デジタルアクター試論 8. ルパン三世・クレヨンしんちゃんとの対比
デジタルアクター試論 目次
1. 発想の出発点——肖像権を払ってCGで作るという可能性
2. 最初の突破口は誰が開けるか
3. ブルース・リーという最有力候補
4. アイコンと役柄のバランス問題
5. 完全オリジナルのCGキャラによるスターシステム
6. 契約のパーセンテージ化
7. 仮面ライダー1号という日本の特殊事例
8. ルパン三世・クレヨンしんちゃんとの対比
9. 違う人が本郷猛を演じても定着しなかった理由
10. 今の仮面ライダーがほぼCGという逆説
11. 一文字隼人と佐々木剛氏
12. 美空ひばりとの違い——役を演じるか否か
13. 性格の可変性という基準——ブルース・ウェイン、長谷川平蔵、車寅次郎
14. 「群像劇化」が原点を重くする逆説
15. 特撮主演というキャリアの賭け——村上弘明、長谷川初範、細川茂樹、オダギリジョー
16. 西島秀俊という稀有な存在——シン・ウルトラマンからBLACK SUNへ
17. 西島秀俊と木村拓哉——芸能人としての格と俳優としての評価
18. 30代・40代の本郷猛を描くという可能性
19. 総3Dアニメ化という選択肢
20. フランケンシュタインの被造物として
21. 唯一無二性を生んだ三つの偶然
22. 撮影現場の一体感、という最後の鍵
23. ブルース・ウェインとクラーク・ケント——比較対象の精緻化、そして本郷猛の特異性のまとめ
24. 最初のデジタル化に生じる微妙な変更
25. 『ボヘミアン・ラプソディ』が示した「受け手の補完」
26. マイケル・ジャクソンの伝記映画
27. 『ワイルド・スピード』のブライアン・オコナーと、ドミニクたちの老い
28. 乱用するプロデューサーへの懸念
29. 「コモディティ化」と「民主化」という言葉の歪み
30. 政治権力による技術の独占とプロパガンダ
31. ゲリラ的パロディというもう一つの危険
32. 結語

ルパン三世やクレヨンしんちゃんなら、記号化された外見があって、声優を変えればいつまででも作れる。仮面ライダーは、スーパーマンやバットマンのようにはいかなかった——この対比は、キャラクタービジネスの構造の核心近くにある。
ルパン三世やクレヨンしんちゃんのようなアニメーションは、最初から「線と色彩」で徹底的にデフォルメされた純粋な記号(アバター)である。だからこそ、器(声優や作画監督)を時代に合わせてアップデートしていけば、キャラクターの魂を損なうことなく、理論上は「永久機関」のように新作を作り続けることができる。
しかし、仮面ライダー(特に1号=本郷猛)が、アメコミのスーパーマンやバットマンのような「役者を代えて何度もリブートする」という幸福な循環にうまく乗れなかったのは、実写特撮ならではの「肉体の呪縛」と「日本の固有性」があったからだろう。
そこには、いくつかの決定的な違いがある。アメコミは「神話」、ライダーは「ドキュメンタリー」だという違いである。
スーパーマンやバットマンは、約100年の歴史の中で、原作コミックの時点で何人ものアーティストが異なるタッチで描き、何度も世界線をリセットしてきた。彼らは最初から、特定の個人ではなく「概念(神話)」として存在しているため、クリストファー・リーヴからヘンリー・カヴィルへ、マイケル・キートンからクリスチャン・ベールへと役者が代わっても、観客は「今回はそういう解釈のバットマンね」と脳内で受け入れる土壌ができている。
一方で『仮面ライダー』の1号は、1971年という時代に、藤岡弘、という一人の青年が文字通り命懸けでスタントをこなし、大怪我を負いながらも現場に復帰したという「生のドキュメンタリー」と分かちがたく結びついてしまった。
あのギラギラした昭和の時代の空気、泥臭さ、そして藤岡氏の強烈な個性が、1号というキャラクターの「骨組み」になってしまったため、別の若い美形俳優を連れてきて「私が本郷猛です」とやらせても、観客の側が「それはコスプレだ」と無意識に拒絶してしまうのである。
もう一つは「マスクを被る=記号化」の罠である。「マスクを被っているんだから、中身は誰でもいいはずだ」という理屈も一見成り立ちそうだが、仮面ライダーにおいて最も重要なのは「変身前」の葛藤であり、あの変身ポーズに至るまでの「生身の人間が背負った悲哀」だ。
ハリウッドのバットマンは「ブルース・ウェインという大富豪の仮面」としてバットマンを消費できるが、日本のライダーは「改造人間としての孤独」という、極めてパーソナルな肉体の苦悩がドラマの核にある。そのため、変身前の「顔」が変わってしまうと、そのキャラクターが積み上げてきた歴史そのものが断絶したように感じられてしまう。
この「スーパーマンのようには割り切れない、人間臭すぎる呪縛」があるからこそ、「1971年の藤岡弘、をデジタルで永久保存する」というアプローチが、唯一にして最高の突破口になるのだと思う。
アメコミ的なアプローチが役者をどんどん代えて新しい時代に合わせる「流動」、アニメ的なアプローチが最初から記号なので声と絵を繋ぐ「不変」であるのに対し、日本の実写レジェンドのアプローチは「あの瞬間の、あの肉体と魂」を、CG技術でそのまま歴史に固定する「凍結」になる。
ルパンのように誰にでもなれるキャラクターの強さもあれば、「藤岡弘、にしかできない」という1号の頑ななまでの唯一無二さもある。後者はビジネスとしては不器用だが、だからこそ私たちはそこに「本物のヒーロー」のロマンを感じてきたのかもしれない。
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