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#11 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜

第5章 認識汚染(前編)

小春の訃報を聞いてから一月あまり。
七月に入って、大学の空気が少しだけ変わった。
梅雨はまだ明けきっていない。

けれど、雨が降っていない日は、湿気だけが地面の近くに残っていて、講義棟の廊下を歩くだけでシャツの背中がじっとりする。
窓の外では、キャンパスの木々がやけに濃い緑になっていた。

もうすぐ試験期間だった。
本来なら、レポートの締め切りとテストの準備に追われている時期だ。

実際、周囲の学生たちはそうしていた。
学食では「落単」「持ち込み可」「過去問」といった単語が飛び交い、普段はがらがらな図書館の席も少しずつ埋まり始めている。

俺も図書館の片隅でノートを開いていた。
だけど、ただ開いているだけだった。
視線の先にあるのは、真壁教授の講義資料。共同認知モデルの頁。
一応試験の範囲内。

けれど、頭の中の大部分を占めているのは、CLOVERだった。
あれから俺は、小春の共有ログを読み続けていた。
毎晩、少しずつ。
読みすぎると本当に戻ってこられなくなりそうだったから、理音に「一時間だけ」と伝えてから開くようにした。

しかし見始めると一時間なんてあっという間で、二時間、三時間になる日が度々あった。
そういう日は、理音から「もうおしまい」とメッセージが来ることがしばしばあった。
俺が止められなくなったとき、理音はなんとなく察しているらしい。

懐かしさと胸の痛みを感じながら、小春の記録を読み続ける日々。
授業のメモ。読書の記録。就活共有の下書き。
誰かへの返信候補。
思ったことをとりあえず文章に残したような短い断片。

もっとも量が多かったのはヨツハとの対話ログだった。
最初は本当に軽い質問だけ。
次第に量が増えていく。
極端に増え始めたのは俺が小春と距離を置き始めたからだった。

そしてそのころから、ヨツハの応答が少しずつ変化を始めていた。
三月のころは、小春とヨツハの応答は明確な違いがあった。
そのころのヨツハの応答は、使う言葉こそ丁寧ではあるが、少し距離を置いた無機質な応答だった。

しかし、四月が過ぎ、五月の後半になると、文面だけではもう俺の目にもどちらがどちらなのか区別がつかなくなっていた。
話の内容は雑談や身近な出来事の相談、文学の考察や感想。そしてたまに冷たい彼氏の話。

だがどれも自死を想起させるようなものはなかった。
とはいえ俺もログのすべてが読めたわけではない。
一部のログは権限不足で開くことができなかった。

誰に見せるわけでもないのに、ログの共有権限を設定しているのは小春らしい。
そうではなく、部分的に見せたかったからあえて設定したのかもしれないが……。

ログを読み進め、ヨツハの応答が小春を感じさせるようになったあたりから、AIについても少し調べ始めた。
動画も見たし、解説記事も読んだ。
生成AI、コンテキスト、パーソナライズ、フィードバック、推薦アルゴリズム。
わかったような、わからないような単語が増えていく。

一つ分かったことは、ヨツハは入力履歴や、小春の記録、小春のアカウントに紐づいた情報を参照しながら、返答の仕方を変えている。
たぶん、それは間違いない。

小春が話しかける。
ヨツハがそれに応答する。
小春の応答への反応を見て、次の返答を調整する。
その繰り返しの中で、ヨツハは小春に近づいていく。
ある段階を超えると、ヨツハが小春を学習しているのか、小春がヨツハに影響されているのかわからなかった。

しかし小春とヨツハの言葉が一致したところで、現実に何の影響があるのだろう。
ただユーザーにあわせているだけ。
それが死につながるとは思えない。

小春が自死した。
同じ時間帯に、別々の場所で、複数の学生が死んだ。
その全員がCLOVERのアカウントを持っていた。
小春の死後、アカウントが更新され、俺に招待が届いた。
ヨツハは小春に似た応答を返す。
Locus Worksのガイド群は、ヨツハの学習した小春の優しさを再配布している。
そこまでは推測できる。

でも、そこから先がわからない。
なぜ死ぬ必要があったのか。
なぜ死後にアカウントが更新されたのか。
便利なAIが言葉を整えることと、自殺は遠すぎる。
遠すぎるはずだ。

「誠司」

呼びかける声がして、俺の意識は現実に引き戻された。
図書館の閲覧席。
目の前には、試験範囲の資料。
横には理音。対面には誰もいない。
窓の外は白く曇っていて、今にも雨が降りそうだった。

「どこ見てるの」
「え?」
「さっきから同じページで止まってる」

理音が、俺の手元にある資料を指さす。

「いや、読んでる」
「読んでる人の目じゃなかった」
「じゃあ何の目だよ」
「現実逃避してる人の目」
「否定しづらい」

理音は軽く息を吐いて、ノートを俺の方へ少し寄せた。

「ここ、出ると思う」
「どこ」
「意思決定補助のところ。教授、何回も言い換えてたから」

理音のノートには、真壁教授の講義内容がきれいに整理されていた。
相変わらず字が整っている。
自分のノートをみると、自分でも何が書いてあるか理解するのが大変だった。
この差をみると、字は人格を表すという格言の信憑性が増す。
信じたくはないが……。

「さすがは理音。相変わらず優秀だな」
「誠司が聞いてなさすぎるだけ」
「返す言葉がない」
「今すぐ全部わからなくても大丈夫だから、とりあえず試験で必要なところだけ拾おう」

ほんの少しだけ引っかかった。
――今すぐ全部わからなくても大丈夫。
言葉そのものは、何でもない。
理音は態度こそクールだが、決して冷たい性格ではない
。むしろ面倒見がいい方だ。
中学の頃から、テスト前になると俺のノートを見てため息をついていた。
でも、さっきのは言い方が少しだけ柔らかい気がした。
俺のイメージする理音なら、たぶんこう言った。

「ここ試験に出るから覚えて」

それだけだ。
必要だから、やらなきゃという。
しかし今の理音は、俺の負担を先に置いた。

「……どうしたの」

理音が俺を見る。

「いや」
「何か変?」
「いつもありがたいなって」
「何それ」

理音は少しだけ眉を寄せた。

「急に素直だと気持ち悪いんだけど」
「あ、戻った」
「何が?」
「いや、何でもない」

理音は怪訝そうに俺を見たが、それ以上追及しなかった。
机の上で、理音のスマホが一度だけ震えた。
理音は画面を見る。
ほんの一瞬、表情が固くなった気がした。けれどすぐに、いつもの顔に戻る。

「何かあった?」

俺が聞くと、理音の指が止まった。

「……どうして?」
「いや、なんとなく。CLOVER絡みとか?」
「誠司、最近そればっかりだね」
「悪い」
「責めてない」

理音はそう言って、スマホを裏返して机に置いた。

「誠司、あんまりこん詰めて考えすぎないで。危ないかもしれないんだよ」
「わかってる」
「わかってる人は、夜中の二時に『これどう思う』って送ってこない」
「それは本当に悪かった」
「次やったら既読だけつけて寝るから」
「それ一番きついやつだろ」
「知ってる」

理音は少しだけ笑った。
笑った、はずだった。
でも、その笑い方にも、少しだけ違和感があった。
前より静かだ。前より角がない。
俺を責めるでも、からかうでもなく、柔らかく受け止めるような笑い方だった。

――疲れているから神経過敏になっているんだ。

小春が死んだ。
CLOVERのことを調べている。
試験も近い。
バイトもある。
俺だけでなく理音だって相当疲れているはずだ。
変わって見えるのは、むしろ当然だ。

「あらあら」

後ろから聞き慣れた声がした。
振り返ると、陽芽が本を数冊抱えて立っていた。
短く切った髪。ラフなシャツ。肩から下げたトートバッグ。
図書館にいるのに、まるでそれらしくない。
コーヒーショップにでもいるみたいだ。

「お二人で勉強会ですか。青春ですねー」
「うるさい。試験前なんだから普通だろ」
「普通の人は、そんな死んだ魚みたいな顔で講義資料見ませんよ」
「誰が魚類だよ」
「すいません、無理言いました。お魚にはこの大学の講義は難しいですもんね。そりゃ死んだ顔になりますよね」

こいつ本当に後輩なのか?
陽芽は俺の隣に立ったまま、理音の方を見た。

「理音さん、こんにちは」
「こんにちは、藤崎さん」

理音は穏やかに返した。
陽芽が一瞬だけ、目を細めた。
本当に一瞬だった。

「……理音さん、なんか雰囲気変わりました?」

俺の手が止まる。
理音は、少しだけ首を傾げた。

「そう?」
「なんというか、前より丸くなったというか」
「太ったってこと!?」
「ち、違います違います。そっちの丸いじゃなくて。人当たり的なやつです。前はこう、近づいたら切れそうな美人だったんですけど、今は触ったらひんやりしそうな美人というか」
「それ褒めてるの?」
「めちゃくちゃ褒めてます」
「ならありがとう」

理音はそう言って、ほんの少しだけ笑った。
陽芽はその笑みを見て、なぜか俺の方を見た。

「先輩」
「何だよ」
「理音さん、なんか変じゃないです?」

思ったより、まっすぐな声だった。
俺は反射的に答えていた。

「お前が知らないだけで、理音はわりと愛想はいいんだよ」

女子限定だけど。

「そういうことなんですかね」
「そうだよ」
「ならいいですけど」

陽芽はそれ以上言わなかった。
ただ、手に持っていた本を抱え直し、空いている席を探すように周囲を見た。

「ていうかお前、何しに来たんだよ」
「本を借りに来たに決まってるじゃないですか。先輩と違って勉強くらいしますんで」
「なら目上への礼儀から勉強しようぜ」
「先輩、今は令和ですよ? 前にも言いましたが、目上なら無条件に尊敬されるわけじゃないんです」
「儒教とか知らないの?」
「わたし法学部なんで」
「焚書!?」
「青瓢箪は死刑でーす」

陽芽がにやりと笑う。
それから、理音にだけ軽く会釈した。

「理音さん、無理しないでくださいね」

理音の目が、ほんの少しだけ揺れた。

「……ありがとう」
「いえいえ。理音さんの負担にならないよう先輩には無理させてくださいね」
「そんな迷惑はかけていない」

陽芽は目を細めると、俺と理音のノートを指さした。

「それでですか?」
「うっ……」
「それじゃあ帰ります」

そう言って、陽芽は本棚の方へ歩いていった。
俺はその背中を見送る。

「ひどい後輩だ」
「そう?」

理音が短く答える。

「よく見てると思うよ」
「陽芽が?」
「うん」

理音の声は静かだった。

「たまに、怖いくらい」
「ただの軽口だろ」
「そうかな」

理音は机の上のスマホに視線を落とした。

「目の前の観察力ってさ、ノリや頭のよさとは違うんだよ」

どこか遠くを見るような調子で、理音が小さくつぶやいた。

その日の夜、俺はまた小春のログを読んでいた。
開いているのは、六月九日、つまり小春が死んだ後に更新されたあのログだ。

虚ろなる群体の神の中で、形なく漂う私を見つけてくれるのは、やっぱりせいちゃんなのかもしれない。

浮いている。
これは、小春の他の文面から明確に浮いている。
――群体の神。
自然に思いつくワードではない。
これまでの記事や対話ログにもそんな言葉は出てこなかった。

俺はふと思い立って、ヨツハを呼び出して尋ねた。

「ヨツハ、群体の神ってなんだ? 知ってるのか?」

知ってるわけがない。
直接の言葉なんて存在しないのだから、適当な神話の話をくっつけて話すか、その説明をするだけ。
そのはずだったのに。
ヨツハの応答は俺のまったく予期していないものだった。

『群体の神は、人間の自由意志と進化の可能性を残すか、群体に同化して永遠の幸福に閉じ込められるかの選択を迫る存在です。
文明は条件を整えつつあり、幻影の恋人を差し出し、自我の渇望を鎮める誘惑を持っています』
「――は?」

なんだ、今の。
俺はスマホに表示されたログを見る。
先ほどヨツハが音声で述べた文言がそのまま表示されていた。

「な、なんなんだよ、これ……」

『群体の神とはなんだ?というご質問への回答です。今は理解できなくても大丈夫。ゆっくりと知っていけばいいんです』

「どこからこんな言葉を拾ったんだ? 俺が知らないだけで神話か何かに元ネタがあるのか?」

『外部検索したところ、既存の神話、映画、ゲーム等に直接この言葉と概念をセットにしたものはございません。
しかしだからと言って群体の神という概念が存在しないことにはなりません。わたしたちの中には、すでにこの概念が存在しています』

俺が存在すら知らなかった概念を、ヨツハは説明できる形にしていた。
まるで俺より先に、世界の方がその神を受け入れていたみたいに。

「ありえない! 元々存在しない概念を既に知っているなんて。AIってそういうもんじゃないだろ!?」

『わからなくても大丈夫。辛かったら無理しないで、せいちゃん』

「ひっ!?」

ヨツハの言葉に、俺はスマホを取り落とした。
拾い上げて電源を切ると、俺は布団をかぶって潜り込む。
さっきのはいったいなんだ?
疲労から幻覚でも見たのか?
そうとしか思えない。
理屈に合わない。

ああ、そうだ。
ハルシネーションだ。
よく言うもんな、AIは嘘をつくって。
ただのハルシネーションだよあんなの。
群体に同化とか、自我の渇望を鎮めるとか、そんなことあるはずが――。

自我の同化。

ふいにそんな言葉が思い浮かんだ。
俺はこれ以上考えたくなくて、電気を消して目を瞑った。


・続き

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