温故知新(144)河姆渡遺跡 和珥氏 琉球王国 斎場御嶽 古代都市セリヌス シヌグ堂遺跡 テル・エル・ファハリヤ遺跡
石峁遺跡 クサール・ヌアイラ 垣ノ島遺跡 おのころ島神社 雨の宮古墳群 マラケシュ 天照皇大神社 幣立神宮 聖ミカエルの山 首里城 モン・サン・ミシェル 摩文仁ハンタ原遺跡 セリヌンテ 亀ヶ岡石器時代遺跡 アンコール・ワット ジェベル・イルード遺跡 久米島 久高島 モヘンジョダロ 鹿島神宮 香取神宮 三戸大神宮 龍宮総宮社 聖ミカエルの山 ギョベクリ・テペ 東三洞貝塚 朝寝鼻貝塚 彦崎貝塚 函石浜遺跡 具志頭城 大伯国
河姆渡遺跡、石峁遺跡、クサール・ヌアイラ
河姆渡文化(かぼとぶんか)は、中国浙江省に紀元前5000年頃から紀元前4500年頃にかけて存在した新石器時代の文化で、高床式住居があり、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになっています。「アトランティス」の都市があったと推定されるクサール・ヌアイラと、河姆渡遺跡を結ぶラインは、石峁遺跡の近くを通ります(図1)。このラインから、石峁遺跡や河姆渡遺跡は「アトランティス」と関係があると推定されます。

河姆渡遺跡と垣ノ島遺跡、おのころ島神社、マラケシュ
北海道函館市の垣ノ島B遺跡では、縄文時代早期の土坑墓から、約9000年前の漆塗りの装身具が発見されていますが、これらは中国の河姆渡遺跡で出土した約6200年前の漆椀より古く世界最古のものです。垣ノ島遺跡と河姆渡遺址(中国 Zhejiang, Ningbo, Yuyao)を結ぶラインは、孝霊天皇と関係があると推定されるサムハラ神社奥の宮(岡山県津山市)の近くを通る、おのころ島神社とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。
このラインから、垣ノ島遺跡と河姆渡遺址は、漆で関係付けられていると推定されます。おのころ島神社と垣ノ島遺跡を結ぶラインは、和珥氏の古墳と推定される雨の宮古墳群(石川県鹿島郡中能登町)の近くを通り、河姆渡遺址とおのころ島神社を結ぶラインの近くには、熊本県山鹿市にある景行天皇を祀る大宮神社や石槌山があります(図2)。これらのラインから、河姆渡遺跡は、古代天皇や和珥氏と関係があると推定されます。

河姆渡遺跡と天照皇大神社、幣立神宮、聖ミカエルの山
河姆渡遺跡と天照皇大神社を結ぶラインは、九州の「へそ」と呼ばれた幣立神宮と聖ミカエルの山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、幣立神宮と天照皇大神社を結ぶラインの近くには、三島神社(愛媛県伊予市)、美和神社(岡山県瀬戸内市長船町)があります(図3)。これらのラインから、河姆渡遺跡と天照皇大神社は、漆で関係付けられていると推定されます。

河姆渡遺跡と古代都市セリヌス、斎場御嶽、テル・エル・ファハリヤ遺跡、シヌグ堂遺跡
アナトリア半島の古代都市セリヌスと沖縄県南城市にある15世紀-16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽とされる斎場御嶽(せーふぁーうたき)を結ぶラインは、河姆渡遺跡の近くを通り、縄文時代のシヌグ堂遺跡と、フルリ人のミタンニ王国の首都ではないかともいわれるテル・エル・ファハリヤ遺跡(Tell Fecheriye)を結ぶラインも、河姆渡遺跡の近くを通ります(図4、5)。


首里城、シヌグ堂遺跡、斎場御嶽、モン・サン・ミシェル
首里城(那覇市)とシヌグ堂遺跡を結ぶラインは、斎場御嶽とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。

シヌグ堂遺跡と、縄文時代後期の人骨が見つかっている糸満市摩文仁にある摩文仁ハンタ原遺跡を結ぶラインは、斎場御嶽とシチリア島のセリヌンテ(古代都市セリヌス)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。

アンコール・ワット、亀ヶ岡石器時代遺跡、シヌグ堂遺跡
亀ヶ岡石器時代遺跡とアンコール・ワットを結ぶラインの近くに河姆渡遺跡があります(図8)。アンコール・ワットと沖縄県うるま市にある縄文時代のシヌグ堂遺跡を結ぶラインの近くには、台湾の高雄関帝廟があります(図8)。

斎場御嶽と亀ヶ岡石器時代遺跡を結ぶライン(図9)は、図6、7の斎場御嶽とシヌグ堂遺跡を結ぶラインとほぼ重なり、このラインは、剣山、国の天然記念物および名勝に指定されている東尋坊(福井県坂井市)、能登國一宮 氣多大社(石川県羽咋市)、縄文時代の遺跡の真脇遺跡(石川県鳳珠郡能登町)の近くを通ります(図9)。

シヌグ堂遺跡、ジェベル・イルード遺跡
図8と図9のレイラインから、シヌグ堂遺跡、亀ヶ岡石器時代遺跡、アンコール・ワットを結ぶラインは球面三角形を描き、亀ヶ岡石器時代遺跡とアンコール・ワットを結ぶラインは、シヌグ堂遺跡とジェベル・イルード遺跡(Grotte ighoud)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図10)。

斎場御嶽と久米島、久高島
岩田氏は、沖縄の久米島は昔から米の島として知られ、沖縄のニライカナイ信仰はメソポタミアの自然神信仰と一致することなどから、日本最初のコメはシュメール人の海人によって、インダスから南インドを経由して日本にもたらされた可能性が高いとしています1)。久米島と王国開闢にまつわる最高聖地とされている久高島を結ぶラインは、斎場御嶽を通ります(図11)。

久高島とモヘンジョダロ
久高島とモヘンジョダロを結ぶラインは、久米島の宇江城城跡(うえぐすくじょうあと)の近くを通ります(図12)。

斎場御嶽と鹿島神宮
岩田氏は、インドの西海岸にあるケララ州に伝わるカラリ・パヤットという武技は、沖縄や南九州に早くから伝えられた棒術の原型といわれているようですが、鹿島神宮の棒踊りが、鹿児島県や沖縄県黒島に残っている棒踊りとまったく同じ動きをすると指摘しています1)。鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)と斎場御嶽を結ぶラインの近くには、香取神宮(千葉県香取市)、姫宮神社(佐倉市)、妙見本宮 千葉神社(千葉市)、三島神社(南伊豆町青野)などがあります(図13)。鹿島神宮は、デーノタメ遺跡や天照皇大神社(加賀市山中温泉真砂町)とレイランでつながっています。

斎場御嶽と三戸大神宮
三戸大神宮(青森県三戸郡三戸町)と斎場御嶽を結ぶラインは、ヒスイ海岸(新潟県糸魚川市)、大日ヶ岳(岐阜県郡上市)、九頭竜湖(福井県大野市)、龍宮総宮社(徳島県阿南市)の近くを通ります(図14)。沖縄県の縄文時代は約6,700年前から約2,300年前まで続き、遺跡からは、垂飾りに使われた糸魚川産のヒスイなども見つかっています。このことから、レイラインでは実際に、人や物の交流があったと推定されます。

上野原遺跡、轟貝塚、東三洞貝塚、阿高貝塚
C1系統人集団は、新石器時代の貝文文化を日本列島にもたらした可能性が推定され、上野原遺跡(鹿児島県霧島市)は、約7,300年前の鬼界カルデラの噴火で滅亡したようです。しかし、熊本県宇土市の轟貝塚では、縄文時代早期末(約7,500年前)から後期中葉(約3,500年前)にかけて同じ系統の土器が見つかっていることから、九州の縄文人は全滅は免れたようです。韓国の釜山(プサン)にある東三洞(トムサンドン)貝塚からは、熊本県熊本市南区城南町の阿高貝塚から見つかった約5,000年前の貝製仮面とよく似たものが見つかっています。轟貝塚と聖ミカエルの山を結ぶラインは、東三洞貝塚の近くを通ります(図15)。

上野原遺跡、彦崎貝塚、朝寝鼻貝塚、三内丸山遺跡
縄文時代前期とされる朝寝鼻貝塚(岡山市北区)や彦崎貝塚(岡山市灘崎町)から約6000年前の地層から稲のプラントオパールが出土し、彦崎貝塚からは、小麦などのプラントオパールも見つかっています。三内丸山遺跡(青森市)と上野原縄文の森(霧島市)を結ぶラインは、函石浜遺跡(京丹後市)、久久比神社(兵庫県豊岡市)、朝寝鼻貝塚、彦崎貝塚の近くを通ります(図16)。

朝寝鼻貝塚と沖縄の久高島を結ぶラインは彦崎貝塚の近くを通り(図17)、久高島とギョベクリ・テペを結ぶラインは、河姆渡遺跡の近くを通ります(図18)。朝寝鼻貝塚や彦崎貝塚の稲や稲作は、沖縄を経由して伝わったのではないかと思われます。


函石浜遺跡、具志頭城洞穴、大伯国
図14の函石浜遺跡では、沖縄県具志頭城(ぐしがみぐすく)洞穴で発見された刀銭と同じ形状の燕の明刀銭が見つかっています。函石浜遺跡と具志頭城址公園を結ぶラインは、成務天皇(倭建命と推定)の陵墓と推定される築山古墳(瀬戸内市長船町)や、成務天皇の宮があったと推定される旧太伯小学校(岡山市東区神崎町)の近くを通ります(図19)。瀬戸内市邑久町でも燕の明刀銭が見つかったことは、大伯国(邪馬台国)と琉球王国との関係を示していると推定されます。

沖縄具志頭村(ぐしちゃんそん)(現・八重瀬町)港川の採石場では、約18,000年前の旧石器人の港川人が発見され、Y染色体ハプログループはC1系統と推定されていますが、ミトコンドリアのハプログループを調べると、現代人、弥生人、縄文人の祖先型の遺伝子を持つものの、現代人、弥生人、縄文人には直系の子孫は見つからなかったようです。元々はインドの東側にいた縄文系のY染色体ハプログループD系統が、約1,300年続いたヤンガードリアス期に、北や東に移動しハプログループC1系統と混血し、同化していったと考えられています。琉球国王のY染色体ハプログループは天皇家と同じくD系統と推定されています。琉球王家の紋章は、丹生都比売神社の神紋と同じ左三つ巴です。
Y染色体ハプログループD系統(特にD1a2a)は、現代日本人男性の約30〜40%に見られる特有の系統です。これは、現代日本人のゲノム(全遺伝情報)における縄文人由来の割合(全体平均で約10〜20%程度)より高いので、弥生人にもD系統が多かったと推定されます。ハプログループD系統は、約7.3万年前にアフリカでハプログループDEから発生し、下位系統のハプログループD1のみが出アフリカを果たし、その後内陸ルートを通って東アジアへ向かったとされています。ハプログループD系統は、現在の中国、朝鮮、東南アジアにおいて支配的で日本でも半数程度(50%以上)みられるハプログループO系統とは、分岐から7万年以上の隔たりがあるようです。
文献
1)岩田 明 2004 「消えたシュメール王朝と古代日本の謎」 学習研究社
