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大来(瀬戸内市邑久町)の古代史を彩る三人の女性


1  はじめに
 瀬戸内市邑久町に尾張という地名があり、崇神天皇妃が尾張大海媛(おわりのおおしあ まひめ)です。豊原という地名があり、崇神(すじん)天皇の皇女が豊鍬入姫命(とよす きいりひめ)です。邑久町の地名の由来は、大伯(漢音のタイハク)皇女ではなくて、大来 皇女(おほくのひめみこ)です。
 この三人の女性について説明します。

2  尾張大海媛
 尾張氏は、「尾張」を氏の名とする氏族です。初見 は『先代旧事本紀』巻五 天孫本紀の崇神天皇妃の尾 張大海媛(おわりのおおしあまひめ)です。皇統譜の 古い時期に尾張氏と天皇が結びついています。

『先代旧事本紀』巻五 天孫本紀の崇神天皇妃の尾 張大海媛


3   豊鍬入姫命
 『先代旧事本紀』巻五 天孫本紀の崇神天皇に、崇 神天皇の子供の、豊鍬入姫命と豊城入彦命の名前があります。豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)は、第 10 代崇神天皇の皇女です。
 天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女 性です。国内情勢が不安になった際、崇神天皇はその 原因が天照大神(伊勢神宮祭神)と倭大国魂神(やま とのおおくにたまのかみ・大和神社祭神)の 2 神を居 所に祀ったことにあると考えました。
 『日本書紀』崇神天皇 6 年条に、倭(やまと)の笠 縫(かさぬひ)の地に磯堅城神籬(しかたきひもろき。 神籬とは祭祀の際に設置される臨時の神の座。依り 代。)を立てて、豊鍬入姫命に天照大神をまつらせた とあり、垂仁天皇 25 年 3 月 10 日条には、天照大神を 豊鍬入姫命から離し、倭姫命(やまとひめのみこと・ 垂仁天皇皇女)に付けて、伊勢国に遷都し祭らせたと あります。(伊勢神宮起源譚)。
 瀬戸内市邑久町に豊原地名があり、豊原庄です。 豊原庄の初見は 1029 年(長元 2 年)の藤原実資の日 記『小右記』です。豊原庄は巨大な天皇家の荘園でし た。この豊原庄の地名の由来が豊鍬入姫命と考えます。
 『魏志倭人伝』に卑弥呼の宗女として、13 歳の台与が倭国王に即位、国中が定まったと あります。豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)に名前の「豊(とよ)」から、邪馬台国の卑弥 呼宗女の台与比定説があります。

4  大来皇女 邑久の地名の由来
4.1  大来(オホク)の初見
①  飛鳥京(6 世紀末の推古朝~7 世紀末の天武朝)出土木簡に「太来」。
②  和気町藤野大田原字藤原の古墳出土の 7 世紀代の須恵器平瓶箆書に「大久」。
③  『日本書紀』「天武紀」は「大来皇女」、「持統紀」に「皇女大来」。
④  713 年(和銅六年)の「風土記」編纂にて好字の「邑久」に改められた。
⑤  岡山県立博物館蔵の邑久郡内出土の、7~8 世紀代の須恵器平瓶(ひらが)箆書に「大久 (人+久)」とあります。

4.2  『万葉集』の大伯皇女と大来(おほく)皇女

『万葉集』の大伯皇女と大来(おほく)皇女

 『邑久町史』には、『万 葉集』は収録されてい ません。『万葉集』に 6 首収 録され、大伯皇女 4 首。 大来皇女 2 首と大伯皇 女が多いです。大伯皇女は、105・ 106・164・165 の 4 首、大来皇女は、163・165 の 2 首です。

4.3  『日本書紀』 大来(オホク)皇女と皇女大来

『日本書紀』 大来(オホク)皇女と皇女大来


太来木簡と大伯木簡

 『日本書紀』は舎人親王を総責任者として、多くの人達により編纂され、巻ごとに編纂 者が異なっています。多くの人が関係し間違いやすい編纂体制です。 
「巻第二十六 斉明天皇」には、「大伯皇女(おほくのひめみこ)」1 ヶ所
「巻第二十九 天武天皇下」には、「大来皇女(おほくのひめみこ)」3 箇所 「巻第三十 持統天皇」には、「皇女大来(ひめみこおほく)」1 ヶ所

4.4  初代伊勢神宮斎宮 大来皇女

『先代旧事本紀』巻五 天孫本紀の崇神天皇の最後の記録


 崇神天皇の最後に、「次豊鍬入姫命 始託天照大神為斎祠」「次渧中城入姫命 初託大国魂神為斎祭」とあります。豊鍬入姫命は倭姫命とともに伊勢神 宮の斎宮の起源に求められています。しかし、『日本書紀』には、674 年 10 月 9 日「大来皇女、泊瀬の斎宮より、伊 勢神宮に向ふ」とあり、実質的な斎王制 度は大来皇女に始まります。なぜ、最初 の伊勢神宮斎宮が天武皇女の大来皇女 なのかに注目しました。
 「大伯皇女」は 「大来皇女」の書 写ミス『日本書紀』 と『万葉集』に大伯皇 女と大来皇女が併用されています。「大来皇女」は 661~701 年。『日本書紀』 の「持統紀」は「皇女大来」、「天武紀」 は「大来皇女」です。「斉明天皇」の「大 伯皇女」は 「大来皇女」の書写(校正) ミスです。活字出版開始当初から誰も、 この書写(校正)ミスを指摘していませ ん。『日本書紀』校注に「大伯皇女とも」 とあるのみです。邑久の地名の由来は、大来(オホク)皇女に由来します。

4.5  『播磨国風土記』の石作連大来
 「大来」木簡発見時に、何故、「大伯」の誤読が発見できなかったのでしょうか。疑問を 持たない歴史研究者ばかりです。『播磨国風土記』に石棺作りの記録あり、石作連大来(い しつくりのむらじおおく)の名前があります。邑久郡古名「大来(おほく)」縁の人です。

5  崇神天皇社鎮座地と天皇地名
5.1  崇神天皇社鎮座地と靭負神社
 池田家文書の『神社明細帳』に崇神(すじん)天皇社が記録されています。靭負(ゆき え)神社が寛文九年(1669)に崇神天皇社社地に遷座とあります。つまり、1669 年に崇神 天皇の名前が消され天皇社とされ、靭負神社(瀬戸内市長船町長船 1151)に変わっていま す。地名は字天皇です。

崇神天皇社鎮座地と靭負神社
崇神天皇社鎮座地と靭負神社

5.2  『長船鍛冶由緒書上』の崇神天皇
 『改訂 邑久郡史上巻』に、『長船鍛冶由緒書上』が収録されています。「一、遠祖は天 目一神の後裔にして、世々鉾剣鍛冶を業となす。崇神天皇の六己丑二月由介比の郷に於て 鉾剣を鍛ひ以て天皇に献ず、天皇感賞し給ふに爵を以てす。同年八月鉾剣を鍛冶せしむ。 此時に当り更に爵一階を進む。其後世々鉾剣鍛冶となり、吉備国由介比の郷板屋に住す。 一、仁徳天皇御宇に当り家祖以為く、崇神天皇は我祖神なりと、因て由介比の郷板屋に、 崇神天皇及天神宮祭神天目一神天麻喜麻呂を勧請す。・・・」とあり、更に「崇神天皇御宇 六巳丑歳於二日本一初テ宝剣ヲ鋳、春二月奉二崇神天皇一叡感不レ斜、賜二五位之位一、 同八月勘定有二宝剣鋳一、其時三位之位ニ昇ル、其後代々宝剣鍛冶ト成、住所者備前国湯 桂郷今之長船也、・・・」とあります。  この記録は、崇神天皇が近くに居られたから、鉾剣 を献上できたと読むべきです。

5.3  崇神天皇

崇神天皇 騎馬民族征服王調説
「黄鐘(コウショウ)」の「大王(おおきみ)」


 崇神天皇は、第 10 代天皇で学術上、実在可能性のある初めての天皇です。『日本書紀』 には、崇神天皇の即位年を「甲申(こうしん)年」とあり、「甲申年」を 264 年と解読され た水野正好氏(奈良大学名誉教授)は、「女王台与の死に二年先立つことになりますから、 女王台与の摂政の位置に崇神がついたことを示すと考えることができます。」と説明してい4ます。水野正好氏の「崇神天皇は、卑弥呼の後継女王である台与の摂政説」が知られてい ます。西川寿勝氏(大阪府教育委員会)の「崇神天皇は卑弥呼の男弟」説も注目されます。 崇神天皇の治世は、邪馬台国時代の後半です。

5.3.1  崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)
 昭和 29 年(1954)、水野祐氏が『増訂日本古代王朝史論序説』を発表しました。崇神か ら推古に至る天皇がそれぞれ血統の異なる古・中・新の 3 王朝交替説です。三輪王朝の成 立は 3 世紀中葉~4 世紀前半の古墳時代前期です。イリ王朝のイリに注目しました。「イリ」の名前の付く歴代天皇は、第十代崇神天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこ と)と、第十一代垂仁天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)のみです。 崇神天皇 は事実上の初代天皇です。
 熊山より備前市伊里へ伊里川が流れ、古代蒙古のバルハシ湖へ、イリ川が流れこんでい ます。イリ川は、中国新疆ウイグル自治区の北部のイリ・カザフ自治州からカザフスタン 南西部のアルマトイ州にかけて流れる川です。長さ 1439 km のうち 815 km がカザフスタ ンを流れます。天山山脈に源を発し西に流れバルハシ湖に注いでいます。崇神天皇は、騎 馬民族の後裔であり、記紀に豊富な伝承が記録されています。崇神 10 年に四道将軍を各 地に派遣しています。西道に派遣された四道将軍の一人が「黄蕨津彦」です。

5.3.2  崇神天皇 吉備国在住説
 古代史の基礎知識を得る上での必読書、『国史大辞典』に、上田正昭氏(京都大学名誉 教授)は、「北方大陸系の騎馬民族が征服王朝を樹立したとする騎馬民族征服王調説では、 騎馬民族の後裔である崇神天皇に象徴される勢力が北九州に入って第一回の建国をなし、 北九州から機内に進出した応仁天皇によって第二回の建国がなされたと解釈する・・・。」 と説明しています。しかし、第一回建国は北九州ではなくて吉備国です。崇神天皇は騎馬 民族の後裔ではなくて騎馬民族です。

5.3.3  和気町 大王山

和気町 大王山

 和気町佐伯町の吉井川西岸に大王 山(435m)があります。崇神天皇は 大王と呼ばれていました。和気氏は、 備前国和気郡(藤野郡)を本拠とし、 垂仁天皇の皇子の鐸石別命(ぬてしわ けのみこと)を祖とします。長船町の天皇地名は、崇神天皇と垂仁天皇の瀬戸内市在住記録です。崇神天皇妃の尾張 大海媛が尾張の地名の由来です。

6  まとめ
① 邑久の地名の由来は、「大来皇女」です。大伯は漢音のタイハクであり、オクとは読め ません。

② 『先代旧事本紀』は、824~834 年ごろ成立説がありますが、神代から推古朝までの事 跡を記しています。『先代旧事本紀』は物部氏・尾張氏の家記です。そして『古事記』『日 本書紀』よりも古い表記を留めています。瀬戸内市、旧邑久町と長船町の古代史は、『先代 旧事本紀』をベースに見直すべきです。瀬戸内市の古代史解明に最も重要な「尾張と大来 と豊原」の地名の由来を地名学により説明しました。瀬戸内市の古代史は、『日本書紀』と 『続日本記』ではなくて、『先代旧事本紀』の天孫本紀と国造本紀です。

③ 崇神天皇妃の尾張大海媛が尾張氏の初見であり、崇神天皇が吉備(前)国に在住して いたから尾張大海媛と結婚できたと考えます。吉備(前)国に居住していたから、長船刀 工の先祖は、鉾剣を崇神天皇に献上できました。和気町の大王山、長船町の天皇地名は、 崇神天皇の吉備(前)国在住記録です。

④ 豊鍬入姫命は倭姫命とともに伊勢神宮の斎宮の起源に求められています。実質的な斎 王制度は大来皇女に始まります。伊勢神宮と備前国が結びつきました。

7  参考文献
① 『古代史 謎解き紀行Ⅲ 九州邪馬台国編』関裕二 平成 26 年 新潮社
② 『神社明細帳』池田家文書
③ 「古代邑久地域史に関する一考察」『吉備古代史の展開』吉田晶 1995 年 塙書房
④ 『邑久町史 地区誌編』邑久町史編纂委員会 平成 17 年 瀬戸内市
⑤ 『新訂増補 国史大系 7 先代旧事本紀』昭和 41 年 吉川廣文館
⑥ 『改訂岡山県遺跡地図 第6分冊岡山地区 』 平成 15 年
⑦ 『日本家系・系図大事典』奥富敬之 2008 年 東京堂出版
⑧ 「長船鍛冶由緒書上」『改訂 邑久郡史上巻』昭和 28 年 邑久郡刊行会
⑨ 『先代旧事本紀 現代語訳』志村裕子 2013 年 批評社
⑩ 「吉備の部民の存在形態」吉田晶 『岡山県史古代Ⅱ』平成元年 岡山県
⑪ 『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』宇佐公康 昭和 62 年 木耳社
⑫ 吉備国の語源『黄蕨』と羈縻(きび)政策 『熊山遺跡出土品』の考察 丸谷憲二
⑬ 「豊原庄関係資料」『邑久町史史料編(上)』平成 19 年邑久町史編纂委員会 瀬戸内市
⑭ 『豊地区 覚え書』池上淳之 平成 12 年 3 月
⑮ 『邑久町史 通史編』平成 21 年 邑久町史編纂委員会 瀬戸内市
⑯ 『伊勢斎宮の歴史と文化』植村寛之 2009 年 橘書房
⑰ 『国史大辞典 8』昭和 62 年 吉川弘文館
⑱ 「卑弥呼・台与女王から崇神天皇の時代へ」水野正好増補版『邪馬台国・ヤマト 唐古・鍵遺跡から箸墓古墳へ』水野正好他 2015 年 雄 山閣
⑲ 「呉音と漢音の諸問題」『きび考 第 12 号』2015 年 6 月 先史古代研究会⑳ 「地名学では邪馬台国は岡山です。」丸谷憲二 2015 年 10 月 13 日 ㉑ 『日本皇室大鑑』 官公庁資料編纂会 昭和 63 年 官公庁文献研究会 ㉒ 『日本古代史大辞典』上田正昭監修 2006 年 大和書房㉓ 『邑久町史 史料編(上)』邑久町史編纂委員会 平成 19 年 瀬戸内市 

平成 29 年 7 月 15 日 寄稿


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