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温故知新(88)大和 倭(やまと) 山手 邪馬台(邪摩堆) 阿字八幡宮 日向石神社 吉備津神社 楯築遺跡 岡山城 観音寺 飯能丹生神社(正一位丹生大明神) 椿大神社 水垣宮 日代宮 備中松山城 ブラウロン遺跡

倭建命と倭(やまと)
 『古事記』には、倭建命が能褒野で国を偲んで詠んだ歌に、「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山 隠(ごも)れる 倭しうるわし」があります。倭建命の一人と推定される成務天皇の陵墓と推定される築山古墳(岡山県瀬戸内市長船町西須恵)とアレクサンドリアを結ぶラインは、崇神天皇の陵墓と推定される浦間茶臼山古墳(岡山市東区浦間)や高岡神社(真庭市上中津井)の近くを通ります(図1)。このラインは、孝霊天皇と関係があると推定される祇園天王磐座(岡山県瀬戸内市長船町磯上)と阿字八幡宮(瀬戸内市邑久町山手)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1)(写真トップ:岩屋山展望台(邑久町山手)から西大寺方面を望む)。大倭根子日子賦斗迩命(孝霊天皇)を祀る高岡神社は、孝元天皇の陵墓と推定される備前車塚古墳とアルテミス神殿を結ぶラインの近くにあります

図1 築山古墳、祇園天王磐座、阿字八幡宮を結ぶ三角形のライン、築山古墳とアレクサンドリアを結ぶラインと浦間茶臼山古墳、高岡神社

  下記の丸谷 憲二氏のブログによると、祇園天王磐座のある日向石神社(石上神社)の祭神は、第10代崇神天皇と須佐之男命(第7代孝霊天皇と推定)だったようです。

倭(やまと)と山手
 岡山県には、阿字八幡宮のある瀬戸内市邑久町山手の他にも「山手」という地名がありますが、「神部(かんべ)」があったと推定される石上布都魂神社(岡山県赤磐市)の付近にもあります(図2)。美作市山手と吉備津神社(岡山市北区)を結ぶラインは、赤磐市山手を通り、このラインは邑久町山手とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。

図2 瀬戸内市邑久町山手、美作市山手、吉備津神社を結ぶ三角形のライン、邑久町山手とオリンポス山を結ぶラインと赤磐市山手、石上布都魂神社、久米郡久米南町山手

 かつて岡山県の南部(都窪郡)に山手村(現総社市)がありました。山手村のあった場所にある総社市山手出張所と邑久町山手を結ぶラインの近くには、倭国香媛(天照大神と推定)の陵墓と推定される楯築遺跡倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼と推定)の城があったと推定される岡山城があり(図3)、久米郡久米南町山手と総社市山手出張所を結ぶラインは、邑久町山手と古代都市セリヌス(Selinus Ancient City)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。「山手」という地名は、レイラインの指標となっていると思われます。

図3 瀬戸内市邑久町山手、久米郡久米南町山手、総社市山手出張所を結ぶ三角形のラインと、楯築遺跡、岡山城、邑久町山手とセリヌスを結ぶライン

 埼玉県飯能市の飯能丹生神社(正一位丹生大明神)の近くにある観音寺は、埼玉県飯能市山手町にあります。アルテミス神殿と観音寺(山手町)を結ぶラインは、飯能丹生神社を通り、観音寺とマラケシュを結ぶラインは、能仁寺(飯能市)を通ります(図4)。

図4 アルテミス神殿と観音寺(山手町)を結ぶラインと飯能丹生神社(正一位丹生大明神)、観音寺とマラケシュを結ぶラインと能仁寺

 瀬戸内市邑久町山手にある阿字八幡宮と観音寺(飯能市山手町)を結ぶラインの近くには、大宮諏訪神社(長野県北安曇郡小谷村)、恵那神社(岐阜県中津川市)、金剛輪寺(滋賀県愛知郡愛荘町)、延暦寺(大津市)、大覚寺(京都市右京区嵯峨)があります(図5)。このラインは、椿大神社 奥宮(三重県鈴鹿市小岐須町)とヴェストラホルン(Vestrahorn)山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。椿大神社 奥宮とヴェストラホルン(Vestrahorn)山を結ぶラインは、丹生氏ゆかりの大虫神社(福井県越前市)の近くを通ります(図6)。このラインは、「山手」という地名が、レイラインの指標となっていると推定されることと整合します。

図5 観音寺(飯能市山手町)、阿字八幡宮(邑久町山手)を結ぶラインと大宮諏訪神社、恵那神社、金剛輪寺、延暦寺、大覚寺
図6 椿大神社奥宮、観音寺、阿字八幡宮を結ぶ三角形のライン、椿大神社奥宮とヴェストラホルン(Vestrahorn)山を結ぶラインと大虫神社

邪馬台(邪摩堆)と山手
 南北朝時代(439年 - 589年)を記録した『 北史(ほくし)』では、大和(やまと)のことを「邪摩堆(やまと)」(は、うずたかい地)と記述し、竹斯国(筑紫国に比定されている)から邪摩堆まで「東」へと向かっています。大平裕氏は、隋からの使者の報告や、唐の『後漢書』の記載からも「邪摩堆」が正しいとしています1)。

 丸谷憲二氏が報告しているように、備前市の伊里川が、カザフスタンの「イリ川」に由来するならば、「山手」は、イリ川上流にある「ヤマトゥ Yamat, Yamata, Yamatu」に由来するのかもしれません。ギョベクリ・テペは、トルコ共和国にあり、トルコ語と系統的に関係がある言語(チュルク諸語)はヨーロッパからアジアまで広く分布しています。日本語の「山」「山地」は、トルコ語で「yama」「yamaç(ヤマチ)」で、また、トルコ語は語順が主語-目的語-動詞となる点や、助詞や助動詞の付き方が日本語と似ているとされています。

 「魏志倭人伝」における「邪馬台」や「隋書倭国伝」における「邪摩堆(yamatö)」は「山のふもと」の意味とされるので、「山手(やまのて やまて)」の「山に近い所」という意味と似ています。魏の人々は「邪馬台国」をヤマティ、ヤマトと表記していたようです。古代には「台」は「と」または「テ(カラ語)」と読まれたので2)、「邪馬台(やまと)」を「山手」と表記したのかもしれません。

 崇神天皇の水垣宮があったと推定される西賀茂水垣町と、京都府京田辺市の山手中央を結ぶラインは、崇神天皇と関係があると推定される平安朝御牧馬寮故址(京都府久世郡久御山町)の近くを通ります(図7)。平安朝御牧馬寮故址の近くには、垂仁天皇の珠城宮があったと推定される珠城神社(久御山町)があります。崇神天皇や垂仁天皇は、「山手」を使っていたのかもしれません。

図7 西賀茂水垣町と山手中央(京都府京田辺市)を結ぶラインと平安朝御牧馬寮故址、珠城神社

応神天皇、仁徳天皇と大和(やまと)
 上田正昭氏によると、奈良で「大和」が使われるようになったのは、「養老令」が施行された757年頃とのことです3)。『万葉集』に、太宰帥大伴旅人(7世紀後半~8世紀前半)が都へ帰る際に詠んだ「大和道(やまとぢ)の 吉備の児島を 過ぎて行かば 筑紫の児島 思ほえむかも」という歌などもあります4)。岡山市北区には大和町があり、岡山県吉備郡(旧・賀陽郡)には大和村がありました。北区にある三和は「みと」と読むので、古くから「和」を「と」と読む習慣があったと考えられます。

 仁徳天皇の宮があったと推定される若宮八幡神社(岐阜県本巣郡北方町若宮)と景行天皇の日代宮があったと推定される天満神社(大分県津久見市四浦深良津)を結ぶラインは、弘法大師空海が開いた宝珠院 慈眼寺(徳島県勝浦郡上勝町)とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差し、慈眼寺とモン・サン・ミシェルを結ぶラインは、応神天皇の宮があったと推定される御野(岡山市北区北方)や大神山神社(鳥取県米子市)の近くを通ります(図8)。御野の近くには大和町(岡山市北区)があります。

図8 宝珠院 慈眼寺(徳島県勝浦郡上勝町)、若宮八幡神社(北方町若宮)、天満神社(津久見市四浦深良津)を結ぶ三角形のライン、宝珠院 慈眼寺とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと御野(岡山市北区北方)、大神山神社

  若宮八幡神社(北方町若宮)の近くに大和町(岐阜市)があります。若宮八幡神社(北方町若宮)と西賀茂水垣町を結ぶラインは、椿大神社(鈴鹿市)と聖ミカエルの山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図9)。椿大神社と聖ミカエルの山を結ぶラインの近くには、伊邪那岐命・伊邪那美命を祀る多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)や気比の松原(福井県敦賀市松島町)があります(図9)。

図9 椿大神社、若宮八幡神社(北方町若宮)、西賀茂水垣町を結ぶ三角形のライン、椿大神社と聖ミカエルの山を結ぶラインと多賀大社、気比の松原

 日高見国のあった茨城県では「大和」の名称は、地名にはなくなりましたが、JR水戸線大和駅桜川市立大和中学校桜川市役所大和庁舎などに残っています。常陸国総社宮(石岡市総社)とオリンポス山を結ぶラインの近くに、大和中学校や大和庁舎や大和駅があります(図10、11)。桜川市立大和中学校のある桜川市羽田は、2005年に西茨城郡岩瀬町、真壁郡真壁町、同郡大和村が合併して誕生しました。

図10 常陸国総社宮(石岡市総社)とオリンポス山を結ぶラインと桜川市立大和中学校、JR水戸線大和駅、大国玉神社(桜川市)
図11 常陸国総社宮(石岡市総社)とオリンポス山を結ぶラインと桜川市立大和中学校、JR水戸線大和駅、大国玉神社(桜川市)

 応神天皇の宮があったと推定される御野(岡山市北区北方)の近くにある大和町(岡山市北区)と、近くに少名日子建猪心命(少彦名命)の宮があったと推定されるJR水戸線大和駅(茨城県桜川市)を結ぶラインは、仁徳天皇の宮があったと推定される若宮八幡神社(岐阜県本巣郡北方町若宮)と岐阜市大和町の間を通ります(図12)。このレイラインは、「大和」でつながっていると推定されます。倭建命(第12代景行天皇や第13代成務天皇)の後の、第15代応神天皇や第16代仁徳天皇の頃には「大和(やまと)」が使われていたのかもしれません。少名日子建猪心命(少彦名命)の宮で「大和」が残っているのは、応神天皇の時代まで宮があったとすると説明がつきます。

図12 大和町(岡山市北区)とJR水戸線大和駅(茨城県桜川市)を結ぶラインと若宮八幡神社(岐阜県本巣郡北方町若宮)、大和町(岐阜市)

  熊山遺跡から「大和黄鐘」の銘文のある遺物が見つかっています。須佐之男命(孝霊天皇と推定)の城があったと推定される備中松山城(岡山県高梁市)の近くに、吉備中央町立大和小学校(令和6年度で閉校)や、大和郵便局(岡山県加賀郡吉備中央町)があります(図13)。大和小学校とジェッダを結ぶラインは備中松山城の近くを通り、ブラウロン遺跡(Archaeological Site of Vravron)と岡山県総社市槙谷の豪渓にある天柱山を結ぶラインは、備中松山城を通ります(図13)。ブラウロン遺跡と天柱山を結ぶラインは、出雲大社の北にある八雲山の近くを通ります(図14)。もしかすると、孝霊天皇の時代から「大和」はあったのかもしれません。応神天皇と仁徳天皇が「大和」を使用したのは、孝霊天皇の直系子孫だったためと思われます。孝元天皇の義理の父が孝霊天皇と推定され、崇神天皇は、孝元天皇の子と推定されるので、崇神天皇は「山手」を使用したのかもしれません。

図13 旧吉備中央町立大和小学校とジェッダを結ぶラインと備中松山城、ブラウロン遺跡(Archaeological Site of Vravron)と天柱山(豪渓)を結ぶラインと備中松山城、大和郵便局
図14 図13のラインと八雲山

文献
1)大平 裕 2021 「古代史」 PHPエディターズグループ
2)金 容雲 2011 「「日本=百済」説」 三五館
3)上田正昭 2012 「私の日本古代史(上)」 新潮選書
4)若井正一 2004 「ヤマトの誕生」 文芸社

(参考)
下記のブログに全国の「大和」の地名と由来が載っています。