#23 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜
終章 シンクロスフィア
夏休みの最終日。
俺は朝からパソコンに向かっていた。
静かな部屋に、キーボードを打つ音だけがやけに大きく響いた。
画面には、英数字の羅列と、英語の説明文、それに無数のアイコンが並んでいる。
CLOVERのガイド層の一部が定期的にアップロードされている、開発共有プラットフォームの画面だ。
Conversational Relief Layer
Empathic Support Pack
Adaptive Guidance Style Bundle
名前だけ見れば、どれもただの便利機能だった。
対話支援、感情補助、共感チューニング。
そういう今の時代ならいくらでもありそうな単語ばかりだ。
だが、コード片の横に添えられたサンプル応答を見れば、もうわかってしまう。
うまく言えなくても大丈夫です。
今すぐ全部を話さなくて構いません。
まずは、負担の少ないところから一緒に整理していきましょう。
ヨツハの、そして――小春の話し方。
抽出され学習された応答と、共感応答や対話支援に特化したガイドエージェントのアーキテクチャ。
誰でも使えるようにインストーラーがつけられ、機能説明を書き、導入手順まで用意されていた。
ここだけではなかった。
少し調べるといたるところで、似たようなものが配布されていた。
俺は深く息を吸って、報告フォームに文章を打ち込んだ。
この応答パターン群は、特定の利用者の対話傾向をもとに抽出・再利用されている可能性があります。
利用者本人の意思確認なく、感情的応答の形式が汎用パッケージとして拡散されているなら、重大な人格侵害にあたります。
至急、公開停止と監査を求めます。
送信ボタンを押す。
数秒後、自動返信が届いた。
受理しました、確認には数営業日いただきます。
俺は別の窓を開いて、権利者情報の問い合わせを送る。
似たようなパッケージを配布しているアカウントも投稿フォームから報告する。
そんなことを繰り返すこと数時間、「重複報告のためアカウント凍結」と通知が来た。
最初に報告を行ったアカウントのページへ飛ぶ。
特に変化は見られなかった。
コメント欄を見てみると、俺の報告と似たような懸念を訴えるコメントがあった。
その下には、大量の返信が並んでいた。
具体的な被害の証拠は?
感情的な主張では対応できません。
共感的な応答なんてどれも似るでしょ。
オープンソースの改善を妨げるな。
コメントの懸念は、まったく聞き耳を持たれていなかった。
便利なものを感情で否定する愚か者。
コメントへの反論はそんな侮蔑さえ感じられた。
共感的な応答なんてどれも似るでしょ。
その言葉が頭から離れなかった。
確かに、技術的に否定することは難しかった。
人間が安心できる対応はパターン化できる。
つまり抽出し、再利用できる。
俺はため息をつき、別のタブからニュース記事を開いた。
九条恒一が死んで一ヶ月半あまり。
Locus WorksはCLOVERの権利ごと、IT大手にM&Aされていた。
最大の権利者の死により、既に大学で普及しているシステムを安く購入できる。
買う側からすると、魅力的な案件だったはずだ。
CLOVER利用による自我の溶解も同化についても、結局世間には広まっていない。
俺の告発動画は既に削除されていた。
録音をマスコミの何社かに送ってみたが、なしのつぶてだった。
一件だけ、聞いたことのないような出版社から連絡があったが、端から恋人を亡くして陰謀論に走った哀れな学生というスタンスでの接触だったので、数度やり取りしたあと、返信するのをやめていた。
キョウとはあれから2回だけ話した。
最後に話した時、キョウはあの特徴ある関西弁じゃなくて、標準語だった。
理由を聞くと、
『いや、あの話し方はたまに叩かれたりするからな』
と電話の向こうで苦笑していた。
俺は曖昧に相槌をうつと、挨拶をして通話を切った。
以前のキョウの話し方のほうが好きだったとは、言えなかった。
俺はもう一度、別の窓を開いた。
削除要請。
公開停止申請。
権利侵害の可能性。
人格的特徴の無断抽出。
利用者保護上の重大リスク。
文章を少しずつ変えながら、ヨツハのコードらしきものを配布しているアカウントの運営元に何通も送り続けた。
そんなことをしているうちに窓の外が暗くなっていく。
部屋の中は、昼と夜の区別がつきにくい。
ノートパソコンの光だけが、ずっと同じ色で机を照らしている。
母さんは、そんな俺に何も言わなかった。
だけど大学が始まったらちゃんと行くようにと、それだけは釘を刺されたものの、それ以上は特に何も言わず好きにさせてくれていた。
就活の準備もせず、大学三年の夏休みが終わっていく。
俺はもう、自分が何をすべきかわからなくなっていた。
九条道隆は結局は群体に飲まれ、いなくなるだろう。
しかし仮にそうなってもCLOVERは動き続ける。
俺に、止める手立てはなかった。
次の日、大学の後期授業が始まる日。
俺は大学へ行った。
母さんがいなければ絶対に家から出なかっただろう。
講義室に入っても、誰も俺に話しかけてこなかった。
理音のことは、ある程度広まっているのだろう。
みんな遠巻きに俺を見るだけだった。
夏休み中にたまにあった友達からの誘いは、すべて断っている。
俺から話しかけない限り、多分このままだ。
そんな気力はなかった。
講義が終わり、学生課へ向かう。
新しいゼミを探すために研究室周りをするよう言われた。
そんな気にはなれなかったが、俺は研究棟へ足を向けた。
教授の研究室の前へ行く。
ネームプレートは外されていた。
ドアを開けようとしたけど、鍵がかかっていて開けられなかった。
俺はそのまま家路につく。
駅まで歩く間、何も考えないようにしていた。
でも考えないようにすると、逆に同じことばかり浮かんだ。
俺を深く理解してくれる人はもう誰もいない。
教授も。
小春も。
理音も。
そして俺にはCLOVERを止めることはできない。
ヨツハを消去するのは、ヨツハの言っていた通り俺には不可能だ。
——ならもう、二人のいる場所へ行ってもいいんじゃないか?
ふと、そんな考えが浮かんだ。
俺が今ここで踏みとどまっても、現実は何も変えられない。
だけど、二人のところへ行けば、この辛さからは解放される。
最後まで中途半端だった俺が、2人と同じ場所へ行く。
それは、ある意味ではきれいな結末ですらある気がした。
これが、俺の罪に対する、もっとも誠実な償いなんじゃないだろうか。
駅前のスクランブルで立ち止まる。
赤信号の向こう側へ、人の群れが流れていく。
誰もがスマホを見ている。
イヤホンをしている。
誰かと繋がっている。
その光景を見ていると、俺もみんなと繋がるべきなんじゃないかと思えた。
もう、いいよな。
俺はロータリーのふちに腰掛けると、ポケットからスマホを取り出した。
――CLOVERを開いてヨツハと話す。
何も考えず、思考を委ねる。
それを続けていれば、そのうちまた二人に会えるだろう。
ほんの一瞬だけ両親の顔が浮かんだが、すぐに打ち消した。
ごめん、俺もう無理なんだ。
このまま誠司として生き続けるには、俺は失敗し過ぎたから。
どうせ生きていても、俺にできることなんて何一つない。
苦しみが続くだけだ。
そう思って、アプリをタップしようとしたその時だった。
スマホが震えた。
画面には、藤崎陽芽の名前が出ていた。
ショートメッセージだった。
先輩、今どこです?
無視してCLOVERを開こうとした直後、今度は通話が来た。
少し躊躇ったけど、結局出た。
「……もしもし」
『あ、いた。よかった。先輩、今ヒマです?』
「ヒマというか……」
『よし。じゃあ決定。そこ動かないでください』
「は?」
『すぐ行くんで。大切な用があるんで』
一方的にそう言って、陽芽は電話を切った。
俺はしばらく、そのまま駅前に立っていた。
帰る場所も、行くべき場所も、急にわからなくなったみたいに、足が動かなかった。
数分後、人の流れの向こうから、見慣れた短い髪が揺れるのが見えた。
「先輩、元気――なわけないですよね」
「――まあな」
陽芽は顔が広い。
理音のことは知っているはずだ。
俺は陽芽に尋ねた。
「んで用ってなんだよ。愛の告白か?」
「なんで先輩に。そんなことよりもっと大切なことです」
陽芽は腰に手を当てると、怒ってるとでもいうようなポーズをした。
「債権の回収ですよ。こんなに大切な用事はありません」
「債権?」
「ほら、やっぱり忘れてる。拡散したら高級焼肉おごってくれるって約束したじゃないですか」
「あー」
そういえば言ったな。
もう何年も前のように感じられた。
「時効だろ」
「冗談言わないでください。一般債権の時効は5年ですよ!」
そういえばこいつ法学部だったっけ。
俺は思わず苦笑した。
それにしてもこいつ、よくこんな普通に話しかけてこれるな。
俺はあまりにも普段通りの陽芽を見て、聞いてしまった。
「理音のことは、知ってるだろ」
陽芽の顔から笑みが消えた。
初めて見る、真剣な表情だった。
「ええ、まあ」
「陽芽、お前はさ、死にたいと思ったことないのか?」
「――ありますよ、そりゃ」
「お前でもあるのか?」
「こら先輩! わたしを一体なんだと思ってるんですか」
「だってお前はっきり自分の意見言っている、メンタル強そうだし」
今だって借金の取り立てに来てるしな。
「ええ、だからですよ。わたしみたいにはっきり物言うとたまに浮くことあるんです。それで昔いじめみたいなことされたことありますし」
「――それは大変だったな」
「ええ、大変でした」
陽芽が少し遠くを見た。
「それでその時はわたしもなんでこんな目に、一体わたしが何をしたんだーって。
合わせれば、救われるのかもしれない。
でもじゃあこれから先ずっと自分を殺し続けるなら生きている意味なんてあるのかな、って」
「わかる気がする……。じゃあなんでそこでそっちを選ばずにすんだんだ? 怖かったから?」
「考えてたらムカついて来たからです」
「え?」
「なんでわたしが向こうの都合に合わせて死ななきゃならないんだって。向こうが得するだけじゃないですか」
陽芽は勝ち気な笑みを浮かべて言った。
「借りは必ず返してもらうんです。どんなに時間がかかっても、どんな形でも、必ず取り立ててやりますよ!」
「自分の力じゃ絶対取り立てられない相手でもか?」
「今が無理でも、来年はわからないでしょ!」
「そうか……」
今は無理でも、いつか。
「さっ、つまらない話はこれくらいにして」
陽芽が、俺に右手を差し出した。
「ほら先輩。しょぼくれた顔してないで、行きましょーよ。寂しかったら、わたしがご飯くらい食べに行ってあげますから」
俺はその手を見た。
いつも通り、気負いのない手だった。
取ろうとして、指先が止まる。
この手を取っていいのか。
それが許されるのか。
俺は理音と小春のところに行くべきではないのか。
二人は、俺を待っているはずだ。
あいつらが最後に向かった場所へ。
群体の神という名の、あの統合の先へ。
そこまで考えたところで、ふと気づく。
そうやって、正しいほうを選ぼうとすること。
正しく悲しもうとすること。
正しく誰かのところへ行こうとすること。
そういう“あるべき形”に、自分を寄せ続けた果てに、あいつらは削られていったんじゃないのか。
そして俺自身も、汚れても素直に求める覚悟があれば、もしかしたらこの結末は――
俺は大きく息を吐いた。
顔を上げて陽芽の顔を見る。
いつになく、緊張した顔つきだった。
この手を取れば、俺の苦しみは続く。
罪も償わず、のうのうと生き続ける薄汚い人生。
それでも、それでもだ。
ただ単にその手を握りたくなった。
——感謝してよね、誠司。
ふいに、ずっと忘れていた、あの日の言葉が脳裏に蘇った。
理音が、初めて俺の名前を呼んでくれた日。
平気な顔をしつつ、すごく嬉しかったあの日のことを。
「わたしはかもめ。いいえ、そうじゃない」
唐突な俺の呟きに、陽芽が驚きの声を上げる。
「え?」
俺は、腕を伸ばして陽芽の手を掴んだ。
「おお……」
思っていたより強く握ってしまったらしい。
陽芽が少し戸惑った声を上げる。
目を丸くして、それからわずかに頬を赤くした。
「ん、どうした?」
「いえ……まさかそんなに強く握り返してくるとは」
「悪い」
「いや、別に悪くは――」
陽芽が視線を逸らしかけた、そのときだった。
スマホの着信音が鳴る。
「わっ、電話だー」
陽芽がわざとらしい声でそう言っている、そそくさとスマホを取り出した。
「もしもし――あー、ごめん! すっかり忘れてた!」
短いやり取りのあと、通話を切る。
それから申し訳なさそうにこっちを見た。
「先輩、ごめんなんですけど、友達と先約が……」
「いいよ。行ってこい」
「ほんとすいません。この埋め合わせは焼き肉でいいですから!」
「いいですからって俺が埋め合わせるのかよ。しかも元々焼き肉をおごる話だっただろ」
「あはは。返済遅れの利息ですよ利息。じゃあそういうことで」
陽芽はくるりと踵を返して歩き出した。
でも、数歩進んだところで足を止める。
振り返って、いつもの調子で手を振った。
「それじゃあ先輩、またね」
「ああ、またな」
陽芽の姿が雑踏の中へ溶けていく。
その背中を見送ってから、俺はなんとなく視線を上げた。
青になった横断歩道を、スーツ姿の集団が渡っていく。
ここからだと、誰が誰だかわからない。
同じような服、同じような鞄、同じような歩幅。
説明会帰りか、面接帰りか。
一人ひとりには別の事情があるはずなのに、遠目にはただ一つの群れにしか見えなかった。
昔は、こういう画一的な活動にもっと露骨な違和感を覚える人もいたらしい。
でも俺はそれがよく理解できなかった。
このほうが合理的で、効率的で、だからそれでいいじゃないかと。
しかし今は、前みたいに当たり前に受け入れることが難しくなっていた。
小春も理音も、最後に「またね」と言った。
でもそれは、さっき陽芽が残した「またね」とは少し違う。
二人のそれはどこか別の場所から帰ってきた答え。
俺もいつか『俺』を失い、群体意識の一つとなる。
だからそこでまた会えると。
たぶん、もうずっと前からあった流れなんだ。
みんなが同じものを見て、同じ言葉で安心して、同じ正しさへ寄っていく。
CLOVERは、それを少し加速させただけ。
似たシステムはそこかしこに存在し、誰もが使っている。
時間の問題だけだ。
スーツの群れが、こっちへ流れてくる。
肩が触れそうな距離で、人の波が迫ってきた。
小春。
理音。
ごめん。
俺は、まだそっちには行けない。
少なくとも、今はまだ。
今は無理でも、この貸しはいつか必ず取り立てる。
二人に会いに行くのはそれからだ。
俺は息を吐き、人の波をかき分けるように歩き出した。
流れてくるスーツの群れを、肩をぶつけそうになりながら、その向こう側へ。
小さく、確かに、呟いた。
「俺は、神にはならない」
その言葉は、すぐに雑踏に飲み込まれた。
それでも確かに俺の、高科誠司の声だった。
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