#1 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜
■あらすじ
大学生・高科誠司のもとに、疎遠になりつつあった恋人・沢渡小春から奇妙なメールが届く。
件名は「最期にこれだけ」。
本文には戯曲『かもめ』の一節と、クローズドSNS《CLOVER》のIDとパスワード。
その直後、友人の如月理音から小春の死を告げられる。
小春の死亡推定時刻は前日の夜だった。
届くはずのないメールを手がかりにログインした先で、誠司は死後も増え続ける記録を見つける。
やがて、調査を支える理音にも小春の言葉遣いや記憶の混線が現れ始める。
誠司は理音の喪失を防ぐため、CLOVERの開発会社、
そして人の認識を静かに同化させていく巨大な構造に立ち向かう。
第0章 またね (前編)
寝つけない夜だった。
電気を消した部屋の中で、スマホの明かりだけが何度も手のひらを照らしていた。
ニュース、SNS、就活サイト、動画、またSNS。
指はせわしなく動いているのに、頭の中は妙に白かった。
春に父さんが昇進付きの異動を受けて、母さんもついていった。
俺だけが大学のために家に残った。
考えたくないことを考えないためだけに、画面を撫で続けている感じだった。
そのとき、通知欄に見覚えのある名前が浮かんだ。
沢渡小春。
一瞬、指が止まる。
……小春?
心臓が、ひとつ遅れて鳴った。
最後にまともに連絡を取ったのがいつだったか、すぐには思い出せない。
春先。
たぶんそのへんだ。
高校の頃は、もっと自然に会っていた。
大学に入ってからも、最初のうちはそうだった。
気が向いた日に小春の部屋へ行って、だらだら話して、少し触れ合って、終電を逃したら泊まって、逃さなければ帰る。
特別な約束なんかなくても、小春はいつもそこにいた。
嫌な顔をされたことは、一度もない。
疲れてるなら寝てていいよ。
ごはん、何か食べる?
無理しなくていいからね。
そういう言葉を、小春は本当に自然に言った。
感情をぶつけてくるタイプじゃなかった。
むしろ逆だ。
何かあっても、少し考えてから言葉にする。
通話で勢いのまま喋るより、短い文を何度かやり取りして、自分の内面を整えていくような子だった。
小春にとって言葉は、ただ伝えるための道具じゃない。自分を壊さないための手すりみたいなものだったのだと思う。
それが、だんだんきつくなった。
小春が優しすぎるせいで、自分がどれだけ甘えているか、わかってしまったからだ。
会いたいときだけ会いに行って、受け入れてもらって、少し楽になって帰る。
別に珍しくもない。どこにでもいる大学生の付き合い方だったと思う。
それでも小春相手だと、自分がひどく身勝手な人間に思えた。
だから距離を置いた。
課題が忙しいから。
ゼミがきついから。
就活のことを考えないといけないから。
いくらでも理由はつけられた。
でも本当は違う。
これ以上あいつの優しさに慣れたら、自分がもっと嫌いになる気がしただけだ。
なのに今さら、通知ひとつでこんなに動揺している。
しかも、メールだった。
そこがおかしかった。
小春はメールなんてほとんど使わなかった。
やり取りはいつもLINEだったし、既読がどうとか返信の間がどうとか気にするくせに、手段だけはずっと気軽だった。
だからこそ、久しぶりの連絡がメールというだけで、喉の奥に冷たいものが落ちた。
嫌な予感がした。
こういう時間に届くメールなんて、大抵ろくでもない。別れ話、という単語が頭に浮かんだ瞬間、自分でも驚くほど心臓が強く鳴った。
今さら何をびびってるんだ。
ちゃんと向き合わなかったのは、俺の方なのに。
少し自分にうんざりしながら、通知を開く。
件名は、短かった。
最期にこれだけ
その七文字を見た瞬間、背中に汗がにじんだ。
だけど本文は、想像したものと違っていた。
わたしはかもめ
わたしは女優
ID:clover_45sh
PASS:0415spring
またね
しばらく、何も考えられなかった。
「……は?」
声に出しても、意味がわかるわけではない。
わたしはかもめ。
わたしは女優。
どこかで聞いたことがある。
昔、小春が妙に熱を入れて話していた言葉だった気がする。
演劇だか戯曲だか、そういう話だ。珍しく早口になって、文庫本まで貸してきたことがあった。
俺は三十ページくらいで挫折した。小春は呆れた顔で、「せめて有名な台詞のところまでは読んでよ」と笑っていた。
あのときの小春は、いつもの落ち着いた雰囲気と少し違っていた。
いつもみたいに受け入れる側じゃなくて、ただ好きだから喋っている感じがして、少し幼く見えた。
俺はその顔がわりと好きだった。
でも、なんで今それなんだ。
しかも、その下に並んでいるのは、IDとパスワードらしき文字列。
CLOVER。
名前だけは知っていた。
小春の大学で使われているクローズドSNSだ。
研究共有とか、就活支援とか、ゼミ連絡とか、そういうものをまとめた半分業務用みたいなアプリだと聞いていた。
便利だけど、少し怖い。
前に小春はそう言っていた。
何が怖いのか聞いても、うまく説明できないけど、と笑っていたのを覚えている。
最近は学内でかなり広く使われているらしかった。
就活に強い先輩が勧めているとか、研究室単位で導入が進んでいるとか、そんな話も聞いた気がする。
だからただの学生用ツールなんだと思っていた。
少なくとも、今までは。
別れ話なら、なぜこんなものを送ってくる。
『最期に』って、要はもう会わないってことだろう。
なのに末尾は『またね』だ。
まるでわからない。
いや――受け入れたくないだけか。
そこまで考えたところで、スマホが震えた。
反射的に肩が跳ねる。
画面に表示された名前は、如月理音。
俺と同じ大学で、同じゼミだ。昔からの付き合いで、小春のこともよく知っている。
理音が、こんな時間に電話?
何かあったのか。
俺は少し迷った末に、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
耳に届いた自分の声が掠れていた。
『……誠司?』
理音の声も変だった。
いつもの、鋭く理知的なものではない。
必死に何かを押しとどめようとして、押し切れていない声だった。
『ニュース、見た?』
「ニュース?」
喉がひどく乾いていた。
「見てないけど……なんかあったのか。事故とか……」
数秒、理音は黙った。
その数秒が、やけに長かった。
『……落ち着いて聞いて』
なんだ。まさか教授に何かあったとか。
『……小春が』
時間が止まった。
『小春が、死んじゃった……』
世界が、一瞬だけ無音になった気がした。
「……は?」
自分の声が遠い。
間の抜けた、信じていない人間の声だった。
「理音、何言ってるんだ。悪い冗談はよせ」
そう言いながら、頭では理解していた。
理音は、こんな冗談を言うやつじゃない。
『集団自殺事件だって……小春の大学の学生、何人か一緒に……今、速報で出てる』
言葉が頭に入ってこない。入ってきても意味にならない。耳に届いた音が、そのまま床に落ちていくみたいだった。
俺は通話を繋いだまま、震える指でニュースアプリを開いた。
速報が、すぐ目に飛び込んできた。
【速報 私立大学生五人、集団自殺か】
手が震えて文字がうまく読めない。なのに、記事の最後に並んだ名前だけは、いやにくっきり見えた。
四番目。
沢渡小春。
手のひらが一気に汗ばむ。
俺は思わず、メールの画面を見返していた。
件名はまだそこにある。
最期にこれだけ
受信時間は、六月七日午後九時四十二分。
つい数分前。
心臓が早鐘のようになっていた。
俺は息を詰めたまま、もう一度ニュース記事を見る。そこに書かれていた事件の発生推定時刻は、六月六日の夜。
――つまり昨日だった。
おかしいだろ。
じゃあ、これは何だ。
俺が受け取った、このメールは。
そこまで考えたところで、通知がもう一度、静かに画面の上に滑り込んだ。
新しいメールだった。
差出人は、さっき名前を見たばかりのアプリだった。
CLOVER。
件名は、短かった。
《沢渡小春さんからのCLOVER招待が届いています》
本文の冒頭には、ただ一行だけ表示されていた。
《この招待は、沢渡小春さんの設定に基づいて送信されました。》
息が止まった。
指先から感覚が抜ける。スマホを取り落としかけて、慌てて持ち直す。
画面の白さだけが妙に鮮明で、その数行だけが現実の側に残っているみたいだった。
『誠司、大丈夫?』
理音の心配そうな声が耳に届く。
「理音……今」
言うべきじゃない。
こんなことを理音に伝えてはいけない。
けれど今、自分だけで抱えておくには、あまりにも重すぎた。
俺は言葉を吐き出した。
「今、CLOVERからメールが来た」
『CLOVER? 確かSNSだっけ? 誠司、ほんとに大丈夫? 今それどころじゃ――』
俺は画面を見たまま、うまく瞬きもできずに答えた。
「小春が……俺を招待したって」
電話の向こうで、理音が息を飲む音が聞こえた。
そのあと、しばらくどちらも何も言えなかった。通話は繋がっているはずなのに、耳の奥では、ざらついた無音だけが続いていた。
・続き
