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温故知新(42)日高見国 常世国 毛野国 常陸国総社宮 酒列磯前神社 御岩神社 石船神社 マラケシュ 神峰神社 大洗磯前神社 オリンポス山 静神社 大甕神社 磯浜古墳群 飯名神社 筑波山神社 女化神社 大国玉神社 大杉神社

常世国、常陸国、毛野国
 『古事記』の鵜葺草葺不合命の段にある「御毛沼(みけぬの)命は、波の穂を跳(ふ)みて常世(とこよのくに)國に渡りまし」というのは、御毛沼命が、「毛野国」に移ったことを表していると推定されます。律令制施行後は、上毛野は上野国(こうずけのくに:群馬県領域)に、下毛野は那須(栃木県北部)を加えて下野国(しもつけのくに:栃木県領域)と定められ、
『日本書紀』には、第10代崇神天皇の皇子の豊城入彦命に始まる上毛野氏の伝承が記されています。『常陸国風土記』の筑波郡の条には「筑波の県は、古、紀の国と謂いき」(筑波は昔は「紀の国」といった)との記載があるようです。筑波の西は毛野川(鬼怒川)と連なり下毛野とも近接していますが、毛野はある時期には、常陸国の新治・白壁・筑波の一帯を含む地域であった可能性が指摘されています。少彦名命が常世国に渡ったという伝承などもあり、常世国は常陸国で、古くは毛野国だったのではないかと思われます。

酒列磯前神社、御岩神社
 皇居と富士山を通る鹿島神宮と日前・國懸神宮を結ぶレイラインと、日前・國懸神宮、酒列磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ)(茨城県ひたちなか市)、鹿島神宮を結ぶラインで三角形を描くと、日前・國懸神宮と酒列磯前神社を結ぶラインは、鹿島神宮とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと直角に交差し、鹿島神宮とモン・サン・ミシェルを結ぶラインは、霊牛山 威徳院 極楽寺(栃木県大田原市)の近くを通ります(図1)。

図1 鹿島神宮と日前・國懸神宮を結ぶラインと皇居、富士山、日前・國懸神宮と酒列磯前神社、鹿島神宮を結ぶライン、鹿島神宮とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと霊牛山 威徳院 極楽寺

 出雲大社と酒列磯前神社(写真1)を結ぶラインの近くには、浦嶋神社(京都府与謝郡伊根町)、諏訪大社 下社 秋宮(長野県諏訪郡下諏訪町)、常陸国出雲大社(茨城県笠間市)があり、酒列磯前神社と日前・國懸神宮を結ぶラインの近くには、武蔵御嶽神社(東京都青梅市)や松平東照宮(愛知県豊田市)があります(図2)。酒列磯前神社は、主祭神が少彦名命で、配祀神が大国主命ですが、武蔵御嶽神社は、社伝によると、創建は崇神天皇7年で、武渟川別命が大己貴命と少彦名命を祀ったのが起源とされます。

写真1 酒列磯前神社
図2 出雲大社と酒列磯前神社を結ぶラインと浦嶋神社、諏訪大社(下社)、常陸国出雲大社、酒列磯前神社と日前・國懸神宮を結ぶラインと武蔵御嶽神社、松平東照宮

 酒列磯前神社とマラケシュを結ぶラインは、福島県大沼郡会津美里町にある伊佐須美神社(岩代国一之宮)の近くを通り、石船神社(茨城県東茨城郡城里町)と御岩神社(日立市入四間町)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。伊佐須美神社の社伝によると、崇神天皇10年に大毘古命とその子 建沼河別命が会津で行き逢い、天津嶽(現・新潟県境の御神楽嶽)に伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀ったことに始まるとされています。御岩神社は、縄文晩期の祭祀遺跡が発掘され、『常陸國風土記』に「浄らかな山かびれの高峰(御岩山の古称)に天つ神鎮まる」とされることから、古代より信仰の聖地だったようです。酒列磯前神社と石船神社を結ぶラインは、那珂市にある法満山 一乗院(身代り不動尊)の近くを通ります(図3)。

図3 酒列磯前神社、石船神社、御岩神社を結ぶ三角形のラインと法満山 一乗院(身代り不動尊)、酒列磯前神社とマラケシュを結ぶラインと伊佐須美神社(岩代国一之宮)

石船神社(城里町)
 岩船神社や石船神社は、関東地方では茨城県に比較的多くありますが、小美玉市寺崎、小岩戸の石船神社、茨城町生井沢の石船神社、東海村亀下の磐船神社の4社は、城里町の石船神社(写真2)から分霊されているそうです。石船神社の祭神は須佐之男命と推定される天鳥船命(鳥石楠船命)で、神体は花崗岩の巨石「兜石」、神紋は「左三つ巴」でです。石船神社には藤の古木が群生し(町指定文化財:天然記念物)、神木の杉と共生している最大の藤は、目通り周囲が1.3メートルあります(写真3)。神社と渓流の間に船形石があり、雨乞い祈願に用いられたようで、水が溜まっていました(写真4)。『常陸風土記』の時代から茨城県では製鉄が行われ、内陸部で古代製鉄が行われていたらしいので、もしかすると、船形石と藤蔓の籠で砂鉄を選別し、砂鉄を採ったのかもしれません。

写真2 石船神社(城里町)
写真3 神木の杉と共生している藤の古木
写真4 石船神社(城里町)の船形石

 阿波山(城里町)には、少彦名命を祀る阿波山上神社(あわやまのうえのじんじゃ)があります。阿波山上神社は、大宝元年(701年)、大杉に粟の穂を持った童子の姿の神が降臨したと伝えられ、降木明神の別名があります。阿波国から移り住んだ阿波忌部の人が、杉や粟をもたらしたのかもしれません。城里町役場には、指定文化財天然記念物のスダジイの巨木があります。地元の自然界の主である梟(フクロウ)「ホロル」が住むとされていますが、「パルテノン神殿」に祀られている女神アテナは、梟(フクロウ)を聖獣とします。

神峰神社
 茨城県日立市宮田町にある神峰神社は、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀っていますが、元は神峰山山頂(奥宮)にありました。古くからある神峰神社境内社の稲荷森大神(とうかもりだいじん)は、保食神を祀っています。神峰神社とロドス島を結ぶラインは、神峰山や袋田の滝(久慈郡大子町)を通り、このラインは、石船神社(城里町)と花園神社(北茨城市華川町)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。

図4 神峰神社、花園神社、石船神社(城里町)を結ぶ三角形のライン、神峰神社とロドス島を結ぶラインと神峰山、袋田の滝

大洗磯前神社
 酒列磯前神社と関係が深いとされる茨城県東茨城郡大洗町にある大洗磯前神社(おおあらいいそさきじんじゃ)(写真5)は、主祭神が大国主命(大黒、孝元天皇と推定)で、配祀神が少彦名命(恵比寿、孝元天皇皇子の少名日子建猪心命と推定)です。近くの海岸には、祭神の降臨地と伝わる神磯の鳥居(写真6)があります。駐車場にある「烏帽子岩」は「さざれ石」のようです(写真7)。大洗磯前神社には、大黒さま、恵比寿さまの木像が置かれています(写真8)。

写真5 大洗磯前神社の本殿
写真6 祭神の降臨地と伝わる神磯の鳥居
写真7 大洗磯前神社の烏帽子岩
写真8 大洗磯前神社の大黒さま、恵比寿さまの木像

 大洗磯前神社とオリンポス山を結ぶラインは石船神社(城里町)の近くを通り、酒列磯前神社と素鵞神社(小美玉市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図5)。

図5 大洗磯前神社、酒列磯前神社、素鵞神社(小美玉市)を結ぶ三角形のライン、大洗磯前神社とオリンポス山を結ぶラインと石船神社(城里町)

静神社
 那珂市にある常陸二之宮 静神社(写真9、10)の主祭神は、豊玉姫命(卑弥呼)と推定される 建葉槌命(倭文神)で、『常陸国風土記』久慈郡の条には「静織(しどり)の里」とあり、倭文部が常陸国に居住していたことも推測されています。門の前には、織姫像が建てられています。静神社の本殿の千木(ちぎ)(写真11)は女神を表す内削(うちそ)ぎです。千木の下には、渦巻文様があります。「花園謡曲番続」「玉の井」の絵にある豊玉姫命の背景には波が描かれていますが(写真12)、豊玉姫は神話の中で、海神の娘として登場するためと思われます。豊玉姫命は、紐(ひも)と手提げの籠(かご)のようなものを持っていますが、紐は、大麻や絹で作られた「倭文織」の糸かもしれません。

写真9 静神社
写真10 静神社
写真11 静神社本殿の千木
写真12 豊玉姫命 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 静神社と豊玉姫命を祀る玉比咩神社(岡山県玉野市)を結ぶラインは、鍬山神社(京都府亀岡市)の近くを通り、箸墓古墳(奈良県桜井市)とスカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。箸墓古墳と静神社を結ぶラインの近くには、彌都加伎神社(三重県鈴鹿市)があります(図6)。このラインは、倭迹迹日百襲姫命が、豊玉姫命や建葉槌命であると推定されることと整合します。

図6 箸墓古墳、静神社、玉比咩神社を結ぶ三角形のラインと彌都加伎神社、鍬山神社、箸墓古墳とスカラ・ブレイを結ぶライン

大甕神社
 茨城県日立市大みか町にある大甕神社は、主神が武葉槌命で、地主神が甕星香々背男(みかぼしかがせお)という神で、武葉槌命が、甕星香々背男と称する星神の霊力を封じたことになっています。甕星香々背男(天津甕星 あまつみかぼし)の、「甕」は「かめ」、「香々」は火之炫毘古神(ひのかかびこのかみ)の「炫」、「星」は「シリウス」と推定され、天津甕星は加具土命と推定されます。大甕神社の本殿(写真13)は磐座の上にあり、磐座の規模は違いますが、石上布都魂神社の本宮に似ています。神紋は、石船神社(城里町)や、丹生都比売神社や、丹後一宮 元伊勢 籠神社と同じ巴紋(左三つ巴)です。

写真13 大甕神社本殿

 日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれていますが、これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説があります(Wikipedia:天津甕星)。

磯浜古墳群
 大洗町には、2020年に国の史跡に指定された3~4世紀の古墳時代前期から中期初頭の磯浜古墳群(大洗町磯浜町)があり、前方後方墳から前方後円墳、円墳と続く墳形の変遷は、ヤマト政権の影響が見てとれるといわれています。大洗磯前神社の近くに4世紀後半の円墳である車塚古墳があります。備前車塚古墳と同じ「車塚古墳」の名前の由来については、新編常陸国誌に「その体天子の山陵の如く宮車に類す、故に俗車塚とよべり」とあるようですが、車輪十字(太陽十字)に由来するのではないかと思われます。

 磯浜古墳群には、3世紀中頃の前方後方墳の姫塚古墳(写真14)がありますが、姫塚古墳は、孝元天皇(大国主命)の墓と推定される備前車塚古墳と同じ前方後方墳で、築造年代も卑弥呼の推定没年に近いので、孝元天皇の皇子の少名日子建猪心命(少彦男心命、少彦名命と推定)の墓と思われます。備前車塚古墳から出土した11面の三角縁神獣鏡のうち4面の同笵鏡が、関東地方から見つかっていることと関係がありそうです。

写真14 姫塚古墳

 大洗磯前神社とオリンポス山を結ぶラインの近くには、新潟県西蒲原郡弥彦村にある彌彦神社(やひこじんじゃ)があります(図7)。彌彦神社は、越後平野西部の弥彦山を神体山として祀る神社で、『万葉集』にも歌われる古社です。祭神の天香山命(大国主命、孝元天皇と推定)は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬されたようです。このラインは、姫塚古墳の被葬者と孝元天皇(大国主命)との関係を示していると推定され、姫塚古墳の被葬者が、孝元天皇の皇子の少名日子建猪心命(少彦男心命)と推定されることと整合します。

図7 大洗磯前神社とオリンポス山を結ぶラインと石船神社(城里町)、彌彦神社

 和珥氏の墓と推定される雨の宮古墳群と姫塚古墳を結ぶラインの近くには戸隠神社 奥社(長野市)、赤城山、笠間稲荷神社(茨城県笠間市)があります(図8)。これは少名日子建猪心命(少彦男心命)と和珥氏の倭迹迹日百襲姫命との関係を示していると推定されます。

図8 雨の宮古墳群と姫塚古墳を結ぶラインと戸隠神社奥社、赤城山、笠間稲荷神社

 大洗磯前神社と雨の宮古墳群、雨の宮古墳群と大湯環状列石、大湯環状列石と大洗磯前神社を結ぶラインで三角形を描くと、図7のラインは、雨の宮古墳と大湯環状列石を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図9)。

図9 大洗磯前神社と雨の宮古墳群を結ぶラインと姫塚古墳、赤城山、戸隠神社 奥宮、雨の宮古墳群と大湯環状列石を結ぶライン、大湯環状列石と大洗磯前神社を結ぶライン、大洗磯前神社とオリンポス山を結ぶラインと石船神社(城里町)、彌彦神社

常陸国
 鹿島神宮とチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くに、常陸国総社宮(茨城県石岡市総社)、常陸風土記の丘(石岡市染谷)があります(図10)。オリンポス山と香取神宮を結ぶラインの近くには筑波山神社(つくば市)があり、これらのラインの交点付近には、江戸までは星宮大権現あるいは星宮大明神と称した楡木神社(栃木県鹿沼市)があります(図10)。オリンポス山と香取神宮を結ぶラインの近くにある7世紀前半頃の築造と推定される壬生車塚古墳(にぶくるまつかこふん)(栃木県下都賀郡壬生町)は、下毛野氏一族の墓と解されている「下野型古墳」の特徴を有しています。

図10 鹿島神宮とチャタル・ヒュユクを結ぶラインと常陸国総社宮、常陸風土記の丘、楡木神社、オリンポス山と香取神宮を結ぶラインと楡木神社、車塚古墳、筑波山神社

 常陸風土記の丘の近くには、龍神山や豊城入彦命を祀る佐志能神社(石岡市染谷)があり(写真15)、上毛野君の遠祖の荒田別命の子孫 佐白公が新治国造に任ぜられたときに祖神を龍神山に鎮座したとされます。5世紀中ごろの築造と推定される茨城県内最大規模の舟塚山古墳(石岡市柿岡)とパレルモを結ぶラインの近くに佐志能神社があります(図11)。ラインの近くに須佐之男命を祀る素鵞神社(石岡市中津川)や常陸国総社宮があるので、舟塚山古墳は、荒田別命の墓と推定されます。

写真15 龍神山・波付岩ジオサイト 常陸風土記の丘の説明板より
図11 舟塚山古墳とパレルモを結ぶラインと素鵞神社(石岡市中津川)、常陸国総社宮、常陸風土記の丘、佐志能神社(染谷)、龍神山、鹿の子遺跡

 土器に塩水を入れ、煮沸して塩の結晶を得る古代土器製塩法は、縄文時代後期に、茨城県霞ヶ浦沿岸に初めて現れ、以後宮城県松島湾、青森県下北半島や津軽半島に拡がったようです1)。『常陸風土記』の信太の郡(しだのこおり)の浮島に関する記事に「居(す)める百姓は塩を火(や)きて業となす。しかして九つの社(やしろ)ありて言行は諱(き)なり」とあります。斎藤 忠氏は、浮島の人々は神聖な呪力をもつ塩を生産する特殊な職域にあり、言葉や行動にも謹み深さがあったのだろうと推定しています2)。古渡から江戸崎の方が『常陸国風土記』に見る「榎浦(えのうら)」であっただろうとされ、常陸国への入口であったようです。信太郡(しだぐん)は、白雉4年(653年)に建てられた常陸国の郡で、稲敷市には信太古渡(しだふっと)という地名が残っています。信太古渡の周辺には、須賀神社、熊野神社、稲荷神社などがあります(図12)。

図12 信太古渡の周辺の神社

飯名神社、筑波山神社、女化神社
 茨城県つくば市臼井にある飯名神社(いいなじんじゃ)(写真16、17)は、祭神が宇気母知神(うけもちのかみ 保食神 豊受大神と推定)と市杵嶋姫命で、創建が8世紀以前に遡る古社で『常陸国風土記』の信太郡の条にある「飯名神」に比定する見解があるようです。

写真16 飯名神社
写真17 本殿奥の御神体の磐座

 筑波山を御神体とする筑波山神社(写真18)は、羽黒山と妙見本宮 千葉神社を結ぶレイライン上にあります。

写真18 筑波山神社

 筑波山神社と飯名神社を結ぶラインは、茨城県つくば市臼井にある六所皇大神宮靈跡(写真19)とアルテミス神殿を結ぶラインとほぼ直角に交差し、交点の近くには清水稲荷神社(筑波山七稲荷)があります(図13)。「六所皇大神宮」(六所神社)は、社伝によれば、筑波地方の総社として創建され、「伊勢神宮」の分社ということで「皇大神宮」と称し、「筑波山神社」の里宮ともされるようです。筑波山がアルテミス神殿とつながっているのは、アルテミスが古くは山野の女神であるためと思われます。

写真19 六所皇大神宮靈跡
図13 六所皇大神宮靈跡と筑波山神社と飯名神社を結ぶライン、六所皇大神宮靈跡とアルテミス神殿を結ぶラインと八坂神社、清水稲荷神社

 龍ヶ崎市にある女化神社は保食命(豊受大神と推定)を祀り、狛犬が狐で(写真20)、一説によると『常陸国風土記』の「飯名社」(飯名神社の分社)の比定社になっています。社地は茨城県牛久市女化町内の飛地にあり、通称は女化稲荷神社といわれます。田中孝顕氏によると、「茨城」「牛久」「女化」は、いずれもタミル語で「日の出」を表すようです3)。

写真20 女化神社

大国玉神社
 姫塚古墳とほぼ同緯度にある桜川市大国玉(旧真壁郡大和村大国玉)に、大国主命を祀る大国玉神社(写真21、22、23)があり、境内社には后神社(須勢理比女命)があります。社伝によると養老年間(717 - 724年)の創建とされ、六国史及び延喜式神名帳に記載があります。豊城入彦命の墓と推定される元島名将軍塚古墳(群馬県高崎市)と姫塚古墳を結ぶラインの近くに大国玉神社があります(図14)。

図14 元島名将軍塚古墳と姫塚古墳を結ぶラインと大国玉神社(桜川市)
写真21 大国玉神社
写真22 大国玉神社 本殿
写真23 大国玉神社 由緒

 大国魂神社と女化神社を結ぶラインは、筑波山神社の近くを通ります(図15)。女化神社と石船神社(城里町)を結ぶラインの近くには、鹿島神社(かすみがうら市)、常陸風土記の丘六所神社(笠間市)があります(図15)。女化神社の本殿の向きは、石船神社(城里町)や大國玉神社(桜川市)と関係があると思われます(図16)。

図15 大國玉神社と女化神社を結ぶラインと筑波山神社、女化神社と石船神社(城里町)を結ぶラインと鹿島神社、常陸風土記の丘、六所神社、大杉神社
図16 石船神社(城里町)と女化神社、女化神社と大國玉神社(桜川市)を結ぶライン

 石船神社(城里町)と武蔵阿蘇神社(東京都羽村市)を結ぶラインは、大國玉神社(桜川市)の近くを通り、このラインは、佐志能神社(染谷)の近くを通る常陸国総社宮とパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図17)。武蔵阿蘇神社と常陸国総社宮を結ぶラインの近くには、武蔵一宮 氷川神社(埼玉県さいたま市)があります(図17)。

図17 常陸国総社宮、石船神社(城里町)、武蔵阿蘇神社を結ぶ三角形のラインと大國玉神社(桜川市)、氷川神社、常陸国総社宮とパレルモを結ぶラインと佐志能神社(染谷)

 富士山とチチェン・イッツァを結ぶラインは、武蔵阿蘇神社、大国玉神社(桜川市)、石船神社(城里町)の近くを通ります(図18)。

図18 富士山とチチェン・イッツァを結ぶラインと武蔵阿蘇神社、大國玉神社(桜川市)、石船神社(城里町)

大杉神社
 筑波山の「飯名神」から起こったとされる「稲敷郷」(現稲敷市)の阿波に、倭大物主櫛甕玉大神を主祭神とする大杉神社(写真24)があります。大杉大明神は三輪明神(奈良県三輪の大神神社)で、大杉神社は女化神社とほぼ同緯度にあります(図14)。これは大物主神(加具土命)と豊受大神(豊受姫命)を関係付けていると推定されます。稲敷市阿波一帯は、律令体制以前は菟上国(海上国)の一部で、大杉神社は菟上国造を祀るもっとも重要な神社だったといわれています。

写真24 大杉神社

日高見国
 『常陸国風土記』には、信太郡はもと日高見国(ひたかみのくに/ひだかみのくに)だったと記されています。日高見国は、平安時代につくられた『延喜式』に定められた大祓詞(おおはらえのことば)では「大倭日高見国」とされ、『日本書紀』では蝦夷の地を指します。

神話学者の松村武雄は、「日高見」は「日の上」のことであり、大祓の祝詞では天孫降臨のあった日向国から見て東にある大和国のことを「日の上の国(日の昇る国)」と呼び、神武東征の後王権が大和に移ったことによって「日高見国」が大和国よりも東の地方を指す語となったものだとしている。

出典:日高見国 wikipedia

 日高見国は、孝元天皇(大国主命と推定)の治めた吉備の邪馬台国(やまとのくに)に属し、孝元天皇皇子の少名日子建猪心命(少彦男心命、少彦名命と推定)が東国を治めた拠点で、日高見国の中心は、東の方角に少彦名命の墓と推定される姫塚古墳がある大国玉神社のある旧大和村だったのではないかと思われます。大国玉神社(桜川市)に少彦名命が祀られていないのは、少彦名命が邪馬台国(やまとのくに)の先祖を祀った神社だったからかもしれません。

文献
1)小泉武夫 2016 「醤油・味噌・酢はすごい」 中公新書
2)斎藤 忠 1992 「常陸国風土記 神の島・浮島」 財団法人常陽藝文センター