見出し画像

温故知新(126)丹波道主命 黒部銚子山古墳 モン・サン・ミシェル 稚城瓊入彦命(若木入日子命) 白米山古墳  古代都市セリヌス 穂高神社 白山比咩神社 ジェッダ 氣比神宮 八上城 神谷太刀宮神社

 『日本書紀』によると、四道将軍の一人の丹波道主命が丹波に派遣されたとされ、『古事記』には、日子坐王(彦坐王)を旦波国に派遣したとの記載があります。開化天皇の皇子の日子坐王(彦坐王)は、和珥氏の祖である日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)の妹で台与と推定される意祁都比売命(姥津媛)の子です。石川県に和珥氏の墓と推定される雨の宮古墳群があります。

 雨の宮古墳群と奈良県桜井市にある彦坐王(日子坐王)の陵墓と推定される桜井茶臼山古墳(外山茶臼山古墳)を結ぶラインは、白山比咩大神(倭迹迹日百襲姫命、豊玉姫命、卑弥呼と推定)、伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀る加賀一ノ宮 白山比咩神社(石川県白山市)(図1)の近くを通り、三輪山(図2)を通ります。このラインは、穂高神社(長野県安曇野市)とジェッダを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1)。このラインは、雨の宮古墳群が和珥氏の墓と推定されることと整合します。桜井茶臼山古墳と穂高神社を結ぶラインの近くには尾張猿田彦神社(愛知県一宮市)があります。

図1 穂高神社、雨の宮古墳群、桜井茶臼山古墳を結ぶ三角形のラインと白山比咩神社、尾張猿田彦神社、穂高神社とジェッダを結ぶライン
図2 図1のラインと桜井茶臼山古墳、三輪山

 天足彦国押人命(天押帯日子命、天照皇大神と推定)を氏祖とする和珥氏の枝氏の小野氏は、近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市内)周辺を本拠とし、一族には、遣隋使となった小野妹子をはじめ、遣唐使などを務めたものが多く、漢詩や和歌に優れ、参議にまで昇った小野篁(おののたかむら)や能書家として知られる小野道風などが有名です。加賀藩の家老の横山家は、小野篁を祖とする武蔵七党の「横山党」として知られています。

 日子坐王(彦坐王)の子の丹波道主命の墓とする伝承がある黒部銚子山古墳(京都府京丹後市)は、行燈山古墳(狭穂姫命の墓と推定)や吉備津彦命の墓と推定される中山茶臼山古墳(岡山市北区)とほぼ相似形です。桜井茶臼山古墳とモン・サン・ミシェルを結ぶラインは、黒部銚子山古墳の近くを通り、このラインは、越前國一之宮 氣比神宮(福井県敦賀市)と中山茶臼山古墳を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。このラインは、黒部銚子山古墳が丹波道主命の墓とされる伝承と整合します。

図3 桜井茶臼山古墳、氣比神宮、中山茶臼山古墳を結ぶ三角形のライン、中山茶臼山古墳とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと黒部銚子山古墳

 黒部銚子山古墳と倭迹迹日百襲姫命天隠山命 (高倉下命、孝元天皇と推定)を祀る讃岐国一宮 田村神社(香川県高松市)を結ぶラインは、開化天皇の陵墓と推定される椿井大塚山古墳(京都府木津川市)とオリンポス山(キプロス島)を結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは兵庫県丹波篠山市の八上城跡(高城山)や高蔵寺(兵庫県丹波篠山市高倉)の近くを通ります(図4)。このラインは、黒部銚子山古墳が開化天皇の孫の丹波道主命の墓と推定されることと整合します。八上城の名前は、開化天皇の后と推定される八上比売命(多紀理毘売命 田心姫)と関係があると推定され、開化天皇(鵜葺草葺不合命と推定)の城だったのではないかと思われます。

図4 椿井大塚山古墳、黒部銚子山古墳、田村神社を結ぶ三角形のライン、椿井大塚山古墳とオリンポス山(キプロス島)を結ぶラインと八上城跡、高倉の高蔵寺

 乎止与命が、尾張氏の祖で彦坐王(日子坐王)とすると、彦坐王の子の丹波道主命も尾張氏の一族だったと考えられます。また、尾張氏の金田屋野姫命が神功皇后(気長足姫尊)と推定されるので、尾張氏は息長氏と推定されます。『古事記』によると、丹波道主命の母は息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)で、京都府京丹後市久美浜にある神谷太刀宮神社は、丹波道主命が山陰道を巡察した際に、出雲国から八千矛神(大国主命)を招き祀ったのが始まりとされ、神谷神社で八千矛神、太刀宮で丹波道主命が祀られています。

 開化天皇と関係があると推定される貴船神社とアナトリア半島の古代都市セリヌス(Selinus Ancient City)を結ぶラインの近くに白米山古墳(しらげやまこふん)や、神谷太刀宮(神谷神社)があります(図5)。このラインは、開化天皇の孫の丹波道主命と鵜葺草葺不合命(開化天皇と推定)との関係を示していると推定されます。

図5 貴船神社と古代都市セリヌス(アナトリア半島)を結ぶラインと白米山古墳、神谷太刀宮(神谷神社)

 白米山古墳(京都府与謝郡与謝野町)は、丹後では最も古い前方後円墳で、白米山古墳と垂仁天皇の陵墓と推定される金蔵山古墳(岡山市中区円山)を結ぶラインは、垂仁天皇の2番目の后である日葉酢媛命の墓と推定される渋谷向山古墳(奈良県天理市)とローマを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。図5のラインから、白米山古墳の被葬者は、丹波道主命と関係があると推定され、垂仁天皇と日葉酢媛命(丹波道主命の娘)の子の稚城瓊入彦命(若木入日子命)ではないかと思われます。

図6 渋谷向山古墳、白米山古墳、金蔵山古墳を結ぶ三角形のライン、渋谷向山古墳とローマを結ぶライン

 与謝野町加悦にある天満神社は、丹波道主の子孫とされる細目倉彦が菅原道真に仕え、道真が大宰府に配流された後に丹後に戻り、天神社を建てて道真を祀ったことを発祥とします。天満神社と大宰府天満宮を結ぶラインは、三室山(宍粟市波賀町)を通り、厳島神社(広島県廿日市市宮島町)の近くを通ります(図7)。このラインは、剣山聖ミカエルの山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。

図7 剣山、天満神社(与謝野町)、大宰府天満宮を結ぶ三角形のラインと三室山、厳島神社、剣山と聖ミカエルの山を結ぶライン

 図8の彦坐王(日子坐王)の陵墓と推定される3世紀後半〜末の桜井茶臼山古墳(外山茶臼山古墳)からは、中国鏡、三角縁神獣鏡、倭製鏡が多数見つかっていて、被葬者は、手工業生産品や資源の国産化を主導して、鏡などの威信財の創出、生産と配布に中心的な役割を果たしたと考えられています1)。そうした安定した王権のもとで、その後の4世紀初頭のメスリ山古墳(狭穂彦王建稲種命)の陵墓と推定)の鉄製弓矢や、伝・行燈山古墳(狭穂姫命の陵墓と推定)の方形銅板、4世紀後半の富雄丸山古墳(尾綱根命、神功皇后の陵墓と推定)の蛇行剣などがつくられたと推定されています1)。

図8 第8代孝元天皇から第16代仁徳天皇までの系図(神功皇后を品陀真若王の后と推定

 宝賀寿男氏は、部曲(かきべ)の和珥部の分布は、大和から北方の山城、近江、若狭、越前、加賀と日本海沿岸地域に伸びる線が濃厚で、また美濃、尾張、丹波、出雲、播磨、備中などの方面にも分布すると記しています2)。和珥部の分布は、大泊瀬(大長谷)皇子(後の第21代雄略天皇、昆支王と推定)に殺された市辺押磐皇子の子の第23代顕宗天皇や第24代仁賢天皇が、即位前に、丹波国や播磨国に逃れていたとされることとも関係があると推定されます。『播磨国風土記』は、履中天皇の皇子の市辺押磐皇子を「市辺天皇」と表記しています3)。ヤマトタケルは『阿波国風土記』逸文で「倭建天皇命(やまとたけるすめらみこと)」と表記され3)、実際に倭建命の多くは天皇だったと推定されるので、市辺押磐皇子も天皇だったのかもしれません。中谷正人氏によると、『古事記』のなかで、オケ(後の仁賢天皇)とヲケ(後の顕宗天皇)兄弟が播磨国で発見される部分で、ヲケが詠む歌の中で兄弟の祖父である履中天皇の形容詞に「物部」を使っていて、これは「物部氏の一族の天皇」ということを意味するとしています。

 和珥部の分布は、第26代継体天皇と関係すると推定される越前国(現在の福井県)の丹生郡を中心とする丹生氏の勢力範囲とも重なります。元の和珥氏の本拠地は、奈良県天理市和爾町だったと推定され、近江に移ったのは、大和を支配した倭讃(香坂王と推定)と関係があったと思われます。第7代孝霊天皇の後裔と推定され、吉備の上道国の領主だったと推定される第15代応神天皇(図8)とつながる継体天皇が、大和の磐余玉穂宮(現在の奈良県桜井市)に遷都するまでに、即位から約20年かかった理由もわかります。また、継体天皇の后となった手白香皇女が、倭讃(香坂王と推定)の父と推定される仲哀天皇の後裔である倭彦王の娘とすると、手白香皇女の子の第29代欽明天皇高句麗系の渡来人と推定される蘇我氏と結びついたことが理解できます。

文献
1)宮本一夫(編) 2025 「論争 邪馬台国」 日本考古学協会/企画 雄山閣
2)宝賀寿男 2012 「古代氏族の研究① 和珥氏」 青垣出版
3)新古代史の会(編) 2025 「歩いて学ぶ日本古代史1 邪馬台国から大化の改新まで」 吉川弘文館