大歳神、御年神です。また、加西市琵琶甲町にある大歳神社では、大歳神、応神天皇、素盞嗚命が祀られています。大歳神社(岩岡町野中)とロドス島を結ぶラインは、素戔鳴尊と五十猛尊を祀る廣峯神社(姫路市)や伯耆稲荷神社(鳥取県東伯郡琴浦町)の近くを通ります(図1)。このラインは、応神天皇と須佐之男命(孝霊天皇と推定)の血縁関係を示していると推定されます。

和歌山県紀の川市にある大歳神社の主祭神は大市姫命とされていますが、社伝によると、大歳神は御父神の勅を奉じて筑紫の国より五穀を播き始め、全国限なく播種し終り、当地に鎮り給う、当地最古の神であるとされるので、大歳神は須佐之男命の子の五十猛神(紀伊国の大屋毘古神)と推定されます。したがって、応神天皇は、第7代孝霊天皇(須佐之男命と推定)と倭国香媛(神大市比売、大日孁貴と推定)の間に生まれた皇子で大歳神と推定される彦五十狭芹彦命(大吉備津日子命 吉備津彦命)の親族と推定されます。
応神天皇(中彦命(仲彦命))と大吉備諸道命
上道臣は、吉備国上道郡一帯を支配した上道国造を務めた豪族で、『古事記』に記されているように、大吉備津日子命(吉備津彦命)を祖とすると考えられ、応神天皇は、吉備の上道臣と同族と推定されます。『日本書紀』では、応神天皇の時代に吉備臣の祖である御友別の子の仲彦(なかつひこ)が吉備国上道県(きびのかみつみちのあがた)に封ぜられたとしていますが、『先代旧事本紀』によると、応神天皇の時代に、元から上道国の領主をしていた中彦命(なかつひこのみこと)の子である多佐臣(たさのおみ)を国造に定めたことに始まるとされます。応神天皇は、上道臣と同族と推定されるので、中彦命(仲彦命)が応神天皇となったのではないかと推定されます。下記によると、仲彦命は孝霊天皇の兄の大吉備諸道命の後裔で吉備津神社と関係があるようです。
吉備津神社の社家は、古来賀陽氏が務めた。賀陽氏は、孝安天皇の皇子大吉備諸道命の後裔にあたる仲彦命が賀夜国造となり、さらにその子孫の高室のとき賀陽臣をたまわり、高室は吉備津神社に奉仕したという。
上道郡は、備前国の中心地として栄えた地域で、西は旭川、東は吉井川まで至る郡域を持っていましたが、現在の岡山市中心市街地は御野郡でした。かつては、岡山市中心北部、三野周辺に御野郷があったようです(図2)。岐阜県の「美濃」は、元は「三野」や「御野」と表記され、「御野」は天皇の平野を意味する表記ではないかと考えられています。岡山市北区北方にある御野の近くには大和町があり、御野とオリンポス山を結ぶラインは、大和町と三野を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。御野と大和町を結ぶラインの近くには天計神社(北区中井町)があります。御野の近くには、出雲国日御碕神社から勧請したとされる大国主命、猿田彦命、須佐之男命を祀る御崎宮(北区北方)があります。御崎宮は、元は上道郡竹田地内(現在の岡山市中島)に鎮座していましたが、天正年間に宇喜多秀家が現在地に遷宮したといわれています。倭国(邪馬台国)の都は、応神天皇の代には吉備にあったと推定されることから、この付近に応神天皇の宮があったと推定されます。崇神天皇が水垣宮の東側に先祖を祀っていることとも整合します。

応神天皇と尾上車山古墳
岡山市街地から西にある「吉備の中山」の南東端に、尾上車山古墳(岡山市北区)があり、尾上車山古墳とオリンポス山を結ぶラインの近くに、孝霊天皇皇子の大吉備津彦命(吉備津彦命)の墓に治定されている中山茶臼山古墳があります(図3)。尾上車山古墳は、墳形・出土埴輪から古墳時代前期前半の4世紀後半頃の築造と推定され、前方部が開かない「柄鏡式」の前方後円形で、前方部は、近くにある倭国香媛(神大市比売、天照大神 大日孁貴神)の墓と推定される楯築遺跡に類似しています。オリンポス山と楯築遺跡を結ぶラインの近くに孝霊天皇(須佐之男命と推定)の陵墓と推定される鯉喰神社(弥生墳丘墓)があります。鯉喰神社と天福寺のある大平山(牧場跡地)を結ぶラインは、尾上車山古墳や楯築遺跡とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。また、尾上車山古墳は、須佐之男命を祀る真宮神社や王墓山古墳とほぼ同緯度にあります(図3)。

尾上車山古墳とマラケシュを結ぶラインは、応神天皇ゆかりの葦守八幡宮(岡山市北区下足守)の近くを通ります(図4)。

尾上車山古墳の近くにある石清水八幡宮と深い関係のある白石八幡宮(岡山市北区)とスサを結ぶラインの近くに尾上車山古墳があります(図5)。

尾上車山古墳と応神天皇の宮があったと推定される御野(岡山市北区北方)を結ぶラインは、崇神天皇の宮(鹿田遺跡)があったと推定される鹿田本町と聖ミカエルの山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。これらのラインは、尾上車山古墳が須佐之男命と関係のある応神天皇(中彦命(仲彦命))の陵墓であることを示していると推定されます。

三野公園(岡山市北区三野本町)には、前方後円墳型の山があり、後円部の頂上には天神社があります(図7)。三野公園とスカラ・ブレイを結ぶラインは、ほぼ山の中心線を通り、このラインは、五男三女神を祀る真名井神社(岡山市北区御津中泉)の近くを通ります(図7)。

三野公園と尾上車山古墳を結ぶラインは、岡山城とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差し(図8)、岡山城とモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くには、美保神社(島根県松江市美保関町)があります(図9)。三野公園の山は、応神天皇が山を削って作らせた城ではないかと思われます。


百済の第18代王腆支王(てんしおう)は、397年 (応神8年)に人質として倭国に赴いたという記事が『日本書紀』と『三国史記』にあることから、応神天皇は390年に即位したと推定され、在位が40年とすると、亡くなったのは430年頃と推定されます。尾上車山古墳は、4世紀後半頃の築造とされることから、応神天皇が在位中に築造し、砦として使用したのかもしれません。尾上車山古墳の南側に広がる水田地帯はかつては海で、「臨海型」の古墳であることは、仲哀天皇の皇子の麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)が、神功皇后と戦うために作ったともいわれている4世紀末-5世紀初頭の築造と推定されている五色塚古墳(神戸市垂水区)と類似しています。
仲哀天皇、香坂王、忍熊王と佐紀古墳群
佐紀古墳群(佐紀盾列古墳群)は、4世紀後半から5世紀前半に巨大前方後円墳を営むようになり、中期末の5世紀後半から末葉になると弱小化します。4世紀後半の築造と推定される佐紀陵山古墳は、五色塚古墳と相似形で、奈良市山陵町にあり、佐紀陵山古墳と相似形の古墳は、他に、膳所茶臼山古墳(滋賀県)・御墓山古墳(三重県)・摩湯山古墳(大阪府)があります(図10)。また、付近の八尾市や平群には、朝鮮式山城があります。このことから、4世紀後半当時に畿内制的な領域支配が存在したとする説があります。佐紀陵山古墳の石室例は、大阪府柏原市の渡来系氏族の船氏王後墓誌の出土地に推定された丘陵にある松岳山古墳にその類例がみられるだけのようです。

秦氏の氏神の広隆寺(京都市右京区太秦蜂岡町)(図11)と佐紀陵山古墳の南側にある山上八幡神社(奈良市山陵町)を結ぶラインは、佐紀陵山古墳の中心を通ります(図11)。山上八幡神社は、誉田別命(八幡大明神)・天照皇大神・天児屋根命(春日大明神)を祀っています。広隆寺は、603年(推古天皇11年)に秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古の寺とされます。広隆寺近隣にある秦始皇帝、弓月王、秦酒公を祀る大酒神社は、明治時代の神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものなので、佐紀陵山古墳が造られた時は、大酒神社があったのではないかと思われます。

広隆寺と五社神古墳(神功皇后陵)の拝所を結ぶラインは、五社神古墳の中心を通るので、五社神古墳の被葬者も渡来系の王と推定されます(図12)。

伏見稲荷大社(京都市伏見区)と成務天皇陵拝所を結ぶラインは、佐紀石塚山古墳のほぼ中心を通ります(図13)。『山城国風土記』にあったとされる「イナリ」の縁起には「秦氏の祖霊として創建」されたとするものがあります。

忍熊王(忍熊王子)の墓は、時間的、労力的に余裕がなかったために、仲哀天皇の陵墓(佐紀陵山古墳と推定)に隣接して作られたと考えると、忍熊王(忍熊王子)の墓は佐紀石塚山古墳で、香坂王(麛坂皇子)の墓は五社神古墳と推定されます。
佐紀古墳群にある5世紀前半のコナベ古墳は、航空レーザによる古墳の3次元測量調査の結果、西側のくびれ部の造り出しの形が、佐紀石塚山古墳と似ているといわれています(YouTube:飛鳥古代史)。伏見稲荷大社とコナベ古墳や5世紀中頃のウワナベ古墳を結ぶラインは、佐紀石塚山古墳と同様に、ほぼ古墳の中心を通ることから(図14)、コナベ古墳の被葬者は、忍熊王の母で香坂王(麛坂皇子)の妃、ウワナベ古墳の被葬者は忍熊王の妃かもしれません。

秦氏は、815年に編纂された『新撰姓氏録』によれば、秦王朝の始皇帝の末裔であるという意味の記載があり、また『日本書紀』応神天皇条によると、応神天皇14年に百済を経由して百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君が秦氏の祖とされています。2006年6月28日の新華社電は、始皇帝陵の陪葬墓から出土した人骨の墓から出土した人骨がペルシャ系のDNA と同じ特徴を持つ男性の骨と分かったと伝えています。1966年に奈良市佐紀町にある平城宮東南隅の遺構から「破斯清道」の名を記した木簡が出土していますが、「破斯」という文字は、ペルシャを意味する「波斯」と同音で、同様の意味を持つと判断されています。秦氏は新羅を経て渡来したとされますが、大和岩雄氏は、百年間ほど、断続的に、朝鮮半島の南部の伽耶地域を中心として新羅に及ぶ範囲から、渡来したと考えています1)。仲哀天皇と関係があると推定される「伴跛(はえ)国」は、新羅と関係があるようなので(wikipedia 伽耶、伴跛は何故戦ったのか)、秦氏は「伴跛国」と関係があると推定されます。これは、秦氏の氏神の広隆寺とつながっている佐紀陵山古墳が、仲哀天皇の陵墓と推定されることと整合します。
応神天皇と誉田御廟山古墳
大阪府羽曳野市の応神天皇陵に治定されている誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)は、5世紀の第1四半期の築造と推定されています。応神天皇陵の拝所と熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)を結ぶラインは、誉田御廟山古墳の中心点を通ります(図15)。

誉田御廟山古墳と熊野那智大社を結ぶラインは、物部氏が祭祀してきたと考えられている石上神宮(奈良県天理市)と出雲大社大阪分祠(大阪府堺市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図16)。出雲大社大阪分祠は、島根県の出雲大社からの分祠ですが、大国主命に加えて、大阪分祠となる前から火之迦倶槌神を主祭神としていたようです。このラインから、物部氏は、古市古墳群に応神天皇の陵墓を新たにつくり直したと推定されます。

古市誉田古墳群のあたりは、「河内飛鳥」とも呼ばれ、渡来系の豪族が多く居住していました2)。誉田御廟山古墳の後円部の頂上には六角堂があったようで、白石太一郎氏は「三昧堂」が建てられたと推定しています。「三昧堂」は本来、死者の菩提のために法華三昧の行事を行うためのもので、藤原氏の祖先の墓所などにも建てられています3)。誉田御廟山古墳の北側におかれた誉田丸山古墳という陪塚から金銅装馬具が出土していますが、伽耶高霊の古墳出土の文様に酷似し、朝鮮半島からの舶載品を含んでいるとされているようです。
誉田御廟山古墳に接して誉田八幡宮がありますが、誉田八幡宮は、11世紀の中頃の成立と考えられていて、八幡総本宮の宇佐神宮や石清水八幡宮、鶴岡八幡宮と異なり、比売大神に替えて仲哀天皇を祭神とし、応神天皇・神功皇后・仲哀天皇を主祭神としています。仲哀天皇(小碓尊 日本武尊と推定)を八幡神としたのは、倭建命が八幡神とされていたためと推定されます。誉田八幡宮とスカラ・ブレイを結ぶラインは、石清水八幡宮と宇佐神宮を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図17)。

島根県松江市にある平濱八幡宮や、山口県下関市にある亀山八幡宮は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祭神としていることから、誉田八幡宮と同じ頃かその後に、仲哀天皇を八幡神としたと思われます。739年に宇佐神宮から勧請された石清水八幡宮 神明殿(高松市)も応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祭神とし、石清水八幡宮 神明殿とマラケシュを結ぶラインの近くに平濱八幡宮があり、クサール・ヌアイラと宇佐神宮を結ぶラインの近くに亀山八幡宮があります(図18)。

誉田八幡宮が成立したころの第72代白河天皇(在位:1073年-1087年)の母は藤原氏閑院流(藤原北家支流)藤原公成の娘の藤原茂子で、その後、閑院流は代々の天皇の外戚として権勢を振るうようになったといわれています。仲哀天皇の陵墓と推定される佐紀陵山古墳の近くにある山上八幡神社(図10)は、天児屋根命(春日大明神)を祀っているので、藤原北家は、秦氏や仲哀天皇と関係があると推定されます。
岐阜県大垣市総鎮守の大垣八幡神社は、祭神として応神天皇、神功皇后、比咩大神を祀っていますが、仲哀天皇は祀っていません。大垣八幡神社の境内社には、大国主大神を祀る出雲社や、宇迦之御魂神を祀る大福稲荷神社があります。大垣八幡神社は、1334年に東大寺の鎮護神である手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)を勧請したのが始まりといわれますが、手向山八幡宮では仲哀天皇も祀っています。丸谷憲二氏のブログによると、永保 4年(1084年)(白河天皇の時代)に、岡山県瀬戸内市邑久町の山手八幡宮(旧大垣八幡宮)の古来の由緒が書き改められ、百枝八幡宮のあった高砂山の下稲戸明神の記録は抹消されたようです。香川県坂出市王越町にある神功皇后ゆかりの梅宮八幡神社は、祭神として、市杵島姫命、足仲彦命、譽田別命、息長帯姫命、武内宿禰命を祀っています。『日本書紀』の足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)は仲哀天皇とされていますが、「たらし」は充足するという意味の嘉名なので、本来の足仲彦命は中彦命(仲彦命)で応神天皇かもしれません。手向山八幡宮とスカラ・ブレイを結ぶラインは、大垣八幡神社と梅宮八幡神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図19)。

八坂入彦命と菊理媛
岐阜県可児市久々利に、八剱八幡神社(図20)があり、その付近に崇神天皇の皇子の八坂入彦命墓があります。八剱八幡神社の主祭神は、八坂入彦命、八坂入媛命、弟媛命、八幡大神、天照大御神、火産霊神、宇迦之御魂神です。地名の「久々利」は「菊理媛」に由来すると思われます。また、「弟媛命」は品陀真若王の娘の弟姫命で、黒媛と思われます。八剱八幡神社と聖ミカエルの山を結ぶラインの近くに、長瀧白山神社(郡上市白鳥町)から白山中居神社(白鳥町)があり、このラインは氣比神宮と穂高岳を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図20)。スカラ・ブレイと八剱八幡神社を結ぶラインの近くに加賀一ノ宮 白山比咩神社(石川県白山市)があります(図20)。このラインは、氣比神宮と乗鞍大権現(岐阜県高山市)を結ぶラインとほぼ直角に交差し、交点付近に長瀧白山神社があります(図20)。また、乗鞍大権現は、八剱八幡神社と穂高岳を結ぶラインの近くにあります(図20)。菊理媛神(白山比咩神)を祀る白山神社は、岐阜県の山県市周辺に多く分布し、白山信仰の美濃国からの道は、長瀧白山神社から越前国の白山中居神社を通り、白山へと向かっています(図20)。

仁徳天皇と若宮八幡神社
若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)は、「八幡宮の若宮」という意味で、多くは宇佐神宮・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮などにある若宮を勧請し、応神天皇の子である仁徳天皇(大鷦鷯尊)を祀っています。岐阜県では、特に伊福部氏の氏神の伊富岐神社付近に多くあり、若宮八幡宮は、伊福部氏(尾張氏)と関係があると推定されます。
「美濃」は、七世紀には「三野」と表記され、「御野」に改定されたのは大宝二年(702年)ごろと推測されていて、「美濃」の表記に再改定されたのは、慶雲四年(707年)から和銅元年の間のこととされています。各務原市蘇原宮代町の若宮八幡神社は、仁徳天皇を祭神とし、由緒由来には「往古当集落は同村内宮?ら移住したから宮代と云ふ。」とあります。大宮町に近い本巣郡北方町若宮にある若宮八幡神社は、仁徳天皇を祭神とし、周辺には、大宮町や神戸町や笠縫町があります。
岐阜市敷島町にある本荘神社(ほんじょうじんじゃ)は、富士山と出雲大社を結ぶ線と、山岳信仰の白山と伊勢神宮を結ぶ線が交わった所にあることで知られています(図21)。北方町若宮にある若宮八幡神社は、豊受大神宮(伊勢神宮 外宮)の真北にあり、加賀一ノ宮 白山比咩神社と豊受大神宮を結ぶラインと出雲大社と上総国一之宮 玉前神社を結ぶラインの交点付近に位置しています(図21)。岡山県の「御野」は、岡山市北区北方にありますが、若宮にある若宮八幡神社も北方町にあるので、この付近に仁徳天皇の宮があったのではないかと思われます。里伝によると「若し社殿を営まば、宜しく七間四面のものを造る可し」との神託があったといわれます。「七間四面」というのは、柱の本数は8本で、身舎(もや)の前後左右(四面)に庇(ひさし)のある建物のことです。図21の東西南北のラインと関係があると思われます。

本荘神社とパレルモを結ぶラインの近くに若宮八幡神社(北方町若宮)があり、このラインは、美濃国一宮 南宮大社(不破郡垂井町)と弘法大師空海ゆかりの三光寺(山県市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図22)。このラインから、若宮八幡神社(北方町若宮)に仁徳天皇の宮があったと推定されます。

仁徳天皇と高津宮、難波宮
仁徳天皇は難波の高津宮に遷都し、允恭天皇以降は都は奈良に戻りますが、第36代孝徳天皇の時に再び難波に遷都しました。難波宮跡(大阪市中央区)からは、5世紀の古代大型倉庫群(法円坂遺跡)が見つかっています。若宮八幡神社(北方町若宮)と難波宮跡を結ぶラインは、豊受大神宮とクサール・ヌアイラを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図23)。若宮八幡神社(北方町若宮)と難波宮跡を結ぶラインの近くには、大瀧神社(滋賀県犬上郡多賀町)や堤根神社(大阪府門真市)があり、堤根神社の裏手には仁徳天皇が築かせたとされる「茨田堤(まんだのつつみ)」があります。豊受大神宮とクサール・ヌアイラを結ぶラインの近くには白髭神社(滋賀県高島市)があります(図23)。難波宮跡の近くに高津宮(大阪市中央区)(図24)がありますが、難波宮跡に仁徳天皇の高津宮があったのかもしれません。


仁徳天皇と大仙陵古墳
大仙陵古墳(仁徳天皇陵)と若宮八幡神社(北方町若宮)を結ぶラインは、石切劔箭神社(大阪府東大阪市)の近くを通り、豊受大神宮とローマを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図25)。豊受大神宮とローマを結ぶラインは、長嶋神社(滋賀県野洲市)の近くを通ります(図25)。また、豊受大神宮と大仙陵古墳を結ぶラインの近くに箸墓古墳(奈良県桜井市)があります。ローマ神話ではローマの建国を紀元前753年としていますが、実際にはそれよりも古くから人が住んでいて、3000年以上にわたって人類が定住してきたヨーロッパ最古の都市の1つです。

大仙陵古墳(仁徳天皇陵)と若宮八幡神社(北方町若宮)を結ぶラインは、八ヶ竃八幡神社(南伊勢町)とローマを結ぶラインとほぼ直角に交差し、このラインの近くには、上賀茂神社や眞名井神社(籠神社奥宮)の近くを通ります(図26)。八ヶ竃八幡神社と大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を結ぶラインの近くには橘寺(奈良県高市郡明日香村)があります(図26)。これらのラインは、若宮八幡神社(北方町若宮)に仁徳天皇の宮があったと推定されることと整合します。

大仙陵古墳(仁徳天皇陵)とチャタル・ヒュユクを結ぶラインは、瓊瓊杵尊(饒速日命)の降臨地と推定される摩耶山や坂本丹生神社、伊和神社(兵庫県宍粟市)、岩上神社(兵庫県宍粟市)、鳥取県八頭郡智頭町にある牛臥山の近くを通ります(図27)。これは、仁徳天皇が須佐之男命の子孫で、母の仲姫命や妃の黒媛が、瓊瓊杵尊(饒速日命)の子孫である品陀真若王の娘であるためと推定されます。智頭町には土師神社があり、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の近くも土師町があります(図27)。応神天皇が忍熊皇子に勝利した後、仁徳天皇は、土師氏が開発した難波の高津(大阪市中央区高津)に遷都したと推定されます。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)が、海から見える場所に建造されたのは、この地域を支配したこと対外的に示すためだったと思われます。

仲姫命と上石津ミサンザイ古墳、大中津比売命と中津山古墳
『延喜式』には、第16代仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあるとされ、450年頃のものとされる大仙陵古墳が仁徳天皇陵に治定されていますが、第15代応神天皇は、長命で430年頃亡くなったと推定されることと矛盾しません。成務天皇(倭建命)の陵墓を築山古墳(5世紀後半)に移したのは、5世紀前半に実在したと見られ、在位の長い第19代允恭天皇かもしれません。大阪府堺市にある百舌鳥古墳群の南部に位置する上石津ミサンザイ古墳(かみいしづみさんざいこふん)は、宮内庁により第17代履中天皇の陵に治定されていますが、考古学的には大仙陵古墳(仁徳天皇陵)より古いと考えられています2)。
「ミサンザイ」は「ミササギ(陵)」の転訛したものと考えられていますが、仁徳天皇の名前である大雀命(おほさざきのみこと)の「サザキ」と関連するように思われます。また、矢を収納する靫を模した靭形埴輪が見つかっていることから、弓の名手だった弟彦公(五百城入彦皇子と推定)とも関係があると推定されます。これらのことから、4世紀末(381‐400年頃)のと推定されている上石津ミサンザイ古墳は、仁徳天皇の母で、品陀真若王の娘の仲姫命の墓と推定されます。上石津ミサンザイ古墳は、五百城入彦皇子の墓と推定される吉備の造山古墳と酷似していることとも整合します。行基が建立したとされる大野寺の仏塔(土塔)とパルテノン神殿を結ぶラインは、上石津ミサンザイ古墳を通り、摩耶山天上寺(兵庫県神戸市)の近くを通ります(図28)。このラインは、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)と和泉国一宮 大鳥大社(堺市)を結ぶラインとほぼ直角に交差し、交点に上石津ミサンザイ古墳があります(図28)。このレイラインは、上石津ミサンザイ古墳が仁徳天皇の母の仲姫命の墓と推定されることと整合します。

仲姫命の墓に治定されている大阪府藤井寺市にある古市古墳群の仲津山古墳は、名称から、彦人大兄(五百城入彦皇子と推定)の娘の大中姬(大中津比売命)の墓ではないかと思われます。仲津山古墳から後円部の方向へラインを延長すると薬師寺に到達します。仲津山古墳と高野山真言宗 慈眼山 正寿院(風鈴寺)を結ぶラインは、薬師寺(奈良市)とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図29)。薬師寺とオリンポス山を結ぶラインは、饒速日命ゆかりの白庭台の近くを通ります(図29)。弘法大師空海は、景行天皇の後裔と推定されるので、このラインは、仲津山古墳が、五百城入彦皇子の娘の大中姬(大中津比売命)と推定されることと整合します。

仲津山古墳と仲哀天皇の陵墓と推定される佐紀陵山古墳を結ぶラインは、廣瀬大社(奈良県北葛城郡河合町)とローマを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図30)。このラインは、仲津山古墳の被葬者と推定される大中姬(大中津比売命)が、仲哀天皇の配偶者とされることと整合します。

履中天皇と淡輪ニサンザイ古墳、反正天皇と土師ニサンザイ古墳、允恭天皇と岡ミサンザイ古墳
『古事記』によると、第16代仁徳天皇に続く、第17代履中天皇と第18代反正天皇の陵墓も百舌鳥にあるとされます。5世紀中-後半頃の淡輪ニサンザイ古墳(大阪府泉南郡岬町)、5世紀後半の土師ニサンザイ古墳(堺市北区百舌鳥西之町)、5世紀末の岡ミサンザイ古墳(藤井寺市)の「ニサンザイ」や「ミサンザイ」が、大雀命(おほさざきのみこと)の「サザキ」が転訛したものと考えると、それぞれ、履中天皇(仁徳天皇の第1皇子)、反正天皇(第3皇子)、允恭天皇(第4皇子)の陵墓と思われます。淡輪ニサンザイ古墳と岡ミサンザイ古墳を結ぶラインは、土師ニサンザイ古墳や越木岩神社(兵庫県西宮市)の近くを通る、不動山の巨石(和歌山県橋本市)とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図31)。

岡ミサンザイ古墳を仲哀天皇陵に比定することを疑問視する研究者は少なくないようです。岡ミサンザイ古墳の近くには、この地を治めることになった物部氏が創建した辛國神社(大阪府藤井寺市)や、千手観音をまつる葛井寺があります。岡ミサンザイ古墳の被葬者は物部氏と関係が深いと推定されます。第19代允恭天皇は、5世紀前半に実在したと見られる天皇で、允恭天皇の陵墓と推定される岡ミサンザイ古墳は、大仙陵古墳と同緯度(北緯34度33分)にあり、5世紀末頃の築造と推定されています。大仙陵古墳と下賀茂神社(賀茂御祖神社)を結ぶラインは、岡ミサンザイ古墳とメンフィス博物館を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図32)。大仙陵古墳や岡ミサンザイ古墳の中心軸は、賀茂建角身命(孝霊天皇と推定)を祀る下賀茂神社(賀茂御祖神社)の方向と一致します(図32、33)。したがって、大仙陵古墳と岡ミサンザイ古墳は、孝霊天皇と関係付けられていると推定され、岡ミサンザイ古墳は、允恭天皇陵の陵墓と推定されることと整合します。


磐之媛命とヒシアゲ古墳、草香幡梭姫と鳥屋ミサンザイ古墳
橿原市の鳥屋ミサンザイ古墳は、6世紀前半の築造と推定され、岡ミサンザイ古墳と同様に、仁徳天皇の子の墓とすると草香幡梭姫皇女の墓と思われます。鳥屋ミサンザイ古墳とメンフィス博物館を結ぶラインは、ヒシアゲ古墳(仁徳天皇皇后磐之媛命陵)と丹生都比売神社を結ぶラインとほぼ直角に交差し、岡ミサンザイ古墳や住吉大社(大阪市住吉区)の近くを通ります(図34)。

鳥屋ミサンザイ古墳の前方部の方向には、神功皇后ゆかりの隅田八幡神社(和歌山県橋本市)があり、これらを結ぶラインは、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)や大峯山寺(奈良県吉野郡天川村)の近くを通る、尾鷲神社(三重県尾鷲市)とパルテノン神殿を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図35)。これらのラインから、鳥屋ミサンザイ古墳は、仁徳天皇と磐之媛命の草香幡梭姫皇女の墓と推定されます。

文献
1)大和 岩雄 1993 「日本にあった朝鮮王国 謎の秦王国と古代信仰」 白水社
2)武光 誠 2003 「大和朝廷と天皇家」 平凡社新書
3)白石太一郎 2018 「古墳の被葬者を推理する」 中央公論新書
