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温故知新(41)鬼ノ城 二里頭遺跡 ナクソス島 ウル 品陀真若王(出雲建 温羅 阿蘇都彦) 神功皇后(穴門武媛命 阿曽媛 阿蘇都媛) 穴門山神社 富雄丸山古墳 安仁神社 美和神社

鬼ノ城と二里頭遺跡、クノッソス宮殿
 温羅伝承で知られる岡山県総社市の鬼城山(きのじょうざん)に遺る鬼ノ城(きのじょう)(写真トップ、1)は、神籠石式山城(こうごいししきやまじろ)で、土器などから7世紀の後半に築かれたものと推定されていますが、鬼ノ城の建造時期については、古代史学界でも議論があるようです。筑後国御井郡の高良山(現在の福岡県久留米市御井町)にあった古代山城も神籠石系山城です。西門には、根拠はわかりませんが、隼人の楯に似た逆 S 字状の文様の楯が飾られています(写真1)。

写真1 鬼ノ城(西門)

 城壁は土を突き固めた土塁(版築(はんちく)土塁)で作られ、高さは6メートル、上幅は6メートルあり、城の周囲を2800メートルとりまいています。古代の「東海道甲斐路」とみられる幅6メートルか9メートルの道路遺構が、鯉ノ水遺跡から見つかっていますが、同様な版築工法で作られています。縄文時代の三内丸山遺跡の「掘建柱構造物」にも「版築」の技法を使った形跡があり、法隆寺などの建立にも使われています1)。秦代の万里の長城や始皇帝陵などの古代の巨大建造物にも版築が使われていますが、殷代中期(紀元前1600年頃~紀元前1400年頃)の中国の黄河中流から下流を中心に栄えた青銅器時代の文化である二里岡文化(にりこうぶんか)の都城の城壁も版築によって築かれています。二里岡文化に先行する二里頭文化(にりとうぶんか、紀元前2100年頃-紀元前1800年頃または紀元前1500年頃)の二里頭遺跡は、夏王朝の都の一つと考えられていますが、孝元天皇(大国主命)の陵墓と推定される備前車塚古墳とほぼ同緯度にあります。

 二里頭遺跡(偃師二里頭遺址)と鬼ノ城跡を結ぶラインは、徐福村のある金山鎮(中華人民共和国 江蘇省 連雲港市)の近くを通ります(図1)。このことから、徐福は夏王朝と関係があったと推定されます。徐福が丹生氏と関係があるとすると、孝元天皇が夏王朝と関係があると推定されることと整合します。

図1 二里頭遺跡(偃師二里頭遺址)と鬼ノ城跡を結ぶラインと金山鎮(中華人民共和国 江蘇省 連雲港市)

 「版築」は、龍山文化(黄河流域で栄えた新石器時代晩期の文化)に始まるとされ1)、龍山文化は、山東省東部の章丘県龍山鎮にある城子崖で1928年に城子崖遺跡が出土したことに由来します。鬼城山と、モン・サン・ミシェルやアララト山サントリーニ島やオリンポス山などとレイラインでつながりのあるラス・ダシャン山を結ぶラインは、城子崖遺跡を通ります(図2)。このラインは、沖縄ともレイラインでつながっている岩見國二之宮 多鳩神社の近くを通ります(図3)。

図2 鬼城山とラス・ダシャン山を結ぶラインと城子崖遺跡
図3 図2のラインと多鳩神社、城子崖遺跡

 白村江の戦いに際し、倉敷市真備町二万地区より二万の兵が集められたともいわれ、鬼ノ城が敗戦後に造られたとするには、建造に要する労力や時間などを考えると疑問があります。年代推定に用いられた土器類は、年代を隠そうとする意図があれば操作は比較的容易と思われます。

 鬼ノ城には、水汲み場や6箇所に排水設備(水門)があります。楯築弥生墳丘墓にも排水溝がありますが、クノッソス宮殿にも排水設備が設けられています。治水において「放水する」ことは重要とされ、夏王朝(紀元前2070年頃~紀元前1600年頃)の禹王の治水に窺われる「疎通」の考え方2)が、鬼ノ城にも生かされているように思われます。クノッソス宮殿への正式な入り口は西側に作られ、また、高架橋で繋がった北西の入り口は廃止され、その代わりに南東の入り口が使用されたようです(出典:wikipedia)。鬼ノ城の東門などにも高架橋があったのかもしれません(写真2)。

写真2 鬼ノ城 東門跡

 鬼ノ城内には石祠状の石積が見られ(写真3)、巨石に刻まれた六芒星(籠目紋)や千手観音菩薩(写真4)があるので、古代の豪族と関連があると推定されます。

写真3 石祠状の石積
写真4 岩に刻まれた千手観音菩薩

 鬼ノ城のある鬼城山は、古代からの聖地と推定される瑜伽山(由加山)や剣山と直線で結ばれていることからも、古代豪族との関係が推定されます(図4)。

図4 鬼城山と剣山を結ぶラインと瑜伽山(由加山)

 鬼ノ城からは、小豆島も見ることができます(写真5、6)。

写真5 鬼ノ城からの展望(小豆島方面)
写真6 鬼ノ城からの展望図

鬼ノ城と温羅
 岡山市南区河津にある素盞嗚命を祀る兵主神社と、鬼ノ城のある鬼城山を結ぶラインの近くに吉備津彦神社があります。吉備津彦神社の末社に温羅神社があり、温羅の和魂(にぎみたま)が祀られていますが、ト方神社(うらかたじんじゃ)には岡山藩主の祖である池田信輝と輝政が祀られています。鬼城山と小豆島の寒霞渓(かんかけい)を結ぶラインの近くに珍彦命海童神を祀った亀石神社(かめいわじんじゃ)(東区水門町)があります(図5)。小豆島は、「全島が花崗岩の塊」で、加工が容易な板状節理が見られ、1640年代の大阪城修復に使われたことが知られていますが1)、鬼ノ城にも使われていると思われます。

図5 兵主神社と鬼城山を結ぶラインと吉備津彦神社、鬼城山と寒霞渓を結ぶラインと亀石神社

成務天皇(吉備兄彦)と安仁神社
 築山古墳と金比羅宮を結ぶラインは、岡山市東区西大寺にある備前国元一宮 安仁神社(写真7、8、9)の近くを通ります(図6)。これは、築山古墳が成務天皇(倭建命)の陵墓と推定され、安仁神社が成務天皇(吉備兄彦)を祀っていると推定されることと整合します。大化の改新を経て吉備国が備前・備中・備後に分割されたのち、安仁神社は、平安時代後期に編纂された『延喜式神名帳』では備前国では唯一の名神大社に列せられています。しかし、天慶の乱藤原純友の乱)で純友方に味方したため、一宮の地位を朝廷より剥奪され、備前国一宮は吉備津彦神社に移ったと伝えられています。純友が藤原の血統であることには異説があり、それによると純友は伊予の豪族越智氏の一族としています。安仁神社の社殿は、元は背後の宮城山(みやしろやま)、別名、鶴山の山頂にありましたが、1344年に火災で焼失し、その後、備前藩主池田綱政によって現在地である中腹に再建され、備前藩の祈願所となりました。吉備津彦神社の本殿は、岡山藩主の池田家が建て1697年に完成しています。明治時代に安仁神社の祭神を彦五瀬命(天押帯日子命、天足彦国押人命、天照皇大神と推定)としたのは、ウガヤフキアエズ王朝を創作したと推定される藤原北家と関係があると思われます。

図6 築山古墳と金比羅宮を結ぶラインと安仁神社
写真7 安仁神社の備前焼狛犬
写真8 安仁神社の鳥居
写真9 安仁神社

 丸山憲二氏によると、安仁神社元宮は、亀の形をした磐座のある永倉山山頂にあったとされています。

 安仁神社元宮(亀の岩倉)とオリンポス山を結ぶラインは、大賀島寺(岡山県瀬戸内市邑久町豊原)や天照國照彦火命・天香山命・建御名方命を祀る高蔵神社(里宮)(岡山市北区牟佐)や玉作湯神社(島根県松江市玉湯町)の近くを通ります(図7、8)。このラインは、築山古墳と珍彦命(孝元天皇と推定)を祀る亀石神社(岡山市東区水門町)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。このラインも、安仁神社が成務天皇を祀っていると推定されることと整合します。

図7 安仁神社元宮(亀の岩倉)、亀石神社、築山古墳を結ぶ三角形のライン、亀の岩倉とオリンポス山を結ぶラインと大賀島寺、高蔵神社(里宮)
図8 図7のラインと玉作湯神社

鬼ノ城と品陀真若王(出雲建)
 葛籠(つづら)は、元来、「つづらふじ」のつるで編んだ蓋つきの籠の一種ですが、『古事記』に記された品陀真若王と推定される出雲健の刀にも「黒葛(つづら)」が巻かれています。「葡萄(ぶどう)」や「(つた)」は、ディオニュソスの聖樹なので、つる性植物の「葛藤(つづらふじ)」も聖樹と思われます。ディオニュソスは、エジプトではオシリスと同一視され、オリンポス十二神の一柱に数えられることもあります。三輪山の蛇、鹿島神宮や春日大社の牡鹿、稲荷神社の狐、氣比神宮(けひじんぐう)のイルカなどは、いずれもディオニュソスの聖獣です。ディオニュソス神の由来は、ギリシア語の成立時期より古いようです。エーゲ文明ナクソス島にあるアポロナの未完のクーロス巨像は、島の守護者であるディオニュソスの像と推定されていますが、『古事記』に記された須佐之男命と同様なあごひげを蓄えています。

 ディオニュソスが守護するナクソス島と鬼ノ城跡を結ぶラインは、天照大御神を主祭神とする日御崎神社(出雲市)や出雲大社の近くを通り、これらはレイラインで結ばれていると推定されます(図9、10)。

図9 ナクソス島と鬼ノ城跡を結ぶラインと出雲大社
図10 ナクソス島と鬼ノ城跡を結ぶラインと日御崎神社、出雲大社

 金比羅宮とメンフィスを結ぶラインは吉備津彦神社の近くを通り、鬼城山を通ります(図11)。吉備津彦神社の背後の吉備の中山には景行天皇の陵墓と推定される中山茶臼山古墳や巨大な磐座・磐境があり、鳥居の先の両側には、瓊瓊杵尊の妃と推定される市寸島比売命を祀る靏島神社(つるしまじんじゃ)と底筒男命、中筒男命、表筒男命、品陀真若王(出雲建と推定)の妃と推定される神功皇后を祀る亀島神社(かめしまじんじゃ)があります。

図11 金比羅宮(岡山市東区久々井)とメンフィスを結ぶラインと鬼城山、吉備津彦神社、小豆島

 鬼城山と金刀比羅宮を結ぶラインは、宗像三女神を祀る阿智神社の近くを通ります(図12)。これらのことから、鬼ノ城は、須佐之男命、加具土命、豊受姫命、珍彦命多紀理毘売命多岐都比売命市寸島比売命、神功皇后と関係があると推定されます。鬼城山と金刀比羅宮を結ぶラインは作山古墳の近くを通るので(図12)、鬼ノ城は作山古墳が造られた5世紀中頃にはすでにあったと推定されます。したがって、鬼ノ城は、元は作山古墳の被葬者と推定される品陀真若王(出雲建)の城だったと思われます。

図12 鬼城山と金刀比羅宮を結ぶラインと作山古墳、阿智神社、造山古墳、由加神社本宮

温羅と品陀真若王
 吉備津彦命に退治されたとされる温羅(うら、おんら)は、伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされ、吉備津神社の本来の主神は温羅であるという説もあります3)。本殿外陣の東北の隅には「艮御崎(うしとらおんざき)神」として温羅と弟の王丹(おに、おうに)が祀られ、西南の隅には「坤御崎(ひつじさるおんざき)神」として櫛振(くしふるが祀られていますが、久志多麻命(吉備海部直の祖)と推定されます。総社市にある御崎神社(おんざきじんじゃ)には、素盞鳴命・大国主命・少名彦名命が祀られています。

 温羅が出雲建とすると、日本武尊(小碓命 仲哀天皇と推定)が熊襲を平定した後に殺した「吉備の穴済(穴海)(図13)の神」が出雲建(品陀真若王)で、出雲建が騙し討ちされた「肥河」が岡山県の吉井川(図13)と推定されることと整合します。鬼ノ城のような神籠石式山城の記録が『日本書紀』に無いのは、邪馬台国(やまとのくに)の城だったためと思われます。

図13 吉備の主な古墳と吉備の穴海 出典:古代吉備王国の謎 真壁忠彦、真壁葭子著、山陽新聞社4)

 岡山県倉敷市真備町妹にある穴戸の神平定伝説が残る穴門山神社(あなとやまじんじゃ)には、穴門武媛命(あなとのたけひめのみこと)が祀られ、ヤマトタケルの后と伝わっています。神功皇后を祀る亀島神社と穴門山神社を結ぶラインの近くに作山古墳があります(図14)。

図14 亀島神社と穴門山神社(倉敷市)を結ぶラインと作山古墳、穴門山神社奥宮、吉備津神社

 穴門山神社(倉敷市)と神功皇后の墓と推定される富雄丸山古墳を結ぶラインを結ぶラインの近くには、豊玉姫命と関係があると推定される西大寺観音院(岡山市東区西大寺中)や素盞嗚尊を祀る難波八坂神社(大阪市浪速区元町)があります(図15)。これらのレイラインから、穴門武媛命は品陀真若王の妃の神功皇后と推定されます。

図15 穴門山神社(倉敷市)と富雄丸山古墳を結ぶラインと西大寺観音院、難波八坂神社

 真備町川辺には、艮御崎神社(うしとらおんざきじんじゃ)があります。艮御崎神社は、温羅を祭神とする吉備津神社の艮御崎宮を勧請したもので、通称は「氏神様」といわれることから、「吉備冠者(きびのかじゃ)」ともいわれる温羅は、地元の神だったと考えられます。吉備津神社の本来の祭神を温羅であると見る説もあり、ヤマト王権へ吉備が服属することにより祭神が入れ替わったと推察されています。本殿外陣の東北の隅には「艮御崎(うしとらおんざき)神」として温羅と弟の王丹(おに、おうに)が祀られ、西南の隅には「坤御崎(ひつじさるおんざき)神」として櫛振(くしふるが祀られていますが、久志多麻命(吉備海部直の祖)と推定されます。総社市にある御崎神社(おんざきじんじゃ)には、素盞鳴命・大国主命・少名彦名命が祀られています。京都市上京区にある上御霊神社に祀られている吉備大臣が、吉備真備ではなく温羅(品陀真若王)とすると、「氣比の大神」が品陀真若王と推定されることと整合します。

 吉備津神社の御竈殿に据えてある大きな釜の神事は神官と阿曽女と二人で奉仕していますが、鬼ノ城のふもとに広がる阿曽郷は鋳物師の地として知られ、温羅は阿曽郷の神職の娘である阿曽媛を妻とします。品陀真若王が温羅とすると神功皇后(金田屋野姫命と推定)が阿曽媛と推定されます。『日本書紀』によれば、景行天皇が、阿蘇の国に至った時に、阿蘇都彦・阿蘇都媛が出迎えています。阿蘇氏系図によると、神武天皇の子の神八井耳命の五世孫の武五百建命が崇神天皇の世に阿蘇国造となり、その後裔が、阿蘇神社神主家で宗家は宇治姓を称しています。阿蘇都彦・阿蘇都媛は品陀真若王と神功皇后かもしれません。

 申楽(猿楽)・能楽の始祖は秦河勝とされていますが、植木朝子氏によると今様は忌部氏と同族と推定される土師氏と関連があるとされ、能の「道明寺」で知られる道明寺(図16)の一帯は土師氏の本拠地で、古くは野見宿禰の遠祖とされる天穂日命をまつる土師神社があったようです。土師町(大阪府堺市)とスカラ・ブレイを結ぶラインは土師(京都府福知山市)の近くを通り、スカラ・ブレイと面塚 観世能楽発祥の地を結ぶラインは、丹波猿楽梅若家旧墓所の近くを通ります(図16)。梅若家の系譜は橘諸兄に始まるとされています。地図上からも、猿楽や能楽は土師氏と関係があると推定されます。

図16 土師町(大阪府堺市)とスカラ・ブレイを結ぶラインと土師(京都府福知山市)、スカラ・ブレイと面塚 観世能楽発祥の地を結ぶラインと丹波猿楽梅若家旧墓所、道明寺

 能楽「吉備津宮」の主人公は、吉備津神社内に祀られている吉備国の地主神・岩山の神で、「吉備津宮」は、温羅側・吉備国側から見た桃太郎伝説の様相を呈しているようです。道真を輩出した菅原氏は土師氏の後裔ですが、世阿弥も土師氏の後裔ではないかと思われます。菅原道真は、藤原北家の時平によって無実の罪で陥れられ、九州の太宰府に左遷されましたが、世阿弥も晩年は不遇だったことも共通しています。

 世阿弥は『古今集』仮名序の「高砂、住の江の松も、相生の様に覚え」という一節を題材として能「高砂」を作出しました。「高砂」に登場する阿蘇神社(熊本県阿蘇市)の神主は友成(ともなり)ですが、「友成」は出雲建(品陀真若王)と関係があると推定されます。「友成」は都見物の途中、従者を連れて播磨国(兵庫県)の名所高砂の浦に立ち寄り、高砂と住吉の「相生の松」の化身である一組の老夫婦に出会います。兵庫県高砂市高砂町にある高砂神社は、神功皇后の命によって創建され、素盞鳴尊、奇稲田姫、大国主命を祀っているので、老夫婦は、須佐之男命と櫛名田比売と思われますが、住吉大社には、神功皇后もまつられているので、翁は吉備の品陀真若王(出雲建)で、「相生の松」は阿曽媛(神功皇后)の叶わなかった願望を暗に表しているのかもしれません。

 かつて邑久郡にあった牛窓(瀬戸内市牛窓町)には、神功皇后にまつわる伝説が残されており、それが地名由来にもなっています。岡山県には神功皇后を祀る神社が多くあり、牛窓町に近い邑久町尻海には正八幡宮若宮八幡宮があります。正八幡宮と亀石神社を結ぶラインの近くには、応神天皇・神功皇后・姫大神・天御中主命・菅原神を祀る幸地山神社(岡山市東区邑久郷)があり、このラインは、安仁神社とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図17)。安仁神社とマラケシュを結ぶラインの近くには、豊原南島神社(岡山市東区長沼)があり、正八幡宮と安仁神社を結ぶラインの近くには、上山田八幡宮(瀬戸内市邑久町)があります(図17)。

図17 安仁神社と亀石神社を結ぶライン、亀石神社と正八幡宮を結ぶラインと幸地山神社、正八幡宮と安仁神社を結ぶラインと上山田八幡宮、安仁神社とマラケシュを結ぶラインと豊原南島神社

 亀石神社と若宮八幡宮を結ぶラインは、安仁神社と聖ミカエルの山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図18)。安仁神社と聖ミカエルの山を結ぶラインの近くには、古くから八幡宮を氏神として奉祀していたひ爪神社(邑久町福山)があります(図18)。これらのラインは、倭建命(成務天皇)が八幡神と推定されることと整合します。

図18 安仁神社、亀石神社、若宮八幡宮を結ぶ三角形のライン、安仁神社と聖ミカエルの山を結ぶラインとひ爪神社

百枝八幡宮と倭迹迹日百襲姫命
 邑久町山手の高砂山から遷座された倭迹迹日百襲姫命を祀っていると推定される百枝八幡宮の名前の由来も松の木といわれます。高砂山にある八幡宮(大垣八幡宮)の境内には松が植えられ(写真10)、拝殿には、昭和天皇皇后両陛下御大婚六十年記念の年の昭和59年に奉納された松の木に2羽の鶴がとまっている絵が飾られています(写真11)。高砂山にある大垣八幡宮阿字八幡宮には、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后がまつられています。山手町の貴船神社の社記(写真12)によると、元の下稲戸明神は、山手半田の早稲田の休所(神功皇后が休まれた所)にあったので、高砂山の磐座神功皇后の磐座ではないかと思われます。

写真10 高砂山の山手八幡宮(旧大垣八幡宮)の境内にある松
写真11 山手八幡宮(旧大垣八幡宮)の拝殿に飾られている絵
写真12 貴船神社社記

 山手八幡宮の玉垣には、「宇治」の他に「大河原」の名前があり、本殿の鬼飾りは鬼の面になっています(写真13)。

写真13 山手八幡宮(旧大垣八幡宮)の本殿

貴船神社と開化天皇
 開化天皇(鸕鶿草葺不合尊と推定)を祀っていると推定される邑久町山田庄にある貴船神社(写真14、15)の本殿や境内にある素戔嗚尊(牛頭天王)を祀る西神社(祇園宮)(写真16、17)も鬼飾りは鬼の面になっています。本殿脇には菊花紋のある鬼飾りが置かれているので(写真18)、最近取り替えたのかもしれません。また、貴船神社本殿の後ろには磐座があり、上に愛宕神社の祠が置かれていました(写真19)。これは、「愛宕」の意味が「アテ」に由来するという説と整合します。

写真14 「貴船大明神」の扁額のある天保8年(1837年)と刻まれた鳥居
写真15 貴船神社(瀬戸内市邑久町)
写真16 西神社(祇園宮)の紋章と鬼飾り
写真17 西神社(祇園宮)社記
写真18 貴船神社本殿脇に置かれた菊花紋の鬼飾り
写真19 貴船神社本殿の後ろにある磐座と愛宕神社の祠

 後で知りましたが、貴船神社の本殿の床下には龍穴があり、江戸時代に蓋をされ、平成にコンクリートで塞がれたようです。貴船神社(瀬戸内市邑久町)と龍神伝説がある讃岐国一宮 田村神社(香川県高松市)を結ぶラインは、金比羅宮(久々井)、豊玉姫神社(高松市男木町)、鬼ヶ島大洞窟(高松市女木町)の近くを通ります(図19)。このレイラインは龍脈と思われます。

図19 貴船神社(邑久町)と田村神社を結ぶラインと金比羅宮(久々井)、豊玉姫神社(男木町)、鬼ヶ島大洞窟(女木町)

美和神社と成務天皇
 岡山県瀬戸内市長船町東須恵にある美和神社(写真20)は、延喜式神名帳に記載されている古社で、祭神は大物主神です。美和神社のある広高山の名前は、神功皇后の愛馬「白鷹」に因んだという伝説があります。美和神社は、奈良県桜井市の大神神社から勧請したといわれ、この地に移住してきた須恵器の陶工集団と深い関係があるといわれています。備前焼は、伊部焼(いんべやき)ともいわれるので、備前焼狛犬のある神社は忌部氏と関係があると推定されます。

写真20 美和神社

 鬼城山と美和神社を結ぶラインのほぼ中央に大己貴命や須勢理毘売命などを祀る備前国総社宮があります(図20)。

図20 鬼城山と美和神社を結ぶラインと備前国総社宮

 美和神社とギョベクリ・テペを結ぶラインは、成務天皇の陵墓と推定される築山古墳や長船町福岡の近くを通り(図21)、船通山、出雲大社、天照大神と素戔嗚尊を祀る日御碕神社(島根県出雲市大社町)の近くを通ります(図21)。このラインは、備中松山城(岡山県高梁市)と白兎神社(鳥取市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図22)。

図21 美和神社(広高山)とギョベクリ・テペを結ぶラインと築山古墳、長船町福岡
図22 美和神社、備中松山城、白兎神社を結ぶ三角形のライン、美和神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと船通山、出雲大社、日御碕神社

 美和神社、備中国分寺那岐神社(鳥取県八頭郡智頭町)をラインで結び三角形を描くと、備中国分寺と那岐神社を結ぶラインは、図22の美和神社とギョベクリ・テペを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図23)。美和神社と備中国分寺を結ぶライン上には、孝霊天皇(須佐之男命)の陵墓と推定される鯉喰神社 弥生墳丘墓(岡山県倉敷市)があります。備中国分寺と那岐神社を結ぶラインの近くには、素盞嗚尊を祀る福力荒神社(岡山県津山市)、瀧神社(奥の院)(岡山県勝田郡奈義町)があり、那岐神社と美和神社を結ぶラインの近くには、由加神社(岡山県和気郡和気町)があります(図23)。美和神社は、成務天皇が先祖を祀ったのかもしれません。

図23 美和神社と備中国分寺を結ぶライン上と鯉喰神社 弥生墳丘墓、備中国分寺と那岐神社を結ぶラインと福力荒神社、瀧神社(奥の院)、那岐神社と美和神社を結ぶラインと由加神社、美和神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと船通山

 美和神社のある広高山は、古来「三和ノ峰」と称され、「三和」は「美和」や「三輪」と同じ意で、神霊を表す言葉とされます(写真21)。もしかすると、カナン諸語であるヘブライ語の「ミツワ」と関係があるかもしれません。あるいは、家紋や天寿国曼荼羅繍帳に描かれている「三つ葉」は、メソポタミア南部の古代都市ウル出土の円筒形印章にもあるようなので、「三和」や「三輪」は、「三葉」がルーツかもしれません。

写真21 三和ノ峰の説明板

 参道の途中に鳥居があり(写真22)、これは、美和神社の神体山である三和ノ峰を遥拝するための鳥居で、冬至の日の太陽が三和ノ峰の山頂から登る位置にあったようです。美和神社とギョベクリ・テペを結ぶラインは、東西方向から30度傾いていますが(図20)、関東地方くらいの緯度であると、冬至の日の太陽が昇るラインとほぼ一致するようです。

写真22 美和神社の鳥居と備前焼の狛犬

 参道の途中に祇園様(竜王様)が祀られ、三和ノ峰の山頂には磐座があります(写真23)。

写真23 三和ノ峰の磐座

 美和神社からは、小豆島が展望でき、境内には広高神社遥拝所があります(写真24)。

写真24 広高神社遥拝所

 美和神社と石柱にある尻海と展望図にある師楽は、直線上に並んでいて、ラインの延長線の方向には阿蘇に近い幣立神宮や丹生川上神社とつながっている弘法大師ゆかりの舎心ヶ嶽があります(図24)。このことから、美和神社は阿蘇氏や丹生氏と関係があると推定されます。香川県さぬき市にある師楽遺跡(古代製塩場跡)(図24)では、「師楽式土器」(古墳時代後期の塩作りの用具)が見つかっています。

図24 美和神社と舎心ヶ嶽を結ぶラインと尻海、師楽(西)、師楽遺跡

鬼ノ城とウル
 下記のブログによると、百済からの渡来人は、鬼ノ城の城壁のことを「ウル」と呼んでいたことから、王子は「温羅(うら)」と呼ばれるようになったといわれています。

 ジッグラトのあるメソポタミアの古代都市ウルと、孝元天皇と倭迹迹日百襲姫命の宮があったと推定される岡山城を結ぶと鬼ノ城跡の近くを通ります(図25、26)。ウルの守護神はシュメールとアッカド(アッシリア・バビロニア)の月の神ナンナ(アッカド語:シン)で、都市の名前はこの神に由来しています。卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命)の城は、「鬼ノ城」と似ていたのではないかと思われます。

図25 ウルと岡山城を結ぶライン
図26 ウルと岡山城を結ぶラインと鬼ノ城跡

文献
1)志村史夫 2023 「古代日本の超技術」(新装改訂版) ブルーバックス 講談社
2)王 敏 2014 「禹王と日本人」 NHKブックス
3)薬師寺慎一 2008 「考えながら歩く吉備路 上」 吉備人出版
4)真壁忠彦 真壁葭子 1995 「古代吉備王国の謎」 山陽新聞社