七輿山古墳と小熊と羊
「英雄たちの選択 古墳の時代 (1)黄金の馬を育てよ〜地方豪族から見たヤマト王権〜」を視聴しました。群馬の古代が取材されていて、面白くて終始ワクワク。
赤城山、榛名山、妙義山に囲まれた上毛は肥沃な土地で、利根川も流れていたため馬が逃げ出すリスクが低く、馬の生産に適していたという。東アジアからの渡来人によって馬の増産技術が伝えられ、馬を各地に販売することで経済は潤っていたそうです。
この豊かな上毛の地を6世紀前半に支配していたのが上毛野小熊。6世紀東日本最大級の古墳と言われる七輿山古墳に葬られている人物だといいます。
小熊は安閑天皇元年(534年)に起きた武蔵国造の乱で失墜することになります。武蔵国造の乱とは、武蔵の笠原直使主と同族の小杵との間の内紛で、国造の座を狙って小杵が密かに上毛野小熊を頼って笠原直使主を殺害しようとしたところ、小杵の謀を知った笠原直使主が逃げ出して朝廷に助けを求めたというもの。そこで朝廷は小杵を誅し、武蔵国に4ヶ所の屯倉(朝廷直轄領)を置いたといいます。その時、上毛野国にも屯倉が1ヶ所置かれたようです。
藤岡市周辺は『日本書記』によれば安閑天皇二年(535年)に設置された緑野屯倉に推定される地域で七輿山古墳との関係が注目されています。
小熊は武蔵国造の乱の結果、朝廷に直轄領を渡すことになったと推測できます。そして小熊は乱の後まもなく亡くなり七輿山古墳に葬られます。罪を問われることなく巨大な古墳に葬られていることから、小熊は天皇の親戚である可能性もあるかと思います。
そしてこの七輿山古墳には、あの伝説の羊太夫の妻や娘が自害して葬られたという言い伝えも残っているんです。
七輿山の名前の由来は、羊太夫の伝説からきています。奈良時代に新設された多胡郡を賜った羊太夫は、八束の小脛という神童の引く天馬に乗って朝廷へ日参していました。ある日、羊太夫は悪ふざけで昼寝をしている小脛の両脇に一本づつ生えている白羽を抜いてしまいました。すると、神通力を失い天馬が走らず、朝廷へ日参できなくなりました。朝廷は羊太夫が謀叛を計っているとして討伐軍を派遣しました。八束城を追われた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せ葬ったので「七輿山」と言う名称が伝えられています。
羊太夫が秩父で銅を発掘して朝廷に献上したとする伝説を考えると、8世紀になるので時代が合いませんね。七輿山古墳は6世紀前半の古墳になります。

羊太夫は秩父に逃げたと伝えられますが、小熊は今も上毛に眠っているのでしょう。
七輿山行ってみたいです…
