温故知新(139)孝霊天皇 門田貝塚 尾張 彦崎貝塚 ギョベクリ・テペ 塩釜神社 ローマ 津雲貝塚 阿字八幡宮 孝霊神社 鯉喰神社 備中松山城 サムハラ神社奥の宮 楯築遺跡 岡山城 熊山遺跡 浦間茶臼山古墳 西大寺観音院 安仁神社 天王山古墳群 大阪城 名古屋城
彦崎貝塚(岡山市南区)は、縄文時代前期(約6,000年前)から縄文時代晩期(約3,000年前)まで続いている貝塚で、約6000年前の地層から稲のプラントオパールが出土し、小麦などのプラントオパールも見つかっています。笠岡市西大島にある津雲貝塚は、縄文時代終わりごろ(約3,500年前)の貝塚です。瀬戸内市邑久町尾張にある門田貝塚は、弥生時代前期(約2,300年前)の貝塚で、貝塚のまわりでは弥生時代後期(約1,900年前)の製塩用の土器なども見つかっています。門田貝塚には、弥生時代から鎌倉時代までの遺跡が残っています。
門田貝塚と津雲貝塚を結ぶラインは、彦崎貝塚とスカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1)。

ジェベル・イルード遺跡やセリヌス古代都市とつながるギョベクリ・テペ(紀元前9600〜8200年頃)の周辺地域は、現代の農業につながるヒトツブコムギ(一粒小麦)の原産地と考えられていて、遺跡の周辺では栽培が行われていたという説が有力です。関連する遺物は、レイラインで結ばれている場合があるので、小麦のプラントオパールがみつかっている彦崎貝塚とギョベクリ・テペがレイラインで結ばれるか検討してみました。
彦崎貝塚とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには、穴門武媛命(神功皇后と推定)が祀られている穴門山神社(岡山県倉敷市真備町)や、妙高山 寳全寺(広島県神石郡神石高原町)があり、このラインは、品陀真若王(出雲建と推定)の城だったと推定される鬼ノ城跡と神功皇后ゆかりの大浦神社(岡山県浅口市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。このラインは、品陀真若王と神功皇后が夫婦だったと推定されることと整合し、彦崎貝塚の小麦とギョベクリ・テペの小麦は関係があると推定されます。

製塩用の土器がみつかっている門田貝塚と、ローマとつながっている塩釜神社(岡山県玉野市築港)との関係を調べてみると、門田貝塚と鹽竈神社(倉敷市児島味野)を結ぶラインは、塩釜神社(玉野市)とローマを結ぶラインとほぼ直角に交差しました(図3)。鹽竈神社(倉敷市)は、アトランティスの都市があったと推定されるクサール・ヌアイラとつながる鹽竈神社(松本市)とレイラインでつながっています。

瀬戸内市邑久町山手にある阿字八幡宮と門田貝塚を結ぶラインは、弘法大師 空海ゆかりの邑久北巡り八十八箇所霊場第55番札所とヴェストラホルン(Vestrahorn)山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。後者のラインは、野見宿禰を祀る石津神社(岡山市東区吉井)の近くを通ります(図4)。門田貝塚は、阿字八幡宮と関係があると推定される第7代孝霊天皇(須佐之男命と推定)や弘法大師 空海と関係があると推定されます。塩釜神社に祀られている塩土老翁が須佐之男命(孝霊天皇と推定)とすると、門田貝塚には、孝霊天皇の宮があったのかもしれません。

倭迹々日百襲姫命を祀る水主神社境内社の孝霊神社(東かがわ市)とスカラ・ブレイを結ぶラインは、門田貝塚や石上布都魂神社(岡山県赤磐市)の近くを通り、メンフィス博物館と奈良県磯城郡田原本町黒田にある孝霊神社(廬戸神社)を結ぶラインは、伯耆稲荷神社(鳥取県東伯郡琴浦町)、門戸厄神 東光寺(兵庫県西宮市)、水堂須佐男神社(尼崎市水堂町)の近くを通ります(図5)。孝霊神社(廬戸神社)は、孝霊天皇の皇居「黒田廬戸宮」の跡地である法楽寺の鎮守社として創建された神社です。

孝霊天皇を祀っていると推定されるサムハラ神社 奥の宮(岡山県津山市)と、孝霊天皇の城があったと推定される備中松山城(岡山県高梁市)を結ぶラインは、孝霊神社とレイラインでつながるパレルモと門田貝塚を結ぶラインとほぼ直角に交差し、交点付近には天計神社(岡山県加賀郡吉備中央町)があります(図6)。また、備中松山城と門田貝塚を結ぶラインは、サムハラ神社 奥の宮と孝霊天皇の陵墓と推定される鯉喰神社遺跡(倉敷市矢部)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。ハドソン湾と鯉喰神社を結ぶラインは、サムハラ神社奥の宮と鯉喰神社を結ぶラインとほぼ一致します(図6)。

パレルモを含むシチリア島における古代の製塩は、特に島西部のトラパニ(Trapani)やモティア(Mozia)周辺で、フェニキア人によって紀元前8世紀頃(約2700年以上前)に始められた伝統的な技術が受け継がれています。
孝霊天皇の妃の倭国香媛の陵墓と推定される楯築遺跡(岡山県倉敷市)と、門田貝塚を結ぶラインは、孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命の城があったと推定される岡山城を通ります(図7)。孝霊天皇と関係があると推定される熊山遺跡と楯築遺跡を結ぶラインは、門田貝塚とスカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差し、前者のラインは吉備津神社(岡山市北区)、後者のラインは鴨神社(岡山県赤磐市)の近くを通ります(図7)。また、熊山遺跡と岡山城を結ぶラインは、門田貝塚とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差し、門田貝塚と熊山遺跡を結ぶラインは、邑久北巡り八十八箇所霊場第88番札所の近くを通ります(図7)。これらのラインは、門田貝塚に孝霊天皇の宮があったと推定されることと整合します。

門田貝塚と、豊玉姫命(多岐都比売命、倭迹迹日百襲姫命と推定)を祀っていると推定される西大寺観音院(岡山市東区西大寺中)を結ぶラインは、瀬織津姫命(市杵島姫命と推定)を祀る瀧神社(西大寺一宮)とヴェストラホルン(Vestrahorn)山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは、第10代崇神天皇の陵墓と推定される浦間茶臼山古墳(東区浦間)の近くを通ります(図8)。このラインは、尾針神社(岡山市北区京山)や、崇神天皇の妃の尾張大海媛の墓と推定される操山109号墳が、門田貝塚のある邑久町尾張とつながっていることと整合します。

成務天皇(倭建命と推定)を祀っていると推定される安仁神社(岡山市東区西大寺)とシラクサを結ぶラインは、門田貝塚と第13代成務天皇の宮があったと推定される旧太伯小学校(岡山市東区神崎町)を結ぶラインとほぼ直角に交差し、西大寺観音院の近くを通ります(図9)。門田貝塚と旧太伯小学校を結ぶラインは、ポヴァティ・ポイント・ワールド・ヘリテイジ・サイトと旧太伯小学校を結ぶラインとほぼ重なります(図9)。

邑久町尾張の門田貝塚と建稲種命の城があったと推定される名古屋城との関係を調べてみました。名古屋城と門田貝塚を結ぶラインは、多度大社(三重県桑名市)を通り、五十瓊敷入彦命の城があったと推定される大阪城とヴェストラホルン(Vestrahorn)山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図10)。後者のラインは、御神神社(京都府綾部市)の近くを通ります。また、大阪城と名古屋城を結ぶラインは、四條畷神社(大阪府四條畷市)の近くを通り、門田貝塚と大阪城を結ぶラインは、瓊瓊杵尊の陵墓があると推定される天王山古墳群(兵庫県神戸市)の近くを通ります(図10)。

これらのラインは、門田貝塚に孝霊天皇の宮があったと推定されることと整合します。スサノオがヤマタノオロチを切り殺したときに、オロチの尾から出てきたのが草薙剣で、『日本書紀』には、草薙剣は吉備の神部に伝わったと記されています。「尾張」の名前の由来は、草薙剣と関係があるかもしれません。
