温故知新(27)天鳥船神(大鳥連祖神 須佐之男命) 珍敷塚古墳 平原遺跡 井原鑓溝遺跡 大鳥大社 廣峯神社 サムハラ神社奥の宮 角田遺跡 妻木晩田遺跡 メンフィス 熊野大社 菊田神社 意富比神社 氣多大社 スサ プタハ シュメール 十六菊花紋
珍敷塚古墳と伊都国
福岡県うきは市にある屋形古墳群のひとつ珍敷塚古墳(めずらしづかこふん)とメンフィス博物館を結ぶラインの近くには、大型内行花文鏡が出土した平原遺跡(福岡県糸島市)(図1)や、弥生時代後期前半(紀元後1世紀)の伊都国の王墓と推定されている井原鑓溝遺跡(いはらやりみぞ)(図2)があります。紀元後1世紀の井原鑓溝遺跡は、伊都国の隣の奴国が後漢の皇帝から金印を下賜された時代のものと考えられています。このラインは、飯盛神社(福岡市西区)の近くを通る、宗像氏の築いた津屋崎古墳群(福岡県福津市)と肥前国彼杵郡総鎮守 昊天宮(長崎県大村市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1、2)。


珍敷塚古墳は、6世紀後半につくられたとされる装飾古墳で、舳先に鳥が止まっているゴンドラ形の船の絵があります(写真1)。『旧約聖書』の創世記における「ノアの方舟」の物語にもありますが、『ギルガメシュ叙事詩』には、洪水の後、船から鳩、燕、大烏(おおがらす)を放しています1)。珍敷塚古墳の船の絵と同様な絵に、紀元前14世紀頃の第19王朝セン・ネジェムの墓の「ラーの太陽舟」(写真2)があります。これは、珍敷塚古墳がメンフィスとレイラインでつながっていることと関係があると推定されます。


渡り鳥やチョウは、季節、時間、太陽の位置といった情報から方角を割り出して、目的地に行く方角を知ることができるといわれています3)。古代の船に鳥が乗っているのは、この能力を利用していたのかもしれません。エジプト人がスカラベ(フンコロガシ)を聖なる昆虫としたのは、糞を転がす直線方向を、天の川の星明かりを道しるべにして決めているためもあるようです。渡り鳥がどのようにして方角を知るのかについては、網膜に存在するクリプトクロームと呼ばれるタンパク質が関係しているという説があり、その過程には量子力学でのみ説明できる量子の振る舞いが関係していることがわかってきたようです。人間の脳は量子計算をしているとの研究結果もあります。旧石器時代人は、地磁気の角度を感知する能力があったか、あるいは、鳥などの持つ能力を活用する技術を持っていたのかもしれません。ノアの方舟の洪水伝説でも鳥が登場します。鳥の翼を持ち、空から船の舳先に降り立ったサモトラケのニケは、鳥のように方向を知ることができたのかもしれません。
八咫烏と大鳥大社
八咫烏(やたがらす)は、熊野本宮大社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。神武東征の際、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる八咫烏は、導きの神として信仰され、また、太陽の化身ともされています。賀茂氏の系図では、鴨建角身命の別名を八咫烏鴨武角身命としているので、八咫烏は、須佐之男命と同神と推定され、『ギルガメシュ叙事詩』の大烏に由来するのかもしれません。
大阪府堺市西区鳳北町にある大鳥大社(おおとりたいしゃ)には、現在日本武尊と大鳥連祖神(おおとりのむらじおやがみ)が祀られています。一時期天照大神が祭神とされましたが、大鳥連が祖神を祀ったのが始まりと考えられています。大鳥大社とメンフィス博物館を結ぶラインの近くには、兵庫県加古川市にある八幡神社(厄除八幡宮)、素戔嗚尊・五十猛命を主祭神として祀る廣峯神社(兵庫県姫路市)、瀧神社(岡山県勝田郡奈義町)、サムハラ神社 奥の宮(岡山県津山市)、大山寺(鳥取県西伯郡大山町)、角田遺跡(米子市淀江町)があります(図3)。角田遺跡からは、鳥の羽をつけて舟をこぐ人物などの絵が描かれた壷が見つかっていて、近くには、孝霊天皇(須佐之男命と推定)と関係があると推定される妻木晩田遺跡があります(図3)。

須佐之男命はスサと関係があると推定されるので、大鳥大社とイランのスサ(フーゼスターン州Shush)を結ぶと、ラインの近くには、須佐之男命を祀る古宮神社(兵庫県たつの市)、磐長姫神社(兵庫県赤穂郡上郡町)、比婆山久米神社奥の宮(熊野神社)、須佐之男命を祀る熊野大社(島根県松江市八雲町)があります(図4)。これらのラインは、大鳥連の祖神が、須佐之男命(孝霊天皇)であることを示していると推定されます。

大鳥大社とオリンポス山を結ぶラインの近くには、八幡神社(兵庫県加西市)、満願寺金剛院(加西市)、『播磨国風土記』の「はにおかの郷」波自加村の比定地と推定される福本遺跡(兵庫県神崎郡神河町)、大歳神社(兵庫県神崎郡神河町)、祇園神社(兵庫県神崎郡神河町)、須佐之男命を祀る意上奴(いぬがみ)神社(鳥取市)、白兎神社があります(図5)。福本遺跡は、須佐之男命(孝霊天皇)と関係があるかもしれません。

市杵島姫命を祀る大峰本宮 天河大辨財天社(奈良県吉野郡天川村坪内)の近くにある白姫龍王(奈良県吉野郡天川村北角)とオリンポス山を結ぶラインの近くに大鳥大社(大阪府堺市西区鳳北町)、摩耶山、八大龍王権現大野神社(鳥取県八頭郡若桜町大野)、若桜弁天 江嶋神社(鳥取県八頭郡若桜町三倉)があります(図6)。これは、大鳥連祖神と市杵島姫命や瓊瓊杵尊や大国主命との関係を示していると推定されます。

図3の大鳥大社とメンフィス博物館を結ぶラインは、須佐之男命と関係があると推定される熊山遺跡と八大龍王権現大野神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。

『新撰姓氏録』には大鳥氏は、中臣氏と同じく天児屋根命を祖先とすると伝えられていますが、大鳥大社の近くには土師町があり、大鳥大社と素鵞社(そがのやしろ)を結ぶラインの近くに土師神社(兵庫県たつの市)があるので、大鳥氏は土師氏と関係があると推定されます(図8)。ラインの近くにある須賀神社(兵庫県赤穂郡上郡町)に近い赤穂郡上郡町岩木には江戸時代に「大鳥」という地名があったようです。また、岡山県真庭市の應神天皇、大己貴神、素盞嗚命を祭神とする八幡神社や、熊野神社(島根県雲南市)がラインの近くにあります(図8)。

天照大神(神大市比売)と天鳥船命(須佐之男命)
千葉県船橋市の意富比神社(船橋大神宮)は、本殿の屋根の千木は内削ぎで、鰹木は偶数(6本)なので女神を祀っていると考えられ、孝霊天皇(須佐之男命)の妃の倭国香媛(天照大神 大日孁貴 神大市比売)を祀っていると推定されます(写真3)。意富比神社神門と天鳥船命(鳥石楠船命)を祀る茨城県城里町の石船神社を結ぶラインは、意富比神社の本殿を通ります(図9)。このラインから、天鳥船命(鳥石楠船命)は孝霊天皇(須佐之男命)と推定されます。香取神宮の本殿も石船神社(城里町)の方向を背にしているので、城里町の石船神社は関東地方で古くから信仰されていたと考えられます。『日本書紀』の葦原中国平定の段では、『古事記』の「天鳥船神」の代わりに「稲背脛」が事代主に派遣されていますが、稲背脛は「熊野諸手船、またの名を天[合+鳥]船」という船に乗っていったとされます。


意富比神社の境内にある大鳥神社は、千木が外削ぎで鰹木が奇数(5本)なので男神が祀られていると考えられ、祭神は日本武尊とされていますが、鳥居の前には、石船神社の船形石に似た石が置かれています(写真4)。

大鳥神社は、意富比神社の本殿とはほぼ直角の向きになっていて、拝む方向には、習志野の守護神菊田神社があります(図10)。菊田神社は、元は久久田大明神と称しましたが、久久田大明神は、兵庫県豊岡市の久久比神社に祀られている木の神「久久能智神」で、須佐之男命と推定されます。菊田神社とスサを結ぶラインの近くには、意富比神社(船橋大神宮)、市川市の下総国総鎮守 葛飾八幡宮、西新井大師 總持寺(足立区)(図10)、大岩山日石寺(富山県中新川郡上市町)、千里浜神社(石川県羽咋市千里浜町)、能登国一宮 氣多大社(石川県羽咋市)(図11)があります。このラインは、彌彦神社と恵那神社奥宮(長野県下伊那郡阿智村)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図11)。氣多大社の祭神は大己貴命ですが、「入らずの森」内に鎮座する奥宮には、素盞鳴尊と奇稲田姫命が祀られています。菊田神社の「菊田」は、氣多大社の「氣多」に由来するのかもしれません。


須佐之男命と関係があると推定される熊山遺跡とチャタル・ヒュユクを結ぶラインは、須佐之男命を祀る日本初之宮の須我神社(島根県雲南市)や岩船神社(島根県松江市)の近くを通ります(図12)。このラインは、サムハラ神社 奥の宮と穴門山神社(岡山県倉敷市真備町)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図12)。穴門山神社と熊山遺跡を結ぶラインの近くには、諏訪宮(岡山市北区)があります(図12)。岩船神社(松江市)は、天鳥船神が岩船にのって当地に降臨したと伝えられる場所なので、天鳥船神(鳥之石楠船神)が須佐之男命と推定されることと整合します。

兵庫県尼崎市にある鳥之磐楠船命を祀る船詰神社(ふなづめじんじゃ)は、箸墓古墳とチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くにあり、このラインの近くには白兎神社があります(図13)。これは、須佐之男命(孝霊天皇)と卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命)や大国主命との関係を示していると推定されます。

プタハ、アメンと須佐之男命(鴨建角身命)
チャタル・ヒュユクとエチオピアの最高峰ラス・ダシャン山を結ぶラインは、メンフィス博物館とスサを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図14)。チャタル・ヒュユクとラス・ダシャン山を結ぶラインの近くには、阿字八幡宮や出雲大社とレイラインでつながっているキレニア(ケリネイア)や、シンの荒野(Widerness of Sin 罪の荒野)の近くを通ります(図14)。罪の荒野は、聖書にあるイスラエル人が出エジプトの旅の間にさまよった場所の一つで、ヤハウェが彼らに豊富なマナとウズラを提供した場所です。初期のイスラエル人は多神教で、エル、アシェラ、バアルなど、さまざまなカナン人の神々や女神と一緒にヤハウェを崇拝していました(Wikipediaヤハウェ)。

メンフィスのネクロポリスのサッカラにあるジェセル王のピラミッドと熊山遺跡を結ぶラインは、カナンを通ります。旧約聖書に、主要な異教の神としてアシュトレトの名で登場する、地中海世界各地で広く崇められた豊穣多産の女神アスタルトは、カナンなどでも崇められました。エジプト神話では、戦車に乗り、盾と槍などで武装し、二枚の羽で飾った上エジプト冠を被った女戦士の姿で表されます。系譜としてはプタハの娘とされ、特にプタハの聖地メンフィスで崇められました。須佐之男命がプタハに例えられたとすると、卑弥呼(豊玉姫命)はアスタルトに例えられたのかもしれません。プタハの神像は、太くて立派なつけひげをし、シュメールの神官像と似ています4)。鍛治などの職人の守護神で他の神はプタハ神に内在していると考えられ、オシリスとも結びついたようです。
Amenは、ヘブライ語で「本当に」という意味があり、もしかすると須佐之男命を祀る真宮神社(しんみやじんじゃ)の名前と関係があるかもしれません。ウルクの伝説的な王であるギルガメシュの物語である『ギルガメシュ叙事詩』はシュメールのみならず周辺諸民族にも翻訳され伝えられたとされます。豊饒の象徴である雄ヒツジがアメン信仰を象徴する動物として見られたのは、シュメール語の「羊」が「太陽十字」であることと関係があるかもしれません。
テーベの市神で、中央王国時代テーベが首都となり国家神となったアメンは、太陽神で、聖獣は雄牛、及びガチョウの2枚羽と太陽円盤のついた冠を被ります。須佐之男命は天津神で、鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと)と推定されるので、図2のレイラインの近くにある角田遺跡から出土した土器の頭に羽を着けた人物は、ガチョウの羽を着けたオシリスやアメンと関係があるのかもしれません。「ガチョウ」は、雁(カリ)の仲間の家禽で、カモ目カモ科ガン亜科の鳥ですが、「鴨」は、カモ目カモ科の鳥類のうち、雁に比べて体が小さく首があまり長くないものの総称です。
おのころ島神社とメンフィス博物館を結ぶラインは、須佐之男命を祀る須佐神社(島根県出雲市)の近くを通ります。おのころ島神社と幣立神宮を結ぶライン上には、徳島県阿波市や大分県津久見市があり、天満神社(津久見市)の近くを通ります(図15)。おのころ島神社とメンフィス博物館を結ぶラインと直角になるように幣立神宮からラインを引くと加茂岩倉遺跡があります(図15)。加茂岩倉遺跡は、須佐之男命と関係があると推定されます。

朝比奈宏幸氏は、アイヌ神話の、死んだ両親に会いに黄泉の国へ行った少女の物語を著書で紹介しています5)。黄泉の国の悪魔に気づかれて大勢に追いかけられ、入口に石を置いて阻止したという行為が日本神話と同じですが、アイヌ神話では、死後の世界と現世で使用していた道具等を死後の世界に持ち込むことができるとされたことなどが、古代エジプトの生死観と同じであることを指摘しています5)。グラハム・ハンコックは、古代ギリシャ神話のオルフェウスの物語と似た神話が、先コロンブス期の北米における古代文化に見られ、魂が死後に旅をし、精神と物質の二元性があるという点は、古代エジプトと古代ミシシッピ川流域の宗教に共通することを述べています6)。
十六菊花紋とシュメール
紀元前4,000年にまで遡る神殿跡が発掘されているスサ(スーサ)と紀元前2,500年ごろにフェニキア人の都市として成立したティルス(現在のスール)を結ぶラインの近くに、紀元前575年に新バビロニアのネブカドネザル2世により建設されたイシュタル門があります(図16)。

イシュタル門の通路の両壁には、ライオンの像を取り囲んで「王家の紋章」といわれる十六菊花紋が描かれていますが、岩田 明氏は、紀元前2300年頃のアッカド王朝のナラム・シン王の戦勝碑(写真5)に刻まれた十六菊花紋も「王家の紋章」と推定しています7)。

安政2年(1855年)に豊国三代の描いた「姿八景 姫垣の晩鐘 浦嶋の帰帆」の豊玉姫の衣装には、イシュタル門の十六菊花紋に似た模様が描かれています。江戸時代は、菊花紋の使用は自由とされていましたが、もしかすると、豊玉姫が須佐之男命(孝霊天皇)の娘であることは、一般に知られていたのかもしれません。
神奈川県高座郡寒川町宮山に鎮座する相模國一之宮 寒川神社には、八角形の「八氣の泉」があり、方位を示しているそうですが、シュメールには「ディンギル」と呼ばれる「神」を示す八方位の文字があります9)。楔形文字の「ディンギル𒀭」自体は、もともとシュメール語の単語an(天空)を示す表意文字です。また、八芒星は、イナンナ(イシュタル)の最も一般的なシンボルです。岩田 明氏は、十六菊花紋の原型は、菊の花弁ではなくディンギルの文字の八方位を十六方位の日時計として、平面に図案化したものではないかと推論しています9)。寒川大明神は、須佐之男命と思われます。
シュメールと古代日本
バグダードの南西約180キロの位置にあるニップル遺跡からは、粘土板に描かれた正確なニップルの市街地図が見つかっています。ニップルは、シュメールにおける嵐の神エンリル神崇拝の中心地でした。ここで発見されたギルガメシュ叙事詩の粘土板には、理想郷ディルムンが洪水で滅びる描写があります。シュメールの地図は東(日の昇る場所)向きに作られ、右方が南で左方が北になるようです9)。周の時代の朝鮮王朝が描いた地図などには、日本列島が九州を北にして逆立ちしている地図がありますが10)、『魏志』倭人伝で、邪馬台国が実際より南に位置することと関係があるとする説があります。
『旧約聖書』の最初に記されている「創世記」によるとノアの11代目がアブラハムで、アブラハムはメソポタミアの都市国家ウルで生まれ、母はシュメール人だったようです。『旧約聖書』によれば、カナン人の祖は、ノアの孫、ハムの子カナーンとされています。アララト山の南西にニムルド(カルフ 『旧約聖書』に登場するカラフ)という古代遺跡があります。『創世記』に登場するバビロンの王・ニムロド(ハムの孫)と関係があると推定されています。
古来、伝説上ニネヴェを建設したとされるニノスとニムロドを同一視する説があるが、最新の研究では、アッカドの狩猟農耕の神と讃えられたニヌルタ、あるいは、王名にその名を冠したトゥクルティ・ニヌルタ、あるいは、『シュメール王名表』にウルクの初代王として記録されているエンメルカルなどがニムロドと見立てられている。
ニムルド(カルフ Kalkhu)は、ニネヴェ(Nineveh Ninive)遺跡の南方にあります(図17)。紀元前7~8世紀に現在のイラクに実在していた古代アッシリアの首都ニネヴェの図書館の遺跡から発掘されたシュメールの粘土板には、ギルガメッシュ叙事詩などと共に、ニネヴェ定数と名付けられた195兆9552億という数が記されていましたが、モーリス・シャトランにより意味が解読されています。常識の範囲を超えているという点では、アンティキティラ島の機械に似ています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%89
メンフィスと熊野本宮大社を結ぶラインは、カナンを通り、ニネヴェとニムルド(Nimrud)の間を通り、素鵞社の裏手にある八雲山を通ります(図18)。これは、須佐之男命とシュメールの関係を示していると思われます。

シュメールの都市国家郡の南端に位置し、多くの寺院があるエリドゥは、シュメールの神話によると、神エンキ(後のアッカド神話における神エアに相当)により建設されたといわれ、紀元前4900年頃に建設されたとみられています。ウル第三王朝時代には巨大なジッグラトが建設され、バベルの塔のオリジナルとも推定されています。エリドゥで出土した水神エンキの神殿を守護する獅子像は、たてがみが渦巻文様で、唐草模様の被り物をした獅子舞の獅子に似ています(写真6)。

水神エンキの神殿を守護する獅子像 エリドゥ出土 イラク国立博物館蔵
出典:「シュメル神話の世界」中公新書11)
明治時代の楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)の浮世絵に描かれた豊玉姫も唐草模様のような柄の着物を着ています(写真7)。秩父今宮神社の龍上観音・龍神観音にも似ています。倭迹迹日百襲姫命(豊玉姫命と推定)が祀られている讃岐国一宮田村神社の社伝によると、奥殿の床下の深淵(御神体)には龍が棲むといわれています。

スサ(スーサ)とギリシャのアルゴスを結ぶラインの近くには、紀元前3000年代のシュメール人の都市国家の時代の集落が確認されているバクダードがあります(図19)。また、スサとエジプトのアレクサンドリアを結ぶラインの近くにはエルサレムがあります(図19)。

サッカラにある熊山遺跡とレイラインでつながっているジェセル王の階段ピラミッドとアルゴスを結ぶラインの近くに、アレクサンドリア、クレタ島の古代都市ラトがあります(図20)。ラト(北緯35度10分)は、サムハラ神社奥の宮や那岐山(北緯35度10分)と同緯度にあります。オリンポス山とバールベックを結ぶラインの近くには、エフェソスに紀元前7世紀から紀元3世紀にかけて存在したアルテミス神殿やキレニア(ケリネイア)があります。「石の宝殿」とレイラインでつながっているバールベックはフェニキアの神ハダド(バアル)が祀られていた事に由来するといわれます。エフェソスの周辺には、紀元前6千年前の新石器時代には人が住んでいて、発掘からは青銅器時代のミュケナイ文化に属する陶器が見つかっています。バールベックとジェゼル王のピラミッドを結ぶラインの近くに、スール(ティルス)があります(図20)。

寒川神社と気多神社(石川県羽咋郡志賀町)を結ぶラインは、生石神社の「石の宝殿」と気多神社を結ぶラインとほぼ直角になることが報告されています(石の宝殿、益田岩船と環状木柱列(ウッドサークル)・環状列石(ストーンサークル)との驚く関係)。寒川神社とクレタ島の古代都市ラトを結ぶラインの近くに気多神社(石川県羽咋郡志賀町)があり、このラインは、生石神社(兵庫県高砂市)と亀ヶ岡石器時代遺跡を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図21)。生石神社と亀ヶ岡石器時代遺跡を結ぶラインの近くには、西の高野山 弘法寺(青森県つがる市)があり、亀ヶ岡石器時代遺跡と寒川神社を結ぶラインの近くには、白狐山 光星寺(山形県東田川郡庄内町)、日光東照宮(栃木県日光市)があります(図21)。

ミノア人は、地中海人種と小アジア系人種の混血とされ、ヨーロッパの語源になったエウロペは、本来ミノア系の大地の女神だったと考えられています。エウロペは、ティルス(スール)の王女で、ゼウスは彼女を誘惑するために牡牛に変身しクレタ島に連れ去ったとされています。
ギルガメシュは、シュメール王名表によれば、ウルク第1王朝第5代の王として126年間在位しています。シュメールのギルガメシュ王の時代(紀元前2600年頃?)は、エジプト第3王朝のファラオのジェセル王の時代(在位:紀元前2668年~紀元前2649年)とほぼ重なります(図22)。シュメールの「スサの王」に例えられたと推定される須佐之男命が、古代エジプトのメンフィスと関係付けられ、熊山遺跡がジェセル王の階段ピラミッドと関係付けられていることは、メソポタミアとエジプトの年代的には整合します。

1920年代後半にイギリスの考古学者、レオナード・ウーリーはそれまでに発掘された中で最も豪華なメソポタミアの墓を発見し、その後の調査で、被葬者はウルが全盛期であった紀元前2600年頃のプアビ女王と判明しています。須佐之男命がナラム・シン王(紀元前2254頃~紀元前2218年頃)にも例えられたとすると、紀元前2154年にアッカド王朝が滅亡し、紀元前2083年にアッカド市がグティ人の王朝によって占領、破壊されたころ、中東を出たシュメール人の王族が、フェニキア人の船で縄文時代に日本に渡来したのかもしれません。彦島八幡宮境内にあるぺトログラフのうち、紀元前2000年ころのセム語系(シュメール、バビロニア文字)のペテログラフの年代ともほぼ一致します。
1969年6月12日読売新聞に、天竜川中流域の静岡県水窪町で、紀元前600年頃と推定される、文字が刻まれた石(水窪石)が発見されたと報じられています。解読の結果「バルーツ(女神)ガシヤン(男神)に奉る」と書かれていることがわかったようです。バルーツとは、フェニキア民族の根拠地・シリア地方の自然神バールの女性形同一神で、フェニキアという名は民族の守護神・フェニックス(不死鳥)に由来し、ガシアンは鳥=主神という意味だそうです。
フェニキア人という名称は、ギリシア人が、交易などを目的に東から来た人々をこう呼んだといわれ、ヘロドトスは、『歴史』の序文で「フェニキア人は、いわゆる紅海からこちらの海に渡って来て、現在も彼らの住んでいる場所に定住するや、たちまち遠洋航海にのりだして、エジプトやアッシリアの貨物を運んでは各地を回ったがアルゴスにも来たという。」と書いています。レバノン杉(学名: Cedrus libani)は、マツ科ヒマラヤスギ属の針葉樹で、古代エジプトやメソポタミアのころから建材や船材に利用され、フェニキア人はこの木を伐ってガレー船建造や木材・樹脂輸出を行い、全地中海へと進出しました。アトランティスの人々や海上交易が盛んなイオニア系ギリシャ人が特に信仰していた海神ポセイドーンの聖樹が松であることと関係があると思われます。資源を木材に頼っていたシュメール人は、紀元前2000年頃、森林伐採によって起こった深刻な塩害に遭い、農作物の収穫が激減し、エラム人に侵略され滅んだといわれています。須佐之男命は木の神でもあり、日本中に木を植えたとされるのは、シュメールでの教訓があったためかもしれません。
岩田 明氏は、シュメールの王と王妃の像と、長野県や岐阜県などにある道祖神が似ていることなどから、シュメール人が船で日本に到達していたと推定しています7)。ブログ「日本人の起源:土器から紐解く民族移動の可能性、縄文人とシュメール人の関係」(LuckyOcean 木崎洋技術士事務所)でも、ヨーロッパで発見されている縄目文土器と日本の縄文土器は非常に似ていることなどから、民族移動の可能性を指摘しています。神武天皇が印綬を受けた年が『後漢書』にある建武中元二(57)年とすると、その間2000年程度あることになります。須佐之男命は、シュメール系の縄文人をルーツとする人々には、スサ(スーサ)の王の生まれ変わりと信じられたのではないかと思われます。
文献
1)矢島文夫(訳) 1998 「ギルガメシュ叙事詩」 筑摩書房
2)小田富士雄(監) 2005 「別冊太陽 古代九州」 平凡社
3)木村直之(編) 2022 「ニュートン別冊 時間とは何か」 ニュートンプレス
4)松本 弥 2020 「図説古代エジプト誌 増補新版 古代エジプトの神々」 弥呂久
5)朝比奈宏幸 2012 「古事記とアトランティス王国の真実」 ブックコム
6)グラハム・ハンコック 大地舜・榊原美奈子/訳 2020 「人類前史(下)失われた文明の鍵はアメリカ大陸にあった」 双葉社
7)岩田 明 2004 「消えたシュメール王朝と古代日本の謎」 学習研究社
8)小林登志子 2020 「古代メソポタミア全史」 中公新書
9)ウィリアム・W・ハロー 岡田明子(訳) 2015 「起源 古代オリエント文明:西欧近代生活の背景」 青灯社
10)飛鳥昭雄(プロデュース)、大宜見猛(著) 2014 「沈んだ大陸 スンダランドからオキナワへ」 ヒカルランド
11)岡田明子、小林登志子 2008 「シュメル神話の世界」 中公新書
