温故知新(30)神功皇后(金田屋野姫命) 富雄丸山古墳 香椎宮 宇美八幡宮 フィラエ神殿 ラス・ダシャン山 ストーンヘンジ モン・サン・ミシェル 尾綱根命(尻綱根) 尾綱眞若刀婢命(志理都紀斗売) 池田茶臼山古墳 蛇行剣 比比羅木之八尋矛
神功皇后と天皇
神功皇后は、明治時代までは一部史書(『常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』)で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていましたが、大正15(1926)年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外されました。
香椎宮と富雄丸山古墳
香椎宮は、『兵範記』、『宇佐託宣集』、『諸神記』、『伊呂波字類抄』では、神功皇后を祭神としています。富雄丸山古墳と香椎宮を結ぶラインは、神功皇后ゆかりの住吉大社(大阪市住吉区)や八栗寺(香川県高松市)の近くを通ります(図1)。このラインは、4世紀後半の築造と推定される富雄丸山古墳の被葬者が、神功皇后であることを示していると推定されます。

香椎宮とジェッダを結ぶラインは、龍蛇神社(長崎県壱岐市)、手長比賣神社(壱岐市)の近くを通り、台与(姥津媛)の墓と推定される西殿塚古墳とつながるフィラエ神殿(イシス神殿)と神功皇后ゆかりの宇美八幡宮(福岡県糟屋郡宇美町)を結ぶラインとの交点付近に手長比賣神社があります(図2)。

香椎宮と神功皇后を祭神とする裂田神社(福岡県那珂川市)を結ぶラインは、宇美八幡宮とラス・ダシャン山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。地質的調査の結果、福岡県那珂川市にある日本最古の用水路の裂田の溝(さくたのうなで)は、裂田神社の付近で水路の両側に花崗岩の岩盤が露出していて、『日本書紀』の記述と一致しているようです。

建稲種命(狭穂彦王)と神功皇后
国内最大の円墳の富雄丸山古墳は、神功皇后の父と推定される建稲種命(狭穂彦王と推定)の墓と推定されるメスリ山古墳と聖ミカエルの山を結ぶラインの近くにあります(図4)。また、このラインの近くには、彦坐王の墓と推定される桜井茶臼山古墳(外山茶臼山古墳)や元伊勢 籠神社があります(図4)。このラインは、富雄丸山古墳の被葬者が神功皇后であると推定されることと整合します。

高句麗好太王の石碑から、神功皇后は4世紀後半に新羅征伐に向かったと推定されるので、4世紀後半の築造と推定される富雄丸山古墳の被葬者が、4世紀初頭のメスリ山古墳の被葬者と推定される建稲種命の娘の金田屋野姫命(神功皇后)と推定されることと整合します。
熱田神宮と富雄丸山古墳
富雄丸山古墳は、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)のある百舌鳥古墳群と建稲種命や宮簀媛命が祀られている熱田神宮を結ぶライン上にあります(図5)。このラインは、丹生川上神社上社とイギリス南部ソールズベリーの近くにあるストーンヘンジを結ぶラインとほぼ直角に交差し、交点付近に富雄丸山古墳があります(図5)。また、丹生川上神社上社とストーンヘンジを結ぶラインの近くに、元伊勢籠神社があります(図5)。

百舌鳥古墳群と熱田神宮を結ぶラインは、豊受大神宮(外宮)とストーンヘンジを結ぶラインとほぼ直角に交差し、豊受大神宮(外宮)と百舌鳥古墳群を結ぶライン上に檜原神社(桜井市)があります(図6)。

聖ミカエルと富雄丸山古墳
元伊勢 籠神社や丹生川上神社中社などとレイラインでつながるモン・サン・ミシェルと富雄丸山古墳を結ぶラインは、弥生時代後期から末期の大風呂南墳墓群(京都府与謝郡与謝野町)、大呂神社(京都府舞鶴市)、質美八幡宮(京都府船井郡京丹波町)、弥生時代の安満遺跡(大阪府高槻市)の近くを通ります(図7)。また、富雄丸山古墳と神武天皇社や物部神社(与謝野町)などとレイラインでつながる聖ミカエルの山を結ぶラインの近くには、豊受大神を祀る眞名井神社(籠神社奥宮)や立岩(京都府京丹後市)があります(図7)。弥生時代から古墳時代の初めにかけて、丹波と大和はつながっていたと考えられます。

富雄丸山古墳と聖ミカエルの山を結ぶラインの近くに、添御縣坐神社(奈良市三碓)があります(図8)。添御県坐神社の祭神は、建速須佐ノ男命、武乳速之命、櫛稲田姫之命で、武乳速之命は天児屋命の別名とされますが、一説によるとの富雄川中域を治めていた首長の長髄彦(名草彦命、海幸彦と推定)といわれています。添御県坐神社の鎮座地付近は古代豪族である小野氏が治める村里であったとされ、小野氏の氏神として祭祀されたものともいわれます。

丹生都比売命、開化天皇と神功皇后
船木氏と関係があると推定される沖の白石と丹生都比売神社を結ぶラインは、富雄丸山古墳の近くを通ります(図9)。これは、富雄丸山古墳の被葬者と丹生都比売命や開化天皇との関係を示している推定されます。富雄丸山古墳の埋葬施設からは多くの水銀朱が認められていますが、『播磨国風土記』には、丹生都比売大神が神功皇后へ丹(辰砂、水銀朱)を授けたことが記されています。

日前・國懸神宮と富雄丸山古墳を結ぶラインは、丹生都比売神社とシチリア島のパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差し、丹生都比売神社とパレルモを結ぶラインは、瓊瓊杵命と丹生都比売命の夫婦墓と推定される天王山古墳群の近くを通ります(図10)。これらは、富雄丸山古墳の被葬者(神功皇后と推定)と日前大神(天照大神 大日孁)や瓊瓊杵尊(饒速日命と推定)との関係を示していると推定されます。

富雄丸山古墳と天王山古墳群を結ぶラインは、下照比売命を主祭神とする比売許曽神社(大阪市東成区)の近くを通ります(図11)。下照比売命は、『古事記』では大国主命と多紀理毘売命の娘で、『先代旧事本紀』地神本紀でも『古事記』同様に大己貴神と田心姫命の娘です。

富雄丸山古墳と孝霊天皇の第3皇子の彦五十狭芹彦命を祀っていると推定される稲葉根王子神社(和歌山県西牟婁郡上富田町)を結ぶラインの近くには、櫛玉饒速日神と御炊屋姫神を祀る矢田坐久志玉比古神社(奈良県大和郡山市)、金剛山、高野山奥之院(和歌山県伊都郡高野町)があります(図12)。これは、富雄丸山古墳の被葬者(神功皇后と推定)と孝霊天皇(須佐之男命と推定)や、饒速日命との関係を示していると推定され、丹生津姫命と御炊屋姫命が同一人物と推定されることと整合します。

丹生氏と関係があると推定される福井県小浜市遠敷にある若狭姫神社(若狭一の宮 下社)と船玉神社(和歌山県田辺市)を結ぶラインは、貴船神社 奥宮、京都御所、富雄丸山古墳の近くを通ります(図13)。このラインは、富雄丸山古墳の被葬者(神功皇后と推定)が、丹生氏や船木氏や開化天皇と関係があることを示していると推定されます。

前方後円墳と円墳
初期倭王権の王墓として、箸墓古墳に先立ち、箸墓古墳より小さい墳丘で、前方部が小さく帆立貝のような形状の「纏向型前方後円墳」(帆立貝形古墳)があります1)。富雄丸山古墳のように、造出の規模の小さいものは円墳に分類することが多いようです。香坂王(麛坂皇子)の墓と推定される前方後円墳の五社神古墳(4世紀末葉と推定)の近くには押熊町があります(図14)(朝日新聞2025.2.3)。神功皇后の墓が前方後円墳でないのは、夫だったと推定される品陀真若王が若くして亡くなり、神功皇后が亡くなったころは、ヤマト王権の実権は、仲哀天皇皇子の香坂王(倭讃と推定)や押熊皇子(倭珍と推定)にあったためと思われます。

龍田大社、矢田寺と富雄丸山古墳
祭祀が行われたと推定される「造り出し」が北東方向にあるのは、富雄丸山古墳の南西方向に矢田寺(奈良県大和郡山市矢田町)や龍田大社(奈良県生駒郡三郷町)があるためではないかと思われます(図15、16)。これは、誉田御廟山古墳と熊野那智大社や、仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)と賀茂御祖神社(下賀茂神社)との関係にも見られます。

出典:奈良市 文化財 富雄丸山古墳
饒速日尊(瓊瓊杵尊)と神功皇后、長髄彦
富雄丸山古墳と龍田大社を結ぶラインは、饒速日命(瓊瓊杵尊と推定)を祀る矢田坐久志玉比古神社(奈良県大和郡山市矢田町)とアルテミス神殿を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図16)。矢田坐久志玉比古神社とアルテミス神殿を結ぶラインは、奈良県生駒市の往馬大社(往馬坐伊古麻都比古神社)の近くを通ります(図16)。

富雄丸山古墳の一帯は「鳥見郷」に含まれ、『日本書紀』では、長髄彦(名草彦命と推定)は「大和国鳥見」の豪族であるとし、鳥見という地名が神武天皇の鳶に由来するとも記されています。『古事記』では、長髄彦を「登美毘古」とし、「登美毘古」は饒速日命を主君としています。
富雄丸山古墳と熊野速玉大社(和歌山県新宮市)を結ぶラインの近くに神武天皇陵(奈良県橿原市)があり、熊野本宮大社(和歌山県田辺市)と富雄丸山古墳を結ぶライン近くに神武天皇社(奈良県御所市柏原)があります(図17)。このラインは、富雄丸山古墳の被葬者(神功皇后と推定)と神武天皇との関係を示していると推定されます。

富雄丸山古墳(北緯34度39分59秒)は、神武天皇ゆかりの神津嶽(北緯34度40分04秒)とほぼ同緯度にあり、神武天皇社とスカラ・ブレイを結ぶラインは、牧岡神社奥宮 神津嶽本宮の近くを通ります(図18)。このことから、神津嶽は、実際に神武天皇と関係があったと思われます。

宇倍神社と神功皇后(金田屋野姫命)
富雄丸山古墳と、熊野那智大社や南宮大社がレイラインでつながっている古代都市セリヌス(Selinus Ancient City)を結ぶラインは、因幡国一の宮宇倍神社の近くを通ります(図19)。宇倍神社の祭神は武内宿禰命ですが、本来は伊福部氏(尾張氏)の祖神を祀ったとみられ、『神祇志料』では祭神を『先代旧事本紀』「国造本紀」にある因幡国造の祖先、彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)としています。このラインは、神功皇后が尾張氏の金田屋野姫命と推定されることと整合します。

宮簀媛と白水瓢塚古墳
富雄丸山古墳と神功皇后と夫婦と推定される品陀真若王の墓と推定される作山古墳は同緯度にあり、これらを結ぶラインは、宮簀媛の墓と推定される白水瓢塚古墳や、成務天皇(稚足彦尊)の陵墓と推定される築山古墳の近くを通ります(図20)。

鳥取市にある多加牟久神社は、大己貴命と八上姫(開花天皇の母)とが契りを結んだ場所とされ、多加牟久命を伊福部氏の祖の武牟口命とする説があるようです。白水瓢塚古墳とパレルモを結ぶラインの近くに多加牟久神社や投馬国があったと推定される青谷上寺地遺跡があります(図21)。白水瓢塚古墳が宮簀媛の墓とすると、このラインは、宮簀媛が尾張氏(伊福部氏)であることと整合します。

青谷上寺地遺跡と五百城入彦皇子の墓と推定される造山古墳とつながる大樹寺(鳥取県八頭郡八頭町)を結ぶラインは、多加牟久神社とハドソン湾を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図22)。多加牟久神社とハドソン湾を結ぶラインの近くには、邇邇藝命、日子穂穂手見命、事代主神を祀る聖神社(鳥取市行徳)があります(図22)。

神功皇后と弟彦王(和気氏)
花の窟神社(三重県熊野市)とマラケシュを結ぶラインは、和氣神社(大阪府和泉市和気町)と富雄丸山古墳を結ぶラインとほぼ直角に交差し、神功皇后ゆかりの住吉大社(大阪市住吉区)の近くを通ります(図23)。和氣神社には、鐸石別命の曾孫で神功皇后の三韓征伐の際、反乱を起こした忍熊王を和気関で平定した和気氏の弟彦王が祀られていると推定されることと整合します。

蛇行剣と「比比羅木之八尋矛」
富雄丸山古墳の「造り出し」にある埋葬施設から、国宝級の盾形の銅鏡と蛇行剣が出土したという報道がありました(毎日新聞2023年1月25日)。富雄丸山古墳は、明治12年(1879年)ごろに墳頂が盗掘され、三角縁神獣鏡などがこの時掘り出され、副葬品の一部は天理参考館や京都国立博物館などに収蔵されています(読売新聞2023年2月8日)。埋葬施設からは、長さ5.3メートル以上のコウヤマキの「割竹形木棺」が出土し、その後の調査で、「三角縁神獣鏡」の可能性がある銅鏡や竪櫛も発見され、女性(巫女)が埋葬されたのではないかと推定されています。
日本でかなり出土している蛇行剣は、インドネシアからマレー半島の、悪霊を鎮めるために神に捧げる祭りで演じられるランダの舞で使用される蛇行剣が起源ではないかともいわれています2)。クレタ島のイラクリオン考古学博物館に展示されている剣(写真1)は、蛇行剣に似ているように思われ、蛇行剣は、紀元前1,500年頃のクレタ(ミノア)文明の「蛇をもつ女神」と関係があるかもしれません。クレタ島のクノッソス遺跡では、体に蛇を巻きつけた大地母神や、両手に蛇を持った大地母像が発見されています。「漢委奴国王」と刻まれた金印の鈕(ちゅう、「つまみ」)は、蛇が頭を持ち上げて振り返る形に作られた蛇鈕で、南方諸民族に与えられた可能性が高いとされています。

「蛇行剣」は、南九州で多く見つかっていて、隼人の剣ともいわれ、被葬者を邪悪なものから守る「辟邪(へきじゃ)」の役割があったと推定されています3)。富雄丸山古墳の蛇行剣には、6回の屈曲点があり3)、屈曲点が尖っている蛇行剣は「柊(ひいらぎ)剣」といいます(図24)。セイヨウヒイラギのようなトゲのある葉には、邪気、悪霊を払う力があると信じられたようです。セイヨウヒイラギは、日本の在来のヒイラギとは全く別の植物で、原産地は、西アジア、ヨーロッパ南部、アフリカ北部です。

蛇行剣は、フネ古墳(長野県諏訪市)や南方古墳群第39号墳(宮崎県延岡市)からも出土していますが、フネ遺跡と南方古墳群第39号墳を結ぶラインは、富雄丸山古墳とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図25)。モロッコのマラケシュは、セイヨウヒイラギの原産地と整合します。

これらのことから、富雄丸山古墳の蛇行剣は「比比羅木之八尋矛(ひひらぎのやひろほこ)」ではないかと推定されます。「比比羅木之八尋矛」の「尋」は周尺で八尺にあたりますが、「八尋」には非常に長く、大きいという意味があります。橿原考古学研究所の岡林孝作・学芸アドバイザーは、「蛇行剣」の全長は237cm(刃部長は216cm2))という長さに意味があり、当時(魏尺)の1尺が24cmなので、ほぼ10尺の1丈(=10尺)剣であるといえると述べていますが、刃長で見ると9尺剣になります。蛇行剣とともに鼉龍文盾形銅鏡が見つかっているので、被葬者は龍信仰だったと考えられます。鳳凰に代表される長江文明の吉数は八か六で、龍に代表される黄河文明の吉数は九であるといわれ4)、九頭龍とも関係があると思われます。鼉龍は、ワニの一種とされ3)、和珥氏と関係があると推定されます。「造り出し」部分の被葬者が金田屋野姫命(神功皇后)とすると、中心部の被葬者は、和珥氏の有力な近親者と推定されます。
「比比羅木之八尋矛」は、『古事記』によると倭建命(成務天皇 稚足彦尊と推定)が東征の時、景行天皇から賜っていて、この時に同行した建稲種命が亡くなっています。品陀真若王(出雲建)が「ひひら木の八尋矛」を受け継いだ後、后だったと推定される神功皇后が持っていたのではないかと思われます。西殿塚古墳には、巫女と推定される姥津媛(台与と推定)と「きょうだい」の彦国姥津命が共に埋葬されていると推定されるので、富雄丸山古墳には、巫女と推定される金田屋野姫命(神功皇后)と兄の尾綱根命が共に埋葬されたと推定されます。尾綱根命は応神朝大臣の尻綱根で、壬生部を定めたとされます。
奈良市教育委員会埋蔵文化財調査センター鐘方正樹所長「夫婦合葬墓はまだ日本ではない(時代)。おそらく『きょうだい』でこの地域を納めていたのではないか。女性は呪術的な行為をおもに行うような(人物)」(関西テレビ記事抜粋)
蛇行剣が、神功皇后に百済から送られた七枝刀と関係があるとすると、富雄丸山古墳の被葬者が、神功皇后と推定されることと整合します。また、神功皇后の諱(実名)は『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)で、『日本書紀』では気長足姫尊とされ、息長氏は鍛冶氏族なので、盾形銅鏡や蛇行剣が出土した富雄丸山古墳が、神功皇后の陵墓と推定されることと整合します。
志理都紀斗売と池田茶臼山古墳
池田茶臼山古墳(大阪府池田市)は、古墳時代前期の4世紀中葉頃の築造と推定されていますが、宮簀媛の墓と推定される白水瓢塚古墳と同様に建稲種命の墓と推定されるメスリ山古墳の約4分の1の相似形で、白水瓢塚古墳とほぼ同形です。池田茶臼山古墳は、富雄丸山古墳とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くにあり、シラクサとメスリ山古墳を結ぶラインの近くにあります(図26)。池田茶臼山古墳の被葬者は、神功皇后や建稲種命と関係があると推定されます。

金田屋野姫命(神功皇后)の姉の志理都紀斗売(しりつきとめ)は、『先代旧事本紀』では、尾綱眞若刀婢命です。籠神社の『海部氏系図』(国宝)では、志里都岐刀邊(しりつきとべ)となっていて、シリウスと月を表しているように思われます。元伊勢籠神社の絵馬にある太陽と月を囲む籠目紋はシリウスを表しているのかもしれません。池田茶臼山古墳とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くに元伊勢外宮 豊受大神社があります(図27)。池田茶臼山古墳の前方部は「柄鏡式」で、前方部を南東方向に向けているのは、前方後円墳が豊受大神社の方向を向いているためと思われます。これらのことから、池田茶臼山古墳の被葬者は、尾綱眞若刀婢命(志理都紀斗売)と推定されます。

尾綱眞若刀婢命(志理都紀斗売)は、五百城入彦皇子と夫婦なので、池田茶臼山古墳と造山古墳をラインで結ぶと、ラインの近くには、紫雲山 中山寺(兵庫県宝塚市)、御坂神社(三木市)、荒井神社(高砂市)、崇神天皇の陵墓と推定される浦間茶臼山古墳(岡山市東区)があります(図28)。

文献
1)中公新書編集部編 2018 「日本史の論点」 中公新書
2)臼井洋輔 2022 「備前刀前史」 刀剣画報「備前の刀」p42-47 (株)ホビージャパン
3)NHKスペシャル取材班 2025 「新・古代史」 NHK出版
4)安田喜憲 2001 「龍の文明・太陽の文明」 PHP新書
