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温故知新(95)尾張目子媛 断夫山古墳 継体天皇 今城塚古墳 七輿山古墳 高向神社 モン・サン・ミシェル 丹生氏 多胡羊太夫 多胡碑 豊城入彦命 元島名将軍塚古墳 上毛野氏 緑野屯倉

 群馬県藤岡市上落合にある七輿山古墳は6世紀前半の前方後円墳で、白石古墳群を構成する古墳の1つです。第26代継体天皇の陵墓と推定されている今城塚古墳と同規格で、継体妃の出身地である尾張の断夫山古墳(愛知県名古屋市熱田区旗屋町)とは同規模同規格墳です1)。

七輿山古墳をめぐる研究史
 飯塚卓二は七輿山古墳を、土師ニサンザイ古墳の規模を 1/2 に縮小した相似墳であると指摘し(飯塚 1986)、椚国男も同様の見解を示した(椚 1999)。飯塚の説を踏まえて坂本和俊は、さらに田出井山古墳・断夫山古墳との相似関係を指摘した(坂本 1995)。
 若狭徹は七輿山古墳の発達した前方部から、それまで主流であった古市古墳群タイプの墳丘ではなく、今城塚古墳などの墳形規格を採用した可能性を指摘した。また、七輿山古墳と断夫山古墳とが 1:1の相似墳の関係にあると指摘した(若狭 2017)。

出典:群馬県藤岡市 七輿山古墳の測量・GPR調査

 七輿山古墳と今城塚古墳を結ぶラインは、断夫山古墳とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインの近くには、継体天皇の母・振媛命が、継体天皇を育てた宮の跡とされる高向神社(福井県坂井市丸岡町高田)があります(図1)。

図1 断夫山古墳、七輿山古墳、今城塚古墳を結ぶ三角形のライン、断夫山古墳とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと高向神社

 このラインから、断夫山古墳の被葬者は、継体天皇の夫人尾張目子媛と推定され、七輿山古墳の被葬者は、継体天皇と尾張目子媛の子と推定されます。

 群馬県高崎市吉井町池字御門にある多胡碑に「羊」と記されている人物と同一とされる多胡羊太夫(継体天皇の曾孫の宇胡閉と推定)の伝説によると、「七輿山」という名前は、羊太夫の妻女ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せて葬ったことによるといわれています。七輿山古墳の被葬者は、丹生氏の系図にある宇胡閉(羊太夫)の祖父で丹生麿(継体天皇と推定)の子の古佐非と推定されます。

 第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命の墓と推定される元島名将軍塚古墳(群馬県高崎市)と多胡碑を結ぶラインは、七輿山古墳とパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは、観音山 慈眼院(高崎市石原町)の近くを通ります(図2)。七輿山古墳が元島名将軍塚古墳とつながってるのは、被葬者が崇神天皇を共通の祖とするためと推定されます。

図2 七輿山古墳、元島名将軍塚古墳、多胡碑を結ぶ三角形のライン、七輿山古墳とパレルモを結ぶラインと観音山 慈眼院

 豊城入彦命を祖とする上毛野氏の遠祖には、神功皇后・応神天皇の時に朝鮮へ派遣されたという荒田別(あらたわけ)、初代浮田国造の鹿我別(かがわけ)がいます。上毛野の勢力は、6世紀初頭の榛名山の噴火により衰えたようです1)。

 七輿山古墳の被葬者は、継体天皇を支援することで、6世紀前半に上毛野の盟主となりましたが、継体天皇の没後、大和王権は、緑野屯倉を置くことでその勢力の弱体化を図ったと考えられています1)。『日本書紀』の武蔵国造の乱での同族の争いは創作されたものではないかと思われます。8世紀後半以後は、東国出身氏族とは別に渡来系氏族の田辺氏(たなべのふひと)らの上毛野君への改姓が認められています。

文献
1)新古代史の会(編) 2025 「歩いて学ぶ日本古代史1 邪馬台国から大化の改新まで」 吉川弘文館