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#12 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜

第5章 認識汚染(後編)

休み明けの朝、俺は大学の講義室でスマホを眺めていた。CLOVERではない。
あの日から俺はCLOVERを一度も開いていなかった。
いや、開けなかった。

「おはよう、誠司」

顔を上げて、声のしたほうを振り向く。

「――理音?」

そこにいたのは理音だった。
でも俺のよく知っている理音の姿ではなかった。
髪が、短くなっていた。
腰近くまであった黒髪が、肩より少し下くらいで揺れている。

色も、ほんの少しだけ明るい。茶髪というほどではない。光に当たると、柔らかく見える程度。
心臓の鼓動が早くなる。
いやな汗が滲んだ。

「それ……」
「あ? これ?」

理音が右手で毛先をつまむ。

「切った」
「見ればわかるけど……」
「じゃあ聞かなくていいじゃない」
「いや、そうだけど」
「ちょっと重かったから。イメチェンも兼ねて。暑いし」

そういうと、理音は俺を見ていたずらっぽく微笑んだ。

「どう、似合う?」
「あ、うんまあ」

俺は何とか声を絞り出して答える。
理音は、意外そうに目を瞬かせた。

「……よかった」

その姿に、俺の心臓が脈打つ。
似合っているというのは嘘じゃない。
女子大生が雰囲気を変えるために髪形を変えるなんてのはよくあることだ。
なのに、俺はなぜこんなに動揺している?
出会った時からずっと黒の長髪だったから、驚いた?
好きな相手でもできて、そのために雰囲気を変えたと邪推している?
自分でも理由がわからない。
しかも理音の変化それだけではない。
俺の言葉に対する返事も変わっている。
そもそも髪型を変えても「似合う?」なんて聞いてくる性格ではない。
仮に「似合うよ」と返したところで。「ふーん」くらいで流すのではないだろうか。
あるいは「誠司にしてはまともな感想」とか。
しかし今の理音は、受け取った。
そのまま、柔らかく。
何も悪いことではないのに、俺は違和感を拭いきれなかった。

午前の講義が終わったあと、学食で陽芽と会った。
陽芽は理音を見るなり、目を丸くした。

「え、理音さん髪切ったんですか」
「うん」
「似合います。かわいいです。いや元から美人ですけど、ちょっと近づきやすくなった感じします」
「前は近づきにくかった?」
「はい。クールな印象が強くて」
「正直だね」
「わたし素直なんです」
「よく言うよ」

俺が横から口を挟むと、陽芽が俺を見た。

「先輩みたいに自分への嘘が上手くないんです」
「どういうことだよ」
「でも人にごまかすのは下手そう」
「うるさいな」

陽芽は理音の髪をもう一度見る。

「でもほんと、雰囲気変わりましたね」

理音は笑った。

「気分転換」
「いいですね。気分転換、大事です」

陽芽はそう言って、俺の方をちらっと見た。

「先輩も気分転換に顔変えます?」
「アンパンマンじゃねーんだぞ」
「あー、変えても同じじゃないですか。救いはなかった」
「お前後輩の自覚ある?」
「敬意の総量は有限なので使い分けるんです。先輩に無駄遣いできません」
「無駄じゃないだろ……」

いつもの会話だった。
なのに、俺の中ではずっと、理音の髪の長さが引っかかっていた。
何かに似ている。
何かを思い出しそうになる。
でも、何故かその場では思い出せなかった。

その夜。
部屋に戻って、俺は机の上に伏せてあった写真立てを手に取った。
伏せたのは、小春の葬儀のあとだ。
中の写真を見るのがつらかったからだ。
手に取ったまま動きが止まる。
数秒。いや何十秒だろうか。
俺はようやく写真立てをこちらに向けた。

そこには、俺と小春が写っていた。
去年の秋、京都の水族館へ行ったときの写真。
館内の暗い照明のせいで少し青っぽく写っている。小春は俺の隣で、少しだけ首を傾けて笑っている。
その髪。
肩より少し下で揺れる、ほんの少し明るい茶色。

「……嘘だろ」

声が出た。
理音の髪型と、同じだった。
完全に同じではない。理音の顔立ちは小春より少し鋭いし、髪質も違う。
けれど、長さと色の印象が、写真の小春とほとんど重なっている。
偶然だ。
そう思おうとした。

夏だから切っただけ。重かったから切っただけ。気分転換と言っていた。
髪型なんて似ることはいくらでもある。
よくあるといえばよくある髪型だ。
小春だけのものじゃない。

……ああ、陽芽の言うとおりだ。
俺はいつでも気づけたはずなのに、ここまで気づかないでいた。
怖いから気づかないように心に蓋をしていたのだ。
その時、スマホが震えた。
理音からだった。

『髪、本当に変じゃなかった?』

短い文。
俺はしばらく返せなかった。
画面の上に、入力欄だけが白く光っている。
変だった。
そう言うべきなのか。
似ている。
そう言うべきなのか。
小春を、真似したのか。
そんな言葉を、理音に向けていいはずがなかった。
俺は迷った末に、短く返した。

『似合ってたよ』

少しして、返信が来る。

『よかった』

それだけだった。
でも、そのあとすぐに、もう一通。

『誠司がそう言ってくれるなら、安心した』

指先が止まった。
安心した。
その言葉が、妙に重かった。
俺はしばらく机に戻した小春の写真と、スマホの画面を交互に見ていた。
机の上で、小春の笑顔がこちらを向いている。
スマホの画面には、理音からの短いメッセージが残っている。

誠司がそう言ってくれるなら、安心した。

何がおかしいのか、すぐには言葉にできなかった。
理音が俺の言葉を気にするのは、別に変じゃない。
昔から付き合いは長い。
俺が適当なことを言えば怒るし、変なところで落ち込むと面倒を見る。
俺が褒めたことを、素直に受け取っただけかもしれない。
それでも、それでもだ。
長い付き合いだからわかってしまう。
俺との距離の取り方が、変わりつつある。

小春は、よくそういう言い方をした。
せいちゃんがそう言うなら、少し安心した。
たぶん、まったく同じ言葉ではなかったと思う。
でも、自分の判断を、自分ひとりの中で完結させず、俺の言葉をそっと添えて落ち着かせる感じ。
もちろん、それは恋人同士なら普通のことなのかもしれない。
なら、理音は?
俺はスマホを伏せた。
そこから先を考えるのが、怖かった。


翌日から、俺は理音の様子を今までより注意深く伺うようになった。
明らかにおかしいことは何もない。
講義には出ている。バイトにも行っている。
俺の世話を焼くときの口調も相変わらずだ。
課題の進捗を聞いて、俺が曖昧に答えると「やっぱり」とため息をつく。
でも、会話のどこかに、ほんの少しだけ間が増えた。
俺が何かを言う。
理音はすぐには返さない。
一拍だけ置いてから、俺が受け取りやすい形の言葉を選ぶ。
俺が気にしすぎているだけなのか、わからない。

「誠司、今日のレポート出した?」
「出した」
「ほんとに?」
「出したって」
「じゃあ確認画面見せて」
「そこまで疑う?」
「疑うというより、信頼に足る前科がない」
「あまりにも正しい」

いつもの会話だ。
けれど、そこで理音はふっと表情をゆるめる。

「でも、出したならえらいね」
「……子供扱い?」
「褒めたんだけど」
「いや、理音に褒められると逆に怖い」
「ひどいね」

そう言って笑う。
その笑い方が、柔らかい。
前なら、もう少し鋭かった。俺の怠惰を切り捨てるような、遠慮のない距離感があった。
今の理音は、言葉の前にクッションを置く。
俺が傷つかないように。
俺が受け取りやすいように。
そんなふうに見えてしまう。
見えてしまうから、余計に嫌だった。

「……最近、優しくない?」

お互いバイトのない日の帰り道、思わずそう聞いた。
駅へ向かう道は、蒸し暑かった。
夕方なのに空気がぬるい。
道路沿いの植え込みから、湿った土の匂いがする。
理音は隣を歩きながら、目を瞬かせた。

「何、それ」
「いや。なんか、前より」
「前は優しくなかった?」
「いや、そういう意味じゃなくて」

言いながら、自分でもよくわからなくなる。

「なんか、言葉が丸い」

理音は少し黙った。
その沈黙の長さに、俺はまた引っかかる。

「嫌?」
「嫌というか……」
「小春みたい?」

足が止まりそうになった。
理音は前を向いたままだった。
声は静かだった。責めているわけではない。
ただ、あまりにも自然にその名前を出した。

「……なんで、そうなる」
「誠司、最近ずっとわたしの言動気にしてる」
「そんなつもりは……」
「あるよ」

理音は淡々と言った。

「誠司はさCLOVERも、ヨツハも、文章も、わたしの髪型も、言い方も。全部、小春と繋げようとしてる」

言い返せなかった。
その通りだったからだ。

「……悪い」
「責めてない」

理音は少しだけ笑う。

「それだけ、小春のことが忘れられないんだね」

そんなきれいなものなんだろうか。
自分のせいじゃない。
そう思えるようになりたいがために、犯人探しを続けているだけなんじゃないだろうか。
自分がずっと見落としたものを、今更になって拾おうとしているだけなんだ。

「ごめん、もう考えない」

自分の未練がましさが嫌になる。
よりによって理音に小春を見るなんて最低の行いだ。
二人は別の存在なのだから。

「理音、本当にごめん。小春に似てるところを探されるなんて、嫌だったよな」

理音は立ち止まった。
駅前の横断歩道の手前だった。信号は赤。車のライトが、湿った路面に細く伸びている。

「嫌だよ」

理音は言った。
その声は、思ったより小さかった。

「でも、嫌なだけでもないよ」
「……どういう意味だよ」
「わからない」

理音は、そう言った。

「わからないけど、そうなれば全てうまくいくかもしれない」

一瞬、音が消えた気がした。
理音はすぐに首を横に振る。

「ごめん。今のは、忘れて」
「どういう意味だよ」
「深い意味なんてない。なんとなく口をついて出ただけ」
「だけって」
「すぐに決めなくていいから。ね、誠司」

今すぐ決めなくていい。
少しずつ見ればいい。
無理に答えを出さなくていい。
ヨツハの声が、頭の奥で重なる。
――お前は、すぐに決めて動くやつだろ?
そう思ったけれど、何も言えなかった。
小春を探さない、そう答えたばかりなのだから。
信号が青になる。
人の流れが動き出す。
俺たちも、何となく歩き出した。
そのあと駅で別れるまで、理音はいつも通りだった。電車の時間を確認し、明日の講義の教室を確認し、俺に「資料読んでおきなよ」と釘を刺した。
でも俺の中には、さっきの言葉だけが残っていた。

――そうなれば全てうまくいくかもしれない


その日の夜、俺は数日ぶりにCLOVERを開いた。
ヨツハが立ち上がる。

『こんばんは。今日はどの記録を確認しますか』

画面の白さに、少し目が痛む。

「アカウントの送信履歴って見られるか」
『共有設定の範囲内で確認できます』
「出して」
『表示します』

画面が切り替わった。
招待送信履歴。
外部共有履歴。
メッセージ転送履歴。
システム通知。
いくつかの項目が並ぶ。俺は外部共有履歴を開いた。
最上部には、俺への招待があるはずだ。

6月10日 16:12
送信先:如月理音
種別:CLOVER招待
状態:送信済み

「……は?」

声が出た。
理音。
理音のアドレスだった。
指先が冷たくなる。
6月10日。小春のアカウントに死後記事が追加された日の翌日だ。
その時点で、理音にも招待が送られていた。
いや、違う。
送った、だ。
俺はすぐに理音へ電話しようとして、指を止めた。
先にヨツハへ尋ねる。

「この招待、理音は開いたのか」

少し間があった。

『こちらからの開封確認はできない仕様です』
「送信先がログインしたかどうかも?」
『送信先アドレスに紐づいたアカウント情報は、現在の共有範囲では確認できません』
「理音はCLOVERのアカウントを持ってるのか」
『公開情報に基づく範囲では、理音という名前のCLOVERアカウントは確認できません』
「じゃあ、この招待は何だよ」
『沢渡小春さんの設定に基づき、外部招待が送信されています』
「誰が設定した」
『設定者は沢渡小春さんのアカウントです』
「小春は死んでただろ」

言ってから自分でも馬鹿なことを聞いていると思った。

『その点について、私から確定的な説明はできません』

確定的な説明。
いつものような、角の取れた言い方。
急に腹が立った。

「お前は何を知ってるんだ」
『私は、共有された記録と操作履歴に基づいて応答しています』
「小春を真似てるのか」
『私は沢渡小春さんの人格を再現するものではありません』
「じゃあ何なんだよ」
『私は、CLOVER上での対話と記録閲覧を支援するガイドです』

答えてるのに核心を外している。
こいつは、そういうものなのだ。
小春の記録を参照して、俺が受け取りやすい形で言葉を返す、空っぽのシステム。
だからこそ、腹立たしい。
俺は送信履歴を見つめた。
理音への招待。
これがこの前のような死んだはずの誰かによるものか、理音自身の手によるものかはわからない。
しかし確信に近い答えが一つある。
——理音はCLOVERを見ている。
理音が俺がCLOVERを長時間見ていることがわかった理由。
それは単に小春のアカウントの最終ログイン時間を見ていたからだ。
答えは目の前にあったのに、俺は一体どれだけ見落としていたのか。

そこまで考えた瞬間、今までバラバラだったものが、ひとつの線になっていく感覚があった。
ヨツハは、小春に似ている。
でも、ヨツハだけじゃない。
Locus Worksのガイド群は、役割が違っても同じ安心のさせ方をしていた。
小春の優しさの形式は、CLOVERの中で剥がされ、使いやすい形にされていた。
その形式を、俺は感じ取った。
理音も、感じ取ったはずだ。
理音は、俺以上に小春をよく知っている。

ヨツハに触れる。
小春の記録に触れる。
小春の“安心のさせ方”に触れる。
もしそれが、ただの閲覧ではなく、使う側の認知にも影響するものだとしたら。

「……理音」

胸の奥が冷えた。
理音の言葉が柔らかくなった。
理音が髪を切った。
理音が言葉を一度受け取るようになった。

理音は、小春に近づいている。
CLOVERが、そうさせている。

俺は送信履歴を見ながらふと思い出した。
共有履歴から、あのアンナ・カレーニナの読書メモを開く。

人はたぶん、捨てられた瞬間より、相手の気持ちがもう別のところに向いているとわかった瞬間のほうが傷つく。

俺はあの時、安直に小春がアンナであると考えた。
しかし即座に理音に否定された。
理音は、あの時点でアンナが誰を指すのかおそらく理解していた。
これも、簡単な話だった。
小春は、俺のことを罪深いアンナと例えていたのだ。
そう考えると、その後のフレーズが全て符号する。
カレーニン、昔から側にいた夫。
ヴロンスキー、アンナの浮気相手。

俺は、決して理音と浮気なんてしていない。
でも、それは小春から見ても同じだったのか。
突然距離を置き始めた俺を、小春はどう見ていたのか。

でも、それならまだいい。疑われるような行動をした俺が悪いのだから。
――どちらがカレーニンなのか。
この言葉の指す、もう一つの可能性。
俺だけが、何も見えていなかった可能性。
画面の中で、ヨツハが静かに待っている。

『難しければ無理に結論を出さなくても大丈夫です』

俺は、反射的にスマホをベッドに投げつけた。

「黙れ」

声が出た。
自分でも驚くくらい低い声だった。

「今それを言うな」

ヨツハはそれきり、何も言わなかった。
沈黙だけが部屋に残る。
俺はしばらく、送信履歴の画面を見つめていた。
理音に電話するべきだ。
今すぐ聞くべきだ。
小春の記録を読んだのか。
ヨツハとどれくらい話をしたのか。
でも、指が動かなかった。
聞いたら、何かが確定してしまう気がした。
翌朝、理音からメッセージが届いた。

『明日、少し話せる?』

短い文だった。
その下に、もう一文。

『急がなくていい。誠司の都合で大丈夫だから』

俺はその画面を見たまま、しばらく動けなかった。
急がなくていい。
その言葉は、優しかった。
その気の使い方は、理音のやり方ではなかった。


・続き

・前回


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